学位論文要旨



No 217025
著者(漢字) 田中,公明
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,キミアキ
標題(和) インドにおける曼荼羅の成立と発展
標題(洋)
報告番号 217025
報告番号 乙17025
学位授与日 2008.10.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17025号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 斉藤,明
 東京大学 教授 末木,文美士
 東京大学 教授 下田,正弘
 東洋文化研究所 教授 永ノ尾,信悟
 種智院大学 学長 頼富,本宏
内容要旨 要旨を表示する

平安時代の初めに伝教大師最澄、弘法大師空海によって我国に伝えられた曼荼羅は、日本の仏教図像の根本として尊重されただけでなく、その文化全般にも大きな影響を与えてきた。日本における曼荼羅研究は、両界曼荼羅の伝来より、1200年の歴史を有している。とくに平安中期から鎌倉初期にかけては、事相・図像の研究が高揚し、両界・別尊曼荼羅について多数の文献が撰述された。その後、鎌倉・室町・江戸と時代が下がり、密教への社会的需要が減退すると、曼荼羅の研究も停滞するが、明治に入ると、西洋の科学的方法を導入し、批判的な仏教研究がはじまった。

そして日本伝来の曼荼羅については、1960年代から70年代にかけて、優れた研究が陸続として発表された。とくに石田尚豊博士の『曼荼羅の研究』(東京美術、1975年)は、日本の曼荼羅研究史上、最も重要な著作といってよい。同著によって日本伝来の両界曼荼羅の研究は、大きな峠を越えたといっても過言ではない。

これに対して本論文は、石田博士が視野に含めなかった仏教の故国インドに目を向け、同地で5~6世紀頃に曼荼羅の原形が現れてから、仏教が衰亡する直前に成立した『時輪タントラ』(10世紀末~11世紀前半)に至るまでの、曼荼羅の成立と発展の歴史を解明することを目的としている。

その構成は、曼荼羅の成立と歴史的発展を解明する第1部「研究篇」と、筆者がサンスクリット原典を発見した重要文献の解題とローマ字化テキストを収録した第2部「文献篇」からなっている。

このうち「研究篇」第1章「曼荼羅の成立」では、古代から礼拝像に見られた三尊形式が、曼荼羅の原初形態へと発展し、鳥瞰的な風景描写を伴った礼拝用の仏画(パタ)から、幾何学的なパターンをもった曼荼羅が出現するまでのプロセスを解明する。初期の曼荼羅は釈迦・観音(蓮華手)・金剛手の三尊形式から発展した単純な三部構成であった。そこには後世の曼荼羅を特徴づける幾何学的パターンはなく、諸尊の集会する楼閣や道場を鳥瞰的に描いた叙景曼荼羅であった。しかし初期密教経典の『宝楼閣経』では、すでに礼拝用仏画と曼荼羅の分化が始まっている。

これに対して『文殊師利根本儀軌経』では、叙景曼荼羅のような内院に、ヒンドゥーの神々を配した三重の外院が巡らされ、幾何学的な曼荼羅への一歩が踏み出された。そして『大日経』所説の胎蔵曼荼羅は、三尊形式から発展した三部立ての曼荼羅が、さまざまな試行錯誤を経てたどり着いた最終的到達点である。第2章「胎蔵曼荼羅の成立」では、複雑な構造をもつ胎蔵曼荼羅が、原始的な叙景曼荼羅から、どのように発展してきたかを解明する。胎蔵曼荼羅では、上部(東)に仏部、向かって左(北)に蓮華部、右(南)に金剛部の尊格を配した内院の周囲に、釈迦如来とその教化を受けたヒンドゥーの神々を描く第二重、文殊を中心にブッダの教説を聴聞する対告衆の菩薩たちを集めた第三重が巡らされた。これら三部の諸尊を、画面上部と左右に配する三部立ての曼荼羅は基本的には左右対称であったが、画面下部には本来、ヒンドゥーの神々を描いていたので、上下左右完全対称の画面を構成するのには無理があった。

これに対して金剛界曼荼羅は、従来にない五元論の体系を導入した新しい曼荼羅の革命的出発点ともいうべきものであった。しかしこの画期的なシステムは、一日にして成ったものではない。第3章「『理趣経』の曼荼羅」では、金剛界曼荼羅の五元論の源流となった『理趣経』の曼荼羅を概観する。『理趣経』と『初会金剛頂経』の成立の先後については従来から議論があったが、本論文では文献・図像の両面から、『理趣経』が『初会金剛頂経』に先行し、『理趣経』系の発展によって金剛界曼荼羅が成立したことを論じている。『理趣経』の曼荼羅は、経典所説の教理命題を尊格化するという画期的な特徴をもっていた。その初段は17、それ以後の各段は4あるいは5の教理命題から構成されていたため、上下左右完全対称の曼荼羅が容易に構成できた。しかし『理趣経』の発展形態である『理趣広経』でも、その構成は、仏部・蓮華部・金剛部の三部に宝(摩尼)部を加えた四部が基本で、羯磨部を加えた五部立ての曼荼羅の完成は金剛界曼荼羅を待たねばならなかった。

そして第4章「金剛界曼荼羅の成立」では、五元論を特徴とする金剛界曼荼羅を取り上げる。金剛界曼荼羅は、諸尊を如来・金剛・宝・蓮華・羯磨の五部に分類し、五部の諸尊を中央と東南西北に均等に配することにより、上下左右完全対称の曼荼羅を作り上げた。またこの五部は、相互に包摂しあうことにより二十五部・百部・無量部へと展開する。この互相渉入思想により、『初会金剛頂経』は、これまでの密教で厖大な数に達していた尊格・印・真言陀羅尼・三昧耶形などを、体系的に分類整理することに成功した。なお金剛界曼荼羅を説く『金剛頂経』は真言八祖の一人、龍猛(ナーガールジュナ)が南天鉄塔で感得したものといわれる。同章[12]では、謎に包まれていた金剛界曼荼羅成立のプロセスを明らかにするとともに、大村西崖・栂尾祥雲の論争以来の懸案となっていた南天鉄塔の謎を解明する。

その後インドでは、『金剛頂経』系の密教がさらに発展して後期密教の時代に入る。第5章「『秘密集会』曼荼羅の成立」では、後期密教の曼荼羅理論を確立した『秘密集会タントラ』とその曼荼羅を、聖者流・ジュニャーナパーダ流の二大解釈学派を中心に考察する。『秘密集会』は、基本的に『金剛頂経』系の五部を基本としながら、曼荼羅の諸尊に、五蘊・四大・十二処を配当する「蘊・界・処」説を導入した。これによって限られた尊数で、世界のすべてを象徴する曼荼羅理論が成立したのである。そしてインドでは9世紀以後、『秘密集会』系の密教が発展し、無上瑜伽父タントラと呼ばれる一連の聖典群が成立する。

いっぽうインドでは、これとあい前後して、無上瑜伽母タントラと呼ばれる聖典群が出現し、父タントラ以上に隆盛を極めることになる。第6章「母タントラの曼荼羅」では、従来謎に包まれていた母タントラの起源を、チベット訳のみ現存する最古の母タントラ『サマーヨーガ・タントラ』にまでたどり、その曼荼羅の発展過程を考察する。『サマーヨーガ』は『理趣広経』から発展したが、母タントラのより発展した体系である『ヘーヴァジュラ』『サンヴァラ』には、『秘密集会』系の「蘊・界・処」説が取り入れられた。また『サンヴァラ』系は、曼荼羅の諸尊に三十七菩提分法を配当する解釈に特徴がある。

さらにインドでは10世紀から11世紀にかけて、父母両タントラを統合する気運が興り、その成果は、インド最後の仏教体系『時輪タントラ』に結実する。第7章「『時輪タントラ』の曼荼羅」では、『時輪タントラ』が、父母両タントラの曼荼羅をどのように統合し、空前絶後の一大密教体系を構築したのかを紹介する。このように『時輪タントラ』は、インドで歴史的に最後に現れた仏教聖典であるだけでなく、1700年に亙るインド仏教発展の総決算の地位にあった。そしてその体系を図示したものこそ、身口意具足時輪曼荼羅に他ならない。『時輪』は、『秘密集会』系の「蘊・界・処」説に業根とそ働きを加えることにより、我々の経験する世界のすべてを象徴するシステムを作り上げた。それはまた、我々の経験する世界の根底にある主客の二元対立が、究極的には虚妄であることを示すものでもあった。

そして「研究篇」の末尾には、終章「インドにおける曼荼羅の展開とその思想的意義」を置いた。その前半では、インド後期密教時代に成立した『ヴァジュラーヴァリー』と「ミトラ百種」曼荼羅集を中心に、曼荼羅の歴史的展開が、最終的にどのような種類と形態の曼荼羅を生み出したかを考察する。さらに終章の後半では、曼荼羅の思想的解釈を考察する。この中で筆者がとくに重視したのは、『秘密集会』系で発生し、母タントラから『時輪』にまで継承された「蘊・界・処」説である。そして最後に、インド密教が、この「蘊・界・処」説を用いて、限られた尊数で世界のすべてを象徴する曼荼羅理論をどのように構築したかを紹介した。

このように曼荼羅は、当初は礼拝像の一形式に過ぎなかったが、尊格に教理を当てはめることで思想との結びつきを強め、ついには仏教の思想を表現する一大宗教芸術となった。インド仏教1700年の歴史の最後を飾る密教の600年は、曼荼羅発展の歴史でもあったといえるのである。

本論文では、サンスクリット校訂テキストが刊行されている密教文献は、これを引用・参照したが、『秘密集会』聖者流の『秘密集会曼荼羅儀軌二十』と、ジュニャーナパーダ流の『普賢成就法』は、曼荼羅の歴史的発展を論じる上で、きわめて重要であるにもかかわらず、いままでサンスクリット写本が発見されていなかった。そこで本論文「文献篇」には、筆者がネパール留学中に発見した『秘密集会曼荼羅儀軌二十』と著者不明の『普賢成就法』のサンスクリット註の写本の解題とローマ字化テキストを収録した。また『普賢成就法』註については、和訳も収録した。本論文「研究篇」とあわせて参照されたい。

審査要旨 要旨を表示する

日本における曼荼羅研究は、平安時代初期の両界曼荼羅の伝来以降、およそ1200年の歴史をもつ。1960年代からは佐和、高田、柳澤、石田、頼富、立川氏らによる研究が公にされ、とくに石田尚豊氏の『曼荼羅の研究』(1975)は、日本伝来の両界曼荼羅に関する最も重要な成果といえる。これに対して本論文は、従来の研究が視野に収めえなかった曼荼羅誕生の地インドに目を向け、同地で5~6世紀頃に原形が現れてからインド仏教の衰退期に登場した『時輪タントラ』(10世紀末~11世紀前半)に至るまでの、およそ600年に及ぶ曼荼羅の成立と発展の歴史を解明することを目的とする。

第1部「研究篇」の第1章「曼荼羅の成立」は、古代から礼拝像に見られた三尊形式が曼荼羅の原初形態へと発展し、鳥瞰的な風景描写を伴った礼拝用の仏画から、幾何学的なパターンをもった曼荼羅が出現するまでのプロセスを解明する。釈迦・観音・金剛手の三尊形式から、さまざまな試行錯誤をへてたどり着いた到達点が『大日経』所説の胎蔵曼荼羅であること(第2章)、これに対して金剛界曼荼羅は、新たに五元論の体系を導入した画期的な構成をもつことを、氏は歴史的、図像学的な視点から明かにする(第3、第4章)。

とくに従来から議論があった『理趣経』と『金剛頂経』の成立の先後関係について、田中氏は文献と図像の両面から、前者の『理趣経』系曼荼羅の発展によって金剛界曼荼羅が成立したとする結論を導いている。第5章では後期密教時代の曼荼羅理論を確立した『秘密集会タントラ』とその曼荼羅を、聖者流・ジニャーナパーダ流の二大解釈学派を中心に考察する。第6章「母タントラの曼荼羅」は、従来謎に包まれていた母タントラの起源を、チベット訳語のみ現存する最古の母タントラ『サマーヨーガ・タントラ』までたどり、解明することに成功している。第7章では、『時輪タントラ』が、父母両タントラの曼荼羅をどのように統合し、一大密教体系を構築したかを論じるとともに、その体系が時輪曼荼羅にいかに反映しているかを詳論する。終章「インドにおける曼荼羅の展開とその思想的意義」は、論文全体を総括するとともに、曼荼羅を支える理論的な根拠として、「蘊・界・処」説や三十七菩提分法説などの伝統的な教理が援用されたことの意味を考察している。

第2部「文献篇」は、氏自身がネパールにおいて発見した『秘密集会』聖者流の『曼荼羅儀軌二十』と、ジニャーナパーダ流の『普賢成就法』という二つの重要文献の校訂テキストおよび訳注研究からなり、本論文のすぐれた貢献の一つとして特筆すべきである。

このように、本論文はインドにおける曼荼羅の成立と発展を詳論した初めての本格的な研究であり、今後の曼荼羅研究の道標ともなるべき画期的な業績として高く評価することができる。一部のテキスト解釈および訳語の統一等に関して問題は残されるが、本研究の画期的な意義を損なうものではない。

以上の理由により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績であると判断する。

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