学位論文要旨



No 217026
著者(漢字) 浦,一章
著者(英字)
著者(カナ) ウラ,カズアキ
標題(和) 工房の秘密を求めて : ダンテへダンテから
標題(洋)
報告番号 217026
報告番号 乙17026
学位授与日 2008.10.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17026号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長神,悟
 東京大学 教授 塩川,徹也
 東京大学 教授 月村,辰雄
 総合文化研究所 教授 高田,康成
 帝京大学 准教授 藤谷,道夫
内容要旨 要旨を表示する

論文『工房の秘密を求めて──ダンテへダンテから』の目的は,その表題が示唆するように,ダンテの創作活動を器用な「手仕事」になぞらえて,その作業の際に活用された「資材」(とりわけ先行する伝統から与えられた素材)を明らかにし,可能な場合には「資材」として活用されたものをダンテがどのように変容したかを解明することにある。副題とした「ダンテへダンテから」は伝統がダンテを中継点にしていかに受け継がれたかを,本論文の射程に含めようと努めたことを示している。密接に関連した第1部と第2部はともに『ヰタ・ノワ』を主たる分析対象として,先行する伝統(=「潜在的な書物」)からの借用(=「引用」)という観点からダンテの「手仕事」の実態を捉えようとしている。これに対して,第3部はダンテ以降のある詩人(年代的にも文化的にも,ダンテとは大きく異なる作家)と比較することによって,ダンテが伝統(キリスト教思想のそれ)において占めている位置を明確化し,キリスト教教理に対してダンテが示す姿勢の特徴を捉えようとしている。第4部は先行3部の議論の理解に資したり,そこで扱われている議論のさらなる広がりを示すのに役立つと思われる小論を集めたものである。

第1部「構造と引用──『ヰタ・ノワ』をめぐって」は,見出しにも含まれている初期ダンテの作品,第3章の成立過程を明らかにし,それを基礎に『ヰタ・ノワ』を全体としていかに解釈すべきか論じている。『ヰタ・ノワ』はベアトリーチェの1周忌にあたる1291年6月8日以降,90年代の前半に書かれたと考えられる作品であるが,日本の「歌物語」のように,韻文+散文の混合形式をとっている。重要な例外がないわけではないが,大概はすでにさまざまな機会に詠まれストックされていた韻文作品に,散文で解説を付し,歌が詠まれた背景と歌の作りを明かしながら章を構成し,そのような章を年代記風に緩やかに結合しながら筋を展開してゆくのが『ヰタ・ノワ』である。第1部(とりわけ第5章)の考察は過去(韻文が担っている過去)を変容する物語の散文の役割を再評価することを目指しているが,『ヰタ・ノワ』の章分けを見直すことによって散文の物語性をより明確にできるのではないかと考えて,この件に関する1990年代アメリカおよびイタリアの動向を考慮しながら,新たな章分けを試みているのが第1章である。第2章は『ヰタ・ノワ』を先行する伝統的なトポスとの関連で読み解くという方法論を,それ自体トポスのひとつである「記憶の書」から引き出し,また「材源」の概念について考察している。上に述べたように,『ヰタ・ノワ』第3章も,すでに書かれてしまっていたソネットに後から散文解説を添えることによって成立したと考えられるが,本論文第3章はソネットが散文によって『ヰタ・ノワ』の構想と結びつけられる以前はいかに読まれえたかを,「喰らわれる心臓」というトポスとの関連で論じている。これに対して,ソネットが『ヰタ・ノワ』の構想と結びつけられる際に媒介の役割を果たしたトポスが「予兆をもたらす夢」であったと論じているのが本論文第4章である。第3,第4章の考察はソネットが詠まれた当初の意図と『ヰタ・ノワ』の構想の間に存在する大きな隔たりを明らかにし,過去の意味を大胆に変容してしまうダンテの「手仕事」の意識的操作性を浮かび上がらせる。その成果を反映させながら『ヰタ・ノワ』を作品としていかに読み解くべきかを論じているのが第5章であるが,言うまでもなく,ダンテによる過去の意識的変容という事実を積極的にとり込まない作品論は説得力に乏しく,しかるべく批判されることになる。『饗宴』や『神曲』など『ヰタ・ノワ』以降に書かれた作品との関連を視野に含めながらも,後続の作品の立場を先行作品に投影することなく,『ヰタ・ノワ』はそれ独自の視点から読まれるべきだと主張するのが第5章であるが,創作家としてのダンテ個性ひいては全体としてのダンテ像に関する提案をも含んでいる。第1部は,第1章を除いて,かつて『ダンテ研究 I ―Vita Nuova,構造と引用―』(東京,東信堂,1994年)として刊行した論考から成り立っているが,主張の基本線は変更なく保ちながらも,細部は大幅に見直し,情報の補足も(概ね註に織り込む形で)少なからず行なった。イタリア語では「心」も「心臓」も同じ"cuore"という単語で表わされるが,「心」を「心臓」と置き換えることによって,詩のメッセージを視覚的・演劇的に表現していると思われるさまざまな図像には,とくに注意を傾け補足した。「心臓」を「心」に置き換える逆の手順によって,「心臓を喰らう」というトポスが含みもつ寓意解釈の可能性が見えてくるが,そのことと関連づけられるべきであろう。

第1部が「詩片」と物語の「散文」が絡まり合いながら『ヰタ・ノワ』を織りなしてゆく過程を主題とし,その過程に介在した伝統的要素を捉えようとしているのに対して,第2部「『記憶の書』を繙きながら──先行恋愛詩から学ばれたもの」は,むしろ,「詩片」の成立を主題とし,「詩片」の中に編み込まれている伝統的要素を把握しようとしている。第6章は第1部の考察の結果を簡略にまとめ,『ヰタ・ノワ』の一人称語りの「私」が伝統に強く縛られ,むしろ範型的な価値を帯びていることを指摘し(「私」は,逆説的にも,あまり「個人的」な内面を開示しない),そのような「私」の言説としての「詩片」を第1部と同じ方法で分析することの必要を論じている。それゆえ,第6章は第1部と第2部の後続の諸章との橋渡しの役割を担っている。第7,第8,第9章は,ダンテの創作の場と伝統との関連を,基本的にジャコモ・ダ・レンティーニ─ダンテ(─ダンテ以降)という図式で把握しようと試みており,互いに密接に結びつきながら,ダンテの材源としてのジャコモの重要性は,たとえダンテ自身がジャコモを凌駕したと宣言して憚らなかったとしても,決して軽視されるべきではないことを明らかにしている。第7章はジャコモが事実上の創始者と考えざるをえない押韻語の組をダンテがいかに活用したかを主たる問題として扱っている。第8章はその押韻語の組やダンテに刻印を残していったその他の要素がジャコモの30数篇からなる作品群の中にいかなるマクロテクスチュアルな結びつきを生みだすかをたどっている。その結果,「詩片」を連結して物語を織りなすヒントをダンテがジャコモから得た可能性とともに,ジャコモ自身が編んだかもしれない自作アンソロジーの輪郭が浮かび上がってくる。第9章1節は,アンドレアス・カペラヌスからジャコモをへて『フィローコロ』のボッカッチョへと受け継がれてゆく「恋愛評定」(questioni d'amore)の1つに,これまで全く指摘されてこなかった初期ダンテが関連していることを明らかにしている。これに対して,同章第2節はダンテが大きな影響を受けたと公言しているグイド・グイニッツェッリがその実ジャコモの「詩法」の強い刻印を受けていることを指摘している。第10章は,ダンテの創作の場と伝統との関連をアルナウト・ダニエル─ダンテ─ペトラルカという線に沿って捉えようとしているが,『ヰタ・ノワ』に収録された「詩片」とはさまざまな意味で対照的な性格を帯びたセスティーナを主たる分析対象とし,比較を通じてダンテとペトラルカの文体の違いを明確化している。

第3部「境界線を挟んで」は,人知の限界をめぐって,ふたりの詩人(ダンテとブレイク)がいかに異なった態度をとったかを解明し,ダンテとは正反対の見解をもつブレイクが,にもかかわらず,ダンテに共感を抱きえた点はどこにあったのかを探求している(第11章)。この問題にはキリスト教徒が「好奇心」と呼ぶところのものが関連しているが,人知の限界を越えた「好奇心」に対する戒めを含んだ『水陸論』も,ダンテの立場を明らかにするものとして第3部に含まれている(第13章)。「地獄篇」第26歌に描かれたウリクセースがダンテ自身の「否定的分身」であるなら,ダンテとは正反対の見解をもつブレイクをウリクセースに重ね合わせる可能性も垣間見えてこよう(第12章)。ダンテ研究の契機をあたえてくれたのがほかならぬブレイクであったが,筆者のダンテ研究のもっとも古い核を含んでいるのが第3部である。

第4部「補論集」は,ダンテ理解に役立ち,ある程度学術的な性格も帯びている3つの小論とボッカッチョに関する1章から成り立っている。第14章は,第1,第2部ではほとんど触れられていないダンテの伝記に関する若干の補足である。グイド・カヴァルカンティ(第1部で頻繁に話題とされ,第9章2節でも触れられている)とダンテの関係についての,いささかの補足情報となってくれるよう期待する。第15章はダンテ受容の問題と関連した論考であるが,文学史の見方にも少なからぬ影響をあたえた「巨人」ダンテの発言は,第9章2節の考察が示唆するように,再検討に付されねばならない。第16章は,古典作家に対するアプローチの違いからダンテとペトラルカを分ける約一世代の意味を考察しているが,「ルネサンス」あるいは「人文主義」の問題をめぐって,第12章の議論と緩やかに連結している。第17章は,『デカメロン』第39話とその材源をめぐる比較考察であるが,本書第3章3節2の議論への一種の補註という性格を帯びている。

審査要旨 要旨を表示する

浦 一章氏の『工房の秘密を求めて――ダンテへダンテから』は、著者が長年その研究に取り組んできたダンテ初期の作品『ヰタ・ノワ』Vita Nova(従来訳では『新生』)を主要な考察対象に据え、文献の博捜と精緻な分析に基づいて作品構造および作品の成立過程に関して新たな知見を付け加えつつ、広くダンテの創作方法の本質に迫った全4部17章より成る大著(詳細な註を含め全910頁)である。

第1部「構造と引用――『ヰタ・ノワ』をめぐって」(全5章)では、韻文とその韻文を軸に自伝風の物語を紡いでいく散文を交互に配した作品Vita Novaをめぐり、その構造を新たな視点から考察するとともに、ダンテがさまざまな時期に書いた自作詩篇を別個の散文の文脈のなかに自在に取り込んでいく手法、ダンテが過去の文学伝統に対して行った借用の実態を詳細に検討することにより、この作品の生成過程を明らかにしている。第1章では、近年の研究動向を踏まえつつ、M.バルビ版(1932年)をはじめ従来採用されていた章分け(全42ないし43章)に物語性の観点から再検討を加え、独自の章分け(全33章)を提案している。続く第2章から第5章においては、ダンテ自らがこの作品を「記憶の書」になぞらえていることに着目し、先行する文学的伝統たる「潜在的書物」からの借用という視点から作品を読み解く方法を提唱し(第2章)、「喰らわれる心臓」(第3章)、「予兆をもたらす夢」(第4章)という具体的なトポスとの関連を検討したあと、自らの過去の詩篇の意味を意識的に変容させていくダンテの手法を作品生成の解明及び読解に生かすべきことを、十分な説得力をもって主張している(第5章)。

第2部「『記憶の書』を繙きながら―― 先行恋愛詩から学ばれたもの」(全5章)においては、作品に含まれる詩篇そのものの成立を主題とし、第1部で実践された方法を用いて詩篇に取り込まれた伝統的要素の解明を目指している。第6章で作品全体の語り手である「私」そのものの表現にみられる文学的範型性を指摘したあと、第7章から第9章においてシチリア派のジャコモ・ダ・レンティーニの詩篇との関連を詳細に論じ、ダンテにおけるこの詩人のもつ重要性を実証し、第10章では南仏の詩人アルナウト・ダニエル及びペトラルカとの関連を論じている。

第3部「境界線を挟んで」(全3章)ではダンテと英国近代のブレイクとの関連(第11章)、『神曲』地獄篇に含まれるウリクセースの挿話(第12章)、『水陸論』(第13章)について論じられ、Vita Novaの作者にとどまらないダンテ像が提出されている。第4部「補論集」(全4章)にはダンテ理解に役立つ文学史的背景等を論じた論考が収められている。

本論文はダンテVita Novaに関してかつて日本語で書かれた最も詳細な論考であり、今後わが国でこの作品を論じる際にまず参照されるべき論文になることは疑いをいれない。考察が多方面にわたるゆえ、論文全体の主旨がときにみえにくくなる部分があるものの、本論文で得られた成果は世界のダンテ学に大きく貢献する水準にあると評価される。よって、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものと判断する。

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