学位論文要旨



No 216945
著者(漢字) 松方,冬子
著者(英字)
著者(カナ) マツカタ,フユコ
標題(和) オランダ風説書と近世日本
標題(洋)
報告番号 216945
報告番号 乙16945
学位授与日 2008.04.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16945号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 教授 藤田,覚
 史料編纂所 教授 横山,伊徳
 大分大学 教授 鳥井,裕美子
 立教大学 教授 荒野,泰典
内容要旨 要旨を表示する

オランダ風説書(以下、「風説書」)については、膨大な研究史があるが、従来の研究は主に日本側の史料に頼ったものであった。本論文は、主としてオランダ側の一次史料に拠りながら、風説書がどのように作成されたのかを、実証的に再検討する。

風説書に関する研究史は、大きく3つの時期に分けられる。第1期は、戦前から1950年代にかけてであり、板沢武雄の仕事に代表される。第2期は、1960年代から70年代にわたり、法政蘭学研究会を中心に活発な研究活動が展開され、その成果は『和蘭風説書集成』に結実した。第3期は、1980年代後半以降現在に至り、主に風説書情報の日本国内での「漏洩」や伝播を中心に顕著な成果を上げつつある。しかし、特に第3期においては、情報が和文に翻訳されて国内に入ってからの問題に関心が集中したため、基礎的事実については現在も第1期・第2期の誤りを踏襲してしまっている面があった。この状況を打開するため、本論文はオランダ側史料に拠り、主にオランダ側に視点を置いて実態を再検討する。

本論文は2部構成をとる。第一部は、キリスト教を初めとするヨーロッパ諸国のもたらす危機が現実的であり、また鄭氏勢力の存在などにより東アジア海域が軍事的に不安定だった、1640年代~1670年代を中心に、「通常の」風説書(後述)について考察する。第二部は、欧米列強の近代的植民帝国主義が東アジア世界の脅威であることが明らかになる1840年代を主たる対象とし、別段風説書(後述)について論ずる。それらの時代にこそ、欧米諸国に関する情報が最も必要とされ、それが風説書のあり方に画期をもたらしたのである。最後に、終章を設け、オランダ風説書の終焉の事情を、オランダ側史料から明らかにする。

第一部第一章では、1641年から始まった幕府のオランダ人に対する情報提供の義務づけが、1659年に「条約」(オランダ人が守るべき条項)の読み上げという形で慣例化したこと、義務づけの意図は、ポルトガル人追放を徹底し、オランダ人がローマ教徒やポルトガルと同盟していないことを確かめることにあったが、情報提供を日本貿易独占のための手段と考えるバタフィアのオランダ東インド会社東インド総督・評議会にとっては、その意図が充分認識されていたとは言いがたいこと、実際の情報提供の場では長崎のオランダ通詞の裁量の幅が大きく、商館長と通詞が内容を保証して署名する和文風説書はこの段階では存在しなかったこと、オランダ人は幕府が他の情報源を持っていてそれらとオランダ人提供情報を比較していることを知っており、かなり正確な情報を提供していたが、様々な情報のどれを採用するかは、結局幕府の恣意にかかっていたことを明らかにする。

続く第二章では、1659年以来商館長が毎年参府するたびに読み上げられた「条約」が、1673年まで3回にわたって改訂され、1666年の改訂で「条約」に書面による情報提供を命じる文言が含まれたこと、オランダ側はこの頃から「条約」をローマ教徒や旧教国勢力の動静だけでなく、ヨーロッパ及び東インドの情報を求めたものであると解釈したこと、を指摘する。一方、長崎のオランダ商館長の公的な記録である「商館長日記」の記事から、1665年から1667年の間に商館長署名のある和文風説書(第二部で扱う別段風説書の成立以降、オランダ人はこれを「通常の」風説書と呼んだ)の作成が開始されたことを明らかにする。結論として、和文風説書写本の伝存状況と考え合わせ、1666年の「条約」による文書による情報提供の義務づけに応えて、1666年から和文風説書が作成されるようになり、オランダ風説書制度が確立したという説を提示する。ただし、通詞に渡すためのメモ書き程度のものはあったとしても、商館長署名のあるような証拠能力のあるオランダ語の風説書正本(原本)は存在しなかったことも述べる。

第三章では、主に1640~1670年代を対象に、オランダ商館長が風説書のもとになる情報を提供するに際し、典拠にしたと思われる「祖国よりの最新情報」「東インドよりの最新情報」などと呼ばれる文書に注目する。17世紀、オランダ共和国は、他のヨーロッパ諸国に先駆けて印刷新聞を盛んに発行する、情報集散地としての役割を果たしていた。オランダ東インド会社もその影響を受け、バタフィア(現ジャカルタ)の総督府は、東インド各地から商品とともに集まる時事情報や、本国の新聞がもたらす情報を、抜粋・要約し、時には印刷して、第1には貿易のため、第2には職員の福利厚生のために、東インド各地の商館へ配信していた。日本商館も当然それを受け取っており、17世紀に既に商館長が世界各地の最新情報を提供できた背景には、そのような時事情報配信システムがあった。

第四章では、日蘭双方の史料を用いて、「通常の」風説書は、商館長が原則として口頭で語った内容を、通詞等の意見を踏まえて加除・修正し、通詞が和文文書に仕立て、商館長が署名、通詞が連印する、という手順で作成されたことを明らかにする。従って、「通常の」風説書の歴史を通じて、「原文」つまり証拠能力のある蘭文が舶載されてくることはなかったのである。1850年代には、日本商館が蘭文文書を発信した形跡がある。これが、1840年に出された風説書には蘭文を付して江戸へ送れという幕令に即応したものであるかは不明だが、別段風説書が既に成立していた以上、もはや内容を吟味する価値のないほど簡略なものだった。

第二部第五章は、1840年、バタフィアのオランダ領東インド政庁が、「別段風説書として」幕府に提出するべく、アヘン戦争情報を記した文書を日本に送ることを決定したことを明らかにする。これが、政庁から幕府への直接的な文書による情報提供の開始であり、少なくともオランダ側からみれば別段風説書の成立である。「通常の」風説書にみられたような通詞等の介入を排除しようとした点で、画期的である。その後、この決定に基づき、1845年までに6通の別段風説書の蘭文テキストが日本に送付された。これらは、南京条約等の一連の清英間の取り決めの英文からの蘭訳と一括されて、オランダの日本商館文書の中に伝存する。

第六章は、「開国勧告」として知られている、国王ウィレム2世が1844年に将軍宛てに送った親書が、確かに貿易制限の大幅な緩和を勧告する言辞を含んでいた一方で、アヘン戦争に代表される東アジア情勢の変化を確実に伝える意味を併せ持っていたことに着目し、同親書を送付したオランダ政府の真意を再検討し、以下の結論を示す。すなわち、オランダ政府が親書送付を決定した直接の契機は1842年の幕府の薪水給与令発令であり、同令が貿易制限緩和への転換の糸口なのか、排外的な体制を維持するための最低限の譲歩なのかを、確かめることだった。オランダ政府は、他のヨーロッパ諸国への薪水給与令伝達を幕府から依頼されたことを受け、もしこの伝達が諸外国を日本へ引き寄せ、かつ幕府が排外政策を転換するつもりがない場合は、本格的な武力衝突が起き、オランダにとって最悪の事態になるだろうと懸念した。そこで、イギリスとの圧倒的な国力(特に軍事力)の差と、深刻な財政危機の中、取り得る唯一の手段として、実際にイギリスが日本に貿易交渉をしに来た場合、紛争回避のために貿易を認める道があることを幕府に示唆することを決めた。すなわち、この親書は日本に一般的な開国を勧告したものではなく、便宜的な紛争回避策であり、なるべくなら対日貿易独占を維持したいのが、オランダの本音だったと思われる。そして、このような意図が通詞や長崎奉行などといったいわゆる「長崎口」で止められたりゆがめられたりせずに将軍に届くように、また確実に将軍からの返答が得られるように、国王親書という前例のない方法をとったのである。

第七章では、1845年分の別段風説書の、蘭文テキスト及び長崎の通詞による同時代の翻訳を紹介する。従来、1845年分の別段風説書は、南京条約等の諸規定の蘭訳であるかのように誤解されてきたが、それらは1844年、ウィレム2世の親書送達時に日本に送られたものである。1845年分の同時代の翻訳は管見の限り1点しか写本が伝存しておらず、それと知られていなかったため未紹介であったが、本章に全文翻刻を掲載する。その前提として、1845年分の別段風説書の情報源となった当時の東アジアにおける欧文の定期刊行物を概観した上で、同年の別段風説書の蘭文テキストの拙訳を提示する。

第八章では、別段風説書の内容が、アヘン戦争情報から一般的な世界情報へと変化する1846年に着目して、様々な観点から論ずる。まず、別段風説書の内容の変更を決めたオランダ領東インド総督・評議会決議に至る、政庁内での意思決定過程を明らかにする。次に、上記決議を受けて、日本商館が「通常」の風説書の内容を縮減することを政庁に願い出た書翰を紹介する。この書翰から、日本商館に赴任する商館員が、バタフィアを立つ前に、政庁機関紙『ジャワ新聞』などによって、「通常の」風説書のための情報を準備したことも明らかになる。さらに同年、上記決議に先んじて、日本商館長が「通常の」風説書の提出を年2回にすることを構想し、長崎奉行に上申したことを紹介する。

終章では、「通常の」風説書の下限は1857年、別段風説書の下限は1859年(バタフィアからテキストが送付された下限は1857年)であり、どちらも明確な意思を以て廃止されたのではなく、自然消滅したと考えるのが妥当だろうという見解を示す。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「鎖国」制下の近世日本において、幕府の重要な海外情報源であり続けた「オランダ風説書」について、その成立、諸類型、情報源などについて、日本側の史料のみでなく、オランダ側の一次史料を博捜・分析し、その歴史的性格を検討したものである。

まず「序章」において研究史が手際よく整理され、本書の課題・方法が示された後、本論は二部・8章から構成され、最後に終章がおかれる。

第一部「『通常の』風説書の確立」では、1640-1670年代においてキリスト教諸国がもたらす危機や、鄭氏勢力の動向などから、不安定であった東アジア情勢の下で、風説書がどのように成立したかを追う。1章で、1641年に始まったオランダ人による情報提供の義務化と情報の内容を検討し、風説書成立以前の様相をみる。2章では、1666年に「通常の」風説書(オランダ商館長の署名がある和文の風説書)という形式が確立する過程を分析する。3章では、オランダ東インド会社によって、当時の国際的な時事情報がオランダやバタフィアからアジア諸国や日本商館へどのように配信されたかを、その情報源を含めて解明する。また4章では、「通常の」風説書が商館長が口頭で述べることを通詞が和文文書に仕立てることで作成され、オランダ語原文は存在しない事実を明らかにする。

第二部「別段風説書の成立」では、欧米列強の外圧が現実のものとなった1840-1845年に限定し、蘭文テキストとしての「別段風説書」の特質を検討する。5章では、バタフィアのオランダ領東インド会社政庁が、アヘン戦争情報を幕府に伝達することをもって「別段風説書」が作成され始めた事情を明らかにし、オランダに伝来する日本商館文書中の蘭文テキストの内容を紹介する。6章では、1844年のオランダ国王ウィレム2世から将軍宛の「開国勧告」について検討し、イギリスの国力に圧倒されるオランダが、対日本貿易独占体制の維持をめざした点に注目する。7章は、1845年の別段風説書の蘭文・和文テキストを紹介し、その内容を詳細に検討する。ついで8章では、1846年の別段風説書から、政庁内での対日関係問題の審議や、日本商館と政庁との風説書をめぐるやりとりを見る。そして終章では、こうした風説書が1857-1859年に自然消滅する経過を辿る。

本書の主要な成果は、以下の3点である。(1)従来漠然とイメージされてきたオランダ風説書の史料的性格について、オランダ側の一次史料の博捜を基礎として精緻に検討し、「通常の」風説書、別段風説書に区分しながら、その全体像を始めて解明した。これは厖大な研究史を有す当該分野において特筆すべき貢献であり、裨益するところ大である。(2)オランダ本国やバタフィア総督・政庁における対日外交政策の意図を実証的に明らかにし、情報流通の先進国オランダがアジアにおいてどのように時事情報を配信したかを解明することで、近世日本が置かれていた国際的な位置を立体的に俯瞰・考察する方法に道を開いた。(3)風説書作成に関わったオランダ商館長や吏員、長崎通詞などの役割を明らかにし、通詞集団の利害が風説書の内容に介在しうる近世日本の「外交」の特質を論じた。

本論文では、18世紀における風説書の検討を今後の課題として残し、また全体の結論部分がやや乏しいが、上記のような注目すべき顕著な成果に鑑みて、本審査委員会は、本論文が博士(文学)に十分値するとの結論を得た。

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