学位論文要旨



No 216995
著者(漢字) 笹岡,正俊
著者(英字)
著者(カナ) ササオカ,マサトシ
標題(和) ウォーレシア・セラム島における野生動物利用・管理の民族誌 : 「住民主体型保全」論に向けて
標題(洋)
報告番号 216995
報告番号 乙16995
学位授与日 2008.09.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第16995号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 井上,真
 東京大学 教授 林,良博
 東京大学 教授 永田,信
 早稲田大学 教授 村井,吉敬
 総合地球環境学研究所 教授 秋道,智彌
内容要旨 要旨を表示する

本研究は,国によって保護されている「希少」野生動物の利用が地域の暮らしを支える上で重要な役割を果たしているインドネシア東部セラム島の一僻地山村を対象に,主に人類学が行ってきたような長期滞在型フィールドワークの研究手法を用いて,ローカルな文脈に埋め込まれた動物と人とのかかわりあいに関する詳細な民族誌的記述・分析を行い,その上で,地域の人びとが可能な限り主体性を発揮できる「自然保護」―「住民主体型保全」―を模索・推進してゆく上で必要とされる視点について考察するものである.本論文の全体は七章で構成されている.

序章では,まず問題の所在と研究の視座について述べた.熱帯の自然保護をめぐる近年の議論をレビューした結果,(1) 地域固有の「人と自然のかかわりあい」の実像が,しばしば保護を推進する「外部者」の一方的なまなざしによって過度に単純化,一般化される形で表象されてきており,(2) そのような偏った地域理解に基づいて推進される自然保護が,しばしば地域固有の人―自然関係を断ち切り,より単純化された形にそれを組みかえる事で,人びとに様々な「受苦」を強いる可能性がある事を指摘した.その上で,熱帯地域において,社会的公正を伴った自然保護を展望するためには,地域住民の視点に立脚して「人と自然とのかかわりあい」の諸相を包括的かつ詳細に理解する事,そして,そうした深い地域理解のもとに,「住民主体型保全」のあり方を個別具体的に模索する事が必要であるとの問題提起を行った.

本研究では,上記のひとつの試みとして,セラム島山地民社会を研究対象に取り上げ,(1) 国によって保護されている狩猟獣とオウムに焦点をあて,それら野生動物利用山地民の暮らしにおいていかなる意味を持っているかを明らかにする事(第二章,第三章).(2) 「在来農業」,および「在地の資源管理」に着目し,「在来知」に基づく山地民の営為が「野生動物―人」関係の持続可能性にいかなる影響を与えているのかを描き出す事(第四章,第五章).そして,(3) 以上より明らかになった点をふまえ,この地域における自然保護について提言を行うと共に,熱帯における「住民主体型保全」の模索・推進のために,保護に関わる外部者にいかなる視点が求められるかについて考察する事(終章),を課題とした.

本研究の調査対象地はセラム島中央山岳地帯に位置するマヌセラ村(人口約320人,2003年)である.フィールドワークは,2003年から2007年にかけて断続的に,約一年間にわたって実施し,その間のすべての聞き取りは,著者が現地語を混ぜながらインドネシア語を用いて行った.

第一章では,調査対象村の概況を述べた.

第二章では,山地民の生活世界のなかで,クスクスなどの狩猟獣のサブシステンス利用が持つ意味を明らかにした.ほぼ純粋な澱粉質からなるサゴ(サゴヤシから採れる澱粉)を主食とする山地民にとって,村で捕獲・採取される動物性資源の約9割(蛋白質量換算)を占める狩猟獣は,彼/彼女らの「食」を支える上で非常に重要な役割を果たしていた.また,これらの狩猟獣の肉の多くは他者に分与されていた.そうした慣行は山地民にとって,「このように生きるのがよいのだ」と考えられている「生」を生きている事を実感し,そこから安心感や充実感を引き出す事のできるものであり,彼/彼女らの「生」を充実と深く関わる営為である事を明らかにした.

第三章では,オオバタンなど野生オウムの商業利用が,セラム島の僻地山村経済において,いかなる位置づけにあるのかを議論した.オウムの捕獲・販売は,猟の技能を持つ者など一部の人びとにとって,主要収入源である「チョウジ収入」が得られない事に起因する長びく現金困窮期に,副次的・補完的な役割を果たす「救荒収入源」として重要であった.しかし,猟の過酷さや危険性などから現金獲得手段として必ずしも高い評価がなされていなかった.そのため,山地民のオウムへの依存度も,主要収入源の多寡など村を取り巻く経済的諸条件に応じて大きく変動することを明らかにした

第四章では,高いサゴ依存と,土地・植生への半栽培的かかわりあいに特徴づけられたセラム島山地民の「在来農業」を「自然を構成する人為」として捉え,それがこの地域の森林景観の成り立ちにどのようにかかわっているのか,また,在来農業を媒介として野生動物と人びととの間に,いかなる相互関係が生み出されているかについて論じた.

マヌセラ村では,相対的に高い土地生産性を誇るサゴヤシ林から大量の食糧が得られる事から,バナナやイモ類を主作物とする「根栽畑」が極めて小規模(アジアの陸稲栽培型焼畑の1/6-1/8)に営まれており,その事が低人口密度と共に,この地域の「豊かな森」の景観形成に何らかの程度関わっていると考えられた.また,こうして形作られた「豊かな森」のなかでは,様々な方法で半栽培的な働きかけが行われる事で多様な「二次的自然」が創出・維持されていた.そうした攪乱環境は,オオバタンなどの野生動物によって餌場などとして頻繁に利用されており,また,人の側も,そうした攪乱環境に飛び込んでくる動物を食用や販売用に利用していた.つまり,在来農業を媒介に,野生動物と人との間には「緩やかな共生関係」とでもいうべき相互関係が生み出されている事が示唆された.

第五章では,超自然観と結びついた在地の野生動物(狩猟獣)管理の実態を小差に描き出すと共に,とそれが野生動物―人関係の持続可能性に与える影響について省察した.

マヌセラ村の森は少なくとも250以上に細分され,それぞれに「保有者」が存在しているが,保有者に許可を得れば,「他者の森(自身が保有権を持たない森)」で猟が可能である.村びとたちは,特定の森で集中的に猟を行い,獲物が獲れなくなると,祖霊や精霊に祈りを挙げ,「セリカイタフ」と呼ばれる禁制をかけていた.この禁制のかけられた森では,それをかけた者も含め,誰も猟を行う事ができない.それ違反すると,祖霊や精霊が,違反者やその家族に何らかの災厄をもたらしたり,猟を失敗させたりすると信じられている.こうした「超自然的強制」に支えられた資源管理は,監視や制裁に多くの運営費用を必要としないばかりか,ルールの強制過程で生じかねない村民間の軋轢を回避するはたらきをも持っており,「もめごと」を忌避するこの地域の社会文化的文脈に即したものであった.

「緩やかに開かれたなわばり制」と呼び得るマヌセラ村の森の保有制度・利用慣行は,森へのアクセスの不均衡が原因で生じかねない村民間の不和を回避すると同時に,狩猟資源の充実など保全インセンティブを醸成するしくみでもある.また,そうした保全行動の一つであるセリカイタフの実践は,捕獲競争とそれに伴う狩猟圧の上昇,さらには狩猟資源をめぐる紛争を回避する事で,野生動物(狩猟資源)をめぐる人と人,および,野生動物と人の関係の持続可能性を高める事に寄与していることが示唆された.

終章では,山地民と野生動物のかかわりあいに関する総括的な記述を行った上で,「住民主体型保全」の模索・推進のために,保護に関わる外部者に求められる視点について,次の三点を指摘し,その必要性について考察した.

第一に,人びとの「生きがい」を損なう事のない自然保護である.オウムは,必ずしも現金収入源として高く評価されておらず,現金困窮時にその重要性が高まる資源である.したがって,チョウジ収入に替わる安定した収入源を創出するなどの「代替戦略」によって山地民の「現金の必要」が一定程度充足される条件ができれば,オウムの狩猟圧を低下させてゆく事が可能かもしれない.一方,狩猟獣の利用は,人びとの「生きがい」と密接に結びついた営為であるため,そうした「代替戦略」は,保全のための適切な手法とは言えないかもしれない.名実ともに「住民主体」といえる取り組みを実現するためには,保護の対象となっている野生生物資源の利用が人びとにいかなる「生きられた経験」を与えているのかを明らかにし,人びとの「生きがい」を損なう事のない保護策を模索してゆく必要がある.

第二に,「『人間を内に含んだ自然』をまもる自然保護」である.人と自然とを分離し,両者にとって相互排他的な空間を創出する事で自然をまもろうとする「ゾーニングに基づく保全モデル」は,オオバタンのように(第四章),人間をその内に含む生態系のなかで,希少種が保全されているような場合には,必ずしも適切な保全手法とは言えないかもしれない.そのような場合には,野生生物と人の生活域を相互排他的に隔てるのではなく,両者が重なり合う事で生みだされている「野生生物と人との関係性」をまもる事が大切であろう.

第三に人びとの超自然観をふまえた自然保護である.第五章で例証したように,祖霊や精霊といった超自然的存在は,しばしば地域の人びとの生活世界のなかではまぎれもないリアリティであり,野生動物利用を律する規範が作動する場において現実に強い影響力を発揮してきた.このように超自然と真剣に関わって生きて入る人びとがおり,それが実際に自然(資源)や社会の保全に役に立っていると考えられる以上,そうした超自然観を「虚構」などといって切り捨てる権利は誰にもない.祖霊や精霊などと「共に生きている」人びとが主体性を発揮し得る自然保護を進めるためには,地域固有の「人」―「超自然」―「自然」の相互関係を断ち切るような外部からの介入をやめ,祖霊や精霊といった存在とのかかわりの中で資源利用秩序を生み出してきた人びとの営為を理解する事のなかから,望ましい保全策を探ってゆく姿勢が求められるであろう.

審査要旨 要旨を表示する

本研究は,東南アジアと豪州・ニューギニアの間に位置する多島海地域「ウォーレシア」を対象とした稀少な地域研究の成果である。調査対象地はインドネシア東部セラム島内陸山地部のマヌセラ村(人口約320人,2003年)である。そこでは、国家により保護されている「希少」野生動物の利用が、人々の暮らしを支える上で重要な役割を果たしている。研究のオリジナリティは,文化人類学的な長期滞在型フィールドワークの研究手法を用いて,ローカルな文脈に埋め込まれた「動物―人」関係の詳細な民族誌的記述・分析を行ったことにある。

序章では、熱帯の自然保護をめぐる近年の議論をレビューし,次の点を指摘した。(1)地域固有の「人と自然のかかわりあい」の実像が,しばしば保護を推進する「外部者」の一方的なまなざしによって過度に単純化される形で表象されている。(2)そのような偏った地域理解に基づいて推進される自然保護が,しばしば地域固有の「人―自然」関係を断ち切り,より単純化された形にそれを組みかえ、その結果、人びとに様々な「受苦」を強いる可能性がある。(3)熱帯地域で社会的公正を伴った自然保護を展望するためには,地域住民の視点に立脚して「人と自然とのかかわりあい」の諸相を包括的かつ詳細に理解する必要がある。(4)そうした深い地域理解のもとに,「住民主体型保全」のあり方を個別具体的に模索することが必要である。

本研究の具体的な課題は次の通りである。(1) 「保護動物」である狩猟獣とオウムに焦点をあて,それらの利用が山地民の暮らしにいかなる意味を持っているかを明らかにする。(2)「在来農業」および「在地の資源管理」に着目し,「在来知」に基づく山地民の営為が「野生動物―人」関係の持続可能性にいかなる影響を与えているのかを描く。(3)以上をふまえ,熱帯における「住民主体型保全」の模索・推進のために,保護に関わる外部者にいかなる視点が求められるかを提示する。

フィールドワークは2003-2007年にかけて断続的に実施し(滞在期間は正味一年間),すべての聞き取りは申請者が現地語を混ぜながらインドネシア語を用いて行った.

第一章では,調査対象村の概況を述べた.

第二章と第三章では、山地民にとっての野生動物利用の意味を検討した。第二章は、狩猟獣のサブシステンス利用の検討である。ここでは、山地民の「食」を支える上で、クスクスなどの食用狩猟獣の利用が重要な役割を果たしていることを示した。そして、「分配」に着目すると,そのような狩猟獣利用が山地民の「生」の充実と深く関わっていることが示唆された。第三章は,オオムの商業利用の検討である。ここでは、オオバタンなど交易用オウムは,主要収入源である「チョウジ収入」が得られない時に重要性が増す「救荒収入源」であることを示した。そして、オウムへの依存度は主要収入源の多寡など村を取り巻く経済的諸条件に応じて大きく変動することを実証した。

第四章と第五章では、「野生動物保全」に寄与する人々の生業を検討した。第四章は「在来農業」の検討である。ここでは、高いサゴ依存と,土地・植生への半栽培的かかわりあいに特徴づけられた山地民の「在来農業」は、多様な「二次的自然」によって創出・維持されていることを示した。そして、それを媒介として,野生動物と人との間には「緩やかな共生関係」とでもいうべき相互関係が生み出されていることを実証した。第五章は、在地の狩猟資源管理の検討である。ここでは、超自然観と結びついた在地の野生動物(狩猟獣)管理の実態を詳細に描いた。そして,猟場としての森の利用秩序の成り立ちに、人と自然とを媒介する「超自然」の存在が極めて重要な役割を果たしていることを明らかにした.また,そのようにして生み出された森の利用秩序が,「野生動物―人」関係の持続可能性に肯定的な影響を与えていることが示唆された。

終章では,以上の議論をふまえた上で,「住民主体型保全」の模索・推進のために,保護に関わる外部者に求められる視点として、(1)人びとの「生きがい」を損なうことのない自然保護,(2)『人間を内に含んだ自然』をまもる自然保護,(3)人びとの超自然観をふまえた自然保護,の重要性を提示し,その必要性について考察した.

以上のようなオリジナリティと内容を有する本研究は、学術上の貢献のみならず、政策上の貢献も期待できる。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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