学位論文要旨



No 216914
著者(漢字) 佐藤,国雄
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,クニオ
標題(和) 家畜ウイルス感染症の数理疫学モデルとワクチンの疫学的評価
標題(洋)
報告番号 216914
報告番号 乙16914
学位授与日 2008.02.29
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第16914号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 明石,博臣
 東京大学 教授 熊谷,進
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 局,博一
内容要旨 要旨を表示する

近年、口蹄疫や人獣共通感染症の高病原性鳥インフルエンザや重症急性呼吸器症候群(SARS:サーズ)などが世界規模で発生し、感染症の疫学が医学・獣医学の両領域で重要性を増している。疫学は集団(populations)を対象として疾病の頻度や分布の情報とそのリスク要因を明らかにする学問なので、集団を性、年齢、居住地、食習慣(餌)、行動などの特性で分類し、それらと疾病との関連を統計学的モデルに基づき要約し分析することになる。また感染症では感染個体そのものが伝播のリスク要因となり、直接ならびに間接的経路で感受性個体に病原体を伝播させる。このような感染症の特徴を踏まえて、集団での感染症の動態を数学的にモデル化することにより、将来の状況の予測やワクチン接種などの流行抑止対策を評価することが可能である。獣医領域の感染症疫学における数理・統計モデルの有用性の一端を明らかにするため、「馬インフルエンザ」、「豚E型肝炎ウイルス感染症」、「馬日本脳炎」の三っの家畜ウイルス感染症に数理・統計モデルを応用して、ワクチンの集団免疫での閾値(臨界的ワクチン接種割合)や不完全なワクチンの評価を行った。三っの感染症を研究対象としたのは以下の理由による。「馬インフルエンザ」を取り上げたのは、日本に馬インフルエンザウイルスが1971年に日本に初めて侵入し、侵入前にはすべての馬が感受性の状態であると想定され、集団個体数と最終発生規模(Finalattackrate)が8か所の競馬施設で記録されていたからである。しかし、単にこの二っの数を知っただけでは、モデルがないと最終発生規模から伝播動態を解析することはできない。そこで、数理疫学モデルの基本であるSIRモデルを確率過程の計数過程で解釈し、マルチンゲールを構成し、最終発生規模とモデルから伝播能力を示す基本再生産数Ro(すべてが感受性個体群の中で1頭の感染個体が感染期間の終了までに生産する2次感染個体の総数)とその標準偏差を求めた。確率過程をモデルとして使う利点はRoが1以上であっても、デモグラフィックな偶然性によって感染症が小規模な発生で終わってしまうことを考慮することでき、標準偏差が容易に求められるからである。

次に「豚E型肝炎ウイルス感染症」を研究対象としたのは、馬インフルエンザが流行(epidemic)のデータを与えられたときのRoの推定問題であったの対し、日本に常在化(endemic)している感染症の伝播能力の推定問題だからである。常在化した感染症データを扱う場合、時刻に依存するデータを無視できるので、血清抗体調査などの横断研究から伝播能力を示す感染力λ、すなわち「感受性宿主が年齢ごとに感染を受ける率」が推定でき、感染力からRoが求められるからである。豚E型肝炎ウイルス感染症では数理疫学モデルの先行する論文がなかったので、オリジナルなモデルを作成し、血清抗体調査成績からは直感的に導出できない年齢別の累積感染豚数や新規感染豚数を推測した。

三つめの感染症としては、「馬日本脳炎」を取り上げた。最近、日本では馬やヒトで日本脳炎の発生が激減していて、定期的なワクチン接種の中止が議論されているので、ワクチン接種実施の有用性を疫学的に証明することはヒトや馬において極めて重要なことであると考えた。前述した2疾病でもワクチンの臨界的接種割合を論じたが、このときのワクチンは感染そのものを防ぐ完全なワクチンとして推論した。しかし、日本脳炎不活化ワクチンは感染を防がない不完全なワクチンである。このワクチンにも症候期間を短縮させる部分的効果があるのではないかと仮定して、過去の馬日本脳炎発症例の分析を行った。

本論文は3章から構成されており、上記に記した順に第1章で「馬インフルエンザ」を、第2章で「豚E型肝炎ウイルス感染症」を、第3章では「馬日本脳炎」を取り上げた。

第1章は、1971年に日本で発生した馬2型インフルエンザ(H3N8)の経時的発生記録から、Roを求めたものである。1971年に日本で発生した馬2型インフルエンザ(H3N8)の流行のデータは、(i)均質的な混合パターンであること(ii)感染発生時にはすべての個体が感受性であること(iii)接触時の有効な感染確率を劇的に変化させる防疫手段を取らず、発生の最終発生規模のみに依存するという前提条件が満たされたので、SIRモデルを計数過程という確率過程で解釈し、マルチンゲールを構成した。この構成から6=Ro=β/γという関係を利用して、Roとその信頼限界を求め、ウイルスの侵入の条件やワクチンの集団免疫の閾値にっいて考察した。馬関係施設8カ所で得られた情報を解析した結果、その数値は2から5であり、従来の研究より小さい値であった。求められたRoから結論として、馬2型インフルエンザ感染を封じ込めるためには完全なワクチンの接種率を50%~80%以上にする必要があることが明らかにされた。空気伝播も感染経路と推定されるために、Roから導かれるワクチン接種率を達成できたとしても感染防御には成功せず、移動禁止、隔離などの防疫手毅を組みわせた対策が必要であることが考察された。馬インフルエンザのRoを推定したものとして先行論文があったが、Roは、飼育密度、感受性、ウイルスの毒力などによって影響されるので、日本のデータを用いてRoを推定した意義は大きい。

第2章は、豚におけるE型肝炎ウイルス感染症で日本の肥育豚の日齢別の抗体調査成績と米国の豚接種試験の成績をもとに、数理疫学モデルを構築し、感染力λを求めるとともに感染力の増減とヒトへの感染のリスクを考察した。米国の豚実験感染のデータから抗体陽転に必要な接種後の時間を単純なロジットモデルで近似して求めた。モデルとしては、感染力の推定で使われる最も単純な触媒モデルを選択した。モデルの前提条件としては、肥育豚では生後30日齢から感染リスクが生じ、150日後の180日齢の直後に肉豚として出荷されることとした。モデルに基づく新規感染豚数と、実験感染で得られた抗体陽転の密度関数を組みわせた逆計算法で累積抗体陽性率を求め、二項分布に基づく尤度関数を作成し、最尤推定法により感染力とその標準偏差を求めた。

豚におけるE型肝炎ウイルスの感染力,Lは北海道、本州、九州で、それぞれ平均3.45、2.68、3.11xlO"2/日であった。モデルの前提から示された平均感染日齢は59.0~67.3日であり、Roは4.02~5.17であった。ここでは触媒モデルから導かれるRo~λL(Lは肥育豚の平均寿命で本論文では150日としている)の関係を利用して、Roを求めた。得られたRoから豚においてE型肝炎ウイルスの侵入を防ぐには完全なワクチンを75.1~80.7%以上の接種率にすることが必要であることが結論づけられた。

モデルでは150日齢までに95%以上の肥育豚がウイルスに感染するので、180日齢の出荷豚は免疫によってほとんどウイルスは排泄しておらず、食肉処理場や食卓でもリスクが少ないことが推察できた。しかしながら、感染力が低下するとヒトへのリスクが増加するため、離乳期から非感染豚を感染群から隔離することなどの防疫対策が必要になることが考察できた。数理疫学モデルで、豚での感染力が大きいほど、ヒトへのリスクが少なくなるという逆説的関係があることが明らかにされた。

第3章は、1953年から1960年に発生した馬日本脳炎の疫学データを統計モデルで解析し、日本脳炎不活化ワクチンが日本脳炎発症後、回復した生残馬の症候期間を有意に短縮していることを見出したものである。1953年から1957年と1960年の6年間の日本脳炎の症状を呈した馬の803頭の個体記録(飼養揚所、年齢、性、用途、診断方法、ワクチン歴、転帰、発症日、診断日、回復日、死亡日、症状)から血清学的、病理組織学的、疫学的に、日本脳炎と診断された馬453頭(56.4%)の記録を真の症例として選択し、死亡と生残馬の症候期間を目的変数とし、年齢、用途、ワクチン接種、症状を説明変数にして、単変量解析を実施した。また多変量解析では2分変量の死亡を目的変数としてロジスティック回帰分析を行い、連続量の症候期間を目的変数に重回帰分析を適応して解析した。

死亡にっいての単変量解析では年齢、ワクチン接種、無反応の症状が有意(p<0.01)に発症馬を生残させ、逆に脳神経麻痺は有意(p<0.01)に死亡リスクを高めることが判明した。単変量解析では、生残馬の症候期間はワクチン接種馬で平均8.3日、非接種馬で平均12.5日となり、ワクチン接種により有意(p<0.01)に症候期間が短縮していることが明らかとなった。死亡の多変量ロジスティック回帰分析でも年齢、ワクチン接種は死亡割合を有意に減少させ、無反応と脳神経麻痺は有意に増加させることが判明した。生残馬の症候期間の重回帰分析ではワクチン接種は症候期問を有意に短縮させ、一方嗜眠や昏睡で有意に長期化することが明らかにできた。ヒトや動物の日本脳炎不活化ワクチンは感染や発症を防御しない不完全なワクチンであるが、症候期間を短縮するという部分的効果があることを馬の疫学データを使うことによって初めて証明することができた。

家畜を個体でなく集団と捉えたとき、感染症の撲滅に向けて、感染症の数理・統計モデルは、ワクチン接種率などで数量的に明確な方針を与えることができる。本論文は獣医学領域の感染症疫学において数理・統計モデルを応用した解析が、ワクチンの有効性や接種率の評価に有用であることを示したものである。

審査要旨 要旨を表示する

近年、口蹄疫や人獣共通感染症が世界的規模で発生し、感染症の疫学が重要性を増している。疫学は集団(populations)を対象として疾病の頻度や分布の情報から、そのリスク要因を明らかにする学問なので、集団を性、年齢、居住地、食習慣(餌)、行動などの特性で分類し、それらと疾病との関連を統計モデルに基づき要約し分析することになる。また感染症では感染個体そのものが伝播のリスク要因となり、直接ならびに間接的経路で感受性個体に病原体を伝播させる。このような感染症の特徴を踏まえて、集団での感染症の動態を数学的にモデル化することにより、将来の状況の予測やワクチン接種などの流行抑止対策を評価することが可能である。獣医領域の感染症疫学における数理・統計モデルの有用性の一端を明らかにするため、「馬インフルエンザ」、「豚E型肝炎ウイルス感染症」、「馬日本脳炎」の3つの家畜ウイルス感染症に数理・統計モデルを応用して、伝播能力とワクチンの集団免疫での閾値(臨界的ワクチン接種割合)を求める基礎となる基本再生産数(R0: すべてが感受性個体群の中で1頭の感染個体が感染期間の終了までに生産する2次感染個体の総数)の推定や感染を防がない不完全なワクチンの評価を行った。

3つの感染症を研究対象としたのは以下の理由による。「馬インフルエンザ」では、日本に馬インフルエンザウイルスが1971年に日本に初めて侵入し、侵入前にはすべての馬が感受性の状態であると想定され、集団個体数と最終発生規模(Final attack rate)が8か所の競馬施設で記録されていたからである。しかし、単にこの2つの数を知っただけでは、モデルがないと最終発生規模から伝播動態を解析することはできない。そこで、数理疫学モデルの基本であるSIRモデルを確率過程の計数過程で解釈し、マルチンゲールを構成し、最終発生規模とモデルから伝播能力を示す基本再生産数R0とその標準偏差を求めた。確率過程をモデルとして使う利点はR0が1以上であっても、デモグラフィックな偶然性によって感染症が小規模な発生で終わってしまうことを考慮することでき、標準偏差が容易に求められるからである。

次に「豚E型肝炎ウイルス感染症」は、馬インフルエンザが流行(epidemic)のデータを与えられたときのR0の推定問題であったの対し、日本に常在化(endemic)している感染症の伝播能力の推定問題だからである。常在化した感染症データを扱う場合、時刻に依存するデータを無視できるので、血清抗体調査などの横断研究から伝播能力を示す感染力、すなわち「感受性宿主が年齢ごとに感染を受ける率」が推定でき、感染力からR0が求められるからである。豚E型肝炎ウイルス感染症では数理疫学モデルの先行する論文がなかったので、オリジナルなモデルを作成し、血清抗体調査成績からは直感的に導出できない年齢別の累積感染豚数や新規感染豚数を推測した。

3つめの感染症としては、「馬日本脳炎」を取り上げた。最近、日本では馬やヒトで日本脳炎の発生が激減していて、定期的なワクチン接種の中止が議論されているので、ワクチン接種実施の有用性を疫学的に証明することはヒトや馬において極めて重要なことであると考えた。前述した2疾病でもワクチンの臨界的接種割合を論じたが、このときのワクチンは感染そのものを防ぐ完全なワクチンとして推論した。しかし、日本脳炎不活化ワクチンは感染を防がない不完全なワクチンである。このワクチンにも症候期間を短縮させる部分的効果があるのではないかと仮定して、過去の馬日本脳炎発症例の分析を行った。

第1章では、「馬インフルエンザ」で、8カ所の競馬関連施設で記録されていた最終発生規模から確率モデルの計数過程とマルチンゲール法を用いてR0を推定した。R0は2から5であり、従来の研究の10.18より小さい値であった。

第2章の「豚E型肝炎ウイルス感染症」では、触媒モデルにより感染力を推定した。北海道、本州、九州で、それぞれ平均3.45、2.68、3.11×10-2/日であった。感染力から求めた平均感染日齢は59.0~67.3日であった。平均感染日齢からR0を求めるとその値は4.02~5.17であった。

第3章の「馬日本脳炎」では1953年から60年の発症例の記録を使い、統計モデルの単変量解析や多変量解析を用いて日本脳炎不活化ワクチンには発症馬の死亡割合を減らし、また生存馬の症候期間を短縮するという部分的効果があることを初めて証明した。

以上本論文は、家畜を個体でなく集団と捉えたとき、獣医学領域の感染症疫学において数理・統計モデルを応用した解析が、ワクチンの有効性や接種率の評価に有用であることを示したもので、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)論文として価値あるものと認めた。

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