学位論文要旨



No 216993
著者(漢字) 黒野,益夫
著者(英字)
著者(カナ) クロノ,マスオ
標題(和) 新規スピロスクシンイミド型アルドース還元酵素阻害剤の分子間相互作用に関する研究
標題(洋) Studies on Intermolecular Interactions of Novel Spirosuccinimide Type Aldose Reductase Inhibitors
報告番号 216993
報告番号 乙16993
学位授与日 2008.07.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第16993号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 船津,高志
 東京大学 准教授 東,伸昭
 東京大学 准教授 三田,智文
 東京大学 客員講師 宮嵜,洋二
内容要旨 要旨を表示する

序論

糖尿病は現代の代表的な生活習慣病で,その合併症の治療は対症療法が主体となっている.近年,グルコース代謝の副経路であるポリオール経路の亢進が合併症の成因の一つとして注目されている.細胞内に取り込まれたグルコースの多くはリン酸化を受け解糖系に入るが,高血糖下では一部ポリオール経路を通り,アルドース還元酵素(AR)とNADPHによりソルビトールへ変換され,さらにソルビトール脱水素酵素とNAD+によってフルクトースへと変換される(Fig.1).その結果,ソルビトールの細胞内蓄積に伴う浸透圧の上昇,NADPH消費に伴うNO合成酵素やグルタチオン還元酵素の活性低下とNADH増加に起因するプロテインキナーゼC活性上昇による酸化ストレスの亢進,さらにフルクトースによる糖化蛋白産生を生じ,神経障害などの合併症が起こると考えられている、そこで,ポリオール経路の律速酵素であるARの活性を制御することが新たな治療薬に繋がると期待されAR阻害剤(ARI)の開発研究が行われてきた.しかし,これまで開発されたカルボン酸型をはじめとするARIの多くは臨床において効力不足あるいは副作用によりその開発が中止されている.

SX-3030は,大日本住友製薬において,新規ARIの創製過程で見いだされたスピロスクシンイミド構造をもつ化合物であり,1組の光学異性体(R体およびS体)が存在する(Fig.2)。これまでスピロスクシンイミド型ARIに関しては,立体特異性が認められる場合と認められない場合があり,当該スピロスクシンイミド型ARIでも,光学異性体間の相互変換や加水分解による薬効低下の懸念が持たれた.医薬品候補化合物の安定性,さらにその光学異性体間の効力の差異や相互変換の有無を明らかにする事は,薬効評価だけでなく,有効性と安全性を高める上で重要な課題である.本研究では,invitro profilingに おける構造・物性研究の一環として,SX-3030およびその光学異性体が関与する 分子間相互作用を構造化学的に明らかにする目的で,以下の3つの観点

1.水溶液中での安定性と加水分解機構

2.血漿タンパクとの相互作用と安定化

3.標的酵素ARに対する阻害様式と立体特異性・選択性

について,速度論的・分光学的手法および分子モデリングなどを相補的に活用し,分子レベルまでの解明を進めた.

1.安定性の速度論的解析と加水分解機構

水溶液中で当該ARIは擬一次反応に従って加水分解され,R体とS体のいずれからもスクシンイミドが開環した分解物(Compound 1,ラセミ体)が生成し,R体とS体間の相互変換は起こらないことが明らかとなった.一方,得られた擬一次反応速度定数(kobs)は大きなpH依存性を示し(Fig.3),このpH-kobsプロファイル(25℃)からは,(i)酸性側(pH〓2.4)では最安定(半減期270h)であり,pHに依存しない水分子との反応,(ii)pH7以上では傾き+1に近づき0Hイオンとの反応,そして(III)pH2-7領域(半減期12h以上)では,親化合物のpK値より2pHunit低いpK値3,7の酸性官能基を有する中間体の存在,が示唆された.

これらの結果から,分解機構は水分子またはOH-イオンがスクシンイミド環に求核的に付加して開環し,スクシンアミド酸を生成した後,さらに脱炭酸してケトーエノール互変異性化を経るラセミ化と推察された(Fig.4).スクシンイミド環が開環するとその後の脱炭酸が優先して起こり,再閉環によるR体S体間の相互変換は起こりにくし、ことが,この機構上からも強く示唆された.

2.血漿タンパクとの相互作用と安定化

蛍光消光法により,当該ARIと血漿タンパクとの相互作用を調べたところ,事実上HSAとの結合であった.R体およびS体のHSA結合特性を遊離型濃度と結合型濃度のLangmuir解析から検討したところ,非特異的結合においてS体の親和性が約1.5倍高かったが,臨床上重要な特異的結合の親和性はR体が46倍高かった(Table 1).両者はHSA上の主要な薬物結合部位であるサイトIとサイトIIの両方に結合し,加水分解速度が遊離時に比べてR体で1/40,S体で1/20に抑えられた.次にスクシンイミド環の5位カルボニル炭素の13C標識体を用いた13C-NMR法から,S体およびサイトIに結合したR体が脱プロトン化に近い状態で結合しているのに対して,サイ卜IIに結合したR体のみ一部プロトン化した状態で結合していることが示唆され,サイトIIにおける結合様式の違いが立体特異性の一因と考えられた.

一方,高血糖時に生じる遊離脂肪酸や糖化の増大に対して,当該ARIはHSA上の複数部位に結合するため結合率はほとんど変化しなかった.また当該ARIは,その推定臨床濃度がHSAの体内濃度(0.6mM)に比べて十分低いため他剤のHSA結合に及ぼす影響は小さいことが推測された.このように血漿中でのHSAとの結合が,当該ARIの安定化と持続的な薬理効果に寄与することが明らかとなり,特にR体の場合でより顕著であることが推察された.

3.AR阻害の立体特異性と選択性

標的酵素AR存在下でのR体およびS体の加水分解を調べたところ,HSA存在時に比べてより低いAR濃度から安定化され,AR結合時には最大120-130倍安定化された.

次に,AR阻害について検討した.ARは二基質反応のordered Bi-Bi機構に従うが,グルコース還元反応(正反応)では補酵素NADPHを,ソルビトール酸化反応(逆反応)ではNADP+をそれぞれ過剰にしてARを飽和させ,グルコースまたはソルビトールの一基質反応として解析した(Fig5).

正逆いずれの反応でもR体およびS体の阻害は基質濃度の影響を受けARへの結合は可逆的であったが,正反応ではグルコース濃度が高くなると阻害が強くなる不拮抗型の阻害を示し,逆反応ではソルビトール濃度が高くなると阻害が弱くなる拮抗型の阻害を示した.このことから,両者はいずれも酵素反応サイクル中では主にAR-NADP+複合体に作用すると考えられた.一方,R体の阻害剤定数は3~4×10-10MでありS体より約2000倍強かった.阻害剤定数のvan'tHoff解析により結合の熱力学的パラメーターを算出したところ,S体の結合はエンタルピー・エント ロピー駆動であるのに対し,R体の結合はエンタルピー駆動であり水素結合の寄与がより大きいことが示唆された.一方で,N-プロモスクシンイミドを用いた化学修飾によるARの活性低下に対して,活性部位に結合するカルボン酸型ARIと同じく保護効果を有したことや,阻害剤定数のpH依存性において活性残基のpK値に対応するpK値7.7-7.8を反映したことから,R体とS体はいずれも活性(基質結合)部位に結合することが明らかとなった.

これらの実験結果を考慮してR体およびS体とAR活性(基質結合)部位との分子モデリングを行った。鋳型に用いたAR-NADPH-カルボン酸型ARIであるzopolrestatの三者複合体(PDBコード:1MAR)のAR側はCa原子のみの座標データであるため,この複合体の構造を再構築後,ドッキングスタディを実施した.R体のAR結合(Fig.6a)ではスクシンイミド環がAR側活性残基(Tyr48,His110およびTrp111)と相補的な水素結合の形成が可能であった.一方,ベンジル基部分でもR体では疎水性残基(Leu300)や芳香環側鎖(Trp111およびPhe122)と強く相互作用しており,実際19F-NMR測定よりR体の2位フッ素原子シグナルが芳香環により高磁場シフトするのが観測され,モデルを傍証できた.さらに興味深いことにはこのR体の2位フッ素原子とARに特異的に保存されているLeu300の主鎖NHとの水素結合が示唆された.ARIの多くは近縁酵素であるアルデヒド還元酵素(ALR)を阻害し,それが副作用発現の一因とされるが,ALRにはARのLeu300の位置に主鎖NHプロトンのないProが存在する.そこでLRに対する阻害を調べたところ,S体ではARとALR間で阻害選択性がなかったが,R体ではARに対してALRの約800倍の選択性を示し,上記水素結合の有無がAR阻害選択性に影響することを明らかにした.

総括

1.当該ARIの加水分解の速度論的解析から安定化と安定性予測に繋がる分解機構を考察し,経口剤として開発可能な安定性を持ち,R体S体間の相互変換が起こらないことを示した,

2.当該ARIの血漿タンパク結合はHSA上のサイトIおよびサイトIIへの結合であり,HSAとR体との相互作用が,より高い親和性と加水分解に対する安定化をもたらした.また,サイトIIでの結合様式の違いが立体特異性の一因であることを見いだした.

3.当該ARIは,AR結合時には100倍以上安定化され,また,酵素反応中ではAR-NADP+複合体に作用するが,R体の阻害剤定数は10-10MでS体より2000倍も親和性が高かった.R体はAR活性部位残基と相補的に水素結合すると考えられ,その中のARに特異的な残基との水素結合の形成がさらにARと近縁酵素ALRとの阻害選択性の向上に寄与することを明らかにした.

本研究の知見は薬効および処方設計面での構造化学的基盤情報となり,強力かつ高選択的なR体を開発化合物として選定することに寄与し,同時にAR阻害機構およびARやHSAによる分子認識の理解促進にも繋がった.また,用いた手法およびその組合せは,他の標的タンパク-候補化合物問の相互作用研究に適用可能と考えられる.

Fig.l:ポリオール経路と律速酵素アルドース還元酵素(AR).

Fig.2:SX-3030およびその光学異性体

Fig.3:擬一次反応速度定数k(obs)pH依存性(25°C).

Fig.4: SX-3030及びその光学異性体の加水分解経路.Bz=CH2C6H3Br(p)F(o)

Table 1:HSA結合のパラメーター(pH7.4,25℃)

n1,特異的結合部位数;Kd 1,特異的結合の解離定数;(Kd/n)',非特異的結合の解離定数.

Fig.5:ARの反応機構.二基質反応(ordered Bi Bi機構)であるが,補酵素(NADPH or NADP+)側を飽和濃度にすることで一基質反応として解析.

Fig.6:AR活性部位への(a)R体(green)及び(b)S体(gray)のドッキングと形成される水素結合.

審査要旨 要旨を表示する

アルドース還元酵素(AR)はグルコース代謝の副経路であるポリオール経路の律速酵素で,NADPHを補酵素としてグルコースをソルビトールに還元する.近年,高血糖下でのポリオール経路の亢進が糖尿病合併症の成因の一つとして注目されており,この経路の律速酵素であるARの活性を制御することが新たな治療薬に繋がると期待されAR阻害剤(ARI)の開発研究が行われてきた.本学位論文は,新規ARIの創製過程で見いだされたスピロスクシンイミド構造を有する化合物が生体内で関与する(1)種々のpHの水溶液,(2)血漿タンパク,および(3)標的酵素ARとの分子間相互作用に関する研究結果をまとめたものである.当該スピロスクシンイミド型化合物は不斉炭素を有し光学異性体(R体およびS体)が存在する.構造類似のスピロスクシンイミド型ARIに関しては,光学異性体が相互変換するためラセミ体として開発された場合があり,当該スピロスクシンイミド型ARIでも,R体とS体間の相互変換や加水分解による薬効低下の懸念が持たれた。そこで,上記の分子間相互作用を構造化学的な視点から明らかにする目的で,速度論,分光学的手法および分子モデリングなどを相補的に活用して分子レベルまでの解明を進めている.

本論文は5章からなり,第1章では当該新規スピロスクシンイミド型ARIの生体内での相互作用相手分子である水分子,血漿タンパク質,そして標的酵素について概観し,研究の背景と意義について述べている.第2章から第4章はそれぞれの分子間相互作用についての検討結果と考察を,最後に第5章では,本研究の総括的なまとめと考察を行つている.

第2章では,薬物の生体内での安定性に影響を与える種々のpHおよびイオン強度の水溶液中における当該化合物の安定性と加水分解の速度論的解析を行っている.当該化合物は擬一次反応に従って加水分解され,その擬一次反応速度定数(kobs)はpH増加に伴い増大したが,消化管内pH相当領域では,経口剤として開発可能な安定性を有することを明らかにした.一方,pH-logkobsプロファイルから得られたpK値3.7は親化合物のpK値5.7より2pHunit低く,酸性官能基を有する中間体の存在を示唆した.さらに加水分解過程のキラルHPLC分析より,R体とS体間の相互変換は起こらないこと,およびスクシンイミド環が開環したラセミ体分解物(Compound 1)の構造解析から加水分解機構を推定し,R体とS体間の相互変換が起こらない理由を考察した.また,標的酵素AR存在下での加水分解安定性解析を行うことで,ARと化合物間の相互作用とARI候補化合物としての可能性についても考察を加えている.

第3章では,当該ARIとヒト血漿タンパクの主成分であるヒト血清アルブミン(HSA)との相互作用を検討している.R体およびS体はいずれも,HSA上の主要な薬物結合部位であるサイトIとサイトIIの両方に結合したが,R体の方がHSAとの親和性が約5倍高く,HSA結合により遊離時の約40倍,結合時のS体に比べても約2倍安定化された.このことより,血中でのHSAとの結合が,当該ARIの安定化に寄与すると推察され,特にR体の揚合で安定性と薬理効果の持続性がより向上すると考えられた.

一方,サイトIIへの結合性を低下させる遊離脂肪酸の増加や糖化により,R体とS体間の立体特異性が5倍から1.7倍へと1/3に減少した.そこで,スクシンイミド環の5位カルボニル炭素を13C標識してHSA結合時の13CNMRシグナルを観測したところ,スクシンイミド環は通常脱プロトン化に近い状態で結合することが示されたが,サイトIIに結合したR体のみ一部プロトン化した状態で結合していたことから,サイトIIにおけるR体とS体の結合様式の違いが立体特異性の一因であることを明らかにした。さらに当該ARIがHSA上の複数部位に結合できることにより,結合率は高血糖時の遊離脂肪酸や糖化率の増加の影響を受けにくいこと,また併用他剤との間でHSA結合に起因する薬物-薬物相互作用が生ずる可能性は小さいことなど臨床的意義を考察している.

第4章では,標的酵素AR.とR体およびS体との相互作用について広範な比較研究を行っている.これまでは,カルボン酸型ARIを除いてはARIとARとの相互作用解析例はあまりなく,特にARの立体特異性や阻害選択性についての分子レベルまでの考察はほとんどなかった.まず,ARの正反応方向および逆反応方向における詳細な酵素反応解析より,R体およびS体とARとの結合はいずれも可逆的であり,反応サイクル中ではAR-NADP+複合体に作用するが,R体はその阻害剤定数が3~4×10-10MとS体より約2000倍強い阻害剤であることを明らかにした.次いで,R体とS体のAR結合が,NBSを用いた化学修飾によるARの活性低下に対して活性保護効果を示したことや,阻害剤定数のpH依存性においてAR浩性残基のpK値を反映したことから,R体とS体はいずれも活性(基質結合)部位に結合することを示した.

そして,これらの実験結果および,ベンジル基2位フッ素原子の19F-NMR挙動の差異をも反映した精度の高いAR-当該ARI複合体の分子モデリングを構築し,R体のスクシンイミド環がAR側活性残基と水素結合ネットワークを形成可能であることを示し,当該スピロスクシンイミド型ARIの立体特異性について分子レベルで明らかにしている.さらにR体の2位フッ素原子がARに特異的に保存されているLeu300の主鎖NHと水素結合可能であることに注目し,実際にARと近縁酵素であるアルデヒド還元酵素(ALR)間の阻害選択性を検討した.その結果,ARのLeu300と相互作用しないS体では阻害選択性はなかったが,R体では約800倍のAR選択性を確認しており,AR阻害選択性向上の一つの指針を示した点で評価できる.

以上,本研究は新規スピロスクシンイミド型化合物の水溶液中での物理化学的安定性を明らかにし,標的酵素ARおよび血漿タンパクHSAとの相互作用を解析したものであり,経口剤としての特性および作用機序面での基盤情報を提供するものである.中でも,当該化合物のAR結合における立体特異性と阻害選択性を構造化学的に提示できたことは,ARによる分子認識の理解促進および有用なARI設計に大きく貢献するものである.加えて,本研究で用いた手法およびその組合せは,他の標的タンパクー候補化合物間の相互作用研究に広く適用できるものと期待される.これらの成果は博士(薬学)の学位に相応しいものと判断した.

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