学位論文要旨



No 216980
著者(漢字) 竹内,治子
著者(英字)
著者(カナ) タケウチ,ハルコ
標題(和) 抗回虫IgEが小児の喘鳴及び気道過敏性に及ぼす影響について : バングラデシュ農村での疫学調査
標題(洋) Anti-ascaris IgE and symptoms of bronchial asthma among rural Bangladeshi children
報告番号 216980
報告番号 乙16980
学位授与日 2008.06.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第16980号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 水口,雅
 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 教授 五十嵐,隆
 東京大学 准教授 黒岩,宙司
 東京大学 准教授 梅崎,昌裕
内容要旨 要旨を表示する

緒言

気管支喘息は小児に多い慢性疾患で、その病態の特徴は気道過敏性と慢性炎症である。環境抗原に対するIgE抗体を産生しやすいアトピー体質など、遺伝素因が深く関与する疾患であるが、1970年代に先進国を中心に急増したことでその原因として環境因子の関与が注目されるようになった。

こうした因子のひとつとして、不衛生な地域や農村部に多い寄生虫感染が、アレルギーを抑制するとの仮説が示された。一方、衛生仮説は、「胎児期優位のTh2型免疫反応が生後、細菌やウィルス感染によってTh1型免疫反応に誘導されるが、衛生的な環境で感染機会が減るとTh1型免疫反応が十分に誘導されず、T細胞応答がTh2へ偏倚しIgE抗体産生につながる。」とする。しかしこの衛生仮説ではTh2型免疫反応を起こす寄生虫感染とアレルギーの逆関連は十分説明できない。これを説明するものとしてYazdanbakhsh らは、寄生虫感染症も考慮した新たな衛生仮説を提唱した。即ち寄生虫感染にかかわらず慢性の感染症があると、IL-10などのサイトカインをはじめとする抗炎症性制御反応が働き、それがアトピー喘息を抑えるという推論である。この仮説にもとづいて寄生虫感染と喘息アトピーに関する疫学調査が行われてきたが、その結果は、必ずしも寄生虫感染がアレルギーを抑制するというものではない。中でも回虫は喘鳴を増すという報告が多い。一方で、抗回虫IgEは回虫感染とは異なる指標であまり検討されてはいないのだが、回虫感染率の低い地域では喘鳴を増し、感染率の高い地域では喘鳴を減らすとされる。しかし回虫感染率の低い地域からの報告はあるが、回虫感染率の高い地域からの報告はあまり見当たらない。

バングラデシュの農村では回虫感染率は75%と極めて高い上、小児の喘鳴の有病率も16.2%と比較的高く回虫が喘鳴を増やすとする報告に合致する。この事実と抗回虫IgEの作用を確認するため喘鳴との関連を検討した。また4年後に同一集団から条件に応じて選出した対象者に、気道過敏性試験を実施し最初の調査の確認を行った。

方法

調査は2001年4月より11月までと2005年1月より7月までの2回、ICDDR,B (International Centre for Diarrhoeal Disease Research, Bangladesh): Centre for Health and Population Researchの分院のある農村部のマトラブ・タナで行われた。対象者は無作為クラスター抽出により抽出された51か村に住む5歳児1705名。その中から過去12ヶ月以内に喘鳴のあった群219名と全く喘鳴のない群122名の協力を得た。2005年の対象者は2001年の調査に参加してくれた当時の5歳児から条件に応じて選ばれた9-10歳児であった。

2001年の調査項目のうち喘鳴の有無はInternational Study of Asthma and Allergies in Childhood (ISAAC)の質問表でたずねた。危険因子も質問表で尋ねた。肺炎既往の情報は既存の記録より得た。血清総IgE値、抗ダニ、抗ゴキブリ、抗回虫IgEの測定と、新鮮便検体での寄生虫卵の検査を行った。2005年の調査は、上記項目に気道過敏性試験をくわえて行った。気道過敏性試験はISAACのプロトコールに修正を加えて行った。気道過敏性試験陽性の判定は4.5%の高張食塩水負荷後の強制1秒量(FEV1)が、負荷前値の15%以上減少した場合か、負荷前FEV1が予測値の75%未満で気管支拡張剤の吸入で回復したときとした。

結果

2001年、抗回虫IgE、総IgEの平均値は、過去12ヶ月以内に喘鳴を経験した群ではそれぞれ16.12 UA/ml[95%信頼区間(13.46-19.49)]、3361 IU/ml[95%信頼区間(2864-3944)]で、喘鳴の全く無かった群の7.92 UA/ml[95%信頼区間(5.99-10.38)]、2122 IU/ml[95%信頼区間(1737-2566)]に比べて有意に高かった(tテスト:p<0.001)。喘息により特異的な症状を持つ群ではさらに高くなり、会話が障害されるほどの発作があった子供たちでは、抗回虫IgEの平均値は18.36 UA/ml[95%信頼区間(14.01-23.81)]、総IgEは4042 IU/ml[95%信頼区間(3229-5046)]と最も高くなった。回虫感染は喘鳴とは関連なかった。(χ2テスト、p=0.339)。

抗回虫IgEと総 IgE が喘鳴をおこすオッズ比を、ロジスティック回帰分析で計算すると、抗回虫IgE、総 IgE とも対数1の増加量ごとに、喘鳴のオッズ比はそれぞれ1.40[95%信頼区間(1.20-1.64)]、1.40[95%信頼区間(1.15-1.70)]となった。しかし親の喘息、肺炎の既往、炊事の燃料、鞭虫感染などと、抗回虫IgEと総 IgEを相互に加えて調整すると、抗回虫IgE の対数1増加量ごとのオッズ比が1.32[95%信頼区間(1.00-1.767)、p=0.05]であったのに比し、総 IgEの対数1増加ごとのオッズ比は0.960[95%信頼区間(0.660-1.396)]となり有意差が消失した。この抗回虫IgEの対数増加量ごとの調整オッズ比は、喘息により特異的な4回以上の発作があった群では1.52[95%信頼区間(1.18-1.96)、p=0.001]、眠れない発作のあった群では1.35[95%信頼区間(1.10-1.64)、p=0.004]、会話を妨げる発作のあった群では1.57[95%信頼区間(1.19-2.08)、p=0.001]であった。

2005年の調査でも、2001年にも2005年にも喘鳴があり気道過敏性もある群と、2001年にも2005年にも喘鳴がなく気道過敏性陰性だった群との間でロジスティック回帰モデルを用いてオッズ比の計算を行うと、対数抗回虫IgEの増加量1あたりの気道過敏性陽性の粗オッズ比は1.92[95%信頼区間(1.23-12.99)、p=0.004]、性別、肺炎既往、回虫感染、鞭虫感染、両親の喘息、燃料枯葉、家の壁材、総IgE、抗DP IgEで調整するとオッズ比は5.41[95%信頼区間(1.54-19.19)、p=0.009]となった。抗回虫IgEは、回虫の感染率の高い地域でも気道過敏性の危険因子となった。

考察

バングラデシュ農村の5歳児では、抗回虫IgEは危険の増加と関連した。この結果は抗回虫IgEは回虫感染率の低い地域では喘鳴の危険因子となるが、感染率の高い地域では防御因子となるというこれまでの見解に反するものとなった。しかしこの結論は、より特異的な症状のある子だけを選ぶと、平均の抗回虫IgE値が現在喘鳴のある群よりさらに高くなり、喘鳴のオッズ比が増加し、p値が下がったという事実でも裏付けられる。さらに2005年に行った調査で、抗回虫IgEが気動過敏性の危険増加に関連した事でも支持される。

寄生虫特異IgEは、現在の感染に加えて過去の感染も反映すると考えられる。この調査では、抗回虫IgEは喘鳴と関連があったが、回虫感染は喘鳴と関連がなく、回虫感染というより感染で産生されたIgEの、回虫への反応が喘鳴と関連すると考えられる結果となった。この関連の理由としては次のようなことが考えられる。バングラデシュのように感染率の高い地域では回虫再感染は頻回に起こり、この幼虫爬行症時に抗回虫IgEの上昇と喘鳴が同時に起きているのかもしれない。また抗回虫IgEが通常の吸入抗原に対する抗体のように作用し、回虫への曝露により肥満細胞の脱顆粒を起こしている可能性も考えられる。

一般に寄生虫感染が起こると、感染を受けた宿主の寄生虫に対する防御・排除反応と考えられるTH2型の免疫反応による特異的・非特異的なIgE 産生がおこる。この宿主の排除反応に対抗するため、寄生虫は宿主にIL-10を産生させ宿主内での生き延びを図る。住血吸虫症、フィラリアのように組織内に生息する寄生虫は、回虫のように腸管に寄生するものよりさらに強くIL-10を産生させる必要があるだろう。抗回虫IgE を持っていても喘息を起こさない人が多いのは、IL-10のような制御機構があるからだろうが、この制御能は回虫では住血吸虫、フィラリアほど強くないので、喘息・アトピーの発症を抑える力も弱いのだろう。バングラデシュには住血吸虫はいないので、抗回虫IgEで喘鳴が惹き起こされ、これが農村で喘鳴の多い理由を説明するかもしれない。

まとめ

抗回虫IgEは、地域の回虫感染率や抗回虫IgE保有率の高低にかかわらず、喘鳴、気道過敏性の危険増加因子に関連する。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は寄生虫感染の喘息への影響を明らかにするため、寄生虫感染率の高いバングラデシュの農村の小児を対象に疫学調査を行い、喘鳴および気道過敏性の危険因子としての抗回虫IgEの関連を検討したものであり、下記の結果を得ている。

1.2001年の調査時、抗回虫IgE、総IgEの平均値は、過去12ヶ月以内に喘鳴を経験した群ではそれぞれ16.12 UA/ml[95%信頼区間(13.46-19.49)]、3361 IU/ml[95%信頼区間(2864-3944)]で、喘鳴の全く無かった群の7.92 UA/ml[95%信頼区間(5.99-10.38)]、2122 IU/ml[95%信頼区間(1737-2566)]に比べて有意に高かった(tテスト:p<0.001)。発作の回数が過去1年に4回以上あった子、眠れないような発作のあった子、会話が障害されるほどの発作があった子など、喘息により特異的な症状を持つ群ではさらに高くなり、会話が障害されるほどの発作があった子供たちでは、抗回虫IgEの平均値は18.36 UA/ml[95%信頼区間(14.01-23.81)]、総IgEは4042 IU/ml[95%信頼区間(3229-5046)]と最も高くなった。

2.抗回虫IgEと総 IgE が喘鳴をおこすオッズ比を、ロジスティック回帰分析で計算すると、抗回虫IgEの喘鳴のオッズ比は、対数1の増加量ごとに1.40[95%信頼区間(1.20-1.64)]であり、総 IgEでは1.40[95%信頼区間(1.15-1.70)]であった。しかし親の喘息、肺炎の既往、炊事の燃料、鞭虫感染などと、抗回虫IgEと総 IgEを相互に加えて調整すると、抗回虫IgE の対数1増加量ごとのオッズ比が1.32[95%信頼区間(1.00-1.767)、p=0.05]であったのに比し、総 IgEの対数1増加ごとのオッズ比は0.960[95%信頼区間(0.660-1.396)]となり有意差が消失した。抗回虫IgEは独立の危険因子といえるが、総 IgEは独立の危険因子と必ずしもいえなかった。

3.さらに抗回虫IgEの対数1増加量ごとの調整オッズ比は、4回以上の発作があった群では1.52[95%信頼区間(1.18-1.96)、p=0.001]、眠れない発作のあった群では1.35[95%信頼区間(1.10-1.64)、p=0.004]、会話を妨げる発作のあった群では1.57[95%信頼区間(1.19-2.08)、p=0.001]と、単なる喘鳴のあった群よりオッズ比が増しp値がより低くなり喘息との関連が強まるといえた。

4.便中寄生虫卵の陽性率を見ると、喘鳴のある群の回虫卵陽性率76%、喘鳴のない群では74%と、両者の間に有意な差はなく、回虫感染は喘鳴とは正の関連も負の関連もなかった。(χ2テスト、p=0.339)。

5.その他の喘鳴の危険因子は、肺炎の既往、両親の喘息、燃料に枯れ葉を使う世帯であった。

6.2005年の調査でも、2001年にも2005年にも喘鳴があり気道過敏性もある群と、2001年にも2005年にも喘鳴がなく気道過敏性陰性だった群との間でロジスティック回帰モデルを用いてオッズ比の計算を行うと、対数抗回虫IgEの増加量1あたりの気道過敏性陽性の粗オッズ比は1.92[95%信頼区間(1.23-12.99)、p=0.004]、性別、肺炎既往、回虫感染、鞭虫感染、両親の喘息、燃料枯葉、家の壁材、総IgE、抗DP IgEで調整するとオッズ比は5.41[95%信頼区間(1.54-19.19)、p=0.009]となった。抗回虫IgEは、回虫の感染率の高い地域でも気道過敏性の危険因子となった。

以上、本論文は抗回虫IgEの喘鳴及び気道過敏性への危険因子としての関連の可能性を明らかにした。現在寄生虫による喘息治療の研究が進められているが、本研究は、回虫感染率の高い地域では抗回虫IgEが喘鳴の防御因子となるという従来の見解には疑義をはさんでいる。回虫感染の喘鳴の防御因子としての可能性に対しより慎重な検討を求める点で、今後の治療法の開発に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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