学位論文要旨



No 217035
著者(漢字) 多田,満
著者(英字)
著者(カナ) タダ,ミツル
標題(和) 河川における低濃度の残留農薬が水生昆虫に及ぼす生態影響に関する研究
標題(洋)
報告番号 217035
報告番号 乙17035
学位授与日 2008.11.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17035号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 教授 富樫,一巳
 東京大学 教授 嶋田,透
 東京大学 准教授 宮下,直
 東京大学 准教授 石川,幸男
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

化学物質による環境汚染の実態が明らかにされつつある中で、河川においても農薬等の化学物質が低濃度ながら残留しており、これら化学物質の河川生態系に及ぼす影響評価が一層重視されつつある。農耕地では様々な農薬が5~8月にかけて集中的に施用されるが、流出した一部の農薬が河川の生態系、または特定の生物にいかなる潜在的影響を及ぼすかについての知見はきわめて乏しい。そのうち河川に生息する水生昆虫は、現存量が大きく、食物連鎖系では魚類など上位の生物を支えているが、様々な化学物質に対する感受性は概して魚類よりも高い。そこで、本研究では、河川水中の残留農薬濃度を明らかにして、その濃度レベルにおける農薬が水生昆虫の持続的な生存に及ぼす影響を野外調査および室内試験により新たに考案した方法を加えた様々な評価手法により明らかにした。

2.野外調査による農薬類の水生昆虫に対する潜在的な生態影響の評価

2-1. 農薬汚染河川における汚染実態とそこに生息する水生昆虫の種組成とその変動

農耕地を流れる中小河川に生息する水生昆虫は農薬散布時期に流入する農薬の影響を受けやすい。そこで、関東平野の農耕地を流れる中小河川として茨城県の梶無川(中流域の上流と下流)と涸沼川(中流域の上流)の計3地点を選び、残留農薬と水生昆虫の変動調査をおこなった。いずれの河川でも河川水中に殺虫剤が4~8月にかけて検出され(最高濃度で2.2~22.4μg l-1)農薬散布時期と一致していた。

一方、水生昆虫は各河川の底質から12~22種とユスリカ科の幼虫が採集された。そのうちコカゲロウ類、シマトビケラ類、ユスリカやガガンボなどの双翅類が全体の種数のおよそ40%以上、個体数の80%以上を占めた。水中の殺虫剤濃度が高まった5~8月の各優占種の密度変動は次のようになった。(1)コカゲロウ類:サホコカゲロウは梶無川上流だけでみられ密度は増大した。シロハラコカゲロウは梶無川では採集されず、涸沼川ではみられたが、密度は減少した。(2)シマトビケラ類:コガタシマトビケラは全地点でみられ、どの地点でも密度が増大したが、ウルマーシマトビケラは梶無川では採集されず、涸沼川では密度が減少した。(3)ユスリカ類:各河川で採集されたがはっきりとした変動の違いは見られなかった。以上の調査から、サホコカゲロウとコガタシマトビケラでは、河川水中の殺虫剤濃度ではそれらの生息密度に大きな影響は認められなかった。一方、シロハラコカゲロウとウルマーシマトビケラの密度が減少したのは農薬散布の影響を受けたためであると考えられるが、これらの種は5~8月には羽化産卵のため幼虫密度が低下することが知られており、その因果関係は即断できない。よって、野外調査での密度減少の要因を明らかにするには室内実験が必要であると考えられた。

2-2. ストーンバッグによる農薬汚染の影響評価

農耕地を流れる河川では川底が水生昆虫の定着には不適な砂地の場合が少なくない。そこでこの問題を解決するために、ストーンバッグ(礫を入れた網袋)を川底に設置して水生昆虫群集を形成させることで残留農薬による生態影響を明らかにした。調査は川底が砂地であり、水田地帯を流れ農薬汚染度の高いことが予想される茨城県内の川又川の下流地点と、その比較として川又川の支流で川底が礫であり、山腹の河川上流で農薬汚染度が比較的低いことが予想される小桜川の上流地点の2カ所で行った。その結果、Dフレームネットによる簡易法では、小桜川の水生昆虫は20 種とユスリカ科が採集されたのに対し、川又川の砂地からはわずか1 種とユスリカ科しか確認されなかった。これに対し、ストーンバッグを用いると、川又川でも10種とユスリカ科が採集された。また、小桜川では簡易法によるのとほぼ同じ18種とユスリカ科が採集された。このことから川底が砂地である場合には、ストーンバッグなどの人工基物を用いる方が、従来の調査法よりも情報量が多く農薬類の河川生態系に及ぼす影響評価をより適切におこなうことができると思われる。なお、ストーンバッグに定着したウルマーシマトビケラ幼虫の密度をみると、小桜川では農薬散布時期の7~8月にも増大したが、川又川ではその期間には低く、9月以降に増大した。これは、川又川でその期間、河川水の殺虫剤濃度が高まったことが原因ではないかと考えられた。また、捕食者であるヘビトンボ幼虫が小桜川では年間を通じて生息していたが、川又川では9~10月にだけ確認された。これは餌となるシマトビケラ類やユスリカ類の幼虫が増えたためではないかと考えられた。

3.室内実験による農薬類の水生昆虫に対する潜在的な生態影響の評価

3-1. 止水条件下での急性影響

まず、止水条件下で短時間の試験が可能であったシマトビケラ類幼虫を用いて、殺虫剤と除草剤について48時間の半数致死濃度(LC50)を調べると、いずれも野外で検出される濃度より10~100倍程度高い値であった。除草剤に対する感受性は殺虫剤とくらべて非常に低かった。よって、このようなビーカーレベルの短時間の止水条件で生死を判定基準にした試験では、野外で検出されるような低濃度の農薬類の影響を正確に評価することはできないと考えられた。また、おもな水生昆虫であるカゲロウやトビケラなどの幼虫の多くは川の瀬に生息する流水性の昆虫であるため、これまでの試験法では適切な評価が困難であった。そこで、次のような新たに考案した評価手法を用いて各種水生昆虫の殺虫剤に対する影響試験を行った。

3-2. 回転流水式水槽を用いた亜急性影響評価

円筒型水槽をスターラーに載せ、撹拌子で回転流を起こすことで、造網性のシマトビケラ類幼虫を水槽内に営巣定着させた。その後、魚類用飼料を与えることで、シマトビケラ類幼虫を用いた亜急性(15日間)毒性試験を可能とした。このような試験法で営巣定着後のウルマーシマトビケラ幼虫は野外で検出される程度の濃度で巣を放棄してしまうことが分かった。また、殺虫剤の2、3種複合曝露による相加的影響も確認された。実河川では巣を放棄して流下することは、餌の摂食ができなくなり、魚などに捕食される可能性が増すなどその個体にとって生存のリスクが著しく増大することを意味する。一方、コガタシマトビケラ幼虫ではこのような影響は認められなかった。

3-3. マルチトラック循環式水路を用いたフェノブカルブの影響評価

河川の一次消費者として河川に広く分布するカゲロウ類の幼虫は、これまでにも一部の種を対象に2~数基の水路により短期間の試験が行われているが、本研究では対照を含め6種類の処理を同時に可能とするため、人工環境室に循環式の水路を6基設置し、さらに付着藻類を餌として与えることでカゲロウ類幼虫を用いた約1~2か月以上の試験を可能とした。また、本装置に設置した個別のケージで曝露することで、これまで止水条件では困難であった流水性の被食者と捕食者間の殺虫剤に対する感受性の比較も可能となった。

3-3-1. 被食者と捕食者間に対するフェノブカルブの急性影響

農薬汚染の影響の少ない河川(鬼怒川中流域と小桜川)から採集したカゲロウ類4種とウルマーシマトビケラおよびこれらの捕食者2種(オオヤマカワゲラ、ヘビトンボ)を上述の循環式水路に設置した個別のケージに馴化して、フェノブカルブ(多くの河川で比較的高濃度で検出される)の急性毒性試験(48時間 LC50)と亜急性(7日間)毒性試験を行った結果、シロハラコカゲロウやエルモンヒラタカゲロウをはじめとするカゲロウ類で感受性が高く、それらの捕食者で感受性が低い傾向が見られた。

3-3-2. カゲロウ(被食者)に対するフェノブカルブの慢性影響

シロハラコカゲロウとエルモンヒラタカゲロウの幼虫個体群に対する低濃度(1~16μg l-1)のフェノブカルブの影響を約1~2か月以上に渡り調べた。シロハラコカゲロウは1~4μg l-1の濃度で曝露後5日間の死亡率がおよそ20~50%になり、感受性が非常に高いことが分かった。一方、エルモンヒラタカゲロウでは、1、2μg l-1の濃度で、終齢幼虫のまま死んだもの、あるいは羽化できずに長期間幼虫のまま生存していた個体がみられ、殺虫剤による直接的な影響以外にも幼虫の脱皮などに関わる成長阻害が引き起こされた可能性が示唆された。

4.まとめと今後の展望

本研究では、農薬類の水生昆虫群集に対する生態影響評価のために、ストーンバッグを用いることによって、農薬類の影響調査の基礎となる生態系モニターの可能性とその精度が高められた。つぎに、従来困難であった流水性昆虫に対する低濃度農薬などの長期的影響評価を可能にするために、回転流水式水槽、および、マルチトラック循環式水路という2種の室内実験系を開発した。これらを用いることによって、河川で検出されるような低濃度の殺虫剤等農薬により、水生昆虫はその摂餌行動、生存、羽化等に大きな影響を受け、結果的に健全な河川生態系の持続が困難になっている可能性が示された。すなわち、野外で検出される残留農薬濃度でも河川生態系維持に深く関わるシマトビケラ類の減少を招くこと、およびそれにより食物連鎖関係にある捕食者に間接的な影響を及ぼす可能性、ならびに低濃度のフェノブカルブの曝露によりカゲロウ類幼虫個体群の減少や羽化抑制をもたらすことなどが明らかとなった。

以上、本研究は従来困難であった河川の水生昆虫群集に及ぼす農薬などの長期的影響の評価を可能にする種々の実験手法を開発し、これらを実際に用いて影響の実態を明らかにしたものであり、今後の河川における自然生態系保全にも重要な知見を与えることが期待できる。

審査要旨 要旨を表示する

河川における農薬等の残留が河川生態系に及ぼす影響評価は前世紀後半から重要課題であるが、急性毒性に関しては多くの研究が行なわれた結果、急性中毒による魚類の大量斃死などはほとんど見られなくなった。一方、比較的低濃度の農薬が及ぼす潜在的影響については知見がきわめて乏しく、その解明は重要である。水生昆虫はバイオマスが大きく食物連鎖で魚類など上位の動物を支える重要な存在であるが、化学物質に対する感受性は一般に魚類よりも高い。本研究では、低濃度の農薬が水生昆虫に及ぼす潜在的影響を野外調査および新たに考案した方法を駆使した室内試験により明らかにした。

野外調査による農薬類の水生昆虫に対する潜在的な生態影響の評価

1. 農薬汚染河川における汚染実態とそこに生息する水生昆虫の種組成とその変動

茨城県の農耕地を流れる梶無川と涸沼川に計3地点を選び、残留農薬と水生昆虫の変動を調査した。各河川の底質で優占したサホコカゲロウ、シロハラコカゲロウ、コガタシマトビケラ、ウルマーシマトビケラについて水中の殺虫剤濃度が高まった5~8月の密度変動を調べた。サホコカゲロウとコガタシマトビケラは生息密度に影響は認められなかったが、シロハラコカゲロウとウルマーシマトビケラは農薬散布時期に密度が減少した。この時期は羽化・産卵期に当たり、密度低下と農薬散布との関係を明らかにするには室内実験が必要と考えられた。

2. ストーンバッグによる農薬汚染の影響評価

川底が水生昆虫の定着しにくい砂地で生態影響調査を可能にするために、礫を入れた網袋(ストーンバッグ)を川底に設置して水生昆虫群集を形成させることに成功した。川底が砂地で農薬汚染度が高い川又川下流と、支流で川底が礫、農薬汚染度が低い小桜川上流で調査した。従来法では、小桜川で20 種が得られたのに対し、川又川からは1 種しか確認できなかった。これに対し、ストーンバッグ法では、小桜川で簡易法によるのと同等、川又川でも10種が採集され、川底が砂地でもストーンバッグを用いれば農薬類の影響評価が適切に行なえることが示された。

室内実験による農薬類の水生昆虫に対する潜在的な生態影響の評価

1. 止水条件下での急性影響

カゲロウやトビケラの多くは流水性で従来の止水条件下での試験法では適切な評価が困難であった。止水条件下でも短期試験が可能なシマトビケラ類幼虫で調べたところ、48時間の半数致死濃度(LC50)は河川中濃度の10~100倍で、低濃度農薬類の長期影響評価には不適と考えられたので、新たな評価手法を考案した。

2. 回転流水式水槽を用いた亜急性影響評価

水槽を磁気スターラーに載せて撹拌子で回転流を起こし、シマトビケラ類の亜急性(15日間)毒性試験を可能にした。ウルマーシマトビケラは河川中濃度で巣を放棄したが、コガタシマトビケラ幼虫ではこのような影響は認められなかった。

3. マルチトラック循環式水路を用いたフェノブカルブの影響評価

循環式水路を6基設け、長期間の同時6種類処理を可能とする装置を考案した.カゲロウ類のほか、これまで困難であった流水性の捕食者・被食者間の毒性試験も可能となった。

3.1 被食者と捕食者間に対するフェノブカルブの急性影響

農薬汚染の少ない鬼怒川中流域と小桜川から採集したカゲロウ類とウルマーシマトビケラおよびこれらの捕食者(オオヤマカワゲラ、ヘビトンボ)を個別のケージに馴化して、フェノブカルブの急性、亜急性毒性試験を行ったところ、カゲロウ類で感受性が高く、それらの捕食者で感受性が低い傾向が見られた。

3.2 カゲロウ(被食者)に対するフェノブカルブの慢性影響

シロハラコカゲロウとエルモンヒラタカゲロウに対する低濃度のフェノブカルブの影響を1~2か月調べた。シロハラコカゲロウは感受性が高かったが、エルモンヒラタカゲロウは感受性が低く、死亡以外に長期間幼虫で生存していた個体がみられ、成長阻害効果が示唆された。

以上、本論文は従来困難であった河川の水生昆虫群集に及ぼす農薬などの長期的影響の評価を可能にする種々の実験手法を開発し、これらを実際に用いて影響の実態を明らかにしたものであり、昆虫生態学、環境毒性学などに重要な知見を提供するとともに、応用的にも河川生態系の保全に貴重な情報を与えるものである。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)を授与されるに十分な価値があることを認めた。

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