学位論文要旨



No 216968
著者(漢字) 今本,博臣
著者(英字)
著者(カナ) イマモト,ヒロオミ
標題(和) 水位変動が沈水植物に与える影響に関する基礎的研究 : 琵琶湖を例にして
標題(洋)
報告番号 216968
報告番号 乙16968
学位授与日 2008.06.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16968号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鷲宮,いづみ
 東京大学 教授 井出,雄二
 東京大学 教授 高村,典子
 東京大学 准教授 大黒,俊哉
 東京大学 講師 吉田,丈人
内容要旨 要旨を表示する

序論

沈水植物は,湖沼生態系における一次生産者としての役割を担うだけでなく,魚貝類や底生動物に生息場や産卵場を提供する機能,湖底に堆積する底泥の巻き上がりを防止することで栄養塩の再回帰を防ぐ機能,栄養塩を競合することで植物プランクトンの増殖を抑制する機能などをもち,湖沼生態系の健全性の維持に大きく寄与していると考えられる.しかし,富栄養化の進行・流域の開発・人為的な水位変動などにより,各地の湖沼で減少傾向を示している.このような湖沼では,一次生産者が沈水植物群落から植物プランクトンへとシフトするため,透明度が低下する.透明度の低下は沈水植物の更なる減少を招き,好ましくないカタストロフィック・シフトを促進する可能性がある.したがって,沈水植物を含めた豊かな湖沼生態系を取り戻すことが急務となっている.

本研究のフィールドである琵琶湖では,1994年から治水・利水を目的とした新たな人為的水位操作(春季は水位を高く維持し,夏季~晩秋にかけて水位が低下する)が行われている.このような水位操作がもたらす変動は,自然の変動とは異なることから湖沼生態系へ与える影響が危惧されており,治水・利水だけでなく湖沼生態系も配慮した水位操作について科学的に検討することが望まれている.

治水・利水を目的とした水位操作にともなう変動は,洪水時の水位上昇と利水補給にともなう渇水時の水位低下である.洪水時の水位上昇にともなう水位操作は,速やかな水位の低下をもたらすため,沈水植物にはそれほど大きな影響を与えないと考えられる.それに対して,渇水時の水位の人為的低下は,その期間に応じて,沈水植物の現存量や種組成に大きな影響を与える可能性がある.すなわち,水位低下は,本来ならば沈水植物が生育可能である汀線付近を干陸化させ,沈水植物の生育可能域を減少させる一方で,富栄養化による透明度の低下で光が届かなくなった深水域を再び補償深度より浅い水域に戻すことを通じて,生育可能域を拡大させる効果をもたらす可能性がある.湖底の勾配が一定であれば,両効果が相殺されて生育可能面積は大きな変化は生じないはずだが,最深部が補償深度に近い浅くて広い湖沼では,水位低下にともなう光利用性の向上による生育可能領域の拡大も期待される.

本研究は,水位変動が沈水植物に与える影響を予測するにあたり,沈水植物の空間分布と物理環境との関係を把握するとともに,そのような関係のメカニズムとしての生理的特性等を明らかにした.さらにこの成果をふまえて,浅い湖沼で在来の沈水植物群落を再生させ,湖沼生態系の健全性を取り戻すことを目的とした水位操作についての基本的な考え方を示すものである.

第2章琵琶湖沿岸帯の物理環境

沿岸帯の物理環境は,沈水植物の分布を支配する重要な要素であり,地形勾配・底質・光・波浪を正確に把握することは大きな意義を持つ.

湖底の地形勾配は,琵琶湖の西部から北部は急に,東部から南部は緩やかになっており,沈水植物群落は緩やかな地形勾配の場所でよく発達している.南湖は平均水深が4mで最深部が補償深度付近の浅い湖盆,北湖は平均水深が40mで最深部が104mの深い湖盆になっている.底質は,南湖では泥~砂泥の単純な環境に,北湖では砂質を中心とした多様な環境になっている.光束消散係数は,富栄養化傾向の南湖では大きな値に貧栄養化傾向の北湖では小さな値になっている.波浪エネルギーは,水深の浅い南湖では小さく水深の深い北湖では大きくなっている.

第3章琵琶湖に生育する沈水植物の空間分布とその変化

空間分布調査は,航空写真撮影,音響探査機,さらに琵琶湖全体に109測線を設定し,汀線から沈水植物の生育限界水深までベルトトランセクト法による潜水目視観察を用いて,1997年(5924コドラート)と2002年(6654コドラート)に実施した.また,1999~2003年にかけて毎年11月に実施した分布調査結果もふまえて,琵琶湖に広がる沈水植物の空間分布や5年間の変化について検討した.

(1)空間分布

沈水植物群落は全ての測線で確認された.特に大規模な群落が確認された場所は,陸側にヨシ群落が発達する遠浅の場所であった.確認された沈水植物は,輪藻植物1科7種,種子植物7科21種の計28種であった.この結果に他の調査で確認された種を総合すると,現在,琵琶湖で生育している種は31種であると考えられる.優占種は,北湖がクロモ・センニンモ,南湖がクロモ・センニンモ・マツモ・オオカナダモであった.

北湖と南湖に生育する沈水植物の種組成を比較すると,北湖は多様な種で構成されていたが,南湖はクロモ・センニンモ・マツモ・オオカナダモの出現割合が多く,その他の種は少なかった.これは,1960年代以降に南湖が富栄養化したため,沈水植物が本来の生育適地に比べて泥質に偏って生育していることが主な原因であると考えられる.したがって,沈水植物の種多様性を保全するためには,北湖のような砂質を中心とした多様な底質環境が必要であると推察された.

(2)1997年から2002年までの5年間の変化

空間分布調査を実施した1997年と2002年の琵琶湖の水位を比較すると,夏季~晩秋にかけて水位が低下していた.特に,沈水植物が繁茂する7月中旬~9月初旬(調査までの2ヶ月間)の水位は,2002年が約0.5m低かった.沈水植物群落は,この水位低下に応答し,1997年では北湖3001ha南湖1699haとなっていたが,2002年では北湖3461ha南湖2936haへと増加していた.最大群落を示す水深帯は,北湖がB.S.L.-4.0~-4.5mからB.S.L-4.5~-5.0mへと50cm低下していた.一方,南湖は,B.S.L.-35~-4.0mからB.S.L.-4.5~-5.0mへと100cm低下するとともに,B.S.L.-4.0~-8.0mのゾーンでは全ての水深帯で群落面積が大幅に増加していた.また,1999~2003年にかけて実施した分布調査結果によると,北湖では水位変動に対応した沈水植物の生育限界水深の経年的変化が認められた.

以上の結果より,北湖は水位変動に応答して群落面積が増減しているが,南湖においては増加傾向であることがわかった.

このような南湖における群落面積増加のメカニズムは,(1)水位低下にともなう生育期間の延長が群落面積の増加をもたらすことによる影響,(2)経年的な水位の低下が沈水植物のクローン成長と種子による更新の促進を介して,群落面積が増加することによる影響,(3)群落面積の増加が透明度の向上をもたらし,透明度の向上が群落面積をさらに増加させるという正のフィードバックによる影響の3つの要因が示唆された.

(3)水位低下で増加した種と減少した種

夏季~ 晩秋の水位低下による影響で増加した種は,クロモ・センニンモ(成長期が水位低下の時期と一致し,かつ補償光量域が低い種),オオカナダモ・マツモ(成長期が水位低下の時期と一致し,かっ切れ藻で栄養繁殖するため移動能力が高い種),イバラモ(成長期が水位低下の時期と一致し,かつ一年草でありパイオニア的な性質を有する種)であった.一方,夏季~晩秋の水位低下による影響で減少した種は,ネジレモ・コウガイモ(浅水域に生育する種),コカナダモ・エビモ(成長期が水位低下の時期からはずれている種)であった.

以上の結果より,水位低下は,成長期が水位低下時期と一致する種,補償光量域が低い種,移動能力が高い種,一年草の種を増加させる可能性が示唆された.一方,成長期が水位低下の時期からはずれている種や浅水域に生育する種は,減少させる可能性が示唆された.

第4章琵琶湖に生育する沈水植物の季節変化パターン

1997から2001年までの3年間に実施した調査結果をもとに,季節変化パターンを検討した.

1960年代は,5.月頃はエビモ,6~7月はコカナダモ,8~9.月は在来種群(クロモ・マツモ・ネジレモ・センニンモなど)の現存量が多く,沈水植物群落全体では春季~ 夏季に最大現存量を示していた.現在の北湖では,エビモはほぼ消滅し,8~9月は在来種1群(冬季に植物体が枯れる種),8~11月は在来種II群(冬季も植物体が枯れない種)の現存量が多く,沈水植物群落全体では夏季~秋季に最大現存量を示した.南湖ではエビモが消滅,コカナダモも極端に減少し,8~9.月は在来種I群,8~11月は在来種II群,11月頃はオオカナダモの現存量が多く,沈水植物群落全体では夏季~秋季に最大現存量を示した.

以上の結果より,1960年代に比べると春季~夏季に現存量の最大値を示す種が減少し,夏季~秋季に現存量の最大値を示す種が増加していることがわかった.このような季節変化パターンは,春季に水位が低下しなくなったことと夏季~晩秋の水位低下による影響が示唆された.

第5章比較生態実験

水位変動にともなう補償点付近の微妙な光量の変化が,沈水植物の成長や枯死におよぼす影響を生理学的な側面から推測するため,琵琶湖に生育する代表的な7種の沈水植物を光量(最深部-水面で1-6,3-13,6-26,12-48,24-96μmolm2/sの5条件)と水温(11,17,23,29℃ の4条件)を制御した条件下で生育させ生存と成長を比較解析した.

生存限界光量は,ササバモ・コカナダモが高い値を,センニンモ・クロモが低い値を示したことから,水位が急激に上昇すると,ササバモ・コカナダモは枯死する可能性が示唆された.

補償光量域は,ササバモ・ネジレモ・コカナダモが高い値を示したことから,水位低下による影響で新たに生育可能領域になった深水域では,これらの種が増加する可能性が示唆された.

RGRを24-96μmo1/m2/sの光条件で比較すると,水温29℃ ではクロモ・コカナダモ,水温23℃ではコカナダモ・クロモ・オオカナダモ,水温17℃ ではオオカナダモ・コカナダモ,水温11℃ではコカナダモ・オオカナダモ・センニンモが高い値を示した.水位低下は,水位低下時期の水温条件下で高いRGRを示す種を増加させることから,水位低下の時期によって増加する種が変化する可能性が示唆された.

結論

本研究から,湖盆の形状が浅くて広い琵琶湖南湖においては,近年の人為的な水位操作が沈水植物群落増加をもたらしていることが示唆された.すなわち,湖底の光条件を一時的に補償深度以上になるように水位を低下させることで,沈水植物群落の再生が促される可能性が示された.しかし、このことが湖の健全性につながっているかどうかについては今後の検討を待たなければならない.

水位低下操作は,低下の時期によって増加する種と減少する種があること,種によって補償光量域が異なることなどから,在来の沈水植物群落再生を目指した水位操作を行う場合は,水位低下時期,低下幅,目標水位を保つ期間などを適切に定めて実施する必要がある.予測に反して沈水植物群落が増加しなかったり,外来種が増加してしまうことなども考えられるため,科学的なモニタリングを通じて,沈水植物の増加の程度や増加した種類などを確かめながら確実に再生事業を進めるという順応的な管理を実践していくことが望まれる.

審査要旨 要旨を表示する

沈水植物は、湖沼生態系における一次生産者としての役割を担うだけでなく、水質浄化や魚貝類や底生動物に生息場や産卵場を提供するなど機能などを担い、湖沼生態系の健全性の維持に大きく寄与している。しかし、富栄養化、コンクリート護岸化、人為的な水位変動などにより、多くの湖沼で水辺植生帯の衰退・消失が進行しており、沈水植物を含めた植生帯の回復が急務となっている。

申請者の研究フィールドである琵琶湖では、1994年から治水・利水を目的とした新たな人為的水位操作が行われている。治水・利水を目的とした水位操作による変動は、洪水時の水位上昇と利水補給にともなう渇水時の水位低下であり、自然の変動とは季節性が大きく異なる。洪水時に、水位操作でもたらされる速やかな水位の低下は沈水植物への影響は比較的小さいと考えられるが、渇水時の長期にわたる水位低下は、その期間に応じて、沈水植物の現存量や種組成に大きな影響を与える可能性がある。すなわち、本来ならば沈水植物が生育可能である汀線付近を干陸化させ、沈水植物の生育可能域を減少させる一方で、富栄養化による透明度の低下で光が届かなかった深水域を再び補償深度より浅い水域に戻すことにより生育可能域を沖側に拡大する効果が期待される。湖底の勾配が一定であれば、両効果が相殺されて生育可能面積は変わらないはずだが、そうでなければその地形に応じて、2つの効果のバランスが異なり、水位低下が沈水植物の生育に及ぼす影響が変化することが考えられる。

申請者は、人為的な水位変動が沈水植物に与える影響を系統的に予測するため、時空間的に凋密なデータをもとに沈水植物の分布と物理環境との関係を詳細に分析した。また、それらの関係のメカニズムを理解するために、新たに考案した実験装置を用いて代表的な沈水植物の生理生態学的な特性を把握した。これらの研究成果をふまえ、浅い湖沼で在来の沈水植物群落を再生させ、湖沼生態系の健全性を取り戻すことに寄与する水位変動パターンについて考察した。

琵琶湖総合開発事業にともなう人為的な水位操作がはじまって5年経過した1997年と10年経過した2002年に実施した分布調査の結果をもとに、琵琶湖に広がる沈水植物の空間分布や5年間の変化について比較検討したところ、北湖の群落面積は水位変動に応答して増減しているが、南湖は沈水植物群落が顕著に増加していることが示された。

1999年~2001年に実施した季節調査結果をもとに、群落の季節変化や種別の季節変化について検討したところ、1960年代に比べると、春季~夏季に現存量の最大値を示す種が減少し、夏季~秋季に現存量の最大値を示す種が増加していることがわかった。このような季節変化パターンには、春季の水位上昇と夏季~晩秋の水位低下による影響が大きく寄与していることが示唆された。

代表的な6種の沈水植物の生理生態学的特性の測定からは、生存限界光量は、ササバモ・コカナダモで高く、これらの種については水位が急激に上昇すると生育できなくなる可能性が示唆された。センニンモ・クロモ・オオカナダモの補償光量域は比較的低く、水位低下により生じる新たに生育可能域への進出が起こりやすいことが示唆された。実験に供したすべての沈水植物が、24 μmol/m2/sの光条件のもとでは、夏季の水温に相当する23~29℃において最も高いRGRを示したが、春季と秋季の水温に相当する11~17℃では、常緑のコカナダモ、オオカナダモとセンニンモが比較的高いRGRを示、これらの種が春季もしくは秋季に優占することをよく説明した。

これらの結果にもとづいて、治水・利水だけでなく、沈水植物群落やその組成の維持・再生に寄与する水位操作を考える上での基本的な考え方を整理した。

これらの知見は、浅い湖沼で在来の沈水植物群落を再生させるという水環境の健全性に係わる喫緊の課題に関し、有効な対策にむけた科学的指針の策定に寄与するものであり、社会的、応用的な意義はきわめて大きい。また、沈水植物に関する生理生態学的なデータを取得するための実験手法を確立したことの学術上の意義は大きい。

よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として十分に価値を有するものと認めた。

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