学位論文要旨



No 216961
著者(漢字) 青木,敦
著者(英字)
著者(カナ) アオキ,アツシ
標題(和) 宋朝と江南社会
標題(洋)
報告番号 216961
報告番号 乙16961
学位授与日 2008.05.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16961号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 吉澤,誠一郎
 東京大学 准教授 小島,毅
 東洋文化研究所 教授 黒田,明伸
 東洋文化研究所 教授 高見澤,磨
 お茶の水女子大学 教授 岸本,美緒
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、地方行政および立法、裁判を中心とする宋朝の政治的営為の若干の側面を扱い、この宋朝という政治勢力と長江流域の人々との関係が持つ問題点、およびその背景を叙述することを目的としている。従来のこの分野、つまり宋代史研究においては、従来唐宋変革論に導かれて少なからぬファクト・ファインディングが行われてきた。だが、序章では、以下の諸事実が述べられる。

すなわち、「中国とは何か」が問われている現在、漢、隋唐、宋、元、明、清などを一つの国家の発展型として一直線に位置づけるのは適切とは言えず、従ってある時点でこれらの発展過程を前後に分ける時代区分という行為自体が、そもそも所謂「中国史」にはなじまない。唐宋変革論の核心をなす中央官制の長期的変化も、京師という一都市の朝廷という組織内部の変化であるが、地方行政制度については「中央集権」とは一見相容れない、「地方化」の方向も示されている。また唐宋変革論で主要な役割を演ずる科挙を通して登用された文臣官僚は、王朝勢力の全スタッフのうち、ごく僅かな部分に過ぎず、宋朝を理解するには、武臣等の膨大な王朝組織の底辺層、さらには人口の大部分のノン・エリートの動向も、重要である。よって、中国前近代経済史上、様々な技術的革新を伴った、まれに見る経済発展の時期であり、文化的にも唐宋変革論において指摘されてきた様々な新事象が見られるこの宋朝がいかなる体制であったかを明らかにするためには、唐宋変革論などの時代論に全面的には依拠せずに、むしろ個別的なファクト・ファインディングを積み重ねてゆく以外ない。しかし、史料はほぼ全てエリート士大夫によって残されたものであるから、人口の大部分の動向をも含めた全体像を描くには、上述の人口・経済と相関関係を持つ地方行政制度、また紛争解決の手段である裁判・民事的立法の諸側面が、間接的な解明手段として、重要になってくるであろう。

第一部では、以後の全ての研究の基礎的事実の確定として、宋朝の経済史的な位置が考察される。グローバルな結びつきから、世界の一体化を意識した近世・近代論が最近行われているが、この地球規模・ユーラシア規模の横のネットワークという観点の対極に、従来の一民族一国家を単位とした発展段階論がある。だがマルクス史観は階級への過度の注視、西欧をモデルとした硬直的な時代区分論などからすでに参照されなくなって久しい。そこで横の結びつきを重視した近世・近代論を補う、農耕社会の内生的な変化の理論として、第一部では従来日本語研究において十分に参照されてこなかった二つの重要な理論を、内外の研究史を概観しつつ、取り上げる。第一はD.C.ノースら新制度学派経済史と同じく、新古典派的ミクロ理論に基づいた趙岡のそれであり、もう一つは、長期的経済景況を考察するに当たり、より具体的議論に適合的なランクサイズの地文的範囲を考慮したR.ハートウェルの議論である(以上、第一・二章)。そして、土地人口比率を同時代のエリート知識人が如何に認識していたかを説明することによってこれを補強しつつ、中国大陸全体として土地稀少化・労働の過剰化が進行してゆく過程で、10~13世紀江南には、長江中流域、東南、嶺南、各地のペリフェリに相当のフロンティアを残しつつ、局地的には人口過剰が問題となった、いわばパッチワーク状の開発状況が見られることが、改めて確認される(第三章)。さらに江西撫州の楽氏の事例、南宋湖南江西の寇の事例などに、宗族形成・科挙官僚による宋朝の実効支配は相当に限られていた実態を見る。つまり王安石その他の代表的政治家を輩出し、朱熹の祖籍があった江西においてすら、「宗」の原理、科挙官僚による文臣統治といった宋以降の中国王朝を特徴付ける諸側面はむしろ例外に属し、これを強調し過ぎては、宋朝の体制をバランスよく理解することは難しいことが論じられる(第四・五章)。

第二部においては、スキナー、ハイムズが県あたりの人口増とともに中国王朝の行政の「地方化」の一つの象徴と考えた、広域行政区画の発展が扱われる。従来「皇帝独裁」や文臣官僚制の象徴としての中央官制研究、選挙研究の陰に隠れてあまり省みられなかった、のちの省に相当する路の機関、すなわち監司の人事権が第二部の主たる考察対象となる。明・清制との比較、従来十分には検討されてこなかった臧否制度など考課方面での若干の制度史的実証作業を行うと、監司が常に機能不全を指摘され、当時の官僚にある種の「中途半端」さが感覚として共有されていたことが知られる(第六・七・八章)。また『宋会要』「黜降官」における4000以上にのぼる地方官罷免事例のうち、地方史の人事記録との対比・信頼性の確定が可能な部分を利用して行った数量的な制度史研究から、監察制度というその本来の機能においてすら、台諌との競合が見られ、宋の州県を統括するには十分な権限が与えられていなかったこと(第九章)、これらが越訴という、下からの地方官への監察の機能を持つ制度によって支えられていたこと(第十章)が明らかになる。まさにこの地方制度には、過渡期的な趙宋の状況が如実に現れていた。

そして、第一部で述べたような経済実体を、第二部で考察した宋朝の地方官府が統治しようとするとき生じてくる、宋朝独自の法制的な問題点を考察したのが第三部である。「中国史」の中では特異と見られがちであっても、女子分法を含む宋朝の民事的立法は、世界史的に見れば、決して特異ではない。当時の開発最前線の一つであった江西に顕著に見られた健訟、そして明清とは大きく異なる、民事的法律を多用した宋朝裁判が、いかなる社会的背景を持つのか。それをこの第三部では、女子分法問題(第十一章)、清明集名公の法律利用の傾向(第十二章)、健訟と人口移動(第十三章)、民事的法律条文とそれが湖南フロンティアなどにおいて用いられる実相(第十四章)などを通して、解明してゆく。とくに従来、なぜ宋代江西が健訟の地であったかは、謎とされてきた。しかし人口流入と訴訟激化が関連するという複数の史料があり、さらに健訟が最も激しいとされる、江西、また江西の中でも袁州、均州、吉州などは、戸口統計の再計算によってもこの時期、最も人口が増加していた地域である事実から、入植による土地の稀少化、新たな入植者との間に紛争解決の慣習が共有されていなかったことが、指摘される。さらに、法律学習が盛んで法律学校が設立されていた地域、法律をよく使う裁判官の赴任歴、出身地域の分析からもまた、江西・湖南が裁判における法律利用の中心地であったことが、知られる。刑事のみならず民事の裁判でも法を多用するというこの王朝と人々との特殊な関係には、民事的立法が多く見える宋代を律令変成期と位置づけた滋賀秀三の法典編纂史的背景のみならず、さらに宋朝がその基盤を維持していた10~13世紀の江南諸地域の社会の法への需要が背後に存在した可能性が明らかとなる。

最後に以上をまとめつつ、宋朝の位置付けを試みるならば、宋朝とは、制度的には北中国の、北魏以降唐中期に至るまでの、律令制的・均田制的、つまり人民動員的であり命令が貫徹されることを前提として築かれてきた国家体制の形を、五代とくに後周経由で引き継いできた王朝である。しかし宋朝が、こうした諸制度によって統治を図ろうとしたのは、唐末以来経済発展著しい南中国であった。とくに宋朝のリーダーたちの重要な出身母体であり、経済・文化の中心だったのは江南であったが、それは急速な経済成長と、未だパッチワーク状の開発状態が見られる地域であった。確かに宋朝は、編敕や令という形での無数の民事的立法、道の地方監察を財務・漕運に至るまで細かく役割のわりあてをした監司などを置いたが、それが統治しようとしたのは、かかる旺盛な民間活力と地域格差の大きな経済だった。そして宋朝は、それまでは王朝の政治・経済・文化の中心であった華北の殆の領域を支配せず、新興の江西から長江デルタにいたる江南を、このような北朝的な制度を用いて王朝の主要地域として統治しようとした唯一の王朝であった。だが第三部で明らかにしたような具体的で詳細な民事的立法で江南の無数の慣習に対応するのは困難だったし、また第二部で見たごとく、その後の督撫を戴いた明清の省ほどの権限を持たなかった地方行政制度では、地方官の人事に代表される地方統治においても、決して十分な対応はなし得なかった。その意味で宋朝は、官僚制度・法典制度の連続性に着目するならば、過渡期的な王朝であったと評価できる。しかしさらに社会・経済的側面をも考慮するならば、裁判が道徳的・調停的な色を強め、法典的にも刑事を軸とした律と条例に簡略化することで民間の紛争への介入の質を変化させ、一方で地方に強力な一元的支配機関(省)を置く形を取ることによって、地方政治支配を安定化させたのは、むしろ明・清である。宋朝は、税役等の諸制度に北魏以来の北族的色彩を強く持った唐までの王朝と異なるのはもちろん、北中国に政治軍事の中心を置いて、これと南中国の生産・文化が不可分に一体化した明清代ともまた異なった王朝、すなわち、領域特有の経済に対応しようと努力し続けた、南中国中心のユニークな王朝体制であったと見ることができる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、10~13世紀に中国大陸の相当部分を支配していた宋朝を対象として、とくにその支配の重要な基盤をなした江南社会に対する統治のありかたを検討しようとしたものである。漢文史料の丁寧な分析という堅実な手法に依拠しつつも、新制度学派経済学などへの先鋭な理論的関心を踏まえた論文と言える。

論文全体は、三部に分かたれている。まず序章においては、旧来の時代区分論が暗黙の前提として中国の一体性を想定してきたことを鋭く批判し、新しい観点の必要性を訴えている。

第一部「地域偏差と開発」では、土地と人口の比率に着眼する。人口過多の地域と人口不足の地域では、相当に異なった労働力分配・土地経営の制度が必要であったことを示し、宋朝は、それら高人口圧の地域と未開発地域とをともに支配領域に含むことから、社会問題への対応においても独特の性格を持たざるをえなかったことが主張される。

第二部「地方官監察をめぐる諸問題」では、地方官に対する監察や勤務評定の制度が分析される。路の監司の役割は、宋朝の社会経済の実態に即しつつ設けられたものであったが、制度としては中途半端で、その問題点が当時から強く意識されていた。このように試行錯誤を重ねる宋朝の統治のありかたは、前後の王朝と比較するとき、過渡的な性格と位置づけられる。

第三部「江西の法文化と宋朝裁判」では、法文化の地域的な要因を探究している。とくに江西は人々が訴訟を好むという特性があり、裁判に勝つための技法への関心も高い地方として著名であったが、その背景として、開発の急速な進展による人口増という社会経済的な要因が指摘される。また、一定の条件のもと女子に財産を分け与える「女子分法」については、半世紀に及ぶ論争史のなかで特異な規定と見なされがちであったが、多分に現実即応的な態度で比較的きめ細かく法律を制定する宋朝の統治様式から理解できるとする。

本論文全体として主張される結論は、南中国の地域ごとの開発・移民の段階に即した様々な社会経済的実態に対し、宋朝はそれ以前の王朝と異なって真剣に向き合わざるをえなかったこと、またそのために宋朝は地方官の監察制度や詳細な法令制定といった個性的な統治様式を編み出していったということである。

本論文においては、理論的な関心と具体的な実証過程との結びつけ方は、やや性急なところもあり、たとえば「制度」の概念も曖昧な側面を残している。とはいえ、意欲的な問題意識にもとづき、堅実な実証を積み重ね、上記のような顕著な成果を得たことは、高く評価される。それゆえ、本審査委員会は、この論文が博士(文学)の授与に十分に値するとの結論に達した。

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