学位論文要旨



No 217033
著者(漢字) 河本,英夫
著者(英字)
著者(カナ) カワモト,ヒデオ
標題(和) システム現象学 : 認知運動療法の哲学的基礎
標題(洋)
報告番号 217033
報告番号 乙17033
学位授与日 2008.10.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17033号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 廣野,喜幸
 東京大学 教授 今井,知正
 東京大学 教授 村田,純一
 東京大学 教授 信原,幸弘
 東京大学 准教授 池上,高志
内容要旨 要旨を表示する

本論文が解明を目指したのは、以下の点である。システム理論としてのオートポイエーシスは、マトゥラーナ、ヴァレラによって最初の定式化があたえられている。だがこの定式化そのものはまったく不備なものであった。それはマトゥラーナ、ヴァレラが彼らの定式化の延長上で展開した議論にとっても、理論構想として不備なものであった。この定式化がもつ意義を解明するとともに、システムの定式化として仕上げていくことは、システム理論としての第一の課題である。その作業は、これまでも継続的に展開してきた課題である。『オートポイエーシス――第三世代システム』(1995)において、この理論構想の最大のネックとなる「システムには入出力はない」という事態をどのように理解すべきかを考察し、このシステムの定式化を、定式化した当のマトゥラーナ、ヴァレラとは異なるプログラムとして展開できる道筋をつけた。またその定義の箇所をそのままでは維持できないために、理論構想に相応しく展開しなおしたものが、『オートポイエーシスの拡張』(2000)である。また理論展開の八割がたの部分は、実はこの定義とは独立に進めることができる。理論展開と定義との間には、相当大きな隙間があり、オートポイエーシスは当初の定義から入らなくとも、別の入り口がある。それを展開したのが、『メタモルフォーゼ――オートポイエーシスの核心』(2002)である。この延長上で、本書ではさらにオートポイエーシスの新たな定式化に踏み込んだのである。それが第四領域と呼んだものである。第四領域と呼んだのは、システムの機構の定式化の段階(第一世代:動的平衡系、第二世代:自己組織系、第三世代:オートポイエーシス)から見ても、オートポイエーシス内部の理論展開(第一局面:方法原理、第二局面:記述的ダイナミクス、第三局面:行為存在論)からみても、次の場面の突入しているからである。この第四領域をどのように解明するかを含めて、理論的定式化を新たに行った。これは世界で初めての企てであり、新たな定式化の仕方を開発したのである。これが本論文の第一の成果である。

第二に、オートポイエーシスは、当初よりある種の行為的世界を描いている。この世界は人間で見れば、体験レベルの世界である。この体験レベルの世界を、意識の内観法を用いて解明していたのが、現象学である。そのためオートポイエーシスと現象学は、当初より近い所にいた。人間の体験世界では、はじめて歩き始める、初めて逆上がりができる、初めて自転車に乗ることができるようになるというような、経験の組織化の局面が変わっていく場面がある。こうした事態は、経験の創発と呼んでもよく、伝統的には経験の変化の可能性の条件と呼んでもよい。こうした場面を考えたとき、たとえば自転車に初めて乗れるようになったとき、そこで何が起きたかを意識の内観によって明晰に描き出すことはできない。経験の組織化が新たに起きる場面では、部分的に意識そのものを巻き込んで事態が進行するために、意識からは明晰にも十全的にも解明できないのである。ところがこうした場面を解明できないのであれば、発達、学習、治療にとって有効な道具立てが欠けたままになる。そのため経験の創発のなかに含まれる内的な必要条件をシステムの機構として取り出すシステム的な作業と、そうした経験のなさかで内観的に感じ取る経験の現象学的解明を、相補的に行うような探究プログラムを設定することができる。このプログラムを、「システム現象学」だと呼んだのである。これによってシステム記述にも、現象学的解明にもかなりの変更を加えることになった。この局面の課題設定と探究プログラムの設定が第二の本論文の成果である。このとき現象学的な解明の中心に位置するのが、「注意」と「気づき」である。

こうした枠の設定のもとで、多くの問題を扱うことになった。行為には、運動と認知が含まれているが、運動と認知を一つの系で扱うことはできない。もちろんそれらは密接に関連しているが、関連のモードは基本的なものだけを取り出しても相当たくさんある。このモードの取り出しを、カテゴリー設定のように行った(第二章)。こうした解明によって、伝統的な事柄の読み替えを含めて、認知行為系の固有のカテゴリーが取り出せているはずである。ことに相即というカテゴリーで設定されている内実は、これまで探究できないできたものである。また身体を一つのシステムだとすると、主体身体、客観身体という枠を超えて、身体システムの解明の手立てが得られたことになる。メルロ=ポンティの議論に比べれば、記述の細かさの点でオーダーを更新している(第三章)。ことに身体内感の領域提示は重要である。これは身体がここにあるという内感のことで、足が痺れたとき、足があるという感覚に変化が生じている。しかも足に体重を乗せることに困難が生じる。この内感は、キネステーゼとは異なる。運動感ではなく、ここにあるという感じである。内蔵がここにある、骨盤がここにあるという感じは、身体全体のなかでの臓器や特定部分の配置を行って、位置を知ることではない。配置的な位置を知る以前に、ここにあるという感じをもつのである。この内感領域を設定することによって、発達と治療に新たな見通しをつけることができた。

第三に、これらを受けて、理学療法、作業療法の最先端療法である「認知運動療法」の内容の定式化を行った(第四章)。この療法は、イタリアで開発された先端治療法であるが、内容はきわめて誤解しやすいように作られている。現場でも相当誤解されている。この治療法のエッセンスを規定することを試みた。またこの方法の提唱者である神経内科医ペルフェッティは、これはポパーの科学的方法に従う科学だと言っている。そのことの内実は一度も説明も解明されたこともなかったが、この療法がポパーの科学的方法をどのように拡張したかを明らかにした。これは科学哲学のテーマである。発達や治療のような場面では、ポパーの反証主義はそのままでは応用できない。それを応用可能なように方法を拡張したために、認知運動療法によってリハビリの歴史で初めて科学的方法が成立することになった。

また情動・感情システムでは、感覚・知覚と情動・感情の関連を規定しなければならない。この問題は一度も明確に決着のついたことのない問題で、大きな仮説を導入するのでなければ、見通しを立てることができない。そこで情動仮説、感情仮説を設定した。これによって感覚・知覚のような認知系と本能、欲動、情動、感情、情感のような調整系との連動を論じる仕組みができた(第五章)。また情動・感情のシステムでは、記憶が特異な作動モードをとる。意味記憶・エピソード記憶や手続き的記憶のような記憶の二大分類には収まらない記憶を考えなければならない。

これらを受けて、身体内感や情動・感情をシステムとして扱うための基本的な定式化を行った。これらは複合連動系として作動しているために、作動の単位を複合的に連動する単位として定式化する必要がある。それを行ったのである。それがオートポイエーシスの第四領域での定式化である。これ自体は世界で初めての定式化である。

これらはいずれも理論課題であるが、同時にこうした作業は実践的課題として、「認知運動療法」を哲学的に基礎づけるための主要な学的な整備を行ったことになる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文の狙い

本論文の寄与は以下の3 点にまとめることができるだろう。(1)システム論、特にオートポイエーシス・システムについて新たな理論展開を図ったこと、(2)そのうえで、その新たなシステム論と現象学を接合し、システム現象学なる学的地平を切り開いたこと、(3)システム現象学によって個別の問題の解明を試みたこと。第3 点については、特に実践されつつも、いまだそうした実践を説明する理論の構築に成功していない認知運動療法に対し、哲学的理論の基盤を与えることに主たる精力が注がれている。

本論文の構成

まず上記の寄与(1)および(2)が、第1 章「システム現象学とは何か」で展開される。システム論のうち、創発特性を明確にした第1 世代、ポジティブ・フィードバックやネガティブ・フィードバックなどのメカニズムを明らかにした第2 世代を踏まえ、オートポイエーシス・システムが第3 世代でマトゥラーナおよびヴァレラによって提起された。

オートポイエーシス・システム論はその後さまざまな論者によって展開されるが、ヴァレラは経験科学的なシステムの機構として展開した。さらに探究を方向づける方法的原理としても活用した。神経の仕組みを設定すると、それをどのように詳細に詰めてもそこから意識が出てくることはない。また現象学的探究は、意識による探究であるため、意識が消え去る先についてはどのようにしても解明できない。つまり神経の仕組みの延長上でも壁にあたり、意識の内観的探究も同じように壁に当たる。この壁に当たるところに同じ仕組みがあると考え、それに相当するものを「オートポイエーシスの機構」だとした。これは脳神経系の探究と現象学的な探究が相互参照でき、両者がつながっていくためには、どこかで第三項を設定しなければならないことによる。この第三項がオートポイエーシスの機構だとしたのである。この場合現象学的探究の基本は、まなざしという、視覚的認知を基本モデルとしている。

ルーマンはオートポイエーシスをシステム的記述の道具、もしくは装置だとする立場である。最初から学問的記述の装置として活用している。ドイツ観念論とりわけヘーゲルに向こうを張るような学問的記述を形成することが当初よりの課題であった。ヘーゲルの『差異論文』(1801 年)で「差異と同一の同一」という弁証法の基本的視点が語られるが、これに対してルーマンは、「差異と同一の差異」という設定を行う。多並行分散システム、創発的システムを扱うさいのもっとも基本的なモデルとして、オートポイエーシスを活用することになった。

これらに対して筆者の基本的な視点は当初から、オートポイエーシスを、行為を貫く行為の機構として活用し、行為論的な議論として展開することにあった。その意味で最初から現象学の近くにおり、現象学のうちでも視覚的まなざし(ノエシス―ノエマ:意識極と対象極の対関係)ではなく、触覚運動性の働きの機構として、オートポイエーシスをおさえていた。河本『オートポイエーシス――第三世代システム』(1995年)では運動継続することがすなわち境界を形成することであり、それによってはじめて内部と外部が分かれる以上、そのためシステムの作動に先立っては内部も外部もなく、それに対応する入力も出力もないという立論を行っている。この内外を区分する行為と、それに気づく働きが二重に分岐するところが、後に二重作動として定式化される。この気づく働きも、基本的には触覚性の気づきである。それらが今回の議論で明確に描かれている。

次に行為論として構成されたオートポイエーシスが第2章「認知行為システム」で議論され、第3 章「身体システム」において身体論の次元に敷衍される。

オートポイエーシスの議論を行うにあたって、視覚ではなく触覚を基本にすることがここでの第一の主張点であり、運動と密接に関連するのは、触覚性の感覚、力覚である。従来の研究ではこのことに思い当っていなかったために、オートポイエーシスの記述を行おうとすると多大な無理がかかっていた、というのが実情である。触覚を中心として、システム記述、現象学的な考察を行うことがここでの最大の特徴である。

触覚と視覚はそもそも仕組みが異なり、視覚優位の人間の知では、触覚がほとんど言葉を当てられてこなかった。ちなみに視覚と触覚の違いを図式化すると以下のようである。

視覚モデルの認知

まなざすこと(まなざすもの、まなざす作用)――まなざされるもの(ノエシス――ノエマ)

このハイフンの隔たりの場所で向きをもって働いているのが、志向性と呼ばれる意識の基本的な働きである。

触覚性モデルの認知+運動の方向づけ

物の特質-触知・運動感-内感(気づき)---遂行的イメージ---

外感(主に視覚)・方向づけ(垂直軸と中心線の獲得)-触覚性力覚-内感(気づき)

-運動性イメージ---

メルロ=ポンティが『知覚の現象学』で身体論を行ったとき、いまだ視覚モデルで論じている。そのため身体は主体でもあり客体でもあるというような両義性が語られていた。この場合、視覚的な認知をそのまま身体まで下ろして、身体を特徴づけるというような仕方になっている。そこで身体論からやりなおすことになった。身体に直接関連する認知は触覚であり、触覚性のカテゴリーを整備することになった。それが、浸透や相即のような触覚-運動性のカテゴリーである。こうしたカテゴリーの整備が第二の主張点である。これらは基本的に現象学の拡張を行っていることになる。現象学は改良しながら以外にはなく、ノエシス-ノエマ・タイプ(フッサールが『イデーン』で中心に据えたもの)とは異なるカテゴリーの分析を行ったのである。オートポイエーシスは内外を繰り返し区分する運動の機構であり、それは触覚にもっともふさわしいものであった。この段階では、すでに入力も出力もないというのはオートポイエーシスの基本特徴ではなく、内外を区分する運動の機構にとって代わられている。つまり入力も出力もないは、すでに機構に組み込まれている。

行為は、それとして全貌が明るみに出ることはない。行為を総体として対象として明示することはできない。体験的行為にかかわるさまざまな定式化は、そのためしばしば言葉が足りていなかったり、力点を置き間違えたりするのである。フッサールの「本質直観」はまったく言葉がたりておらず、ギブソンの「アフォーダンス」は筋違いの定式化を行っている。体験的行為の領域は、全面的に対象化できないためにこうしたことが起こるのである。オートポイエーシスの場合もそうである。当初の設定は、ほとんど足りていない状態で出発する以外にはなかったのである。この点では、現象学的記述でさえあやまることは往々にして起きることであり、そこに定式化の改良が不可欠になっている。この改良のプロセスを示したのが、本論文の第三の主張点である。

現象学は、見えてきた物を足場にしてさらにその先にまた別ものが見えてくる、ということの繰り返しである。これは視点の切り替えや観点の設定ということとは異なる。体験的行為では繰り返し前に進んでいくような記述が必要であり、そのプロセスを描いたのである。なお、以上については6章でも立論されている。

その後、上記のような観点から、認知運動療法をどう捉えるべきかが議論される(第4 章「人間再生プログラム」)。まず、理学療法、作業療法の最先端療法である「認知運動療法」の内容の定式化が行われる。この療法は、イタリアで開発された先端治療法であるが、内容はきわめて誤解しやすいように作られている。現場でも相当誤解され、混乱している。この治療法のエッセンスを規定することを試みた。またこの方法の提唱者である神経内科医ペルフェッティは、これはポパーの科学的方法に従う科学だと言っている。そのことの内実は一度も説明も解明されたこともなかったが、この療法がポパーの科学的方法をどのように拡張したかを明らかにした。これは科学哲学のテーマである。発達や治療のような場面では、ポパーの反証主義はそのままでは応用できない。それを応用可能なように方法を拡張したために、認知運動療法によってリハビリの歴史で初めて科学的方法が成立することになった。

一般に認知運動療法では、認知から運動を導く治療法だと思われている。ところが認知された情報から運動を導くことができるなら、健常者のビデオをたくさん見れば動かない身体が動くようになってもよいはずである。これは認知の基本を視覚情報に置いているために起きた誤解である。一般に認知は運動とともに行われており、運動能力に応じて認知の能力は変わってくる。また認知と運動との間には一対一対応関係はなく、たとえば知覚では世界とのかかわりは固定されるので、むしろ運動の形成は停滞してしまう。

むしろリハビリの課題は、行為能力の形成である。行為は行うこともできれば、止めることもできるという選択肢をもつ動作であり、みずからで組織化できる一連の動作である。

行為(身体をともなう)は、世界とのかかわりを組織化する働きであり、組織化のための最大の手がかりが認知である。認知は同時に注意機能によって、反射運動を抑止している。

身体動作とともにある認知能力を活用することが認知運動療法の最大の特徴であり、行為と認知との関係は、認知主体-認知対象のような線型の関係にはない。動かない身体を、環境情報から誘導して動くようにすることはできない。それはしばしば健常者が陥るただのカテゴリー・ミステイクである。このことを見誤ってきたために、多大な寝たきりの患者を出し続けてきた。こうしたリハビリの課題と仕組みを明示してきたことが第一の主張点である。

また認知のなかで最大の威力を発揮してくれるのは、感じ取り、気づきであり、さらに注意であり、イメージである。とりわけイメージは運動の組織化に決定的に関与している。知覚は、世界とのかかわりを過度に安定化させ、世界とのかかわりの組織化を止めてしまう。こうしたリハビリに必要とされる認知能力を明確にしてきたことが、第二の主張点である。少なくても知覚から行為が導かれるためには、すでに十分な運動能力がなければならず、十分な運動能力があればもはや治療の必要はないのである。

さらに認知課題は、患者に提示されるが、患者の経験そのものは当初より変容しているのだから、セラピストの設定した課題がそれとして同じ課題として受容されているかどうかにはつねに疑問符がともなう。かりにセラピストが意図した解答がえられたとしても、患者は別の課題を受容し、別の解答を出しているのかもしれない。その人の経験していることは何なのかをつねに念頭に置かなければならない。内部観察の一歩先が必要とされる。認知課題がどのようにして有効な治療を導くかはいまだ一度も語られたことがなかった。それを明示したのである。それが第三の主張点である。

また認知運動療法は、立場や観点ではない。少なくても展開可能性のあるプログラムでなければならず、展開可能性のためには、知識でなく経験の形成、獲得が必要である。そのことを含めてプログラムとしての認知運動療法の定式化を行った。それが第四の主張点である。認知運動療法は、理論ではなく、訂正可能性と展開可能性を含んだプログラムである。

こうした議論は、4章が中心であるが、先行して、2 章、3 章でも行われている。触覚性のカテゴリーの整備や身体論を再編することは、認知運動療法を展開するために必要なことであり、そのため全編が、認知運動療法の基礎整備のように組み立てられてもいる。その他、触覚性システムを構想するうえで必要な議論を行っている。

しかるのち、情動・感情システムに焦点があわせられる(第5 章「情動・感情システム」)。では、感覚・知覚と情動・感情の関連を規定しなければならない。この問題は一度も明確に決着のついたことのない問題で、大きな仮説を導入するのでなければ、見通しを立てることができない。そこで情動仮説、感情仮説を設定した。これによって感覚・知覚のような認知系と本能、欲動、情動、感情、情感のような調整系との連動を論じる仕組みができた。また情動・感情のシステムでは、記憶が特異な作動モードをとる。意味記憶・エピソード記憶や手続き的記憶のような記憶の二大分類には収まらない記憶を考えなければならない。第三の記憶としてイメージ記憶を設定し、これが行為能力と密接に連動していることを示唆している。

これらを受けて、身体内感や情動・感情をシステムとして扱うための基本的な定式化を行った。これらは複合連動系として作動しているために、作動の単位を複合的に連動する単位として定式化する必要がある。それを行ったのである。それがオートポイエーシスの第四領域での定式化である。これ自体は世界で初めての定式化である(第6 章「オートポイエーシスの第四領域」)。

これらはいずれも理論課題であるが、同時にこうした作業は実践的課題として、「認知運動療法」を哲学的に基礎づけるための主要な学的な整備を行ったことになる。認知のなかに感情要素を含める課題は現在も進行中で、感情の定式化を触覚になぞらえて行ったことが成果である(「結語」)。

審査委員からの指摘等

以前のオートポイエーシス・システムの問題点として、システムを「出力も入力もない」ものとする規定があり、この内実をめぐり意見が割れ論争がおこってきたが、新たな理論展開を図ることで、そうした論争に決着を付けることができたのだろうかとの指摘があった。これに対し、システム自体が成立する場面とシステムが成立した後の場面がこれまでは(提唱者も含め)混同されてきたのであり、「出力も入力もない」のはシステムがシステムとして成立するまさにその場面のことであり、そうした場面では、まずシステムが内と外を区分することが先決事項であり、内/外の区分が確定されない段階では、そもそも「出力も入力もない」はカテゴリー・ミステイクであり、内/外の区分が確定されたあとはじめて出力と入力なる概念が適用可能になることが明確にされた。

また、イデア・本質直観なる概念の使い方がいささか無造作で不用意ではないかとの指摘があった。これに対し、イデア・本質直観は重要な問題であり、深入りすると議論が本来の意図から分裂するおそれがあった旨の回答があった。

第三に、情動・感情システムの議論は、全体の議論からすると、浮いているのではないかという指摘があった。これに対し、確かに全面的議論展開できなかったが、そうした問題圏は本テーマにとって重要であることをせめて示唆しておきたかったためである旨が回答された。

第四に、ギブソンに対する批判の妥当性が議論された。これに対し、「確かに言われるほど認知主義ではない。その点、ある側面を誇大化した上で批判したように読み取れるかもしれない。しかし、その分を差し引いても、本論文で解明した点からすると、ギブソンを全面的には支持できない」旨の回答があった。

最後に、1 人称/3人称の問題は、本論文で論じられていることがらを越えた、難問なのではないかという質問があった。これについては、「確かにその通りである。しかし、これも大問題であり、これに言及すると、本来意図した議論の道筋から外れるおそれがあり、本題に関して貢献するような議論をし、作業仮説を構築しておかないと、本題を先に進めることができなかった」との回答があった。

結論

以上、本論文は、システム論、現象学、認知運動療法が交錯する地平に対し多くの独自な指摘および貢献をなしえており、審査員からの指摘・質問は、本論文の欠陥ではなく、本分野の今後の方向性を示唆するものと解釈すべきであるとされ、審査委員全員から、博士(学術)に値すると評価された。

よって本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位請求論文として合格と認定する。

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