学位論文要旨



No 217050
著者(漢字) 富澤,克美
著者(英字)
著者(カナ) トミザワ,カツミ
標題(和) アメリカ労使関係史のなかの階級道徳と労働者統合論
標題(洋)
報告番号 217050
報告番号 乙17050
学位授与日 2008.11.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第17050号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,建資
 東京大学 教授 小野塚,知二
 東京大学 教授 和田,一夫
 東京大学 教授 粕谷,誠
 東京大学 教授 佐口,和郎
内容要旨 要旨を表示する

マックス・ヴェーバーは、彼の生きた時代、すなわち19世紀末から20世紀初頭における労使関係を「階級道徳と反権威的な労働組織に結集する」労働者に対抗して「労働意欲のある」労働者を保護するという構図によって把握していた。これを私はヴェーバー命題と名付けたのであるが、本研究はこのヴェーバー命題を大量生産体制確立期アメリカに当てはめた場合、どのような物語を紡ぎ出すことができるか、それを試みたものである。具体的には以下の3つの課題を設定した。第一の課題は「階級道徳の具体的発現形態である緩怠、つまり生産高制限に注目し、そうした緩怠に示された階級道徳と関連させて労働組合の変貌を把握すること」である。第2の解題は「生産高制限問題と格闘した2人の経営学者、F・テイラーとE・メイヨの管理論を、階級道徳との「対決」と労働意欲の「保護」という観点から読み直してみること、つまり経営学が内包する労働者統合論は具体的に何をどのように問題にし、それに対していかなる処方箋を書いたのかを明らかにすること」である。第3の課題は「コーポレット・キャピタリズムの労使関係を支える新たな精神を、経営プロフィッショナリズムとM・P・フォレットの組織行動論の誕生の物語として把握すること」である。本研究の構成はこの3つの課題に対応して3部構成とした。

第1部「熟練労働者の階級道徳と経営管理」ではアメリカにおける熟練労働者の階級道徳を、職場における緩怠=生産高制限を取り上げて具体的に明らかにし、併せて労働組合との関係についても検討した。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アメリカの熟練労働者は盛んに仲間全体の利害(階級的利害)のために個人的利害を犠牲にする生産高制限を実行し、雇用者や職長に対抗していたのであった。こうした強力な階級道徳に対抗して誕生したのが労働者統合論であったが、もっとも初期の労働者統合論がテイラーの科学的管理法であった。同じ時期にコモンズが提案した団体交渉論と比較してみると、両者は労働組合評価ではまったく相反していたが、ともに生産高制限を道徳問題として把握しようとする点では(つまり階級道徳批判!)その立場はまったく一致していた。テイラーにしてもコモンズにしても、関心は主として階級道徳と反権威的労働組合の排除にあったのであった。職能別労働組合はテイラーの科学的管理法には激しく対抗しつつも、コモンズの団体交渉論には同意を示し、労使協調を模索した。その背後には労働組合のビジネス・ユニオニズムへの路線転換があった。本研究では全国鋳造工組合(IMU)とストーブ製造業者全国防衛同盟(SFNDA)との労働協約体制が一般組合員に及ぼした影響を検討したのであるが、とりわけ深刻な影響を与えたのは生産高制限の禁止条項であった。このことは当然のことながら階級道徳の衰退に結果した。一方には一日8ドルから9ドルを稼ぎだす鋳物工が誕生するかと思えば、他方には落ちぶれてホーボーやトランプの群れに身を窶す鋳物工も数多く出現した。ホーボーやトランプとなった仲間に共感を寄せる鋳物工は決して少なくはなかった。そうした理想主義的傾向のある組合員は社会民主主義に共感を寄せる。しかしIMU執行部とビジネス・ユニオニズム支持派は「自己責任論」を展開し、槍玉に挙げたのは飲酒癖であり、組織として取り組んだのはモラル向上運動であった。コモンズがパートナーとして期待したのはこうした保守化した労働組合であった。

第2部「大量生産体制確立期における労働者統合化の試み」では、機械的修練労働者を統合化するための資本主義社会の努力を跡づけた。大量生産型の機械技術体系に適合するように調教されたのは、東欧や南欧出身の移民労働者であった。労働者の統合化問題はアメリカナイゼーションという局面を孕みつつ展開されるが、産業教育・職業指導運動を経て人事管理運動を生み出すことになる。その際、中心的テーマとなったのはいかにして「労働意欲のある労働者を保護する」かであった。つまりもっぱら統合化の客体としての労働者に対する関心であった。移民労働者に最も効果的であったのは良い生活を保証する慈善的専制主義の人事管理システムであった。本研究ではこのことをフォード社の人事管理改革に即して明らかにした。フォード社の成功は服従意欲と労働意欲に溢れた労働者を確保することができたからに他ならなかった。1920年代のウェルフェア・キャピタリズムは人事管理の慈善的専制主義モデルを継承し、従業員に良い生活を保障することによって、彼らから自発的服従意欲と勤労意欲を引き出そうとしたのであった。ウェルフェア・キャピタリズムは経営家族主義的一体化を促進すると同時に、民族的紐帯を弱体化させる政策を積極的に推進したのだが、これが逆に階級的連帯を促すという思いがけない結果をもたらした。そのことを明らかにしたのがホーソン実験であった。ホーソン実験は労働者の間に生産高制限が横行をしていることを明らかにした。労働者はウェルフェア・キャピタリズムを支持してはいたが、決して魂までも売り渡してはいなかったのである。階級道徳は「文化的さなぎ」として熟練労働者から機械的修練労働者へと確かに継承されていた。機械的修練労働者の階級道徳に対抗する新たな労働者統合論として登場したのがメイヨの人間関係論であった。メイヨは生産高制限を人間問題に起因する精神病理現象と見なす。従来の産業組織にはこうした人間問題に対する配慮が欠けていた。これを解決するには、労働者の自発的小集団を善導して社会的協働に導くための方策を考えるという態度が重要であった。但し、そのための方策としてメイヨが具体的に提案しているのはインタビュー・プログラムに過ぎなかった。この計画は従業員としての労働者の個人的不平や不満を解消すると同時に、自己の存在を公式組織に認めてもらえたことを通して自尊心を満足させることを狙ったものであった。しかし、労働条件を含めて経営政策の決定過程に参加するプロセスはまったく考慮されてはいなかった。メイヨの人間関係論はエリートたる経営管理者支配の性向が目立つ。労働者統合論としては、労働者をあくまでも管理の客体として見なすことに終始しており、その意味では消極的労働者統合論にすぎなかった。

第3部「産業民主主義と経営プロフィッショナリズムの発展」では経営プロフィッショナリズムの誕生と発展について明らかにする。労働者との関係を個人ではなく集団として把握しようとする方法的立場を確立したのはなにも人間関係論だけではなかった。実はもう一つ存在した。そのもう一つの方法的立場は企業と社会の関係を問題にしようとする思考方法を特徴としていた。労働者との関係についても、単なる管理の客体と見なすのではなく、むしろ彼らに対して管理への積極的参加を促そうとする立場であり、その意味ではいわば積極的労働者統合論であった。それが経営プロフィッショナリズムであった。経営プロフィッショナリズムの理念は、科学的管理運動が労働組合運動との連携を模索することを契機として誕生した。その連携を可能にしたのは管理技師の「英雄的な」プロフィッショナリズムであった。科学的管理法、人事管理そして労働組合、この3つの要素を統合することこそ産業の平和の切り札であると見なす科学的管理運動修正派が結成される。科学的管理運動修正派はヴァレンタインの連携論を基盤として労働者統合論を発展させる。一つはデニスンが担った労使関係(改革)論であり、もう一つはパースンが展開した経営者論であった。デニスンの貢献は、労使合同の協議機関を通して労働者のなかに眠っている管理能力を引き出す可能性を発見したことであった。これによって仕事を通して自己実現を図りたいとの労働者の欲求を実現し、それによって自尊心を満足させることができるとの確信を得たのであった。管理参加による労働者統合化戦略の誕生であった。またパースンの貢献は管理技師のプロフィッショナリズムを専門的経営者のプロフィッショナリズムへと転換させたことであった。つまりパースンは、専門的経営者は利潤動機や営利衝動を憎悪し真の生産的動機もしくはサービス動機に立ち返るべきことを主張したのであった。またそれに関連して、能率の向上と無駄の排除のために労働者集団と連携することが重要であるとも述べていた。ここに、デニスンの労使関係論とパースンの経営者論を両輪とする経営プロフィッショナリズムが誕生したのであった。経営プロフィッショナリズムの労働者統合論は1920年代にフォレットによって理論的に精緻化させられ、「組織行動論」として大きく飛躍する。その契機となったのは余暇・消費論争であった。アメリカ労働総同盟(AFL)と対話するなかで、労働意欲を保護するためには労働者の管理参加を促し、労働組合にも一定の役割を果たすことを求める必要のあることを理解した。そしてAFLも仕事文化への復帰を宣言し、労使合同の協議会を通した管理参加、つまり労働者の管理者化を容認した。法人資本主義を支える「労使関係の新たな精神」の誕生であった。だがフォレットが重視したのは経営管理者の教育機能であった。つまり労働者の協働本能を管理能力に転換させる教育機能こそすべての問題を解く鍵であり、そうした崇高な機能を果たすことこそ、経営管理者にプロフィッショナルとしての威信をあたえることになるというのであった。組織に対する責任の自覚、この立場こそ経営プロフィッショナリズムが立ちえた労働者統合論の理論的到達点であったといえる。仲間に対する責任の自覚に立脚する階級道徳は最も手強い労働者統合論との対決を運命づけられることになったのである。

審査要旨 要旨を表示する

1 審査論文の主題と研究上の位置

富澤氏の研究は、19世紀末から20世紀にかけて、アメリカ合衆国の製造業で広く観察された労働者による生産高の制限に注目し、それに対してどのような対応策が立てられたのかを検討することを通じて、20世紀前半に形成されたアメリカの企業社会における経営管理や労使関係の特徴を明らかにしようとするものである。氏の研究が分析の対象とした19世紀末から1930年代初頭までの時期は、合衆国の大企業体制の形成期であり、経営学の展開で見れば、テイラーの科学的管理法の提唱からハーバード大学の研究者によるホーソン実験までの時期に対応している。

19世紀末以降、アメリカの企業経営者は、労働者一人当たりの生産量を一定限度内に止めておこうとする労働組合の生産高制限政策に直面してきた。この問題に対して、同時代の技術者や経営者は対応策を打ち出すことによって競争力のある企業体制を構築しようとした。労働者側の生産量制限と、管理の専門家(その中には専門的経営者も含まれる)側による対抗策は長く続き、こうした両者の関係は20世紀前半のアメリカの企業体制の性格を基底において規定していくことになる。本研究はこうした観点にたって、世紀転換期の鋳物工組合、フォードの人事管理、ハーバード大学の研究者たちによるホーソン実験、アメリカ労働総同盟の政策、科学的管理運動、経営思想の展開といった一連の出来事を分析し、それを大きな枠組みの中に位置付けようとしている。

生産高制限とそれに対する対抗策は、これまで、労働史研究と経営学の二つの研究分野でそれぞれ別個に扱われてきた。合衆国の労働史研究では、モントゴメリーなどによって19世紀後半のクラフト・ユニオンが生産量制限を行ったことの意味が検討されてきた。また、経営学や経営史学においては、経営学の源流の一つであるテイラーの科学的管理法が当時広範にみられた生産高制限を克服する手段として提唱されたことや、1930年前後に実施されたホーソン実験で労働者のインフォーマル・グループによる生産高制限が改めて問題となったことがよく知られている。

このように、これまでも労働史、経営学・経営史学では19世紀末から20世紀前半にかけての労働者による生産高制限や企業体制の形成が精力的に解明されてきたが、労働史、経営学、経営史学といった研究分野を横断し、一貫した分析視角の下でそれらのアプローチを統合しようとする試みはあまり多くはなかった。そういった数少ない例のなかには、1970年代、1980年代の研究に大きな影響を与えたブレイバーマンの研究、1990年代以降研究を刺激し続けたジャコービーの研究が含まれている。

富澤氏の研究は、ブレイバーマンやジャコービーの流れとは違う角度から、合衆国における労働者の仕事への取り組みとそれに対する経営者や専門家の反応をとらえようとしている。氏の分析視角に最も大きな影響を与えたのは、合衆国の労働者の生産制限を階級道徳としてとらえようとするマックス・ウェーバーの観点である。そうした問題関心のあり方は、近年の研究史の中ではユニークであるといわざるをえない。また、本研究が用いた、経営思想の展開を軸として労使関係の構造を把握するというアプローチは、思想を手掛かりとして労使関係史研究と経営史研究の対話の可能性を切り開くという点で斬新である。

2 本研究の序文および各章の概要と評価

本研究は「序文」、本文7章、「総括と展望」とからなる。本文の7章は以下のような3部構成をとっている。

第1部 熟練労働者の階級道徳と経営管理

第1章 19世紀後半期における職場の労使関係と熟練労働者の階級道徳

第2章 生産高制限「問題」を契機とする労使関係改革と熟練労働者のエートス

第3章 機械化の進展とアメリカ労働者文化の危機

第2部 大量生産体制体制確立期における労働者統合化の試み

第4章 移民労働者問題と人事管理運動

第5章 ウエルフェア・キャピタリズムと「生産高制限」問題

第3部 産業民主主義と経営プロフィッショナリズムの発展

第6章 社会改革派と科学的管理運動修正派

第7章 余暇・消費問題と労使関係の新たな「精神」の誕生:経営プロフィッショナリズムとアメリカ労働総同盟の「対話」

以下ではまず序文と各章の内容を簡単に紹介したい。

序文 ここでは、本研究の三つの課題が明らかにされている。第一の課題は、生産高制限との関連において労働組合の変貌を明らかにすることである。第二の課題は、労働者の階級道徳の発現である生産高制限との対決の中から経営学が生まれてくる過程を明らかにすることである。第三の課題はニューディール期の法人資本主義の原型であるコーポリット・リベラリズムにおいて重要な役割を果たした専門家たちの姿を明らかにすることである。

第1章 19世紀後半期における職場の労使関係と熟練労働者の階級道徳 本章は、鉄鋳物工たちからなる全国鋳物工組合との間で労働協約を結んでいたマコーミック社と、組合の影響力を排除していたディアリング社を比較し、前者では鋳物工の連帯が強固で生産高制限が行われ、熟練工の稼得賃金も安定的であったのに対して、後者では仕事を割り当てる職長に強大な権限が与えられ熟練工の稼得賃金の変動も大きかったことを明らかにしている。それに続いて、全国鋳物工組合の指導者の言説が分析され、この組合が労働時間短縮と高賃金を得て教養ある市民になることを目指していたことが確認される。

第2章 生産高制限「問題」を契機とする労使関係改革と熟練労働者のエートス 20世紀初頭、国民経済の効率的運用といった観点から労働組合による生産高制限は社会的に問題視されるようになり、テイラーの組織的怠業論をはじめとする労働組合不要論も出てきた。そうした中で、ストーブ工業では全国鋳物工組合と経営者団体が共同で賃金決定を行う労使協調路線が形成され、1902年には組合は生産高制限の禁止を明文化するにいたる。本章はそうした中で鋳物工が保守化して階級的連帯が弱まっていったと指摘する。

第3章 機械化の進展とアメリカ労働者文化の危機 全国鋳物工組合とストーブ製造業の経営者団体との労使協調は比較的長く続いたが、全国鋳物工組合ともう一つの経営者団体である全国鋳造業者協会との協調は短命であった。本章は一般組合員が造型機導入の受け入れに反対したことからこの違いを解き明かしている。

このように第1部は鋳物工に焦点を当てて、階級道徳としての生産高制限がどのように行われ、それが機械導入を契機にどのように衰退していったかを、様々な史料を用いて描き出している。とくに熟練労働者の労働組合のあり方を一般組合員の心性の在り方にまで下りて行って理解し、労働者文化がどのように変化していったのかを展望しようとした点は、機械化に伴う熟練の変容というこれまで研究が積み重ねられてきた領域をより広い枠組みの中でとらえ直す試みとして評価できる。

第4章 移民労働者問題と人事管理運動 本章ではまず、機械化の進展に伴って増大する半熟練労働者(機械的修練労働者)を企業体制へ統合しようとする産業教育運動を扱う。徒弟制度の衰退に注目してきた政府の労働局は、国際比較を通じて、産業教育の意義に注目し、やがて技能水準が低位であった半熟練労働者に技能を教えていく教育機関の必要を認識するようになる。著者は、半熟練労働者の離職が企業に大きな負担となっており、管理者たちは対策を迫られていた実態を指摘して、産業教育への関心の延長上に人事管理運動が展開することになったと主張する。

続いて、著者は1913年から1914年にかけてのフォード社における人事管理運動を再検討し、フォード社が能率問題の核心が移民からなる従業員の消費生活の改善にあると把握したことの意味を強調する。本研究後半で扱われることになる「消費」やそれを可能にする「余暇」が問題群として登場してきたのである。

第5章 ウエルフェア・キャピタリズムと「生産高制限」問題 フォード社の慈恵的専制主義モデルは他の企業によって模倣され、大量生産体制型大企業の労使関係制度として普及する。本章は、マシューソンによる生産高制限に関する研究やホーソン実験の報告書を再検討することで、フォードの人事管理運動以降、大企業体制下で労働者の階級道徳がどのような形で存在していたのかを探り出そうとする。マシューソンは非組合員の労働者が生産高制限に走る原因を解明するなど、労働組合の関与する生産高制限とは違った形の生産高制限の存在を明るみに出していた。また、シカゴのホーソン工場での職場実態調査(ホーソン実験)を通じて、労働者のインフォーマル・グループを通じる生産高制限が発見された。本章は、コーヘンなどの先行研究を援用しながら、民族コミュニティーの力を弱体化させることによって従業員を会社に統合しようとする会社側の福祉政策が、かえって労働者の間に階級道徳の発展をうながし、生産高制限を生み出したと主張する。

第2部で扱われた、フォードの人事管理改革やホーソン実験は経営学や経営史学では非常に有名なものであり、著者が新たに発見した問題ではない。むしろ、第2部の意義は、そうした有名な事例を用いて、階級道徳のあり方が消費生活や余暇といった問題群と密接につながるものであることと、この連関こそが解明さるべき重要な問題であることを明らかにした点にあると思われる。

第6章 社会改革派と科学的管理運動修正派 本章はまず、産業民主主義や科学的管理運動に依拠しながら進歩的改革を目指したブレンダイス、リプマンといった社会改革派の主張を検討する。彼らは企業の経営を所有経営者から専門的経営者の手に移すように望んでいた。

こうした期待に科学的管理運動の側から答えたのが、ヴァレンタインである。本章は、科学的管理法を実行するためには労働者の同意を得ることが重要だと彼が考えていた事実に注目する。労働者の同意としては個人としての同意だけでなく労働者集団としての同意も重要であるが、ヴァレンタインは労働組合の同意を得ることが経営にとって必要だと判断していた。彼にとって、労働組合は消費者の組織でもあるという点でも積極的に評価されるべきものだった。

彼に続いて、労働組合側ではゴンパース、科学的管理運動の側ではクックやガントといった人々が、労働組合運動と科学的管理運動の間に協力関係を打ち立てることが必要だと主張していく。このようにして、著者は、テイラー以来、とかく労働組合に対して敵対的な態度をとりがちであった科学的管理運動の中から、労働組合を取り込もうとする路線が登場してきた過程を明らかにした。そして、著者はこうした動きが、デニスンやパースンらの専門的経営者論の登場を促したと主張する。

第7章 余暇・消費問題と労使関係の新たな「精神」の誕生:経営プロフィッショナリズムとアメリカ労働総同盟の「対話」 本章は、第6章で扱われた専門的経営者論が1920年代に行なわれた余暇・消費問題をめぐる議論を経て理論的に成熟する過程を検討する。

アメリカ労働総同盟による週5日制の要求といった時代背景の下で、1920年代を通じて余暇運動が関心を集めることになった。著者は、これに対応して、経営者や管理学者が、(1)労働運動に敵対的な「伝統的保守派」、(2)高賃金によって労働者の購買力を保証すべきだとする「消費の福音派」、(3)労使協調路線を支持する改革派である「経営プロッフィショナリズム派」に分かれていったことを明らかにする。なかでも著者が注目するのが、1910年代におこなわれた社会改革派の専門的経営者論を受け継ぎ、科学的管理運動にも関与した経営プロフィッショナリズム派である。彼らは、労働と余暇を統合化する職業生活全体の枠の中で、余暇・消費問題を捉えなければならないと考えていた。そしてそうした観点から、職場での労働が労働者に満足を与えるかどうかに問題解決の鍵があると主張していた。本章は、経営プロフィッショナリズムの具体的なあり方として、ボルティモア・オハイオ鉄道の労使協調計画やフォレットの労使関係改革論を詳細に分析する。

第3部は、リプマンらの社会改革派、ヴァレンタインらの科学的管理運動修正派、そして経営プロフィッショナリズム派という一連の系譜に光を当てて、この経営思想の展開の中で、労働者の同意を得ることの重要性、そしてそれを集団的労使関係の中で確保していくことの必要性が把握されるに至ったことを明らかにしている。フォレットにおいては、労働者の管理者化がいわれており、そこでは管理するものとされるものの区別すらもあいまいになった。本研究は、それをアメリカの経営思想の一応の完成としてとらえている。これは労使関係と経営思想の相互作用を考える上で、きわめて興味深い指摘である。本研究を受けて、今後、フォレットを到達点におくことの妥当性、経営プロフィッショナリズム派が実際の労使関係に与えた影響をめぐって議論が起きることが期待される。

また消費生活や余暇といった問題が労使関係や経営をめぐる議論のなかでもった重みを指摘したことも本研究の貢献といえる。ここでは著者が同時代の史料に丹念にあたっていることも評価されるべきだろう。

3 総合評価

本研究は、19世紀末からニューディール開始期まで、アメリカの経営が生産高制限として表現される労働者の集団的な階級道徳の発現に直面し続けたこと、そしてそれに対して経営思想が形成されていった過程を詳らかにしている。経営思想においては、当初、労働組合に敵対的であった科学的管理運動が、やがてその中から労働者の同意の必要性を認識する修正派を生み出し、さらには労働者の参加の重要性を認識する議論まで至ったという推移が説得的に語られる。

このように、労働者の階級道徳と経営思想の展開を組み合わせて、その相互作用の中から大企業体制の形成を捉えようとする本研究の立場は、極めてユニークであり、ブレイバーマンやジャコービーとは違った仕方で、労働史研究、経営学、経営史学の間を架橋する試みとして高く評価できる。とくに、全国鋳物工組合と企業との関係を分析した第1部、アメリカ労働総同盟との関係で経営思想の展開を分析した第3部は貴重な貢献だと考えられる。

しかし、本研究に問題がないわけではない。本研究は、新たな分析視角を打ち出し、そこからアメリカの大企業体制を見ようとするために、カバーしなければならない領域が広くなってしまい、その結果、既存の研究に依存せざるを得ない部分を残してしまった。そうした箇所では、議論はともすれば通説の繰り返しになるとともに、厳密な実証を欠いたままに結論を性急に下すことになりがちである。とくに、第2部にはその傾向が強く、例えば、「最初に掲げた「産業労働者はウエルフェア・キャピタリズムを支持していたとしても労働者の魂は売り渡さなかった」という仮説は実証できたと思う」(172頁)といった類の不用意な記述が散見される。大きなテーマを扱う研究には避けがたいこととはいえ、実証ということに関してはより慎重な態度が必要ではないか。

また、これまであまり注目されなかったウェーバーの「階級道徳」という概念が厳密な定義を欠いたままに使われるという問題を持っている。またそれに関連して、階級道徳や労働者文化が、19世紀末から1930年代まで変わらなかったのかどうかが不明であることも指摘できる。アメリカにおける階級の問題はこれまでも関心を引いてきたテーマであって、階級道徳という言葉を用いた筆者の問題提起も極めて刺激的である。しかし、階級道徳や労働者文化の存在を証明することは容易ではない。望蜀の感があるが、本研究の問題提起を生かすためにも、階級道徳といった概念に対応する実態のさらなる究明とそのための方法の開拓が望まれる。

階級道徳と結びつけられた生産高制限についても、流れ作業職場での生産高制限はいかなる現れ方をするのかが必ずしも明確ではないように思われる。

とはいえ、こうした弱さはアメリカの労使関係や経営をどの様に捉えるかという大きなテーマを議論するうえでは、止むを得なかった面があり、本研究の欠陥とまではいえない。今後の研究の進展の中で、こうした問題がいくらかでも解決されることを望みたい。

以上のように、本研究は若干の問題を含みつつも、全体としては、斬新な研究視角から、アメリカの労使関係、アメリカの企業体制を把握した研究として高く評価されるべきものであると考えられる。平成19年7月13日の研究提出を受けて審査委員会(審査委員:小野塚知二、粕谷誠、佐口和郎、森建資(主査)、和田一夫)が設置され、研究について検討した。途中、審査期間の延長と研究題目の変更を行った後、審査委員会は平成20年10月7日に口頭試問を行い、慎重に審議し、その結果、審査委員一同、富澤克美氏に博士(経済学)の学位を授与するのが妥当であるとの結論に達した。

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