学位論文要旨



No 217046
著者(漢字) 中溝,和弥
著者(英字)
著者(カナ) ナカミゾ,カズヤ
標題(和) 暴力の配当 : インド・ビハール州における政治変動とアイデンティティの政治
標題(洋)
報告番号 217046
報告番号 乙17046
学位授与日 2008.11.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第17046号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 馬場,康雄
 東京大学 教授 藤原,帰一
 東京大学 教授 大串,和雄
 東京大学 教授 伊藤,洋一
 東京大学 准教授 水町,勇一郎
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、1990年代にインドで起こった政治変動を、ビハール州の事例を通じて解き明かそうと試みた研究である。独立後、インドにおいては、「会議派システム」と称されたインド国民会議派による一党優位支配が1967年選挙まで20年間続いた。その後、州レヴェルにおいて会議派の一党優位支配は崩れるものの、中央レヴェルにおいては1977-79年を除いて会議派が一貫して政権を維持する。それが1989年下院選挙を契機として急速に崩壊してしまった。会議派支配崩壊後に立ち現れたのは、カースト・宗教アイデンティティに訴えて支持を集めるアイデンティティ政党であった。なぜ、このような変化が、しかも急速に起こったのか。この疑問が本稿の出発点である。

1989年下院選挙以降成立した政党システムは、「競合的多党制」と称される。特徴は、次の四つの政治現象から構成されていることである。すなわち、第一に会議派の衰退、第二に、カースト・宗教アイデンティティに訴えるアイデンティティ政党の台頭、第三に、カースト・宗教アイデンティティの重要争点化、最後に、カースト・宗教アイデンティティに基づく暴動の頻発、である。

このような特徴を持つ新しい政党システムの出現を説明するために、これまでの研究は様々なアプローチを取ってきた。会議派党組織の崩壊といった政治的要因を強調する研究、独立以来の経済政策の展開が社会にもたらした変化を重視する研究、インド社会に内在する社会的亀裂に着目した研究などである。既存研究は、政治変動の解明にとって重要な論点に取り組み、かつ成果も上げた一方で、未解決の課題も残していた。第一に、カースト・宗教アイデンティティを争点化させようとする試みは独立以前に遡ることが出来るにもかかわらず、なぜ1980年代後半から1990年代前半という特定の時期に争点としての重要度を上げたのか、第二に、これらアイデンティティの重要争点化が、なぜ会議派の衰退とアイデンティティ政党の台頭という政治変動をもたらし、かつ急激な変化を起こしたのか、最後に、会議派支配崩壊後の空白を埋める新たな政治勢力の出現をどのように説明するか、という課題である。

本稿は、残された課題に取り組むために、上述の四つの政治現象の相互作用に着目した。四つの政治現象は密接な連関を有しており、切り離して論じることが難しいためである。しかしこれまでの研究は、四つの連関を必ずしも十分に意識せず、とりわけ暴動を説明変数として取り上げる試みを行ってこなかった。同時に、「アイデンティティの政治」の解明が進められる中で、カースト・宗教両アイデンティティは密接なつながりを持っているにもかかわらず、両者を個別に研究する傾向が強かった。このような問題意識から、本稿においては、カースト・宗教両アイデンティティの相互作用に留意しつつ、四つの政治現象の相互作用を、暴動、とりわけ「暴動の終わり方」を軸として分析した。

分析に際しては、各政党の集票戦略に着目した。かつての「会議派システム」を支えた会議派の集票戦略は、土地の有力地主カーストに集票を依頼する「地主動員」戦略であった。農村の社会経済構造を垂直的に動員する戦略は、確かに各社会階層から満遍なく支持を調達したが、有力地主カーストに優先的にパトロネージを分配するため、参加と代表の格差が生じるという矛盾を内包していた。この矛盾をついたのが、社会主義政党であった。

人口の過半数を占めるにもかかわらず、会議派政権において権力から疎外されていた後進カーストは、不満を徐々に強めていく。社会主義政党は、後進カーストに対する公務員職留保制度の実現を掲げ、後進カーストからの支持調達を図った。「カースト動員」戦略と名付けることが出来る。農村社会を水平的に動員する戦略と政策は、会議派が頼る上位カースト地主の権力基盤を崩す危険性が高いことから、会議派は公務員職留保問題を棚上げにして争点化を極力避けてきた。しかし、後進カーストの政治的台頭を押しとどめることは出来ず、会議派の集票モデルは、「地主動員」モデルから「端の連合」モデル、すなわち、上位カースト、指定カースト・部族、ムスリムという社会階層の頂点と底辺の連合が会議派支配を支えるモデルに変化していった。

「端の連合」モデルの不安定性を解消しようと試みたのが、「宗教動員」戦略への接近であった。「ヒンドゥー国家の実現」をあからさまに訴えるBJPの「宗教動員」戦略とは異なるため、亜流「宗教動員」戦略と称するが、この新戦略の採用こそが、アヨーディヤ問題の重要争点化、そしてバガルプール暴動という大宗教暴動に結びついた。暴動を鎮圧できず、むしろ拡大を招いたことにより、会議派は「端の連合」の重要な一角であるムスリム票を失い、1989年下院選挙において大敗することとなった。

会議派政権崩壊後に誕生した国民戦線政権下において、カースト・宗教アイデンティティは更に重要な争点となる。後進カーストに対する公務員職留保制度を提言したマンダル委員会報告の実施とこれに伴う暴動は、カースト・アイデンティティの重要争点化を招き、これに対抗してBJPが組織した山車行進は、再び宗教暴動を招いた。ビハール州では、ラルー政権が宗教暴動を断固として鎮圧しムスリム票を繋ぎ止める一方、マンダル暴動には曖昧な対処を取ったことにより、上位カーストの離反を招いた。「暴動の終わり方」によって、政党と社会集団の関係が組み変わり、そして固定されたと指摘できる。このように、特定政党と特定の社会集団が結びつく「政治の分極化」が生まれ、ビハール州における競合的多党制の成立につながった。

以上の分析を、既存研究が積み残した課題と照合すると次のようになる。まず第一に、カースト・宗教アイデンティティが争点としての重要度を上げた理由は、これらアイデンティティに基づく暴動が、かつてない規模で起こったことが大きな要因であった。第二に、カースト・宗教アイデンティティの重要争点化が、アイデンティティ政党の台頭に結びつき、しかも台頭が急激な速度で起こった理由は、カースト・宗教アイデンティティに基づく大規模な暴動・暴力が、選挙と重なった事実に求めることが出来る。最後に、会議派支配崩壊後に出現した新たな政治権力の構成に関して、ビハール州でジャナタ・ダルが権力を掌握した理由は、ラルー政権による暴動への対処に求めることが出来る。ラルー政権は宗教暴動に対しては断固として対処しムスリム票を確保したが、マンダル暴動には曖昧な態度を取り上位カーストは離反した。曖昧な対応は、ヒンドゥー社会の亀裂を生みだし、BJPによる「ヒンドゥー票」構築を目指す試みの挫折を招いた。「暴動の終わり方」が、カースト・アイデンティティ間の対立関係を刺激し、ヒンドゥー・アイデンティティに対するカースト・アイデンティティの優位をもたらした結果だと解釈することができる。

このように、既存研究が積み残した課題は、暴動、とりわけ「暴動の終わり方」を説明変数に組み込むことによって、よりよく説明できることが明らかとなった。

それでは、最後に、冒頭に掲げた政治変動の解明に立ち戻りたい。なぜ「競合的多党制」が成立したのか。この問いは、次の三つの問いから構成される。第一に、なぜ会議が衰退したのか、第二に、なぜ会議派支配崩壊後に現われたのが、アイデンティティ政党だったのか、最後に、なぜ新しい政党システムが、新たな一党優位制ではなく、競合的多党制として立ち現れたのか。

第一点に関しては、長い過程である。四つの政治現象の相互作用が時間をかけて進行していく過程で、会議派の集票モデルが、「地主動員」モデルから「端の連合」モデルへ変化し、その結果として亜流「宗教動員」戦略が生まれた。亜流「宗教動員」戦略は大宗教暴動を生みだし、「暴動の終わり方」が「端の連合」の重要な構成要素であるムスリムの離反を招いた。その結果、会議派支配は崩壊する。「暴動の終わり方」は、会議派支配崩壊を導く決定打としての役割を担うこととなった。

第二点目も、会議派の集票戦略と密接に関連している。社会主義政党が、後進カーストに対する公務員職留保問題の実現を訴えて後進カーストの一定の支持を得ることに成功したのは、会議派が採用する「地主動員」戦略が、参加と代表の格差という矛盾を抱え込んでいたためだった。BJPがアヨーディヤ動員を過熱させ、宗教アイデンティティを重要な政治争点として顕在化させることに成功したのは、パンジャーブ問題を契機として会議派が亜流「宗教動員」戦略を採用したからであった。このように両アイデンティティの争点化に加えて、暴動、とりわけ「暴動の終わり方」が作用し、アイデンティティ政党の台頭に結びついた。

最後に、それでは、なぜ新しい政党システムは新たな一党優位制の出現ではなく、「競合的多党制」として出現したのか。ビハール州に関しては、生き残った集票モデルが「カースト動員」モデルのみとなった事実に求めることが出来る。ジャナタ・ダルに対抗するためには、他党も「カースト動員」戦略を追求することを余儀なくされた。各党が、特定のカーストを支持基盤とする「カースト動員」戦略を採用する以上、かつての会議派のように多様な社会集団を一つの党の中に包摂する包括政党の成立は、困難となる。ビハール社会において最大のカースト集団を構成するヤダヴですら、人口比では11%に過ぎないことを考えると、特定カーストに支持基盤を求める政党の数は、必然的に増えることとなる。その結果、ビハール州における有効政党数は1990年以降増大し、「競合的多党制」が成立するに至った。

このように、カースト・宗教両アイデンティティの相互作用に留意しつつ、四つの政治現象の相互作用を、暴動の政治的帰結、すなわち「暴力の配当」を分析の軸として分析することにより、これまでの研究が積み残してきた課題の多くを説明することができ、1990年代の政治変動をよりよく把握することができたと考えられる。

暴動、とりわけ「暴動の終わり方」を説明変数として捉える視点は、新しい試みである。これまでの研究において、暴動はあくまで説明の対象であり、暴動の政治的帰結を検討するという関心は乏しかった。このことは、暴動の政治的帰結を検討する意義がない、ということを意味しない。本稿の検討でも示したように、暴動の政治的帰結、すなわち「暴力の配当」を検討することによって、1990年代に起こった政治変動を、少なくともビハール州レヴェルではよりよく説明することに貢献した。ビハール州が、ウッタール・プラデーシュ州に次ぐ下院議席を保持していたことを考慮に入れると、この結論が持つ意味は決して小さくない。

「暴動の終わり方」だけで全てを説明できると言っているわけではない。政治変動を理解するためには、カースト・宗教両アイデンティティの相互作用に留意しつつ、暴動も含めた四つの政治現象の相互作用を、各政党の集票戦略に焦点を当てて分析することが必要である。その意味で、「暴動の終わり方」は説明変数の一つであるが、しかし同時に、それが有権者の投票行動に大きな影響を及ぼす変数であることは否定しがたい事実である。

本稿においては、ビハール州の事例を検討するにとどまったが、1990年代の政治変動においては、他の州でも暴動は頻発した。「暴力の配当」を軸として「アイデンティティの政治」を把握することで、競合的多党制の成立をどこまで解き明かすことができるか、検討する価値があることは確かである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、インド政治におけるカーストと宗教の相違に由来する暴動と、その暴動の終結過程に注目し、インド全国政治の動向とビハール州の事例研究を組み合わせて論じることによって、インド政党政治の変容を捉えた研究である。

独立後のインド政治で長らく定着していたインド国民会議派の主導する体制は姿を消し、インドは単独で優位を保つ政党が存在しない競合的多党制の時代を迎えた。その変化と相前後して、カーストと宗教の政治的表現も頻発し、インド各地、とりわけウッタル・プラデシュ州とビハール州ではヒンドゥーとイスラムの対立を主軸とする宗教暴動が繰り返し発生した。その行き着いた結果がヒンドゥー第一を掲げるインド人民党の政権掌握に外ならない。

インド政治の研究においては、国民会議派システムの崩壊も、アイデンティティの政治の台頭も、かねてから指摘されてきた。だが、従来の研究においては、会議派党組織の崩壊をはじめとする会議派システムの弱まりか、インド社会における社会的亀裂や個別のアイデンティティ政党の記述を主とするものが多く、政党政治の変容とアイデンティティの台頭を結びつけて検討したものは稀であった。

ここに本論文の特徴がある。なぜ暴動が起こったのかばかりでなく、暴動は何を残したのか、暴動が政治変動に与えた影響に注目することによって、暴動が有権者の投票行動を変える契機となり、社会的亀裂が政党政治の構成を左右するに至る、そのプロセスが示されている。暴動の政治的帰結に注目することで、会議派支配の衰退と、暴動の発生というそれぞれ個別に扱われてきた現象を結びつけて考察するのである。

以下、本論文の概要を述べる。

第一章では、インドにおける政党システムの変容とその研究が回顧されている。インドの政党システムは、会議派システム(1947-67年)、会議派-野党システム(1967-89年)、競合的多党制(1989年以後)、という三つの時期を経験してきた。この分類そのものは多くの研究者に共有されているものであるが、その説明としては会議派の凋落に注目するものとアイデンティティ政党の台頭に注目するものの二つに分かれ、両者をあわせて説明する枠組みは提供されていなかったと著者は指摘する。そして、暴動の発生過程のみを見るのではなく、暴動の終結とその遺したものの検討によって、両者を統合する説明が可能であると述べ、本論の枠組みが提起されている。

ここでは、事例研究としてビハール州を選んだ理由も示されている。ビハール州は会議派による一党優位制の崩壊がインドの中で最も進んだ州の一つであるとともに、ウッタル・プラデシュと並んで最大規模の宗教暴動も発生した点において、全国政治の変化をさらに極限的に示した事例である。インド人民党が奪権した他の多くの州とは異なり、ビハールでは会議派に代わって政権を担ったのがジャナタ・ダルであるが、著者はこれが会議派支配崩壊後の政治権力の構成、すなわち競合的多党制の特徴を示すものであり、事例としての適格を奪うものではないと述べている。

第二章は、会議派システムを支えた要因を、有力地主カーストに集票を依頼する「地主動員モデル」に求め、イギリス統治下における国民会議派の成長から1967年までの全国政治の展開のなかで地主の動員に依存した政党政治の動態が示されている。さらにビハール州において著者が行った調査を下にして、地主動員戦略の実態を追うとともに、その戦略には矛盾があったこと、すなわち広汎な国民参加に依存しながら現実に政治権力を構成する主体は上位/上層後進カーストに集中するという、「参加と代表の格差」が生まれていたと述べられている。

人口で過半数を占めながら権力から疎外された後進カーストは不満を募らせるが、これに注目したのが、社会主義政党であった。第三章では、その社会主義政党の採用した「カースト動員」戦略、すなわち後進カーストに対する公務員職留保制度の実現を訴えることで後進カーストを動員する戦略が分析されている。全国の政治ばかりでなくビハール州の事例も検討されており、1977年に成立したタークル・ジャナタ党政権が州政府における公務員職留保制度の導入に踏み切り、社会主義政党が次第に後進カーストの支持を集めたことが指摘されている。

後進カーストの緩やかな離反は、会議派にとって脅威となった。支持基盤の縮小に対処するために会議派は、後進カーストの支持を取り戻すために農業関連補助金を増額し、地主の権力強化を狙って地方自治制度を改革するとともに、「地主動員」戦略を宗教アイデンティティを軸として組み替え、宗教による動員に向かう。宗教動員を本来の主張とするインド人民党と区別する意味から、著者はこの会議派の戦略を「亜流宗教動員」戦略と呼んでいる。

そして、国民会議派が宗教動員に向かったことが暴動の素地を作り上げることになる。この宗教と暴動の登場を論じるのが第四章である。当初から「宗教動員」を本来の主張としてきた人民党は、1989年下院選挙運動としてラーム・レンガ行進を行い、暴動を相次いで引き起こす。政権を担う会議派は、「ヒンドゥー票」の離反を恐れたために行進を禁止できず、その結果として千人を超えるムスリムが虐殺されたビハール州バガルプール暴動が発生する。

第五章は、バガルプール暴動の残したもの、すなわち「暴動の終わり方」を論じている。バガルプール暴動の背後には、人民党による宗教動員と、それに対抗するかのような国民会議派による亜流宗教動員の双方がヒンドゥー票の獲得を求めて競合する過程があった。暴動の帰結はムスリムの会議派からの離反であり、その受け皿となったのがジャナタ・ダルである。全国レベルにおいては、ムスリムの離反の政治的表現となったのが、1989年下院選挙における会議派敗北であった。ビハール州においては、1990年州議会選挙で会議派は敗北し、後進カーストのヤダヴ出身であるラルーを首班とするジャナタ・ダル政権が成立する。ヒンドゥー票を独占する政党が出現しないなかで、カーストによる動員に加えてムスリム票を獲得したジャナタ・ダルが優位に立ったのである。

第六章は、カーストと宗教によって混乱を深めるインド政治を、全国レベルとビハール州の事例に則して論じている。ビハールの首相に就任したラルーは当初から断固として宗教暴動を鎮圧し、人民党が新たに行った山車行進も禁止した。決定は中央のV.P.シン国民戦線政権の崩壊を招いたが、会議派政権と対照的な決然たる措置はムスリム票をジャナタ・ダルに繋ぎ止める効果を持っていた。他方で、ラルー政権によるカースト暴動への対処は、宗教暴動とは対照的に曖昧であった。マンダル委員会報告の実施を契機に起こったマデプラ暴動において、後進カーストが上位カーストを襲撃する間、県庁・県警の動きは鈍く、その微温的な対応は上位カーストと後進カーストの亀裂を深め、1991年下院選挙以降の投票行動に影響を及ぼした。ムルホ村の事例に見られるようにヤダヴを中心とする後進カーストはラルー政権を支持する一方、上位カーストはラルー政権に反撥し、次第に人民党支持へと収斂してゆく。1995年州議会選挙でラルー政権が権力基盤を固めると、ベラウール村では上位カースト地主が私兵集団ランヴィール・セーナーを結成し、指定カーストの虐殺を実行した。こうして、特定の社会集団と特定の政党が結びつく競合的多党制が出現した。

以上のように、カースト・宗教アイデンティティが1990年前後という特定の時期に重要争点化した理由として、動員に伴う暴動が多発した現象を見逃すことはできない。アイデンティティに基づく暴動は、被害者のアイデンティティ意識を先鋭化させ、政治争点としての重要度を高めたからである。暴動は有権者の投票行動に影響を与え、ヒンドゥー票やムスリム票、さらに後進カーストの票が選挙結果を左右する時代が生まれたのである。

またこれは、会議派システムから人民党システムへ、などといった支配政党の交代を示すものではない。全国規模でも、ビハール州でも、人民党によるヒンドゥー票独占の試みは挫折に終わったが、これはヒンドゥー票の動向ばかりでなくムスリム票と後進カースト票を射程に捉えなければ理解できない変化である。ビハール州において、会議派支配崩壊後に政権についたのは人民党ではなくジャナタ・ダルであったが、それはヒンドゥー社会における上位カーストと後進カーストの亀裂のために人民党がヒンドゥー票構築に失敗したからであった。このような重層的な社会亀裂が生み出すものは人民党システムのような優位政党の明確な政党システムではなく、競合的多党制であると著者は結論を下している。

以下、本論文の評価に入る。

本論文の長所の第一は、インド全国、ビハール州、さらにビハール州の村落という、全国/州/村落を網羅した多層的な分析にある。これまでは、全国レベルにおけるインドの政党政治の研究も、州レベルにおけるそれも行われてきたが、全国規模では優位政党を中心とした叙述が行われ、逆に州レベルでは、たとえば西ベンガル州における共産党支配のようにその州に独自の政党政治が注目されることが多く、全国政治と州政治を組み合わせた研究が行われることは稀であった。本論文はその欠陥を克服し、全国政治における選挙戦略と州レベルのそれとの重なりやズレを指摘するばかりでなく、州の中の選挙区の動向や村の政治にまで視野を広げて検討を進めている。その結果、連邦における政治変動と地方における政治変動の双方を結びつけた記述が可能となった。

本論文の第二の長所は、徹底した現地調査にある。著者は二年にわたる長期滞在に加え、数多くの現地調査を繰り返すことによって、ただ全国レベルの選挙結果や他の研究機関による世論調査に頼るのでなく、州レベルの選挙資料を広く集めるとともに、ビハール州の政治家や一般市民から聞き取り調査を行っている。本論文の説得力は、信頼できるデータを得ることがきわめて困難な対象に対して入手可能なデータをすべて集めようという、この例を見ない広汎な実地調査によって支えられていると考えることができるだろう。とりわけ、暴動の分析においては、たとえばバガルプール暴動の勃発直前の「不穏な静けさ」やムスリムへの暴徒による襲撃など、微細なディテールまで織り込みながら叙述することに成功している。

その結果として、これまでのインド政党政治研究ではそれぞれに孤立して分析されてきた「会議派システムの崩壊」と「アイデンティティ政治の台頭」の両者を結びつける視点が提供されたことが、本論文のオリジナリティであり、最大の貢献であろう。アイデンティティの政治の台頭は、決して「ヒンドゥーの政治化」や「インド人民党の台頭」だけによって説明できるものではなく、後進カースト、ムスリム、さらにヒンドゥーというカースト/アイデンティティの政治的表出が、まさに会議派の弱まりに伴う選挙戦略の変化に伴って起こった現象だったからである。その転機として暴動に注目し、暴動がなぜ生まれたのかだけでなくそれがどのような政治的帰結をもたらしたのかを考察するという著者の方法は、独自であるとともに適切な選択であると評価できるだろう。

ここから導れる結論は、優位政党の存在しない競合的多党制の誕生というものであり、国民会議派に代わって人民党が優位を占めるであろうという数多くの政治的観測と鋭く対立している。そして、人民党政権が崩壊し、会議派が政権を奪取しながらもその統治が動揺を続ける現在のインド政治を見るならば、この結論には十分な説得力を認めることができるだろう。本論文はインド政治の過去を対象とするものではあるが、現代政治の分析にも大きな示唆を与える業績であると考えられる。

次に、本論文の弱点と考えられるのは、以下の点である。

第一に、会議派システムを支えたと著者の指摘する地主動員戦略については、選挙結果を中心とする叙述に終始しており、地主がどのように票を集めるのか、比較政治学のカテゴリーでいえばパトロン・クライエント関係に関する叙述が乏しい。会議派システムの衰微を指摘する論者がこのクライエンテリズムの展開に焦点を合わせて研究を進めてきたことを考えるならば、著者はクライエンテリズムの実態をも組み込んだ記述を目指すべきであったと思われる。

第二に、暴動の帰結に注目する結果として、逆に暴動がなぜ起きるのか、その暴動の発生過程の記述については、叙述のなかで触れられるとはいえ、理論的な説明は充分とは言えない。なぜあるときに暴動が起こらず、あるときには暴動が起こるのか。たとえば、後進カーストの現況に関するマンダル報告が発表されたときにはさしたる反響も見られなかったのに、その報告に基づいた公務員留保制度が実施に移されようとすると大規模な暴動が発生したのはなぜか、このような疑問は本論文では正面から扱われていない。これは、先行研究が主として暴動の原因を扱ってきたのに対して、本論文では暴動の帰結に注目するという著者の選択の帰結ではある。しかし本論文の記述から判断する限り、上記のような疑問に対して先行研究が充分に解明しているとは言い難い。暴動発生のメカニズムに関しても現地調査等に基づく独自の洞察を加えることができたならば、本論文の価値はいっそう高いものになったと思われる。

第三に、ビハール州という事例の選択が、本論文の魅力となるとともにその限界ともなっている。ビハール州が人口規模においても発生した暴動の大きさにおいても重要な事例であることは言を俟たないが、それでは同様に人口規模が大きく、大規模な暴動が発生し、しかもビハール州とは異なって会議派政権の後に人民党が権力を手にしたウッタル・プラデシュ州はどう考えればよいのか。州レベルの研究に多くの労力が必要となることを承知で敢えて指摘するなら、州レベルの比較を補うことによって本論文はさらに大きな成果を手にすることができたであろうと考えられる。

しかし、以上のような弱点が本論文の価値を損なうものとはいえない。本論文は、その筆者が高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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