学位論文要旨



No 217024
著者(漢字) 森,一郎
著者(英字)
著者(カナ) モリ,イチロウ
標題(和) 死と誕生 : ハイデガー・九鬼周造・アーレント
標題(洋)
報告番号 217024
報告番号 乙17024
学位授与日 2008.10.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17024号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 関根,清三
 東京大学 教授 竹内,整一
 東京大学 教授 熊野,純彦
 東京大学 准教授 榊原,哲也
 日本女子大学 教授 田中,久文
内容要旨 要旨を表示する

本論は、「誕生」と「始まり」についての哲学的研究である。

生の終わりとしての死については、古代以来考察が積み重ねられてきたし、現代でも議論は盛んである。これに対し、生の始まりとしての誕生については、これまで必ずしも取り上げられてこなかった。本論はその欠落を補うべく、誕生の問題に焦点を当て、かつそこから発して、始まりについて原理的に考える可能性を探ろうとする。だからといって、死と終わりの問題が軽視されてはならない。メインタイトルに示されているように、死と誕生は――ひいては終わりと始まりは――あくまで一対のテーマとして論じられるべきである。

サブタイトルから窺えるように、本書は、死の問題にこだわったマルティン・ハイデガーの思索を踏まえつつ、ハンナ・アーレントの「誕生の哲学」の意義を明らかにしようとする。また両者の間に、偶然性の哲学者、九鬼周造を差し挟む。誕生とはまさしく偶然事だからである。ハイデガーから刺激を受けて九鬼の展開した偶然論は、同じくハイデガーに学んだアーレントの打ち出した出生論および行為論と、事柄として結びつく。三者を交差させつつ、誕生と始まりの問題を掘り下げることが、本書の狙いである。

序説「始まりへの存在」は、第一部と第二部の雛形であり、誕生と始まりの思索のためのウォーミングアップである。九鬼が探り当てた「弥蘭の問い」は、出生の偶然をめぐるものであった。この問いを導きの糸として、誕生という始まりの孕むのっぴきならなさに目を向ける。誕生はなるほど一つの「新しい始まり」であるが、それが苦しみの種となることもある。人類は古来この「生まれ出づる悩み」を克服しようとしてきた。「第二の誕生」が求められるのは、たんなる新しさ志向ゆえではなく、この世に偶然生まれ落ちた者たちがおのれの世界内存在をいかにして肯定しうるかが、そこに賭けられているからなのである。始まりに関するそうした批判的考察を通じて、「出生の偶然」というテーマが、九鬼とアーレントの思考のみならず、『ミリンダ王の問い』と『ヨハネによる福音書』に跨がるほどの人類に普遍的な関心事であることが、明らかとなる。

第一部「被投性・偶然性・出生性」では、ハイデガー、九鬼、アーレントの三者が三様に取り組んだ根本概念をテーマに据え、それらの相互連関を浮かび上がらせる。

第一部第一章「偶然のいたずら――九鬼」では、ハイデガーとの出会いによって九鬼が幗んだ「偶然性の問題」に焦点を当て、ハイデガーと九鬼との哲学的対決がこの問題をめぐっていたことを明らかにする。九鬼の同名の主著が主な題材となるが、この書のもつ哲学史的な視野の広さに応じて、題材は多岐にわたる。とりわけ、ハイデガーと九鬼とを繋ぐ糸としてアリストテレスの偶然論が取り上げられ、アウトマトン(自動)とテュケー(運)が積極的偶然として際立たせられる。『自然学』の運動原因論に挑もうとした若き日のハイデガーの初志を、ひそかに受け継いでいるのが九鬼の偶然論であった、というのがわれわれの見立てである。被投性の掘り下げとしての偶然性の主題化は、事柄にふさわしく、歴史的生起の動性への問いへと投げ返される。

本論全体とサブタイトルを共有し、かつ第一部の総タイトルを言い換えた第一部第二章「生起・出会い・始まり――ハイデガー、九鬼、アーレント」は、内容的に二つに分かれる。三者を仮想的に鼎談させることで、現実的なものの根底に「無限にありそうもなかったこと」がひそんでいることを浮き彫りにしようとする。

前半部(第一~三節)のテーマは、「ハイデガーと誕生の問題」である。『存在と時間』とその直後の時期にハイデガーが手がけた歴史についての省察に、出生と偶然をめぐる問いが萌していたことを確認する。可能性としての死とその必然的様相を重んじたハイデガーにおいては必ずしも展開されずに終わった出生性と偶然性の問題を、アーレントと九鬼はそれぞれ独自に引き継いだのだった。以上を受けて、後半部(第四、五節、まとめ)では、相まみえることのなかったアーレントと九鬼の思索が、「出生の偶然」という共通テーマにおいて、思いがけなくも落ち合うことを示そうと試みた。両者のそのような結び合わせから、何気ない現実性のうちにひそむ偶然性と奇蹟性を、ひいては〈いのち〉の孕む「おのずから」の自動性を、生まれ出づる者どものたまさかの出会いから生ずる始まりの出来事性にそくして解き明かす。

第二部「死と誕生」は、表題から明らかなように、本書の中心をなす。全体として、ハイデガーとアーレントとともに「終わりと始まり」の思考に習熟する試みである。

第二部第一章「死すべき者ども――ハイデガー」の狙いの一つは、『存在と時間』の死の分析が、豊かな再読可能性をなお有していることを示す点にある。それとともに、ハイデガーによって提起された死の実存論的概念が、戦争やテロルといった、強い意味での政治哲学的な問題次元へと通じていることを明らかにし、ひいては現代における実存思想の再生に資することを目指す。まず、「死への存在」という概念の射程を明らかにすべく、その論理をハイデガーに内在的に辿り直したのち、ホッブズの自然状態論と交差させる。ここに「可死性と複数性」というテーマが浮上する。『存在と時間』のほうから『リヴァイアサン』を読み直してみることで、「死すべき者ども」の複数性にひそむま禍々しさが、可能的な「戦争への存在」という様相において露わとなる。自然状態=戦争状態における「弱さの平等」を、可死性という実存規定のほうから透かして見ると、テロリズムを生んだ近代精神の系譜を辿るうえでの有力な手がかりが見出されるのである。

可死性から転じて出生性を扱う第二部第二章「生まれ出づる者ども――アーレント」も、二つに分かれる。ここでは「出生性と複数性」がテーマとなる。まずはアーレントの出生性概念の由来を見届け、次いで古来の物語に題材をとって、約束をし、守るという共同行為の始まり性格と、そこにひそむ困難について考えていく。

前半部(第一~三節)は「アーレントと誕生の問題」を扱い、彼女の「誕生の哲学」の出生地たるアウグスティヌス解釈に焦点を当てる。まず、アーレント独自の出生性の概念が、可死性というハイデガー的モティーフを正面から受け止めることを通じて成立した事情を、アーレントの処女作『アウグスティヌスにおける愛の概念』とその後年の英語版の試みから明らかにする。またその読解を通じて、「被造性」という伝統的観念が――完了性を特徴とする被制作性と異なり――、始まりの自由を意味する人間的行為の条件、つまり出生性として捉え返されたことが判然となる。始まりには第一の始まりとあらたな始まりという両義性が具わること、終わりと始まりは先駆と遡行という二重の志向において共属すること、始まりへの存在とは「始まりの記憶をもつ存在」であること、が示されてゆく。序説以来の「誕生の宗教としてのキリスト教」理解も、ここでふたたび問題となる。

本論全体を締めくくる後半部(第四~六節)は、「始まりとしての約束」をめぐって展開される。「約束」は、『人間の条件』で「赦し」とともに際立った活動とされており、やはりアーレントとともに思索する試みだが、題材はヨリ広く採られる。不自由を意味するかに見える約束という相互行為が、人間的自由の証しでありうるのはいかなる意味においてか、が導きの問いとなる。約束をめぐるギリシア悲劇『ヒッポリュトス』との対比において、旧約聖書の核心をなすアブラハム物語を取り上げる。イサク奉献の血腥いドラマは、約束という行為がその複数性ゆえに孕む不如意性を暗示するものであるということを、ニーチェ『道徳の系譜学』中の約束論をも参照しつつ示した。始まりの記憶があらためて問題として浮上するが、それはここでは、始まりとしての約束の相互確認として反復される共同行為である。最後に、ハイデガーの「時間性の時熟」という考え方を下敷きに、約束と赦しの示す「始まりの時間性」が、複数的な脱自性と地平性に鑑みて輪郭を描かれる。始まりの時間性とは、行為の瞬間における既在性と将来の同時生起のことを謂う。その複数性における時熟が、九鬼の「独立なる二元の邂逅」という偶然観を遡示することを確認して、ひとまず本論は閉じられる。

審査要旨 要旨を表示する

M・ハイデガーの死をめぐる考察との批判的な対論を基盤に、九鬼周造の偶然論の読解を踏まえ、H・アーレントの「誕生の哲学」に示唆を得た思索へと展開する本論文は、従来生の終わりとしての死に比し等閑に付されがちであった、始まりとしての誕生についての考察を、哲学史的に補完し体系的に深化しようとする、広い視野と創見に富む労作である。

序説「始まりへの存在」は、出生の偶然と不平等にまつわる『ミリンダ王の問い』と『ヨハネによる福音書』、それらにまつわる九鬼とアーレントの問題意識を確認しつつ、「生まれ出づる悩み」を克服しようとして、新生としての「第二の誕生」が求められる所以を明らかにする。

第一部「被投性・偶然性・出生性」は、ハイデガー、九鬼、アーレントそれぞれの根本概念とその連関を論ずる。

まず第一章「偶然のいたずら――九鬼」は、若き日のハイデガーと、その初志を受け継いだと思われる九鬼、両者によるアリストテレスの偶然論解釈を取り上げ、アウトマトン(自動)とテュケー(運)を積極的偶然として詳細に読み解く。その結果、被投性の掘り下げとしての偶然性の主題が、歴史的生起の動性への問いとして確認される。

第二章「生起・出会い・始まり――ハイデガー、九鬼、アーレント」は、現実的なものの根底に「無限にありそうもなかったこと」がひそんでいることを浮き彫りにする。

前半部(第一~三節)は、ハイデガーにおいて既に、出生と偶然をめぐる問いが萌していたことを確認する。しかし展開深化されずに終わったこの問題を、アーレントと九鬼がそれぞれ独自に引き継いだ経緯が明らかにされる。それを受けて、後半部(第四、五節、まとめ)では、相まみえることのなかったアーレントと九鬼の思索が、「出生の偶然」という共通テーマにおいて、落ち合うことを示そうとする。両者のそのような結び合わせから、何気ない現実性のうちにひそむ偶然性と奇蹟性が、ひいては〈いのち〉の孕む「おのずから」の自動性が、生まれ出づる者どものたまさかの出会いから生ずる、始まりの出来事性に即して、解き明かされてゆく。

第二部「死と誕生」は、ハイデガーとアーレントとともに「終わりと始まり」の思考を展開して、本書の中心部を形成する。

第一章「死すべき者ども――ハイデガー」は、死の実存論的概念が、戦争やテロルといった政治哲学的な問題次元へと通じていることを明らかにする。特にホッブズの自然状態論と交差させて、テロリズムを生んだ近代精神の系譜の一端を明らかにする。

第二章「生まれ出づる者ども――アーレント」は、前半部(第一~三節)で「アーレントと誕生の問題」を扱い、彼女の「誕生の哲学」の出発点であるアウグスティヌス解釈に光を当てる。始まりには第一の始まりとあらたな始まりという両義性が具わること、終わりと始まりは先駆と遡行という二重の志向において共属すること、始まりへの存在とは「始まりの記憶をもつ存在」であること、が示されてゆく。

本論全体を締めくくる後半部(第四~六節)は、「始まりとしての約束」をめぐって展開される。ギリシア悲劇『ヒッポリュトス』との対比において、旧約聖書のアブラハムによるイサク奉献物語を取り上げ、約束という行為がその複数性ゆえに孕む不如意性を暗示するものであるという読解を呈示する。そして約束と赦しにおいて輝き現われる、相互拘束と相互解放の共同実存的自由が、第二の誕生への存在としての人間に可能となることが展望されて、本論は閉じられるのである。

本論文は、古代の文献に関しては、哲学的考察に焦点を絞り過ぎて歴史学的な資料説との対応への顧慮を欠くなど瑕疵がないわけではないが、死に比し論じられることが少なかった誕生についての思索を、哲学史に補おうとする独創的な着眼点を持ち、その着眼を広汎な文献についての精細で新鮮な読解を積み重ねつつ、周到に展開した学的達成である。

それゆえ本審査委員会は、この論文が博士(文学)の授与に十分に値するとの結論に達した。

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