学位論文要旨



No 217049
著者(漢字) 山元,崇
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,タカシ
標題(和) 1,2-ジハロエテン、1,2-ジハロジアゼンおよび鎮痛効果を有するペプチド誘導体の分子構造を決定する因子の研究
標題(洋) Studies on the Factors Determining Molecular Structures of 1,2-Dihaloethenes, 1,2-Dihalodiazenes and Analgesic Peptide Derivatives.
報告番号 217049
報告番号 乙17049
学位授与日 2008.11.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第17049号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 友田,修司
 東京大学 教授 川島,隆幸
 東京大学 教授 橘,和夫
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 准教授 辻,勇人
内容要旨 要旨を表示する

分子構造とは、原子や化学結合の三次元的な配列のことをいう。ある分子に固有の分子構造は、その分子構造に由来する電子構造とあいまって、その分子や分子の集合体に固有の様々な性質を決定する要因となる。また、包接体の形成、受容体との結合による生理活性の発現、溶液への溶解性など近接する分子間の相互作用の結果生み出される化学的現象の決定的な因子になるとも考えられている。

この分子構造は、量子力学的な概念から原子・分子の表面起動(一番外の電子殻にある価電子軌道)の相互作用が最安定な構造と考えることができる。このため量子化学的理論に基づいたさまざまなモデルが現在までに提唱されてきたが、そのうち最も広く受け入れられているもののひとつが、「分子構造は非共有電子対や結合電子対の交換反発で決まる」とした原子価核電子対反発(VSEPR) モデルである。例えばエタンの重なり配座よりねじれ配座の方が安定になる理由は、このVSEPRモデルによれば隣接するC-H・・・C-H結合間の交換反発の結果であると考えられる。しかし電子の非局在化(超共役理論)に基づいて、ねじれ配座の安定化の原因は隣接C-H結合間のアンチペリプラナー効果(AP effect)であるとの解釈も可能で、この二つの理論の間で長年議論が展開されてきた。この論文の前半部分では、VSEPRモデルでは説明ができない1,2-ジハロエテンおよび1,2-ジハロジアゼンのcis-effectと呼ばれる現象を理論化学的に考察することにより、交換反発よりも電子の非局在化が熱力学的に安定な分子構造を決定する際に重要な因子になっていることを示した。

Cis-effectとは二重結合を持つ分子においてcis体がtrans体よりも熱力学的に安定になる現象をいう。1,2-ジハロエテン(XHC=CHX, X = F, Cl or Br)および1,2-ジフルオロジアゼン(FN=NF) の場合、VSEPRモデルによればハロゲン非共有電子対間の交換反発が大きいcis体のほうが対応するtrans体よりも不安定化されていると考えられる。しかし、これらの化合物では実験的にcis体がtrans体よりも熱力学的に安定になるか、ほぼ同じ安定性を示すことが示されている。この原因を分子軌道法計算とNatural Bond Orbital(NBO) 理論を用いて検証した。まず電子相関を考慮した高レベルの分子軌道法計算によって、1,2-ジハロエテンや1,2-ジフルオロジアゼンだけでなく、1,2-ジクロロジアゼンや1,2-ジブロモジアゼンでもcis体がtrans体よりも熱力学的に安定であることが示された。さらにNBO法を用いた分子軌道計算により、これら化合物のcis-trans体間のエネルギー差には電子の非局在化による安定化エネルギーの影響が交換反発による不安定化エネルギーよりも大きく、cis-effectの主因は電子の非局在化にあることが明らかとなった。ここで1,2-ジハロエテンにおいては、ハロゲン非共有電子対がC=C結合の反結合性軌道へと非局在化する軌道相互作用(LP effect) とAP effectの二つの非局在化メカニズムが重要で、LP effectを介する安定化エネルギーの方がAP effectよりも大きい。ここでcis体のLP effectがtrans体よりも大きい理由は、福井-稲垣理論(軌道位相理論)においてcis体でのみLP effectの軌道位相が連続していることから説明できる。1,2-ジハロエテンの電子的等価体である1,2-ジハロジアゼンにおいてもLP effect、AP effectの両方がcis体をtrans体よりも熱力学的に安定にする。しかし1,2-ジハロエテンの場合とは逆に、AP effectを介する安定化エネルギーの方がLP effectよりも大きい。この逆転の原因として、1,2-ジハロジアゼンにおいては窒素原子の非共有電子対がAP effectに寄与することと、N-X(X = F, Cl or Br) 結合がC-X結合に比べて長くハロゲン非共有電子対とN=N結合の反結合性軌道との軌道の重なりが小さくなることの二つが考えられる。以上の結果から、1,2-ジハロエテンや1,2-ジハロジアゼンといった小さく簡単な分子において、VSEPR理論で示される交換反発ではなく、電子の非局在化が熱力学的に安定な分子構造を決定する主要因子であることを示した。また電子的等価体のような電子構造的に類似していると考えられる分子間でも、熱力学的に安定な分子構造を決定する因子に違いがあることも明らかとなった。

ここで分子構造の変化は分子間認識、例えば生理活性リガンドの受容体への結合にも決定的な影響を及ぼす。例えば官能基の導入や置換によってリガンドの受容体における生理活性が大きく変化することがあるが、この現象はリガンドの三次元的な分子構造変化の結果として受容体への親和性が変化することにより起こると考えられる。しかし受容体たんぱく質のX線結晶構造を得ることは簡単ではなく、リガンド単体として水溶液中で得られる三次元構造は必ずしも受容体に結合した構造とは一致しないため、実験的に得られるリガンドの三次元構造から生理活性を推測することは簡単ではなかった。ここでリガンド結合部位が膜貫通ドメインあるいはその近傍にあることが分かっているオピオイド受容体やニューロキニン1(NK1) 受容体などのG蛋白質共役型受容体(GPCR) においては、溶液中に存在するリガンドが受容体に三次元的経路で結合するよりも一度生体膜中に移行したリガンドが膜中を二次元的に移動して受容体に結合するほうがエントロピー的に有利であると考えられる。またGPCRの膜貫通ドメインは脂溶性の高いアミノ酸残基が多く、リガンド結合部位自体も脂溶性が高いことが多い。このため脂溶性が高い生体膜中の分子構造の方が水溶液中の構造よりも受容体に結合する構造と関連しており、生理活性の発現により大きな寄与があると仮定した。この論文の後半部分では、この仮定に基づいて生体膜中のリガンドの三次元的な分子構造を決定している因子とその分子構造の変化が生理活性に及ぼす影響について、オピオイドアゴニスト(OA) 作用とNK1阻害作用を併せ持つ鎮痛ペプチド誘導体を用いて考察を行った。

ペプチド誘導体は、オピオイドアゴニストファーマコフォア(OAP: Tyr-D-Ala-Gly-Phe)をN末に、NK1阻害ファーマコフォア(NAP: Pro-Leu-Trp-A-3',5'-Bzl(B)2, A = O or NH, B = H or CF3)をC末に配置することにより設計した。副作用が少なく強力な鎮痛薬を目指してδ選択的なOA活性とNK1阻害活性を指標に構造の最適化を行った結果、C末(NAP)の分子構造のみが異なり、共通のOAPを持つ3つの高活性ペプチド誘導体TY005: Tyr-D-Ala-Gly-Phe-Met-Pro-Leu-Trp-O-3',5'-Bzl(CF3)2; TY027: Tyr-D-Ala-Gly-Phe-Met-Pro-Leu-Trp-NH-3',5'-Bzl(CF3)2; TY025: Tyr-D-Ala-Gly-Phe-Met-Pro-Leu-Trp-NH-Bzl(但し3',5'-Bzl(CF3)2は3',5'-bis-trifluoromethylbenzyl)を得た。TY005はラット鎮痛モデルにおいて用量依存的な強い鎮痛効果を示し、これら誘導体の動物モデルにおける生理作用を確認することができた。興味深いことにこれら化合物はNK1阻害活性だけでなくOA活性にも大きな差があり、特にC末のCF3基がオピオイド、NK1両方の受容体における活性に大きく関与していることが判明した。これら誘導体間ではOAPの一次配列は共通であるため、OA活性の変化は明らかにOAPから遠く離れたC末の構造変換によって惹起されたリガンドの高次構造変化によると考えられる。そこで先ほどの仮定の通りに生体膜中の分子構造が受容体に結合した分子構造と関連していると予想し、生体膜を模したドデシルホスホコリン(DPC) ミセル中における誘導体の分子構造を二次元NMR法を用いて解析した。その結果、CF3基を持つTY005とTY027は二つのβターンを持つ二次構造を示したのに対し、CF3基を持たないTY025はヘリカルな二次構造を持つ全く違った立体構造をとっていることが明らかとなったが、化合物間のオピオイド受容体における活性の違いはこれら立体構造の違いと関連していると考えることができる。このように擬似生体膜中でのリガンドの分子構造変化が受容体への親和性や生理活性の変化と関連しており、生体膜中の分子構造の重要性を示唆する結果を得た。またC末の置換基、特にCF3基がこれら鎮痛ペプチド誘導体の生体膜中の分子構造を決定する重要な因子となっており、生理活性の発現にも重要な役割を果たしていることも明らかとなった。ここで得られたリガンドの生体膜中の分子構造決定因子とその生理活性への影響に関する研究結果は、新たな薬剤の設計や開発において重要な知見を提供できると考えられる。

以上のように本論文では分子構造を決定する因子について、軌道相互作用レベルでの熱力学的に安定な分子構造の解析からペプチド誘導体への置換基導入による三次元的な分子構造の変化まで、量子理論化学から構造生物化学的なアプローチを用いて幅広く議論を行った。このため、ここで報告した分子構造を決定する因子についての研究は幅広い科学的現象を分子レベルで理解するために重要な基礎情報となるとともに、こういった現象を制御するために必要な知見を提供できると考えている。

審査要旨 要旨を表示する

第1章はイントロダクションであり,本論文の研究テーマの意義について述べられている.分子構造の支配因子の量子化学的解明は充分になされておらず,未だに古典的な立体反発を構造決定の主因子と考えるVSEPRモデル(原子価殻電子対反発モデル)が教科書などで主張されている.本論文は,VSEPRモデルの論理的齟齬を明らかにし,シス効果の量子論的研究をベースにして分子構造の支配因子が電子の非局在化による最大安定化で決まることを定量解析を用いて明らかにしようとしたものである.

第2章はシス効果の定量解析による支配因子の解明に関して述べられている.C=C結合やN=N結合などの二重結合回りの幾何異性においてしばしばトランス体よりもシス体が熱力学的に安定であることが実験的に明らかにされている.その原因をNBO(natural bond orbital)法を用いて定量的に解析し,非共有電子対の非局在化(LP効果)とアンチペリプラナー効果(AP効果)の2つの因子がシス効果の原因であることをつきとめた.

第3章では,生体反応における酵素と基質(高活性ペプチド誘導体)の相互作用における基質の官能基および構造と生理活性との相関を,基質の合成実験のみならず,先端的なNMRのスペクトル解析技法を用いて,定量評価し,さらに得られた実験結果を計算によって確認した.具体的には,生体膜中のリガンドの三次元的な分子構造を決定している因子とその分子構造の変化が生理活性に及ぼす影響について、オピオイドアゴニスト (OA) 作用とNK1阻害作用を併せ持つ鎮痛ペプチド誘導体を用いて考察を行った。擬似生体膜中でのリガンドの分子構造変化が受容体への親和性や生理活性の変化と関連しており、生体膜中の分子構造の重要性を示唆する結果を得た。本論文で得られたリガンドの生体膜中の分子構造決定因子とその生理活性への影響に関する研究結果は、新たな薬剤の設計や開発において重要な知見を提供できると考えられる。

なお,本論文の第2章は友田修司および金野大助との,第3章は,V. J. Hruby,E. Navratilova,J. Vagner,P. Nair,F. Porreca,T. Largent-Milnes,T. W. Vanderah,P. Davis,S. Ma,J. Lai,S. Moye,H. I. Yamamura,およびS. Tumatiとの共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験および計算を行ったものであり,論文提出者の寄与が充分であると判断する.

従って,博士(理学)の学位を授与できると認める.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/21999