学位論文要旨



No 217032
著者(漢字) 西村,弓
著者(英字)
著者(カナ) ニシムラ,ユミ
標題(和) 国家責任法の法的基盤 : 合法性概念の成立条件と現代国際法におけるその意義
標題(洋)
報告番号 217032
報告番号 乙17032
学位授与日 2008.10.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17032号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小寺,彰
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 早川,眞一郎
 東京大学 教授 山影,進
 東京大学 教授 岩澤,雄司
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、あらゆる義務違反に対して国家責任を追及することによって国際法上の合法性が維持され、国家責任法こそが国際法の実施についての要となると説く今日の国際法学における通説的理解に対して、しかしながら、国家責任法の射程は歴史的には限定されていたことの意味をどう受けとめるべきかという問題関心から出発して、国家責任法がいかにして生成し、時代ごとの国際法全体の枠組みに合わせて変質してきたかを探るものである。国際法に固有の責任制度が国際法学において提示されるようになったのは19世紀末の学説によってであり、体系化されたのは20世紀に入ってからである。また、第二次世界大戦前の国家責任をめぐる裁判実践は、もっぱら外交的保護請求の事例を対象とする特定の分野のみに集中しており、違法行為一般に対して追及されてきてはいない。通説が説くように、国家責任制度が、違法行為に対して被害国の権利を守り、ひいては国際法規範の合法性を担保するという意味で法内在的に要請されるものであるならば、なぜこのような時間的なおよび対象事項における限定が存在したのだろうか。

この問いに答えるべく、第1部「国家責任論の生成」では、19世紀中葉から第一次世界大戦にかけて(第1章)および戦間期以降(第2章)の学説・実行において、国家責任法がどのように位置づけられてきたかを分析した。その結果、以下のことが導かれた。

19世紀末以降20世紀前半にかけての学説は、各々の国際法に関する理論的立場を反映するかたちで国家責任概念について多様な見解を示している。国家は絶対的な主権に基づいて自国が関係する国際法規範の内容について外部からの拘束を一切受けずに最終的な判断権を有すると解する論者は、国際法上、国家が自国の意思に反して責任を問われる余地を原理的に認めず、国家責任概念そのものを否定する(国家責任概念否定説)。他方で、国家意思に外在する要因も国際法規範の拘束力のレベルでは役割を果たすことを肯定しつつも、権利侵害の有無をめぐる見解の相違が生じた場合に、紛争当事国以外に客観的判定を下しうる機関が存在しないという国際社会の状況に鑑みて、国際法規範の解釈・適用の場面においては各国の一方的な判断権が並立するほかはないと論ずる学説が示されていた(権利侵害客観判断不能説)。これらの説においては、違法行為への対処は、権利侵害を受けたと自ら判断する国家が一方的に戦争・復仇に訴えて権利回復を試みる権利として説明され、違反国が負う救済義務とこれに対応する被害国の請求権としての責任概念は原理的に否定されあるいは実質的な意味を持ちえなかった。これに対して、実証主義的立場から、仲裁判断や外交実践を参照して外国人に対する侵害行為に起因する国家責任の諸要素について分析を進め、外国人を侵害する私人行為に加担した国家は外国人の国籍国に対して賠償責任を負う旨を定める慣習法が存在すると論ずる見解も示されている(慣習法説)。

このように、19世紀から20世紀前半の学説による国家責任論の位置づけは、国際法の拘束力の根拠や具体的適用のあり方に関する各論者の理論的立場・方法論に応じて多様である。学説の対立軸からは、国家責任概念否定説および権利侵害客観判断不能説と慣習法説を対比することによって、国家責任を法的な概念として位置づけるためには、法規範の客観的解釈の可能性が措定されることが重要であったことが導かれる。両者の違いは、権利侵害の発生とこれへの対処について関係国による一方的な判断の権利を認めるか否かにある。このことからは、各国が法解釈について完全に自由な決定権を有する段階においては、法的義務や合法性の概念は国際社会において実質的な意義を有せず、仲裁の実施等を通して客観的な判断の潜在的存在が措定されるようになってはじめて合法性概念に依拠した議論が意味を持つに至ったことが示される。

他方で、慣習法説においても、一定の類型の侵害行為に限定してその帰結を考察しており、あらゆる義務違反に対して責任を追及することによって国際法秩序が維持されるという今日の通説的な考え方はとられていない。国家責任を慣習法上の制度と捉え、当該慣習法の内容を示すものとして仲裁判断の分析を重視する彼らの立場からすれば、仲裁実行がもっぱらの対象としていた外交的保護権の行使に関わる紛争が国家責任紛争として捉えられていたからである。

では、なぜ、国家責任に関する紛争事例は第二次世界大戦前までの時期には私人絡みの紛争に限定されてきたのか。この点について、本論文は、戦間期に至るまでの国家実践や法典化会議における議論を分析することによって、次の事情が存在することを明らかにした。すなわち、当時においては、権利侵害を受けたと主張する国家が究極的には武力復仇や戦争に訴えて自力救済を行う権利を保持していたことを背景として、国家にとって「二次的重要性」しか持たない私人絡みの紛争をめぐって国家間関係が不必要に悪化しないように仲裁の実施を通した現実的な処理手段が選ばれたのであった。ハーグ平和会議での議論や各種仲裁条約の内容からは、私人に関係する紛争を政治的重要性が低く仲裁に適した技術的な紛争類型として括り出す国家実行がみてとれるのである。

これに対して、不戦条約は権利回復を目的とするものであっても戦争を禁止し、さらに国連体制は権利回復のための武力行使一切を禁止する。この変化が国家責任法の理解にもたらした変質が第2章での検討対象である。戦間期における国家実行や裁判実践、これらに大きな影響を与えたAnzilottiの議論を検討することを通して、権利回復のための権利として位置づけられてきた戦争・武力復仇が禁止されることに伴って、国家責任法があらゆる違法行為についての判断枠組みとされるに至ったことが導かれた。武力を用いた自力救済が歴史的には権利回復の権利として位置づけられてきたことを考えれば、権利侵害の存在とそれへの対処を国家が自ら一方的に決定し、権利回復を行うことの禁止は、単に手段としての武力行使が禁止されたことにとどまらず、権利侵害に関する国家の一方的決定の権利の否定を意味したのである。以上の検討によって、強力による権利回復の禁止に伴って、かつては武力復仇や戦争の対象となった国家間紛争についても平和的解決が求められるようになったことからは、現代国際法においては、ひとまず違法行為について一般的に国家責任を適用する必要性が生じており、あらゆる違法行為に対して国家責任の追及を想定する今日的理解はこうした背景のもとで成立していると言うことができる。しかし、ここで、私人絡みの紛争を念頭において発達してきた従来の責任法の諸規則がそのままあらゆる違法行為への適用に耐えうるのだろうかという第2の疑問が生ずる。こうした問題意識から、第2部「現代国家責任法と合法性」では、現代国家責任法の内実と機能について検討を加えた。

まず、第3章においては、国家責任の発生にとって実体的損害が要件とされるかという視点から、現代における責任法の機能を分析した。かつての責任事例においては、外国人が被る具体的損害の処理が責任制度の目的とされていたことに比して、適用対象を拡大した現代国家責任法において救済の対象とすべき侵害の範囲をどう捉えるべきかは争点となる。また、かつての責任紛争が、外国人への侵害に加担した国と外国人本国の間の二国間関係として処理されてきたことに照らせば、二国間の権利義務関係に還元されない対世的義務違反に対して責任法が適用されるのかが新たな問題として浮上する。これらの問題は、国家責任の発生要件として実体的損害が要請されるかという議論に集約して現れているため、第3章においては損害の要件性をめぐる議論や裁判実践を分析することによってこの問題にアプローチを試みた。

検討の結果、損害の要件性については、第1部での分析から導かれた現代国家責任法の性質に照らせば、実体的損害を被らなくとも、自らの権利に侵害を受けたことによって特定される被害国は責任追及をなしうると解することが妥当と考えられること、および裁判実践上もこれが認められてきていることが示された。他方で、対世的義務違反に対してあらゆる国家が責任追及をなしうるかという問いは、実体的損害を被らない国家に責任追及権を認めるかという問題と混同されがちであるが、後者が責任追及主体となる被害国が特定されることを前提としていることに対して、前者は違法行為によって自国に固有の権利に対して何らの侵害も受けていない国家にも公益の実現の観点から責任追及権を認めうるかを争点とする点において異なる。本章では、先例を分析することを通して、対世的義務違反については国家責任法の枠組みに則った請求を国家間の相対的関係においてなすことは一般国際法上は困難であり、同違反に対する責任法の適用は手続レベルにおいても共通利益を具体化する仕組みが整備されているかに依存することを結論づけ、国家責任法による国際法上の合法性確保の機能はこの点については一定の限界を抱えていることを示した。

第2に、第4章では、現代国際法においては、国家責任法の適用対象があらゆる違法行為へと拡大されていることを前提として、そこにおける責任追及は何を違法性の根拠とするのかについて考察を加えた。戦間期以降の学説・国家実践の分析からは、国家間の合意に規範性の根拠が求められるとする国際法の法源論の観点から、合意によって引き受けた義務に違反することに違法性が求められることが導かれる。しかしながら、あらゆる義務違反に対して国家責任の追及を行うことによって国際法において合法性の維持が図られると理解するとしても、そこでいう「合法性」概念は具体的紛争においてはどのように機能し、国際法体系にとって何を含意するのかは問題となる。国家責任の追及によって国際法規範の合法性維持が図られるとする今日的な通説は、その前提として国際義務と国家の行為が客観的に合致しないことが違法性の根拠であるとするが、国際法規範には国家に対して許容規則・禁止規則を細目的には定めず、一般原則を述べるにとどまるものも多い。こうした現状に照らせば、客観的な義務違反に違法性の根拠を求め、義務違反を是正することによって国家責任法の適用が国際法の合法性を担保するという考え方は必ずしも現実の責任認定と整合しないのではなかろうかという疑問が生ずるからである。

第4章においては、こうした問題意識に基づいて具体的な裁判実践の分析を行った結果、責任紛争を通じて確認や維持が試みられる「合法性」は、一般原則から具体的義務を導出し、あるいは義務を確定するための基準を類推適用によって特定したうえで責任認定を行うなど、柔軟なものでもありうることを確認した。そのうえで、このような責任認定のあり方からは、「国家責任の追及による国際法規範の合法性の維持」と称される法的な処理が、その内実をみれば一定の枠内で国際法規範の詳細化に貢献し、動態的な機能を果たしていると評価しうることを提示した。

国家責任の射程や機能、その実際のはたらきをいかに理解するかは、国際法体系の全体像に密接に関わってくる。本論文は、以上のように、国際法理解の変遷に伴って国家責任法の位置づけがいかに変化したかを分析したうえで、現代国際法における国家責任法の機能を合法性概念との関係で解明することを試みたものである。

審査要旨 要旨を表示する

国家責任の射程や機能、その実際のはたらきをいかに理解するかは、国際法体系の全体像に密接に関わってくる。本論文は、以上のように、国際法理解の変遷に伴って国家責任法の位置づけがいかに変化したかを分析したうえで、現代国際法における国家責任法の機能を合法性概念との関係で解明することを試みたものである。

「序章」において、国家責任法の一般的な適用をアプリオリに前提にすることに対して疑問が投げかけられる。この問題提起を受けて、第1部(第1章~第2章)では、戦間期までの国家責任法の歴史が、国家実行および学説によって検討され、当時は武力行使が認められていたこと等から、私人の権利侵害という国家にとって重要性の低い紛争を武力行使によらずに解決する際に国家責任法理が使われ、そのために国家責任法理の適用が上記分野に限定されたと結論される。第2部(第3章~第4章)では、第1部の検討をふまえて、第2次世界大戦後に一般化した現代の国家責任法理の構造を「損害」と「合法性コントロール」の観点から分析し、「合法性」維持を目的とする現代の国家責任法理の問題点を国際裁判例から抽出し、「終章」では第2部までの検討から導かれる結論と今後の課題を述べる。

2.以下は本論文の要旨である。

「序章」では、現代の国家責任について、学説のみならず「国家責任条文」を起草した国連国際法委員会も義務違反から一般的に生ずると捉えるが、歴史的には、国家責任法理が19世紀末頃になって始めて現れたこと、またその対象事項が従来は、私人の権利侵害に起因する「外交的保護」事案に限定されていたことをどのように理解すればいいかという本論文の全体的な問題が設定される。

「第1章 責任法適用対象の限定的理解」では、まず19世紀中葉から第1次世界大戦にかけての外交・裁判実務を検討し、当時の関係紛争が外国人保護の懈怠事案に集中しており、その結果外国人の生命財産侵害に関する規則の詳細化がもたらされたことが示される(第1節)。その状況を受けて、当時の学説が、国際法上は国家責任法理が妥当しないという立場をとるか、または外国人の保護懈怠に絞って国家責任法理を組み立てたこと、またその基礎は、(1)国家主権絶対説(国家責任否定説)、(2)権利侵害判断不能説、(3)国内法類推説、(4)慣習法説、(5)領域管理義務違反説に分かれたこと、そして国家責任法理の前提が、潜在的にではあれ法規範について客観的な解釈が存在するという法秩序の客観性にあることが示される(第2節)。当時は、外交的保護に関する仲裁が増大しており、この分野に限っては当事国の一方的判断ではなく客観的判定に基づいて紛争が処理され、ここに国家責任法が生成する基盤が整った。外交的保護事例に限定して賠償支払いを通じた紛争処理が行われた理由は、当時の国際法では権利回復のための武力行使が一般的には禁止されず、国家にとって二次的重要性しかない私人の利益に関する紛争を武力によらずに処理するために仲裁裁判が使われたためとされる(国家の権利侵害は武力行使によって処理された)。

「第2章 戦間期以降における責任法適用対象の一般化への動き」では、現代への橋渡しとなる戦間期の国家責任法理が検討される。当時の国家実行や裁判例から、国家責任法の適用対象は依然として外交的保護事例に限定されていたが、その根拠に国際法義務違反を置くものが現れたこと(第1節)、国際法義務違反を根拠にする考え方は、戦間期において戦争が徐々に制限されたことに対応しており、また司法判断と結びつく形で主張された(第2節)。当時、国家責任法理の一般化に大きく貢献したAnzilottiの国家責任論の3つの特色が抽出される。すなわち、(1)他国の違法行為の帰結として「被害国」がなしうることが実力による権利回復ではなく、救済(賠償)と捉えたこと。(2)国家責任法を義務違反に対して一般的に適用可能としたこと。(3)国際法上の義務の根拠を国家間の合意に基礎づけたうえで、責任根拠を合意違反としたこと(第3節)。第2次世界大戦後に至ると、権利回復のための武力行使の全面的禁止によって、私人の利害に関わらない国家間紛争も含めて当事国の一方的判断に基づく強力による処理が認められなくなり、国家責任法はあらゆる義務違反に適用されることになる。実行上も、外交的保護案件の減少の一方、その他の国家間紛争への国家責任法の適用の増加が指摘され、第2部に繋がれる(第4節)。

第2次大戦後の国家責任法の構造が分析される「第3章 現代国家責任法と合法性確保機能」では、国家責任法の中心に従来位置してきた「損害」が国家責任の成立に必要か否かが問題であるとされる。損害の要否に関する見解の対立は、外交的保護事例において損害が責任発生要件とされてきたことにあり、これをそのまま踏襲する見解と、義務違反を根拠とする現代的責任法理に則ってそれを否定する見解に分かれる(第1節)。国家責任の発生に損害が必要とする「損害払拭」説が長く採られてきたが、外交的保護においても請求国に実体的損害の発生が必ずしも要求されておらず、また現代の国家責任法の理解を前提とすれば国家責任を「損害払拭」と主張することは困難である(第2節)。これに対して、Anzilotti等は、法秩序の維持を国家責任法の主要な役割とする「合法性コントロール」説を採用しており、「損害払拭」説とは、国家責任制度の目的理解を異にする(第3節)。他方で、国際法委員会案は責任発生から損害要件を外したが、それは「対世的義務」違反に対応するためであり、仔細に見ると、「損害払拭」説や「合法性コントロール」説とは捉え方が異なる(第4節)。そのうえで国家責任法の「合法性コントロール」機能を否定することは、分権的国際社会において義務違反を放置するおそれがあり、現代の裁判実践でも、国家責任法理による国際法秩序の維持機能が強調されていることが示される(第5節)。手続的には、一般国際法上第三国が対世的義務を追及することは難しく(特別な手続があれば克服できる)、「合法性コントロール説」には限界があることも同時に指摘される(第6節)。

「第4章 国家責任の根拠」では、「合法性コントロール」に基礎を置く現代の国家責任法では義務違反の客観的認定が必要だが、抽象的なスタンダードにとどまる規範が多い国際法では「合法性コントロール」の意味が問題になるとする(第1節)。戦間期を振り返り、当時は国家責任の根拠が意思主義に求められたこと(第2節)、しかし、第2次大戦後の関係の裁判例では、義務違反の認定にあたっては一般原則への依拠や類推適用による方法が採用されており(第3節)、これは裁判所の「立法作用」とも考えることができるとされる(第4節)。

「終章 結語」では、今までの議論を総括したうえで、「残された課題」として、(1)武力行使以外の自力救済をどのように位置づけるか、(2)立法的要素をもつ国家責任訴訟との関連で、法源論をどのように評価すればいいかという2つの問題が示されて稿が閉じられる。

3.本論文の評価を次に述べる。

本論文の長所としては次の諸点があげられる。

第1に、本論文は、国際法の根幹に関わり、現代激しく議論されている国家責任法理について、その歴史を包括的に取り上げ、国家責任法が外国人法から一般法へと拡大した過程が綿密に分析された。国家責任法理の存在をアプリオリには前提にせず、それが歴史的にどのように発展してきたかを明らかにし、その上で、国内社会とは違って国際社会には法規自体が十分に整備された形で存在しないことを前提にすると、国家責任法理が実質的に妥当する範囲に限界があることを判例をもとに明らかにした。個々の論点については既存研究もあるが、国家責任法を包括的にまとめ、その客観的な位置づけを行ったことは国際法学への重要な貢献と言える。

第2に、国家責任法の一般化と国家責任法理の変容を結びつけたところに本論文の大きな特長がある。本論文は、国家責任法が一般法に拡大したことによって国家責任法理が変容したことを、損害要件と責任根拠を例にとって論証した。

第3に、本論文は、国家責任法の目的を「損害払拭」と「合法性コントロール」に分けて理解すべきことを明示し(この点は筆者の年来の主張である)、それぞれの意味や根拠を解き明かし、国家責任法の目的が「損害払拭」から「合法性コントロール」に転換したことの意義と課題が明確に提示された。この点は、この分類を主唱した筆者ならではの分析で他の追随を許さないものである。

第4に、19世紀末から第2次大戦までの学説を丹念に分析し、当時の国家責任が外交的保護に限定されていたことを単に現象として記述するだけではなく、それが国際法理解の違いに基づいていることが明示された。武力行使の禁止によって、現象として国家責任の対象領域が拡大しただけではなく、それを支える国際法の理解が発展したことに注目すべきことを説得的に説いた点は、現代における国家責任法の理解に奥行きを与えたと言える。

しかし、本論文にも問題がないわけではない。

第1に、第1部と第2部の関係がかならずしも十分に明晰ではない。第1部と第2部が分断され、主張が拡散している印象を与える。歴史的な経緯を追ったうえで、現在の国家責任法理の構造をそれによって明確化しようという趣旨であろうが、第1部の分析がどのように第2部、とくに4章の分析につながるのかもう少し詳しい説明がほしかった。

第2に、上の点と関係するが、国家責任法の一般化の流れと、国家責任の根拠である「損害払拭」説と「合法性コントロール」説の関係をもう少し明確にしてもらいたかった。この2つの性質決定は、国家責任法が外交的保護から一般化するプロセスと密接に関わっていることが看て取れるが、第1部においては、「損害払拭」や「合法性コントロール」の概念が出てこないことから、国家責任の在り方が国際法の基本理解と関わっているとの第1部の議論との関係も含めて、十分に説明がなされているとは言えず、もう少し説明に工夫があっても良かったと思われる。また「合法性概念」、「合法性概念の成立条件」という用語が十分に説明されずに使われているために、論文の命題がわかりにくくなったきらいがある。

第3に、第1部の歴史的分析がAnzilottiの学説分析で終っているが、その後の展開(とくにAgo)も扱った方が論証により深みが出たのではないかと思われる。

しかし以上のような問題点は、本論文の価値を損なうものではない。本論文の問題点として指摘したことは、いずれもそれ自体で独立の論文のテーマになりうるものであり、本論文の中でその本格的な分析を期待することは望蜀の感がある。本論文の長所として指摘したことは、それだけで学界に大きな貢献をなすものである。

以上から、本委員会は、本論文が博士(学術)の学位を授与するに相応しいものであると評価する。

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