学位論文要旨



No 216960
著者(漢字) 武光,誠
著者(英字)
著者(カナ) タケミツ,マコト
標題(和) 古代太政官制の研究
標題(洋)
報告番号 216960
報告番号 乙16960
学位授与日 2008.05.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16960号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 教授 月本,雅幸
 史料編纂所 教授 石上,英一
 史料編纂所 教授 加藤,友康
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、律令官制の中心となる太政官制に関する基礎的論点の整理を行ったうえで私見をまとめたものである。

これまでに、律令官制およびそのなかにおける太政官制の役割を考えた研究が多く出されてきた。これは、太政官制の特性をつかむことによって、7世紀末につくられ11世紀頃まで国政の基礎となった日本の律令制の本質を知り得ることによるものである。

それゆえ、律令制のもとの諸制度について研究するばあいには、必ず中国の官制と日本の官制とのちがいをつかんだ上で、何らかの形で太政官の役割にふれねばならなかった。そして、これまでに日本の律令官制が唐の官制にくらべてきわめて簡略なものであることや、日本の律令官制が太政官にあらゆる権限を集中する形に構成されていたことが明らかにされてきた。

そして、そういった太政官制の特質を「畿内政権論」とからめて、古代の朝廷で貴族層が国政を握る形がとられていたと論じられることも多かった。

本論文では、これまでの太政官制に関する諸研究をふまえつつ、つぎの三方向から太政官制の特質を明らかにしていきたい。

第一編では、太政官の構成を唐の官制と比較してみていくことをつうじて、内部にきわめて多様な性格の官職を含む太政官制がどのような経緯でつくられてきたかを考察していく。ついで第二編では、太政官が発した文書の性格や、太政官にもちこまれた政務がどのように決裁されたかといった問題や、太政官での記録の整理のありかたなどを考える。これによって、太政官を構成する人びとが、どのような形で日常の政務を行っていたかが明らかになる。そして最後に第三編で、太政官がどのような形で朝廷で行われる祭祀に関わっていったかをみていく。これによって、律令制成立期に王家のまつりを国家の祭祀へと再編していく動きに、太政官がどのような形で関わってきたかが浮かび上がってくる。

このような目的をもって、各編を構成する個々の考証にとりくんでいった。

第一編では、まず孝徳朝に本格的な官制の整備が始められたことを明らかにした。そのとき、中央では衛部や刑部のような中国風の名称をもつ個別の官司が並立する形の官制がつくられた。官人の頂点にたつ左大臣、右大臣はいたが、左大臣や右大臣が個々の官司を統制する一定の方式はなかった。また、このような中央の官司の整備とともに、地方では常駐して一定の地域を治める国宰がおかれるようになった。中央の官司の長官と国宰には「大夫」とよばれた中央の有力豪族があてられていた。

このような孝徳朝の官制をもとに、天武朝には太政官とその下の六官および宮内官を中心に構成される新たな官制が整備された。太政官は外廷の機能をもつ官司を支配し、諸官司の統制を唐の六部にならった六官に委ねていた。そして、宮内官は内廷の機能をもつ官司を一手に支配した。さらに、天皇の近臣としての納言がいたが、納言が太政官や宮内官の官職を兼ねることもあった。

このような官制が、浄御原令制をへて大宝令制で太政官とその下の八省に再編されて、宮内官の後身である中務省と宮内省が太政官のもとに組み入れられた。それとともに納言が太政官の組織に組み込まれたため、律令制下の太政官が複雑な構成をとるようになったと私は考えた。そのため弁官と少納言とがともに太政官の判官とされ、少納言や監物のように太政官とも中務省とも関わりをもつ官職がみられるようになったのである。

このようにしてつくられた太政官は、国政全般を把握するものであったといえる。そして、唐の御史台のような形の太政官の政治を監視する機関がつくられず弾正台のようなあいまいな性格の官司が設けられたことも、太政官に諸権限を集中させようとする発想からくるものである。

第二編では、律令制のたてまえでは太政官の長官、次官である左大臣、右大臣が太政官の政務の決裁にあたるべきである点を押えたうえで、実際には中納言以上の人びとが太政官を動かしていたことを明らかにした。平安時代には、中納言以上の人々が「上卿」とよばれることもあった。また、中納言以上の人びとと参議とをあわせたものが、太政官の核となる公卿になる。この公卿の合議によって、朝廷の政務は運営されていた。

唐制にならって整えられた「公式令」にもとづく文書はしだいに簡略化していき、10世紀には上卿が発する弁官宣旨が多く用いられるようになっている。また、10世紀頃から上卿が陣にあつまって、下級官司からの申請である申文の処理を行う陣申文がさかんになっている。

つまり、「律令」が定めるような太政官政治は、さまざまな経緯をへて陣申文や弁官宣旨のありかたにしめされるような上卿たちに分担される形に変わっていったのである。

また、律令制の完成と共に、各官司で政務の手引きとするための「記文」、「例」、「式」などの名称をもつ記録が整えられていくことも重要である。そして、10世紀頃になると各官司の政務が記文などに記された先例などにもとづいて運営されるようになっている。

つまり、10世紀に上卿たちが先例を手がかりに国政を動かす形が定着しているが、このような方向は律令制の完成当初から指向されていたものではあるまいか。

第三編では、律令制下の朝廷の祭祀をいくつかとり上げ、その担い手が誰であったかを考えていった。祭祀の場では、古くからの伝統が重んじられる。それゆえ、朝廷の神事の現場で活躍するのは、中臣氏や忌部氏などの、かつて王家の祭官をつとめた人々である。そして、かれらを組織する形で神祇官がつくられている。

しかし、神祇官の官人が扱う祭祀の場に太政官がさまざまな形で関与しているのである。ところが出雲国造神賀詞奏上の儀式には、太政官が登場しない。そのことは、かつて中臣氏や忌部氏が祭祀の面で地方豪族に対する朝廷の支配の強化に関与したことを物語るものであると思われる。

ところが、律令制下でもっとも重んじられた践祚大嘗祭では、太政官が祭祀の節目とする場面に必ず関与する形がとられている。つまり、神祇官は太政官の指示にもとづいて大嘗祭の神事に当たるべきだとするたてまえがみられるのである。

そして、祈年祭、月次祭、大祓などの稲作にかかわる他の祭祀にも太政官の関与がみられる。こういったことから、律令制的な国家規模の祭祀を整える動きがとられた天武朝から持統朝にかけての時期に、太政官が稲作にかかわる祭祀に加わるようになったのではあるまいか。

以上の第一編から第三編までの考証によって、天武朝、持統朝を中心とする中国風の中央集権国家をつくろうとする動きのなかで律令太政官制が整備されたことが明らかになった。しかし、その太政官の政務は、しだいに唐制のものと異なる日本にあった形に変えられ、10世紀には日本風の貴族政治とよぶべき上卿が政務を分担する形が完成する。本論文でこういった見通しを出してみた。

審査要旨 要旨を表示する

武光誠氏の論文『古代太政官制の研究』は、日本古代国家の太政官制の構造と特質そしてその変遷について、歴史的展望を示した研究成果である。研究の特徴は、形成過程、構造の特質や政務運営の展開などについての多面的な検討を通して、大胆に政治的背景をさぐるところにある。それらを通して、日本古代国家の政治・政権構造について、畿内豪族の連合政権的な構造を見出すと共に、平安時代初期に氏族制的要素が後退する歴史的展開を指摘するなどの見通しを提示したものである。

第一編「太政官の構成」では、大宝令によって太政官の下にそれまで管轄外の宮内官・中官が八省として位置づけられるなど、国政の権限を太政官に集中する方式が成立した過程を跡づけ、天皇のもとの貴族政権としての構造を太政官制の中に見出す。

第二編「太政官の政務の運営」では、「弁官宣旨」を取り上げ、太政官の議政に与る最上位の公卿である上卿が弁官経由で下す弁官宣旨が十世紀中葉に国政において重んじられるようになる過程を明らかにし、また「陣申文」を検討して、内裏の左右近衛陣において公卿が諸司・諸国からの重要な申文を議して政務決定するあり方が十世紀中葉に成立したことを明らかにする。弁官宣旨や陣申文によって、唐にならった律令制の原則を日本的な貴族政権の構造にあった形に変化させたことを指摘する。また官司の記録である「記文」に注目し、個々の官司が職務運営にあたって記文などの記録を作ったことを明らかにして、律令のみではなく先例重視という日本的な運営を行うようになったと位置づける。弁官宣旨や陣申文を太政官の政務運営の展開の中で位置づけた研究は先駆的なものであり、その後の研究に資したことは充分評価し得る。

第三編「太政官と祭祀」では、太政官が祭祀において果たした役割を大嘗祭などについて検討し、太政官政治が伝統的祭祀を重んじたことを論じる。神祇官でない太政官の祭祀への関与については、従来あまりふれられなかった有益なテーマである。

以上、本論文は、日本古代の律令太政官制の特質を形成過程・構成・政務運営や祭祀との関係などにわたり幅広く検出し、その全体的な見通しを提示している。とくに、研究史上先駆的な論考や研究の手薄な分野に光をあてた論考を含んでいること、政務運営の変遷をめぐる政治過程について明快な論旨を展開するとともに、太政官制に天皇のもとにおける畿内貴族政権としての構造を見出す試論を大胆に展開したことは、評価できる。

天皇と貴族との間に緊張関係を認める説に対して貴族政治と天皇との一体性をどう証明し、また中央の太政官制のみでなく地方社会に対する国家的支配のあり方をどう位置づけるのかなど、さらに論及が望まれるものの、古代太政官制の展開から政治過程論に迫ろうとする上で独自の達成を示した点で、本論文は今後の日本古代史研究に有益な基礎をもたらすものと評価できよう。

したがって、審査委員会は本論文が博士(文学)にふさわしい研究であると判断する。

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