学位論文要旨



No 216967
著者(漢字) 菅沼,隆
著者(英字)
著者(カナ) スガヌマ,タカシ
標題(和) 被占領期社会福祉分析
標題(洋)
報告番号 216967
報告番号 乙16967
学位授与日 2008.05.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第16967号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐口,和郎
 東京大学 教授 神野,直彦
 東京大学 教授 森,建資
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 教授 大澤,眞理
内容要旨 要旨を表示する

この研究は、被占領期の社会福祉政策を対象とする歴史研究である。序章、4つの本章、終章の6章からなる。

序章では方法と課題を提示した。一次資料を新たに発掘し、それに基づいて歴史像を再構成するという歴史学の方法を採用している。1946年2月27日発令された連合国軍最高司令官指令SCAPIN775「社会救済」の諸原則は戦後日本の公的扶助政策の基本原則として今日まで影響を保っている。被占領期の福祉政策がどのように構想され、具体化されてきたのかは必ずしも明らかにされてこなかった。本書は、占領軍の福祉政策、占領軍と日本側との折衝過程を辿り、当該期の福祉政策の形成過程を明らかにすることを課題とする。主要な先行研究を吟味し、その到達点と未解明の領域を確認した。その際、先行研究の多くが、GHQを「善意の福祉改革者」と理解してきたが、それでは説明できない事実が数多くあることを指摘した。なお、当該期は、占領軍の統治のもと、日本人の意思の貫徹が阻まれ、非自生的に福祉政策が展開したため、被占領期と呼ぶことにした。

第1章は、日本の敗戦以前における米国の対日救済福祉政策の形成過程を辿った。福祉公務員の団体である米国公的福祉協会APWAはニューディール期の救済政策と不可分の関係を形成し、急拡大した。この時期の救済政策の公的責任論は国・州・カウンティが重層的に責任を負うものであった。第1節では、軍政を担う民政要員の訓練を管轄した陸軍省に焦点を当て、対日救済福祉政策の立案過程を辿った。陸軍省で野戦手引書『軍政FM27-5』初版が作成され(1940年)、同省に軍政部・民政部が設置された(1942年)。初版には軍政府を善意の福祉改革者と位置づける「被統治民の福祉」という原則が掲げられた。だが、この原則は批判され、FM27-5は改訂された(1943年)。「被統治民の福祉」の原則は後景に退いた。第2節では、民政要員訓練計画と『民政ハンドブックー公的福祉』の編集過程を辿った。『ハンドブック』は戦前期日本の社会事業・行政機構および日本資本主義に関して詳細に分析した。そこでは方面委員について否定的な評価は下されていなかったが、戦前期の日本資本主義を不健全な社会と見なした。『ハンドブック』は日本の社会事業と行政機構に対する占領軍の姿勢に大きな影響を与えた。第3節では、『民政ガイドー日本における公的福祉制度と社会保障の管理』を扱った。『ガイド』は日本占領の際、軍政官が遭遇すると予想される事態とその対処法を指示するものであった。『ガイド』は『ハンドブック』と比べて日本の救済制度を低く評価した。第4節では、国務省の対日救済政策の立案過程と国務・陸軍・海軍三省調整委員会SWNCCおよび統合参謀本部JCSの指令を扱った。確定した対日占領政策において、自立更生の原則が確認され、占領軍に危害を及ぼすような飢餓と社会不安を防ぐ必要がある場合に限って日本人に対する救済がなされることになった。

第2章は、日本の敗戦から公的扶助の4原則を指令した1946年2月27日付SCAPIN775の発令にいたる経緯を扱った。第1節では、GHQISCAPの公衆衛生福祉局PHW福祉課設置の経緯、そこにおける担当官の経歴と思想に接近した。PHW福祉課担当官の多くは、ニューディール期緊急救済政策に関与した福祉公務員であり、APWAのメンバーであった。彼らは、ニューディール期の救済政策の手法を部分的に採用したが、他方で、自力更生の原則に忠実であった。第2節は、1945年12月までの軍用物資の民生転換政策を扱っている。PHWと厚生省との折衝の過程でPHWが配分の原則として無差別平等原則を提示した。軍用物資の配分計画策定を命じられた日本政府は、生活困窮者緊急生活援護要綱(1945年12月14日)を決定した。第3節は、一般救済政策の系譜を辿り、SCAPIN775が発令される過程を明らかにした。GHQは1945年11月に広範な飢餓の発生に危惧を抱き、12月8日SCAPIN404「日本救済計画」を指令した。日本政府は12月31目に「救済福祉ニ関スル件」を回答したが、その過程で民政局GSが関与することになった。同胞援護会は国家主義的団体ではないかとGSは疑念を抱き、SCAPIN404の原則をより明確に提示するためにSCAPIN775が指令された。GSは中間団体を排除するために国家責任と公私分離の原則を提示した。

第3章は、生活保護法(旧法)の形成過程を扱った。第1節はSCAPIN775発令後の生活保護法案の起草とPHWとの折衝の経緯を辿った。生活保護法の起草作業は厚生省内部で行われた。この時期、PHWの担当官が交代し、「ネフ覚書」において困窮者救済は「民主的政府の義務」・保護請求権という新しい救済理念が萌芽的に形成された。方面委員から民生委員への名称変更は日本側が主導した。第2節は、議会における生活保護法の審議過程を辿った。議会に上程された法案は救護法に極めて似ていた。生活保護法制定委員会には、戦前・戦時期に慈善救済活動ないし社会運動の経験のある者が多く委員に就任した。委員会の論点として国家責任・生存権、欠格条項、民生委員制度の評価などが取り上げられた。そこでは権利性を重視する社会党など革新派と惰民養成を危惧する保守派の対立が見られたが、不服申立や保護請求権に関する言及はなされなかった。また、民生委員の役割が重視されていた。論議はあったが政府の法案がそのまま承認された。第3節は、生活保護法制定委員会の付帯決議、厚生官僚の救済政策に対する認識を扱っている。付帯決議では民生委員制度の拡充・強化がうたわれ、その提案の中には名誉職としての性格を薄める可能性をはらむものもあった。厚生官僚はGHQの指令をほぼ正確に理解していたと推測できるが、生活保護法には欠格条項を残し、地方への通知では「隣保相扶の美風」を強調し、「遷善教化」しうる場合に保護をなすべしと指示し、民生委員の裁量権に期待した。このような生活保護法(旧法)がもたらした救済政策のあり方を本書では無差別平等の名誉職裁量体制と呼んだ。

第4章は生活保護法(旧法)制定後から1950年の法改正にいたる過程での3つのトピックを扱った。第1節は、生活困窮者緊急生活援護要綱の保護基準から1948年8月の第8次改訂でマーケット・バスケット方式(マ・バ方式)が採用されるまでの生活保護基準の変遷を扱っている。第7次改訂までは物価上昇に応じた改訂であったが、市町村、県の裁量については拡大されたり、狭められたり変化があった。マ・バ方式が構想された背景には、1947年12月の被保護者全国一斉調査による引き締め政策に対する批判の高まりと現場の混乱、生計費研究が深化したことが背景にあった。マ・バ方式採用に際して厚生省は保護基準の大幅な引き上げを求めたが、PHWとGHQ財政政策担当者で折衝が持たれ引き上げは小幅なものとなった。保護基準の改訂と保護率の変化を見ると、マ・バ方式採用後保護率は微減傾向を示した。

第2節は、名誉職裁量体制下の救済行動を扱っている。日本国憲法第25条で生存権が確認され、無差別平等を原則とする生活保護法が制定されたが、民生委員は方面委員の精神を継承し、厚生省も戦前来の名誉職裁量体制を容認していた。他方、占領軍の地方軍政部はPHWの指揮下で、生活保護の実施状況について訪問調査をおこない、PHWに数多くの報告と提案を提出した。マ・バ方式の採用による保護適用の客観化、憲法の生存権条項と生活保護との関係、定員増によるダイリューションなど新しい事態が発生し、民生委員の職務担当能力に疑問が呈されるようになった。これらが民生委員を生活保護の補助機関から協力機関に格下げする下地を作った

第3節は、保護請求権の形成過程を辿った。旧法制定直後の厚生省は、反射的利益説を採用し、保護の権利性を認めなかった。1947年10月頃、地方軍政部は生活保護の不服申立制度について一斉に調査を開始した。それを契機に地方軍政官は不服申立制度について敏感となり、いくつかの県では独自に不服申立制度導入の試みがなされた。その中で愛知県軍政部の福祉担当官が憲法第25条の生存権条項と生活保護の権利性との関係を問い、愛知県知事を通じて厚生省に「疑義照会」を提出させた。厚生省は、不服申立制度を導入整備することを決定したものの、反射的利益説を維持し、権利性を認めなかった。占領軍の内部でも権利性について検討が加えられた。PHWだけでは判断できず、厚生省社会局とGHQ法務局LSとの間で折衝がもたれた。LSの主張を社会局が受け入れ、憲法第25条に基づき、国民は権利として生活保護を受けることができるとされ、1950年の法改正で権利性が認められた。

終章では、被占領期社会福祉政策の特質と題して、全体をまとめている。占領軍の対日救済政策の原則は自力更生であり、その原則が資源の効率的配分と軍人優遇禁止の原則と接合して無差別平等の原則が定式化されてきた。占領軍が追求したものは救済行政・救済手続きの非軍事化・民主化であったといってよく、福祉の水準の引き上げは意図していなかった。日本側は、国家責任の論拠を戦争責任論と資本主義体制の欠陥という観点から位置づけようとしたが、普遍的な人権という観念は弱かった。日本人は無差別平等の原則と民生委員制度を自然なものとして受け入れた。だが、新生活保護法に改正される過程で、保護の実施機関は民生委員から福祉公務員へと転換し、名誉職裁量体制が解体され、中央集権的な福祉官僚制が確立することになった。

審査要旨 要旨を表示する

従来、SCAPIN775から生活保護法(旧法)、保護請求権の確立へといたる過程にっいては、社会福祉研究者を中心に多くの業績が積み上げられてきている。菅沼隆氏による提出論文『被占領期社会福祉分析』は、従来の研究を圧倒する水準での一次資料の駆使によって、この過程を「福祉行政の改革過程」として綿密に再構成することを試みた作品である。

本論文は、「序章、課題と方法」、「第1章、米国対日福祉政策の形成過程」、「第2章、SCAPIN775の発令」、「第3章、生活保護法(旧法)の形成過程」、「第4章、生活保護法(旧法)の展開過程」、「終章、被占領期の救済福祉政策の特質」の全6章から構成されている。

「序章」では、主に方法の提示と研究史の検討が行われている。まず方法については、官僚の証言に依拠してきた従来の方法を批判し、あくまで記録資料で確認できた事実に依拠すること、占領軍がいかなる意図の下に対日救済福祉政策を展開したのかという点に着目していくことが述べられる。先行研究については、SCAPIN775を中心としたそれが検討され、公的扶助制度の「民主化」に積極的な占領軍と消極的な厚生省といった60年代末までの研究も、占領初期の厚生省の能動的役割を強調する近年の研究も、一次資料による裏づけの欠如という決定的な難点が存在すると指摘する。また実証水準では群を抜くと高く評価する多々良紀夫氏の研究についても、ニューディール期の救済政策とSCAPIN775を関連づけるという観点からは不十分であると批判する。そして著者が最も問題視するのが、若干の例外を除いて、多くの先行研究が、占領軍を「善意の福祉改革者」と規定している点である。著者は、「民主化」・「非軍事化」と「善意の福祉改革」とは峻別されるべきであると主張し、この観点は以降の分析に貫かれていく。

「第1章」では、まずニューディール期における「公的責任」原則の確立とそれを執行する福祉官僚制の拡延に注目し、そこにSCAPIN775との共通性を見出す。次に、陸軍省内部での軍政策とそこで福祉政策の位置づけを検討し、1940年6月の野戦手引書FM27-5『軍政』に存在していた「善意の福祉改革者」として軍政の可能性が、43年12月のFM27-5(1943年版)になると「被統治民の福祉」の原則についての配慮がなくなることにより低められていったとする。次に『民政ハンドブックー公的福祉』(1944年7月)から『民政ガイド(日本における公的福祉制度と社会保障の管理)』(1945年8月)への編集過程及び内容の分析では、後者において軍国主義と救済制度との関連が言及され厳しく批判されていることから、対日救済政策の具体化において「非軍事化」の観点と福祉制度改革がつながっていく可能性を指摘する。また前者において、救護法下の方面委員を「有効に活用できる存在」と見なしていたという興味深い事実も発見している。他方で国務省ルートでの対日救済政策では、「公平な処遇」原則の萌芽はあるものの、陸軍省・海軍省も加わった調整委員会(SWNCC)においても、あくまでも肉体的生存を維持する栄養水準を議論していたことを重視する。以上から、軍・国務省双方とも、対日救済福祉政策の原点において、「善意の福祉改革者」ではなかったと結論づけるのである。

「第2章」では、占領開始直後のGHQの対日救済福祉政策の分析が、公衆衛生福祉局(PHW)福祉課の人事と施策及び生活困窮者緊急生活援護要綱(45年12月閣議決定)の成立過程の検討を通じて行われる。前者の検討では、ニューディール期の福祉行政との人的なっながり、救済行政の効率化という目的の連続性が確認される一方、既存制度の維持・存続という方針や、「国家責任」・「必要充足」原則の自覚化の欠如も指摘される。後者については、SCAPIN151からSCAPIN333、援護要綱への過程が検討され、救済における「無差別平等」の原則や軍事物資の困窮者救済への転用の方針が確立していく経緯が、GHQ側と日本政府側との思惑の相違等を含んだ錯綜した過程として描き出される。その後、SCAPIN404、CLO1484(日本政府の回答)、SCAPIN775へと続く過程は、応急的施策から一般的公的扶助政策に向かう過程と位置づけられる。まずSCAPIN404は、飢餓や疾病の拡大と日本政府の無策ぶりへの危機意識の下に46年前半期に包括的(失業者の生活安定も含めた)な救済政策を確立することを目的とした緊急救済政策指令と性格づけられる。そして、そこにあった「無差別平等」・「必要充足」・「公私分離」の諸原則をより明確にし、さらに「支給総額無制限」の原則を加えて、単一の政府機関による「国家の救済責任」を宣言した文書がSCAPIN775(46年2月)であったとされる。また、著者が重視するのは、民間援護団体による救済に固執した日本政府側と、国家の救済実施責任の放棄や国家主義の復活を危倶したGHQ側との対抗関係である。加えて、GHQ側が、この時点では旧来の救護法やその下での方面委員制度(「名誉職裁量体制」)に関心を示さなかったという事実が指摘される。

「第3章」では、まずSCAPIN775が直接的に生活保護法(旧法、46年9月)につながったという通説を批判し、あくまでも抽象的な原則に基づく間接的な誘導が行われたとする。その上で、著者はPHW福祉課の公的扶助への基本思想が表現されているものとして「ネフ覚書」(46年5月)に注目し、そこに保護請求権や不服申立て権などが定式化されていることを指摘する。それは、民主主義国家の要件、封建的制度の打破のための救済政策という考え方の現れと評価されるが、同時に旧法には反映されなかったことにも注意を促す。次に、法案の起草、審議の過程を注意深く追いつつ、PHW福祉課の現実の関心事は、具体的な救済基準の設定と救済財源の確保であったとし、「国家責任」と「無差別平等」を除けば、特に条文にこだわったことは観察されず、方面委員についての改革指令も行わなかったとする。他方、厚生省側の認識については、SCAPIN775発令以降も同胞援護会設立に執着していたことにあるよう、「公私分離」の原則については曖昧なままであり、権利性については消極的であったと評価する。こうした経緯の下、旧法の条項は第一条を除くと救護法を継承するものとなったのであるが、著者はこうした性格の旧法を「無差別平等の名誉職裁量体制」と規定し、その内的矛盾を剔出するのである。

「第4章」では、まず研究史上の弱点を補う意図で、援護要綱、生活保護法(旧法)での保護基準及び算定方式の変遷が詳細に辿られる。その嚆矢である45年12月の「福祉救済ニ関スル件」(CLO1484)では、保護基準が軍事扶助法に比べても高く設定されていること、算定方式において「一般世帯の消費支出の一定率」という発想が見られることを見出す。また46年3月の「第一回基準設定」では、保護基準の上限を超えてよい場合が明記され、多様な困窮への柔軟な対応への措置の萌芽が観察される。そしてこれらが、物価変動に対応した改訂、保護基準の低さへの批判や生計費研究の展開、第八次改定へと連続していくととらえる。また第八次改定でのマーケット・バスケット方式の背景としては、国民の生活内容の標準化及び最低生活の具体的な生活設計の提示の必要性を指摘する。次に民生委員と地方軍政部の関係が検討される。民生委員は、方面委員制度からの意識面での連続性を払拭できず、「名誉職裁量体制」と「無差別平等」原理との根本的矛盾に無理解である一方、地方軍政部は、民生委員の地位の曖昧さや必要な資質の欠如を問題にし、地方における行政手続きの客観化を求めたという事実が示される。そしてこのことが結果として「名誉職裁量体制」の解体を促したと評価するのである。最後に、新生活保護法への連続性の分析として保護請求権条項の形成過程が検討されるが、通説と異なり、47年末時点でのPHWの不服申し立て手続きに対する問題関心が原点と位置づけられ、これが地方軍政官による点検・調査、県レベルでの不服申立制度の実験的導入につながったことが明らかにされる。そのうえで、50年5月の新生活保護法での保護請求権は、地方軍政部・PHW・GHQ法務局LSが複合的に関わるなかで、GHQ主導による手続きの民主化として確立したと結論づけられるのである。

「終章」では、GHQの「平等」原則は、日本での福祉水準を向上させるためでなく、残された生活資源の活用を意味する「自力更生」原則から生まれていること、「国家責任」原則も国民に権利を付与したという認識はなく、「公私分離」原則についても国家主義的傾向の排除が主な目的であったこと、さらには「必要充足」原理において想定されていた救済基準もあくまで困窮を防ぐのに必要な水準であったと特微づけられる。その一方で、これらの諸原則は戦前的救済システムを解体する機能を有しており、日本政府側には画期的であり、「民主主義的で善意に基づく指令」と受け止められたとし、両者のギャップに注目するのである。そして、無差別平等を基軸に展開された被占領期の社会福祉改革は、全国一律の運用、市町村の裁量の極小化へと結果し、その意味で生活困窮者の手が直接届きにくい中央政府が優越する福祉官僚制を生み出したと展望する。

本論文の最大の特長は、膨大な一次資料の発掘とその綿密な検討である。「序論」でも述べられているように、従来の研究は官僚の証言が中心であったし、多々良氏の研究が画期となって展開したGHQ側の証言・資料の発掘においても不十分な点が多かった。これに対し、著者は、米国国立公文書館、米国国立国会図書館、スタンフォード大学フーバー研究所公文書館所蔵の諸資料を発掘し、さらにPHW福祉課の担当者であったワイマン等にインタビュウを行い、いくつかの貴重な資料も入手している。特に『民生ハンドブックー公的福祉』、『民生ガイドー日本における公的福祉制度と社会保障の管理』、『福祉課の任務』(PHW福祉課、45年10月)は、GHQの救済福祉政策の意図を読み解くうえで不可欠な資料であると評価できる。また国会図書館憲政資料室所蔵の資料についても、例えばPHWの日誌・週報などを見出し細部にわたって分析している。さらには、全国民生委員連盟の機関誌の発掘も著者の業績である。これらの資料の発掘はその質・量ともに従来の水準を圧倒し、これまで曖昧であった事実の空白を数多く埋めることに成功している。さらに著者はすでに明らかにされている日本側の証言等々とのつき合わせを丹念に行い、断定できる事、推測しうる事、複数の解釈が可能な事、判断不可能で新しい事実発見に期待する事等々の峻別を行うという姿勢を貫いている。このことは本論文の議論の説得性を高めるだけでなく、この分野での今後の研究の発展を促すことにつながっていると評価できる。

次に、こうした詳細な一次資料の分析に基づき、GHQの政策意図を「善意の福祉改革」でなくあくまでも行政上の改革であると規定し、一連の社会福祉改革を福祉官僚制の形成過程として再構成した点が挙げられる。例えば著者は、SCAPIN775を、被救済者の人権擁護を目指したものでなく第一義的には行政改革指令ととらえ直し、「平等」・「国家責任」・「公私分離」・「必要充足」の諸原則のすべてについて、この観点からの一貫した解釈を行っている。このことによって、生活保護法(旧法)との位置関係も、思い込みを排した形で正確に測定することが可能となっている。また新生活保護法の保護請求権についても、行政上の手続きの民主化であることが実証されている。さらに著者は、こうした福祉官僚制の確立の起源をニューディール期の福祉改革に見出すことに成功し、被占領期福祉改革の性格づけの説得力を高めただけでなく、「個人と国家が直接対時する」現在の救済機構の中央集権的な性格への連続という魅力的な展望をも示しているのである。またこのような形での再構成により、GHQ側の政策意図と、日本政府側(厚生省)の対応や結果として生じる旧来の救済制度へのインパクトを区別し、その間の複雑なギャップを浮き彫りにしたのである。戦前の方面委員制度を引き継ぐ「名誉職裁量体制」がすぐには解体されず、矛盾を帯びた形で生活保護法(旧法)下でも生き残り、次第にその裁量の余地を狭め変質していくといった錯綜した過程の分析はその一例である。

しかしながら、本論文にはいくつかの問題点も含まれている。第一は、「善意の福祉改革者」論批判についてである。著者が、被占領期の政策を福祉行政改革としてとらえる場合、それを「善意の福祉改革」ととらえる議論が対置されている。この「善意の福祉改革者」とは、序章で「善意をもって日本の福祉水準を積極的に引き上げ・改善する政策志向を有する者」と定義されている。この定義には、「善意をもって」・「福祉水準」という表現の曖昧さが孕まれており、恣意的に適用される可能性も排除できない。一般的に、社会福祉政策には治安上の事項も含めて、様々な政策意図が含まれる。占領政策の一環であれば尚更その点は顕著になるであろう。政策意図だけをとっても、どこまでが「善意の福祉改革者」であり、どこからがそうでないのかを判然とさせるのは容易なことではない。また福祉官僚制の形成と「善意の福祉改革]が原理的に対立するともいえないのである。例えば、筆者は、野戦手引書FM27-5『軍政』(40年版)から43年版への改定で、「被統治民の福祉」原則についての配慮がなくなっているとの「印象」をもって、「善意の福祉改革者」の可能性の低下を強調するが、その説明はやや強引であるとの感を否めない。さらに、保護請求権の形成では、GHQは「福祉主義的な役割を果たした」と評価するが、こうした性格付けと「善意の福祉改革者」論との関係も判然としないのである。

第二に指摘すべき問題は、救済福祉政策や貧困をめぐる当時の社会関係の分析の手薄さである。その結果として、旧来の救済システムが変質・解体されていく過程そのものが、社会レベルでの実態に即して分析されていないのである。例えば日本政府側が、旧来の救済システムの解体につながる諸施策を「民主主義的で善意に基づく指令」と受け止めたことについても、結果として生じている「福祉水準」の変化の実情や現場での評価も含めて、その根拠を深く検討すべきであったと考えられる、また著者は、GHQによる福祉行政改革の機能(結果)を分析する際の重点を方面委員・民生委員制度の変化に置き、一定程度の検討を行ってはいるが、戦時中に天皇制を草の根から支えていたこの層が、敗戦直後の日本社会で方面委員・民生委員として貧困者とどのような関係を取り結び、どのような役割を実際上果たしていたのかの分析は不十分であるといわざるを得ない。占領期の制度改革の結果として、救済福祉政策における重層的構造の欠如が展望されているだけに、この分析は重要であったと考えられる。また、新生活保護法への過程の分析においても、保護基準に対する批判とその実態面での根拠を詳しく検討していれば、新法への移行の理由とそれが社会にもつインパクトについて、より説得的に示し得たと考えられる。これらは実際の政策の展開をダイナミックに分析する上で、政策意図と機能(結果)をどう関係づけるのかという問題でもあり、これについての著者の理論的整理が不十分であったことの結果といえる。

第三に挙げられるのは、救済福祉政策としての占領政策(特に政策意図)に焦点を絞った結果、同時代の他の諸政策との関連についての分析がやや希薄になっている点である。、具体的には、配給政策や賃金政策(最低賃金)を含めた労働政策、財政上の制約との関連等々についての分析である。これらについてのより深い検討は、被占領期の救済福祉政策の展開をより高いリアリティをもって描き出す上で必要であったと考えられる。また例えば、保護基準・算定方式で言及される標準生計費や生活指導などは、戦時期の賃金政策とも絡み合う興味深い事項であり、こうした問題意識に基づいた分析が展開されれば、周辺の研究領域との接合も果たされたであろう。

しかしながら、指摘してきた問題点の多くは、むしろ著者の研究が様々な事実を解明したことの結果として浮かび上がったことであり、提出論文の意義を損なうものでは決してない。本論文はその実証水準、論理の緻密さにおいて当該分野の研究においては群を抜いており、被占領期社会福祉政策の研究を大きく前進させ、今後の研究にとって必ずふまえられるべき業績としての位置を占めるものであると考えられる。以上により、本委員会は、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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