学位論文要旨



No 216989
著者(漢字) 稗方,和夫
著者(英字)
著者(カナ) ヒエカタ,カズオ
標題(和) 製造業における知識伝承支援システムに関する研究
標題(洋)
報告番号 216989
報告番号 乙16989
学位授与日 2008.07.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第16989号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大和,裕幸
 東京大学 教授 木村,文彦
 東京大学 教授 青山,和浩
 東京大学 准教授 白山,晋
 東京大学 准教授 増田,宏
内容要旨 要旨を表示する

製造業では高齢化した熟練者の退職とともに熟練者の持つ知識が失われる2007年問題が広く認識され、高齢化した熟練者の知識伝承を促進する取り組みがなされている。熟練者の知識や技能は日本の製造業の国際競争力の源泉であり、その伝承は最重要課題の一つと考えられる。

知識・技術・技能の伝承はナレッジマネジメントの一つであり、一般的には熟練者の知識・技術・技能を知識コンテンツとして形式化し、再利用可能な状態で提供することで実現される。失敗学データベースのような知識コンテンツ開発の研究例や、ナレッジマネジメントを支援する商用システムも多数存在し、テキスト処理・コンテンツ管理・メタデータ・データマイニングなど要素技術も充実しつつある。しかし、実際に知識を形式化する方法や形式化された知識を蓄積・再利用する知識レポジトリの運用については、他の組織での成功事例に倣っても企業文化やドメインの違いにより同様の成果は得られず、試行錯誤や現場での工夫にその成否がかかっている。なお、ナレッジマネジメントの分野においては知識移転、知識継承など様々な言葉が使われるが、本研究は主に製造業の設計業務における知識を対象とし、知識伝承と言う用語を用いる。

設計業務は多種の図面・データ・文書といった多くの情報を処理しながら進める作業であり、集まった情報から正しく設計上の判断を行うのは熟練者が暗黙的に身に付けている能力である。文書化、電子化された多くのデータと、他部門とのメールや会議、直接の会話による得られる情報、および過去の経験から熟練者は設計上の判断を下している。このような特徴を持つ製造業の設計作業の知識伝承を支援するには、汎用の文書管理システムやグループウェア、イントラネット等の技術では不十分であり、設計における知識をメインターゲットとした新たな情報システムが望まれる。例えば、日本造船工業会のナレッジマネジメントシステム検討委員会により、ワークフローを利用した設計ナビゲータの有効性が指摘されている。

このような背景から、以下に本研究の目的を述べる。

1.製造業の設計工程を対象に、設計プロセスに注目した知識記述を基本とした熟練技術者から若手技術者への知識伝承の支援を行う方法論を開発すること。

2.提案する知識伝承支援の方法論を実現するための、設計プロセスを軸とした文書管理システムの開発を行うこと。なお、本研究における知識伝承支援の方法論は知識を単に伝えるのみではなく、知識伝承のプロセスを通じて新たな知識を育成する環境を提供することも含める。

3.実証実験を通じて、提案手法および開発するシステムの有効性を評価すること。

本研究では、システム中に知識を記述・表現するための情報技術が必要であり、また、システム利用者が知識を蓄積するために実際に登録、再利用する作業のユーザインタフェースが必要である。知識の記述・表現には、知識表現の基本である意味ネットワークやフレーム理論、記述された知識をif-then形式のルールにより利用するプロダクション・システム、知識の高度な記述を実現するオントロジー工学などの要素技術が挙げられる。システムの実装には、これらの要素技術を包含したインフラであるセマンティックウェブを利用して高度な知識処理が可能なシステムを実装する。システム利用者へのユーザインタフェースにはプロセス記述のフォーマットが必要となるが、従来から利用されているPERT、主に情報システムの設計に利用されるUML、業務プロセスの記述に適したBPMNなど、様々な標準形式が存在する。本研究の目的は知識伝承であり、知識を再利用する主体は計算機ではなく利用者であるため、利用者が理解しやすいと考えられるフローダイアグラムにアノテーションを追加した独自の形式を採用することとする。

前述のように様々な既存技術を組み合わせた知識伝承支援システムを用いて、新しい知識伝承手法を提案する。提案手法は、CommonKADS等の先行研究を参考に、知識伝承のプロセスを6つのフェーズに分けて各フェーズごとに支援を行う。6つのフェーズは、「対象プロセスの選択(知識記述を行うプロセスの決定)」、「プロセスの記述(粗いワークフローの記述)」、「プロセスの分析(アンケートを通じた記述したワークフロー中のアクティビティの遂行・伝承の難易度の定義)」、「プロセスの詳細記述(サブワークフローやマニュアルによる知識記述の詳細化)」、「プロセス指向の知識参照(ワークフローをインデックスとした利用者による知識へのアクセス)」、「コンテンツの改善(アクセス状況を用いた知識の育成)」と定義した。

「プロセスの分析」は、回答者によるバイアスを抑えるため、難易度を直接質問するのではなくミスによる手戻りや影響範囲についてアンケートを行った。

「プロセスの詳細記述」については、インタビューによる知識記述の方法と、業務を行っている熟練者の業務プロセスの履歴から知識を取り出す方法を提案する。前者では、熟練者は師匠として作業を行いながら弟子であるインタビュアに業務の説明を行い、記述された知識によりインタビュアが業務を遂行できればインタビュー終了とするインタビュー方法である。後者の対象は設計工程に限定されるが、設計パラメータの変化をすべて記録し、パラメータ変更点についてインタビューを行い設計意図を獲得する方法である。

「プロセス指向の知識参照」は、システムにワークフローと関連する文書ファイルや電子データとして記述された知識を用いて、設計ナビゲータとして知識を利用するフェーズである。なお、このフェーズでは、利用者による知識へのアクセスログが自動的に記録され、知識に対するコメントなどのフィードバックを記録できる機能を提供する。

「コンテンツの改善」では、前ステップで記録されたアクセスログやコメントに対して連続稼動分析やワークサンプリングといったIndustrial Engineering手法を適用して、システムに記述された知識の問題点を明らかにし、また知識の改善を行う。

提案手法および開発したシステムについて、情報システムの動作検証を目的とした2つの実験と、提案手法による知識伝承支援の効果について検証した4つの実験を行った。

システムの動作検証の実験では企業の設計部門など開発したシステムを適用すべき実際の組織の実データを入力してシステムが正常動作することを確認した。実験を通じて、サーバ上に記述される知識そのものである文書ファイルやワークフロー等について、実利用に耐えるパフォーマンスを提供するために差分のみをサーバに保存するような実装に変更した。また、設計パラメータの記録機能の検証のための実験では、設計パラメータの変化の履歴が確実に記録できることを示した。

知識伝承手法の検証では、1.「プロセスの記述」を対象としたインタビュー、2.「プロセスの記述」から「プロセス指向の知識参照」を対象としたインタビューおよびインタビューに基づく設計ナビ開発、3.「プロセス指向の知識参照」から「コンテンツの改善」を対象とした知識の育成、4.「プロセスの詳細記述」を対象とした知識獲得の実験を行った。

1の実験では、船殻部材の組み立て順番を決定する工作図の作成工程のワークフローを記述した。記述したワークフローを用いたインタビューにより、建造場所や船種、ブロックの種類といったインタビュー時のワークフローに記述のなかった例外条件を記述することができ、インタビュアのスキルへの依存を軽減出来ることを明らかにした。

2では、船殻部材のNC加工用データの作成作業のワークフローを記述し、記述した業務の分析を行い、形式知化可能な業務を特定した。また、形式知化可能と判断された業務のマニュアル作成を行い、マニュアルの提示により業務のナビゲートができることを示した。このことから、現在人間系で知識伝承を行っている業務についても本手法による知識伝承が可能であることを示した。

3では、船舶の基本設計を対象としたCAD操作ナビゲータを開発し、修士課程の学生を被験者としてシステムから提供される情報のみを利用してCADの操作が可能であることを示した。また、システムにより収集されるアクセスログ、コメント等の情報を分析することで操作のボトルネックを明らかにし、システム中に記述されている知識の育成、改善が可能であることを実験により示した。

4では舶用プロペラの設計工程に開発したシステムを適用し、舶用プロペラを設計する際の設計パラメータの変更履歴をすべて記録した。設計パラメータの変更点についてインタビューを行うことで、設計変更点で設計者が注目しているパラメータ、性能、入力パラメータを明らかにすることができた。

本論文は設計プロセスの記述自体を知識伝承の媒体とする新しい知識伝承手法を提案した。開発したシステムは、セマンティックウェブ、RDFSによるメタデータ記述など人工知能分野の要素技術を効果的に導入することで知識をシステム中で構造化することが可能とした。また、Web2.0の特徴であるユーザ参加型を参考としたコメント収集の機能や、Industrial Engineeringの考え方によるコンテンツの問題点把握など、システムの利用を通じて知識を育成するための仕組みも考慮したシステムであり、これらの仕組みは、本論文の数多くの実験を通じて実証された。

以上より、本論文で提案したフローダイアグラムとデータの関連付けにより知識の記述・共有を行うコンセプトに基づいた知識伝承支援手法が有効であることを示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、製造業で広く認識されている高齢熟練者の退職に伴い知識・技術が失われる2007年問題の解決を対象とした実証的な研究である。具体的には、設計プロセスに注目した知識記述による熟練技術者から若手技術者への知識伝承の支援を行う方法論および情報システムの開発と、実証実験による有効性の評価について述べている。

第1章では緒言として、本研究の背景や目的、論文の構成などを述べている。適切な文献を参照しつつ2007年問題について説明し、本論文の目的を明確に定義している。

第2章および第3章は知識や設計プロセスを扱う既存技術について述べている。人工知能分野で発展してきた知識表現手法や、従来型のプロジェクトマネジメントで利用されるプロセスの記述、管理の手法について紹介している。これらの章でレビューされた既存技術は提案手法および開発した情報システム中で利用されている。

第4章では提案する知識伝承手法についてその詳細を述べている。提案手法は知識伝承のプロセスを「対象プロセスの選択(知識記述を行うプロセスの決定)」、「プロセスの記述(粗いワークフローの記述)」、「プロセスの分析(アンケートを通じた記述したワークフロー中のアクティビティの遂行・伝承の難易度の定義)」、「プロセスの詳細記述(サブワークフローやマニュアルによる知識記述の詳細化)」、「プロセス指向の知識参照(ワークフローをインデックスとした利用者による知識へのアクセス)」、「コンテンツの改善(アクセス状況を用いた知識の育成)」の6つのステップと定義し、本章で各ステップの詳細について述べている。アンケートによるプロセスの難易度の分析や、プロセスの詳細記述の際に設計情報を利用する手法など、独創的な試みが提案されている。

第5章では提案手法を実現するために開発した情報システムについて詳細に述べている。開発した情報システムは、設計プロセスをワークフローに記述し、ワークフローおよびワークフロー中の各作業に関連付けた文書ファイルをサーバ上で統合管理する文書管理システムである。このシステムは、全文検索やユーザ間でディスカッションするための掲示板機能等を備えた実業務にも利用可能なシステムであり、本論文では実業務での実証実験を行っている。ワークフローを中心とした知識記述を採用していること、標準化されたオントロジー記述言語であるRDFスキーマにより記述したメタデータによりワークフロー・文書・ディスカッションでのコメントなど種類の異なる全データが一元管理されていること、設計変数などの設計情報を自動で記録する機能を実装していること、オープンソースソフトウェアとして他の組織も利用可能な状態で一般に公開されていること、などがシステムの特徴である。論文中で紹介された他の技術のとの差分も本章で示されている。

第6章では複数の実証実験を通じた提案手法および情報システムの有効性の評価を行っている。知識の記述・参照については、船殻部材の組み立て順番を決定する工作図の作成工程、船殻部材のNC加工用データの作成工程において、実業務の知識を記述し、記述された知識を利用して他の設計者が対象業務を遂行できることを確認する実験で評価がなされた。また、コンテンツの改善については、船舶の基本設計を対象としたCAD操作ナビゲータを開発し、システムに記録されるユーザの利用履歴を分析し、記述された知識にフィードバックすることで知識の育成、改善が可能であることを示した。また、設計情報を利用した知識の記述について、舶用プロペラを設計する際の設計パラメータの変更履歴をすべて記録し、設計パラメータの変更点についてインタビューを行うことで設計者が注目している設計パラメータを明らかにできることを示した。

第7章では提案手法の効果について考察している。本論文の提案が知識伝承にとどまらず新たな知識の育成につながる点が触れられているが、この点は本論文の重要な特徴である。

第8章では論文全体の結論を述べている。ワークフロー形式の知識記述、RDFスキーマによる統合データ管理、アンケートによる業務分析や設計情報を利用した知識の記述方法の有効性が示され、本論文の提案が有効であることを述べている。また、開発した情報システムが若手エンジニアのための新しい教育支援プラットホームになりうる点も述べている。

熟練者の知識や技能の伝承は日本の製造業の国際競争力を維持するための最重要課題であり、実用的な情報システムとともに知識伝承の方法論を提案している本論文は、知識伝承問題の解決に貢献できる意義のある論文である。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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