学位論文要旨



No 217018
著者(漢字) 戸田,勝久
著者(英字)
著者(カナ) トダ,カツヒサ
標題(和) 武野紹鴎 : 茶と文藝
標題(洋)
報告番号 217018
報告番号 乙17018
学位授与日 2008.09.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17018号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三,洋一
 東京大学 教授 松岡,心平
 東京大学 准教授 櫻井,英治
 東京大学 名誉教授 芳賀,徹
 聖心女子大学 名誉教授 奥田,勲
内容要旨 要旨を表示する

「茶湯正脈」と題された、一枚の文書が軸装されて、多く伝承している。

(一例、「茶人 川上不白」川上宗雪著、平成19年11月4日刊)的々相伝された、茶湯者の安名のみが列記されている。それらは、必ず珠光、紹鴎に始まり、ついで行を替えて、利休となり、以下人脈として継承される。

起筆は、珠光であり、紹鴎、そして利休から、千家歴代に繁る。しかし、珠光と紹鴎には、直接の面晤はない。珠光の歿年とされる、文亀2年 (1502)に、紹鴎は生まれている。珠光の生年は不明だが、忌日も厳密な資料検索は果たされていない。

金春禅鳳の「禅鳳申楽談儀」(「日本思想大系23」岩波書店)にある「珠光の物語とて、月も雲間のなきは嫌にて候、これ面白く候」とあるのが、唯一、芸道に関聯する場面での「珠光」の実在を示している。客観性を有する手懸かりであり、その余は、茶の場という限定世界の伝聞にすぎない。さらに珠光の血脈も後継者とされる、村田宗珠を以って、茶の湯世界では衰退する。

茶の湯に於て、最初に歴史資料的にその実在を明確にするのが、武野紹鴎であり、その影響下に、千利休、津田宗及、今井宗久など、何れも環濠貿易都市、堺を背景として、政治性の濃厚な商人でもある、茶湯者を輩出して、茶の湯文化を結実させた。

紹鴎の存在を証明する、歴史資料の第一に「實隆公記」(「續群書類従完成会」刊)をあげることが出来る。

「實隆公記」に記載されている紹鴎(新五郎)の項目を全て摘出した。紹鴎研究は、この記録の中から始る。この日記の筆者、三條西實隆との出会が、武野紹鴎を成立させる。即ちこれが、茶の湯文化の淵源となる。

紹鴎は實隆から、和歌、連歌の実作を学んだ。軸装短冊、写本「紹鴎家集」(祐徳文庫蔵)、實隆の歌日記「再昌草」(桂宮本叢書)などが伝わる。また同時に伊勢物語、三代集などの講筵に列したが、とりわけ、享禄3年 (1530)3月21日の項にある「詠哥大概一巻遣武野」の文字が重い。

その實隆邸で同座した、周桂、宗牧、宗碩などの連歌師の謦咳に接することを得た。そして、實隆への夥しい金品の寄贈である。堺における武野家の財力の卓越を物語る。これが後年の、中国美術品蒐集の資力を担保している。精神主義的な傾向の強い「侘茶」の背後にある。豊饒を保証している。

實隆から与えられた、定家の「詠哥大概」が、茶の湯と我国独自の文芸との、結節点となり、茶の湯を単なる、喫茶の領域から跳躍させ、独自の文化を形成させることになる。当然その基盤には、日常的な飲茶が不可欠だから、生活を指導するし、独自の美意識を誕生させた。茶の湯が、割烹の技術、食事の作法をその傘下に治めたことが重要である。

生活は家庭を場とするから、各家の個性と密着する。家の在方、姿勢と共存している。茶の湯は、それぞれの家の文化としての側面を有している。そこに、個性的な人間の誕生が参入してくる。紹鷯にとって、嗣子の宗瓦、孫の宗朝の出現が重い。彼らの總体が茶の揚を形成する。一代では完結しないのが、特性である。武野家の系譜資料として巻物系図の他に、宗朝自筆の「牌上二書ス」とする、自己の主張を掲げた。

利休は、孫に宗旦を得て、その茶の湯を結実させる。裏千家で云えば、16代の現在に至る血脈の世代を逆に辿り、なぞることで、利休の茶の全身像を知ることが出来る。利休が、日本文化を象徴する由縁もそこにある。千家は芸能の家ではなく、歴代も西欧的概念の芸術家として位置づけられていない。(茶の湯から芸術院会員は出ていない)

武野家の歴史を解明することで、家の文化としての茶の湯の独自性を問いたいと心掛けて来た。千家との対比に於て捕捉すれば、茶の揚を立体化し、その独自性を認識することが出来る、と思った。

日本家屋における、床の間という室内の場の設定は、巻物ではなく、軸装された掛物を鑑賞する、茶の湯空間、展示スペースとして考え出された。この要点は、恒常的に飾物を数多く置くのではなく、その時の状況に対応した只一点を取替えることで、来客への持成とする。

中国禅僧の書跡、唐絵に占居させるのではなく、紹鴎が定家の小倉色紙を用いた所に、和の文芸を日常の中で享受する、革命的な、生活空間の充実が果たされた。そこはまた、立華ではなく投入れの花を楽しむことで、人格の陶冶を促進した。紹鴎の消息文が表具されていることは、人格への敬慕と共に、日常品の贈答、来往など生活に密着した、茶の湯の特性を際立たせている。

茶の湯の点前が、夏季(5月~10月)は、風炉を用い、冬季 (11月~4月)は炉を開ける、という仕分は、現代の仕様であるが、点前の成立の経緯としてみれば、台子を用いる式正の風炉が先行し、囲炉裡から発想された。日常の生活に炉の形が馴染んでいった。

この炉の形状に八炉(半分は逆勝手であるから、実際は4通りとなる)があって、これらは何れも、四畳半を含まない、小座敷 (原則として)に切られる。(台目切、向切、隅炉、出炉)これら小座敷での点前は、炉の場合、4通りであるが、此処に風炉を置けば、全て同一の点前になる。

このことは、茶の湯の点前が、小座敷の炉に、重要度が加味され、千家流では、唐物の入らない、佗茶の舞台となる。より修練された、点前をして客に対応することを主眼とする。そこは、高価な茶道具の展観場に非ず、という思想である。

「紹鴎の袋棚」に紙幅を割いてきたのは、この大棚には、風炉は入らず、炉に専用される。台子、及台子、大棚、水指棚の進化展聞の中で、大棚 (紹鴎棚)の占める意義は、紹鴎によって、茶の湯が台子 (唐物偏重)から、小座敷の茶の湯に移項する、分岐点となった所にある。そこに、「紹鴎の袋棚」(四畳半に適する)にこだわる理由がある。

茶の湯で形物とよばれている、小道具、釜、棗、篭、或いは棚 (大・小)即ち、紹鴎好、紹鴎形など、これも、紹鴎を以って嚆矢とする。これが日常の生活用具を豊潤にするし、工芸作家の育成に寄与した。珠光には、それがない。

紹鴎の茶の湯思想を探る資料として、「佗の文」が知られていた。しかし、この文章の典據が暖昧のため、寄付けないできた。東北大学図書館狩野文庫の速水宗達自筆稿本「卑言類聚」の中に「紹鴎利休二をくりしふみ」として、「佗の文」が収録されていることを発見し、同時に川上不白の自筆が軸装されていることも確認した。

高名な二人の茶湯者の保証を得て「佗の文」を紹鴎に繁る文書として議論することが出来た。同様に「紹鴎門弟への法度」も、松平不味が整文し「紹鴎の十箇條」とて板額装されている。これ以上の典據を求めることは、今の段階では困難であろう。しかし、猶、今後の博攫も心掛けたい。

茶道史の上で、速水宗達ほどの碩学が、自筆で「紹鴎利休二をくりしふみ」と書いている事実は、紹鴎と利休との直接交渉を訝る向きに、頂門の一針となるだろう。この世界では、一流の茶易者の歴史の中での、伝承と認識が優位であって、零本の些末な言葉遣いや、考証の届いていない文書を以って、王道を歪めることは出来ない。

紹鴎の名を千家の歴史の中で高揚し、不朽のものにしたのは、宗旦であった。嫡子の江岑が紀州徳川家に仕官を成就した、寛永19年(1642)に、謝礼として、紹鴎の「浅茅」銘の茶杓と、利休の大脇差建水を奉献している。紹鴎、利休の連繋を強調しているし、一方が人格を具える茶杓であるのに対し、名物とは云え家祖の利休は、水屋道具に等しい建水と謙退している。

紹鴎の門下には、利休に拮抗する、津田宗及があった。利休の風体に屈服していない宗及の次子、江月宗玩の存在が重い。江月の龍光院(密庵床の席を持つ)、孤蓬庵 (小堀家の菩提所)は、深く連動している。即ち小堀遠州には、利休、織部、遠州という茶系とは別に、紹鴎、宗及、江月、遠州の秀抜した回路が、開通していた、と云える。

近世の茶の湯を二分する。宗旦と遠州は、共に紹鴎をそれぞれの理解に於て、吸収し展開した、と云える。或いは、紹鴎の存在は茶の湯理論の構築の上からみれば、利休より重いのである。

阿弥号を持った、半俗学僧の学芸、技芸に携わる人達の風体、世間への対処の仕方が、この国の「芸術家」の素性を決定づけた。それは、能、絵画、庭園、聞香、生花、書芸、喫茶の各分野に及ぶが、とりわけ、学問、文芸を生業とする連歌師こそが、祖型としての役割を演じる。彼らは、室町時代に陸続として輩出して、後代に決定的な影響を与えた、と云える。連歌師達に、照明をあてることで、本論の結びとした。

審査要旨 要旨を表示する

戸田勝久氏は、裏千家戸田即日庵(東京日本橋所在)に生まれ、五代にわたる茶の湯の家の跡を継いで活躍する茶道家で、かつ茶の湯の歴史を研究している篤学の士であって、学術研究書としてはすでに『武野紹鴎研究』(中央公論美術出版、昭和44年)を上梓した実績をもっている。

戸田氏の提出した論文『武野紹鴎 茶と文藝』は、大きく(1)「侘び茶とは何か」、(2)「紹鴎遺文考」、(3)「紹鴎余滴」、(4)「連歌師たちの茶の湯」の四部からなり、付篇として「〔史料紹介〕杉木普斎筆「紹鴎棚傳」」が添えられている。

(1)「侘び茶とは何か」は、さらに「茶道の調和と戦い」「珠光と紹鴎の間」「紹鴎を基点として考える」「侘び茶の人脈をたどる」「侘び茶の成立と連歌」の五章からなる。冒頭の「茶道の調和と戦い」においては、茶の湯の始祖とされる村田珠光(一四二三~一五〇二)、侘び茶の元祖とされる武野紹鴎(一五〇二~五五)、大成者とされる千利休(一五二二~九一)を中心に据えて、茶の湯の成立する背景として鎌倉末期・南北朝時代の武家の気風から、唐物珍重や藝能愛好の室町時代へという時代的展望のもと、一休を代表とする大徳寺の臨済禅や藤原定家を崇拝する歌僧正徹の歌論などが、珠光や紹鴎へと注ぎこまれる文化伝統をさぐり、江戸初期の小堀遠州(一五七九~一六四七)や細川三斎(一五六三~一六四五)らをしかるべく位置づけ、徳川将軍家の柳営茶道を導いた片桐石州(一六〇五~七三)の石州流まで、茶道が成立し展開するまでの歴史を描き出す。

「珠光と紹鴎の間」では『烏鼠集四巻書』『山上宗二記』など、なるべく古い資料のみにもとづいて、紹鴎の伝記に即した師承関係の系譜をさぐり、利休以前の茶の湯のありようを考察しており、「紹鴎を基点として考える」では、遠州には利休→古田織部→遠州という利休の侘びを継承した系譜があるほかにも、紹鴎の侘び茶に含まれる装飾性、文学性、器物偏重志向を受け継ぐ紹鴎→津田宗及→江月宗玩(宗及の次男)→遠州という系譜を新たに掘り起こす。

(2)「紹鴎遺文考」は、紹鴎の作とされる二つの作品、「十箇條の法度」と「侘びの文」についての注釈的な考察である。前者においては「紹鴎門弟への法度」十二箇条と松平治郷(号不昧。一七五一~一八一八)筆「紹鴎の十箇條」とを比較し、不昧の解釈をも読み取りつつ、紹鴎の功績の大きさを論じており、茶器名物への銘直書付けや茶掛けにおける墨跡から和歌へなどの功績を指摘し、三条西実隆のもとで和学を身につけたことが重要で、とりわけ定家『詠歌大概』を拝受し定家色紙を好んだことにつき、広く時代的・文化的にさまざまな系譜を重ね合わせて考察する。ただし、せっかく川上不白筆「紹鴎侘之消息」の写真版を掲載しながら、これを活用していないことが惜しまれ、また歌人・連歌作者・能作者の発言のほかにも、謡曲の詞章の影響がありそうなことも指摘された。後者の「侘びの文」では注釈的な考察に加えて、戸田氏の発見になる東北大学附属図書館蔵の速水宗達(一七三九~一八〇九)自筆『鬼言類聚』所載「紹鴎利休ニをくりしふみ」の親本の素性や伝来についても探索する。ここでは、不昧流の治郷や速水流の宗達として茶道史に名を残す両名が、それぞれの作品を紹鴎の遺文として尊んだ心の機微を捉えることに成功している。

本論文において中心となるのは(1)と(2)であるが、(3)以下についても簡単に触れると、(3)「紹鴎余滴」の中の「茶書のなかの紹鴎」は、最も古い茶書三点から紹鴎を論じる際に根幹となるべきその親族、師筋、侘び茶の理念思想、所作風躰を取り出してまとめ、「紹鴎と好雪片々と」は、紹鴎の道号が黄庭堅の詩にあり、大林宗套(一四八〇~一五六八)がこれを授けたという『堺市史』の提言をめぐる考察で、子孫である宗朝の考証的な資料を排して、大林の師筋の古岳宗亘(一四六五~一五四八)による授与と考え、紹鴎の侘び茶のよりどころを実隆と古岳に求め、古岳による感化を高く評価する。(4)「連歌師たちの茶の湯」は茶の湯とかかわりのありそうな正徹・能阿弥・専順らから紹巴まで十二名の略伝をまとめたものである。

審査委員からは、考察の対象を古い資料に限り、それぞれの偏向性をも吟味したうえで論じる学問的な姿勢は高く評価するが、それでも、どうしても後代の伝承を手がかりとせざるを得ない側面についてなお疑問が残るとされたほか、連歌という座の文芸そのものと茶の湯との本質的なかかわりについての考察がやや弱いという意見があり、また、展望的な論述は時代状況としての文化や学藝の雰囲気をよく伝えているが、紹鴎への決定的な影響を見るには詰めの部分に甘いところがありはしないかとか、「侘び」にこだわるよりも、『詠歌大概』の「情は新しきをもつて先とし、詞は旧きをもつて用うべし」や定家の「いつはりのなき世なりけり」の歌の、侘び茶の精神への影響を掘り下げる必要があったのではないか、という指摘もあった。紹鴎を実隆に引き合わせた「印政」という経歴不明の人物については、近年完成した連歌データベースで検索すると、周桂と肩を並べる連歌作者と見られる、という新事実の指摘も審査委員からなされた。

以上、歴史学や連歌史・能楽史の側から有益な指摘がなされたが、いずれも本論文の価値を損なうものでなく、従来の研究を一歩も二歩も進めたという高い評価を得た。よって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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