学位論文要旨



No 216966
著者(漢字) 福島,智
著者(英字)
著者(カナ) フクシマ,サトシ
標題(和) 福島智における視覚・聴覚の喪失と「指点字」を用いたコミュニケーション再構築の過程に関する研究
標題(洋)
報告番号 216966
報告番号 乙16966
学位授与日 2008.05.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16966号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 児玉,龍彦
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 御厨,貴
 東京大学 教授 伊福部,達
 東京大学 教授 中邑,賢龍
内容要旨 要旨を表示する

1. 目的

本論文は、18歳までに視覚と聴覚の双方を失って「盲ろう者」(deafblind person)となった筆者が、自己自身を対象にして行う事例研究である。

本論文の研究目的は、次の二つである。

すなわち、第一に、福島智が9歳で失明し18歳で失聴して盲ろう者となり、「視覚・聴覚の喪失と指点字によるコミュニケーションの再構築」を経験した過程を多角的・重層的に記述することであり、第二に、その記述をもとにこの過程を分析・考察することで、盲ろう者となった福島智の「生のありよう」の本質的な意味を探ることである。

換言すれば、本論文において目指すものは、こうした体験の過程をできるかぎり緻密に記述することを通して、一方で、一盲ろう者の特殊な体験を鮮明に浮かび上がらせるとともに、他方で、その体験の分析・考察を通して、より普遍的なテーマへのアプローチを試みることである。ここでいう普遍的なテーマとは、

・人間にとってのコミュニケーションの意味

・苦悩と障害の意味

・人が他者により支えられ、同時に他者を支える関係にあるということ

・孤独と他者との繋がり

等のテーマを指し、これらについての一定の示唆的知見を得ることが研究の目的である。

2. 方法

自己の体験を対象とした学術的研究の方法論としては、「自己エスノグラフィー」(auto-ethnography)とよばれる手法が近年注目されてきているものの、この方法論はいまだ十分確立されておらず、加えて盲ろう者自身がこの方法で行った先行研究は、世界的に前例がない。そのため、筆者は本論文において、一定程度、方法論自体を独自に考案する必要があった。

そこで筆者は、自己について記述する際、まず自己を「分節化する」ことを考えた。すなわち、

1)本論文での検討対象とする時期の筆者自身を「智」と位置づけ、それを可能なかぎり対象化して描きつつ、

2)一方で、「智」を後日振り返って語り、記述している筆者を「福島」として、概念的に「智」と区別して位置づける。

3)さらに、これら両者を視野に収めた存在としての現在の「私」をも概念上区別して、「筆者」と位置づけ、

これらが3者でありながら同時に同一存在でもあるという、いわば「三位一体的自己把握」を試みるということである。こうした立場をとることで、自己を「時間的に」不連続に分節化して把握することを目指すのである。

また、それとともに、私という統一体を「内部」(主観)と「外部」(客観)の両面から、いわば認識上「空間的」にも分節化して把握することを目指す。そして、この後者の認識上の「空間的分節化」を具体的に担保する方法として、私自身(前述の3類型では「福島」)がインタビューの客体にもなる、という「他者媒介型自己回帰インタビュー」という手法を案出した。

ただし、本論文では自己へのインタビューだけをもとに記述するのではなく、活用可能な資料をできるかぎり幅広く用いる方針をとった。そのことにより、多角的・多重的な記述が実現すると考えたからである。より具体的には、次のような資料を用いる。

1:他者による筆者へのインタビュー

2:筆者等による当時の関係者へのインタビュー

3:筆者や関係者の当時の手記(日記、手紙、作文など)

4:筆者や関係者が当時を回想した手記

5:筆者の記憶

6:筆者を中心とする人物に関する会話・対話・独白などの音声記録(筆者が所蔵していたカセットテープ)

3. 構成

本論文の構成を以下、簡潔に述べる。本論文は三部・12章で構成される。

第一部第1章では、この論文全体で取り上げる智の生活歴において、もっとも重要なポイントとなる「盲ろう」という概念、および「盲ろう者」という存在について、読者にある程度のイメージを持ってもらうための章であり、イントロダクションの性格もある。

第一部第2章では、本論文の目的と方法を述べるとともに、本論文が作成されるうえでの作業手順や表記・記述の方式等について説明する。

第二部は、第3章から第10章までで構成され、さらにIとIIに分かれる。Iは智の出生から盲ろうの状態になる直前までの時期を記述の対象とし、第3章と第4章が含まれる。IIは智が盲ろうの状態となる前後からコミュニケーションを再構築し、「再生」していくまでの時期を記述の対象とし、第5章から第10章が含まれる。

第3章は、智の出生から失明に至るまでの時期(0歳~9歳:1962年末~1972年末)、第4章は、智が失明し、さらに失聴に至る直前までの時期(9歳~17歳:1972年秋~1980年末)について記述する。

第5章では、一部前章と重なりつつ、智の「失聴前夜」の時期(17歳~18歳:1980年6月~1981年1月)の状況について記述する。

第6章では、聴力が低下する中で、智の思考や感情が徐々に内面へ沈潜していく時期(18歳:1981年1月~同3月)について記述する。

第7章では、結果的に起死回生となる母・令子による「指点字」の考案(1981年3月)について、その前段階や考案前後の状況も含めて記述する。

第8章では、盲ろうの生徒として学校に復帰した智が、指点字を中心とした生活を始める時期(18歳:1981年3月末~同4月)について記述する。

第9章では、順調に滑り出したかにみえた智が再び絶望の状態に落ち込んでいく時期(18歳:1981年4月~同7月)について記述する。

そして、第10章では、「指点字通訳」によるコミュニケーションの再構築を通して、智が「再生」していく時期(18歳:1981年7月~同9月)について記述する。

第三部では第二部の記述をもとに分析と考察を行う。まず、第11章では、「文脈のあるコミュニケーション」という問題に主眼を置きながら、文脈的理解の喪失と再構築の過程について考察する。

そして、本論文の総括的な性格も持つ第12章では、盲ろう者となった智、および現在の筆者にまで至る盲ろう者としての「生の本質」について考察し、一定の結論に到達し、本論文を締めくくる。

4. 結果

前述の方法にしたがって、筆者の事例を分析した結果、とりわけ、盲ろうの状態になる前後には、次の10の「節目」があることが明らかとなった。

(1)すでに「光」を失っていたところに加えて、「音」をも急速に失い、

(2)それゆえ、他者とのコミュニケーションが制約され、やがてそれが消失し、

(3)外部の「世界」から隔絶され、

(4)こうした極限状況の苦悩の中で、自己自身との対話と内省を通して、思考過程の深化や内面的変化を経験する。

そして、

(5)母による新しいコミュニケーション手段(「指点字」)の考案により、

(6)他者とのコミュニケーションがいったん部分的に回復する。

しかしながら、

(7)周囲のコミュニケーション場面から実質的に乖離した状況に置かれている自身を自覚し、再び深く絶望する。

その後、

(8)「指点字通訳」という思いがけないサポートを得ることによって、「開かれたコミュニケーションの場」に復活することで、「文脈のあるコミュニケーション」を再構築し、人生における「再生」を体験する。

そして

(9)他者による「ケア」(サポート)を受けながら、同時に、自らも他者を「ケア」する存在へと変化する。

それとともに、

(10)自らの中に「根元的な孤独」を抱えながら、同時に、それがゆえに「他者の存在への憧れ」を強く求める動的過程自体を生きる存在として自己を位置づけるようになる。

5. 分析と考察

本論文の第三部においては、第二部で得られた結果をもとに、筆者の認識世界の変化を分析・考察することを通して、一定の知見を得ることを目指した。筆者がここでの作業によって最終的に到達するもっとも重要なテーマは、第一に「文脈的コミュニケーション」であり、第二に、「根元的な孤独」と「他者の存在」をめぐる問題である。

第一のテーマについて筆者は、智における視覚・聴覚の喪失を、「感覚的情報の文脈」の喪失という観点で考察した。検討を通して、視覚と聴覚という外部世界の情報を獲得するうえでの主要なチャンネルを智が失った過程とは、すなわち、コミュニケーションにおける非言語的情報の大半を失った過程でもあったことが明らかとなった。このことを筆者は、「感覚的情報の文脈」を喪失した過程として把握した。

こうした検討を踏まえ、智が盲ろう者になった直後に陥った深い孤独状態の本質とは、「感覚的情報の文脈」の喪失であり、さらに、それによってもたらされたコミュニケーションにおける「文脈の不在状況」であったと分析した。そして、そうした苦境を救ったものが、たんに指点字という方法で新たに提供された言語的コミュニケーションなのではなく、「文脈のある言語的情報」こそが智の苦境を救ったのだ、と筆者は結論づけた。

第二のテーマについては、智にとって自らが盲ろう者となった体験の意味、そして現在まで連続するその盲ろう者としての生のありようについて考察した。そして、最終的に次のような思索に到達した。

すなわち、人はみな、それぞれの認識の「宇宙」に生きており、それは部分的には重なり合っていたとしても、完全に一致することはない。時にはまったく交わらないこともある。このように、ばらばらに配置された存在であるからこそ、また、その孤独が深いからこそ、人は他者の存在を「憧れる」のではないか。智の盲ろう者としての生の本質は、この根元的な孤独と、それと同じくらい強い他者の存在への憧れの共存なのではないか、という認識に筆者は到達した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、18歳までに視覚と聴覚の双方を失って「盲ろう者」(deafblind person)となった筆者(福島)が、自己自身を対象にして行う事例研究である。

本論文の研究目的は、次の二つである。第一は、福島智が9歳で失明し18歳で失聴して盲ろう者となり、「視覚・聴覚の喪失と指点字によるコミュニケーションの再構築」を経験した過程を多角的・重層的に記述することであり、第二は、その記述をもとにこの過程を分析・考察することで、盲ろう者となった福島智の「生のありよう」の本質的な意味を探ることである。

換言すれば、本論文において目指すものは、こうした体験の過程をできるかぎり緻密に記述することを通して、一方で、一盲ろう者の特殊な体験を鮮明に浮かび上がらせるとともに、他方で、その体験の分析・考察を通して、より普遍的なテーマへのアプローチを試みることである。ここでいう普遍的なテーマとは、1)人間にとってのコミュニケーションの意味、2)苦悩と障害の意味、3)人が他者により支えられ、同時に他者を支える関係にあるということ、4)孤独と他者とのつながり、等のテーマを指し、これらについての一定の示唆的知見を得ることが研究の目的である。

自己の体験を対象とした学術的研究の方法論としては、「自己エスノグラフィー」(auto-ethnography)とよばれる手法が近年注目されてきているものの、この方法論はいまだ十分確立されておらず、加えて盲ろう者自身がこの方法で行った先行研究は、世界的に前例がない。そのため、筆者は本論文において、一定程度、研究の方法論自体を独自に考案した。具体的には、筆者が自己について記述する際、まず自己を時間的に不連続な存在として三つに「分節化」することである。そして、これらが三者でありながら同時に同一存在でもあるという、いわば「三位一体的自己把握」を試みた。また、それとともに、統一体としての筆者を「内部」(主観)と「外部」(客観)の両面から、いわば認識上「空間的」にも分節化して把握することを目指した。この後者の認識上の「空間的分節化」を担保する方法として、自己自身がインタビューの客体にもなる、という「他者媒介型自己回帰インタビュー」という手法を案出した。

本論文の構成を以下、簡潔に述べる。本論文は三部・12章で構成される。第一部第1章では、この論文全体で取り上げる「盲ろう」という概念について、予備的な考察を行った。第2章では、本論文全体の目的と方法を述べた。第二部は、第3章から第10章までで構成され、さらにIとIIに分かれる。Iは筆者の出生から盲ろうの状態になる直前までの時期を記述の対象とし、第3章と第4章が含まれる。IIは筆者が盲ろうの状態となる前後からコミュニケーションを再構築し、「再生」していくまでの時期を記述の対象とし、第5章から第10章が含まれる。第三部では第二部の記述をもとに分析と考察を行った。

前述の方法にしたがって、筆者の事例を分析した結果、二つの重要なテーマを抽出した。第一は「文脈的コミュニケーション」であり、第二に、「根元的な孤独」と「他者の存在」をめぐる問題である。

第一のテーマについて筆者は、自らの視覚・聴覚の喪失を、「感覚的情報の文脈」の喪失という観点で考察した。検討を通して、外部世界の情報を獲得するうえでの主要なチャンネルである視覚と聴覚を筆者が失った過程とは、すなわち、コミュニケーションにおける非言語的情報の大半を失った過程でもあったことが明らかとなった。このことを筆者は、「感覚的情報の文脈」を喪失した過程として把握した。

こうした検討を踏まえ、筆者が盲ろう者になった直後に陥った深い孤独状態の本質とは、「感覚的情報の文脈」の喪失であり、さらに、それによってもたらされたコミュニケーションにおける「文脈の不在状況」であったと分析した。そして、そうした苦境を救ったものが、単に指点字という方法で新たに提供された言語的コミュニケーションなのではなく、「文脈のある言語的情報」こそが筆者の苦境を救ったのだと結論付けた。

第二のテーマについては、筆者にとって自らが盲ろう者となった体験の意味、そして現在まで連続するその盲ろう者としての生のありようについて考察した。そして、最終的に次のような思索に到達した。

人はみな、それぞれの認識の「宇宙」に生きており、それは部分的には重なり合っていたとしても、完全に一致することはない。時にはまったく交わらないこともある。このように、ばらばらに配置された存在であるからこそ、また、その孤独が深いからこそ、人は他者の存在を「憧れる」のではないか。筆者の盲ろう者としての生の本質は、この根元的な孤独と、それと同じくらい強い他者の存在への憧れの共存なのではないか、という認識である。

このように、本論文は、人生途上で視覚・聴覚を喪失した盲ろう者である筆者が自己自身を対象に行った事例研究であり、方法の斬新さ、内容の独自性、分析の独創性において高い水準にあり、世界的にも前例のない研究である。

よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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