学位論文要旨



No 217055
著者(漢字) 渡辺,真弓
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,マユミ
標題(和) 16世紀ヴェネツィア共和国の都市と建築 : アンドレア・パラーディオおよび同時代の建築家たちの都市ヴェネツィアとの関わりに関する研究
標題(洋)
報告番号 217055
報告番号 乙17055
学位授与日 2008.12.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17055号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 難波,和彦
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 准教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

1. 概説

本論文は16世紀のヴェネツィアにおける都市景観の完成過程と、その過程に貢献した建築家たちの活動および建築作品についての研究をまとめたものである。

古代末期、ゲルマン民族の大移動に伴う混乱期に、砂州状の島(リド)で外海から守られた浅瀬の海に浮かぶ無数の島に逃げ込んだ人々によって建設が始まったのがヴェネツィアを中心とするラグーナ(潟海)の島々である。697年に最初のドージェ(総督)が選ばれてから、1797年にナポレオン軍の侵入によって崩壊するまで、ちょうど1100年にわたってヴェネツィア共和国は存続した。その間、水に囲まれた限られた土地の上で営まれる都市生活を維持するため、特定の個人や家系への権力の集中を極力回避し、徹底した合議制と厳罰主義で、治安や都市構造の維持をはかる独特の共和制度が発達した。その強力な政治制度の持続性は驚嘆に値するが、ヴェネツィアが歴史学や政治学の対象としてさかんに研究されるのもそのためである。しかし恐らく歴史学者や政治学者を惹き付ける要素は、そうした制度的背景以上にヴェネツィアの都市としての魅力にあるのではないかとも憶測される。ヴェネツィアが都市史的に興味深いのは、歴史的な積み重ねがどこよりもよく残され、歴史の連続性を視覚的に感知することができるからである。

本論ではヴェネツィアが都市としての完成形に達した時点、すなわち16世紀半ばから後半にかけての時代に照準をあてている。もちろん都市は常に変貌するものであり、ヴェネツィアも例外ではないが、その後の2世紀間の変化はきわめて緩やかであり、さらに19世紀、20世紀を通して近代化によってもたらされた変化も他の都市に比べればずっと小さい(「車のない都市」であることを想起されたい)。

ヴェネツィアは中世を通して航海貿易で繁栄し東地中海を席巻していたが、1453年のコンスタンティノープル陥落を機にオスマン・トルコと対峙することになり、また15世紀末の地理上の大発見以来、物資の流通経路が変化したことで、貿易一辺倒だった経済基盤が崩れて行く。すでに15世紀初頭までにヴェネツィアはテッラ・フェルマ(本土)の諸都市とその領土を支配下に治め、領域国家となっていたが、その本土側に土地を購入し、農園経営を始める動きが16世紀には顕著にみられた。貿易商人であったヴェネツィア貴族が資本をシフトして土地所有者となって行ったのである。中世末の経済的繁栄の絶頂から滑り落ちたヴェネツィアは、16世紀には教皇や神聖ローマ皇帝らが結集したカンブレ―同盟との戦争(1509-16)で大きな打撃を被り、オスマン帝国の驚異にもさらされ、軍事・外交政策に力を入れなければならなかった。16世紀のヴェネツィアは、そのように経済は傾き、多くの問題をかかえてはいたが、結果的にはその時代が文化的には最も輝きを放つ世紀となった。文化度をあげ、都市を立派に整備することによって共和国の威信を高めることが得策であると考えられたからである。今日まで残る魅力的な都市景観が完成されたのもこの時代のことであった。

16世紀のヴェネツィアを代表する建築家としては、サン・マルコ広場の最終整備に重要な役割を担ったヤーコポ・サンソヴィーノ(Jacopo Sansovino, 1486-1570)をあげる場合が多いが、ここではむしろ本土側との結びつきが強いアンドレア・パラーディオ(Andrea Palladio, 1507-1580)を中心に据え、他の建築家たちの活動とあわせて16世紀のヴェネツィア共和国の建築状況を語ることにした。

2. 本論の構成

[序章 ヴェネツィア共和国の十六世紀] は、上の概説に述べたような内容を違う形で具体的に論じ、導入部としたものである。パラーディオは共和国の支配下にあったテッラ・フェルマの都市パドヴァに生まれ、十代半ばでヴィチェンツァに移り住んでから、ここで建築家として大成する。ヴィチェンツァにはバジリカを始め幾つもののパラッツォ(邸館建築)を設計し、同時に田園のヴィラも数多く手がけた。しかし彼はテッラ・フェルマでの活動だけでは満足せず、共和国の首都ヴェネツィアに入り込むための努力を始める。その最初の行動は、ヴェネツィアのカナル・グランデ(大運河)の中心に位置するリアルト橋建て替え計画のコンペが1556年に行なわれた時、それに応募したことであった。

[ I章 「リアルト橋」をめぐって] では、かつてのリアルト橋(1500年の有名なバルバリの鳥瞰図や同じ頃のカルパッチョの絵に描かれた木造の跳ね橋)について語り、この橋の老朽化に伴って行なわれたコンペに応募したパラーディオの案、その後の習作などについても分析している。この時のコンペでは誰の案も受け入れられずに終わるが、パラーディオは第2案を後に自著『建築四書』(1570年)に掲載したことで、時空を超えた影響を及ぼすことになる。18世紀の英国ではパラーディオ様式のカントリーハウスに付随する風景庭園の中にパラーディアン・ブリッジと呼ばれる橋が生まれるきっかけとなり、また18世紀のヴェネツィアの景観画家カナレットやグァルディはパラーディオのリアルト橋を描き込んだ架空のヴェネツィア風景を描いたのである。また『建築四書』の中の橋に関する章を手がかりに、パラーディオが関心を抱いた古代の橋、実際に設計や修理に関わった橋、トラス橋に似た橋のデザインなど、普段あまり言及されないエンジニア的な側面に焦点をあてた。パラーディオの死後、1588-91年にアントニオ・ダ・ポンテの設計によって石造のリアルト橋が建設され、現在に至っているが、この橋とパラーディオ案との比較も行なった。

[ II章 16世紀ヴェネツィアにおける「都市改装」] では、パラーディオ登場以前のヴェネツィアにおける都市改装が主題である。前半では主にサン・マルコ広場の海側の景観がサンソヴィーノによって整えられた経緯について詳述し、セルリオの舞台背景観が同時代人たちに与えた影響についても触れている。後半は、イスラム勢力に対するキリスト教側の砦であることを自認していた海洋都市国家ヴェネツィアの軍事建築家であったサンミケーリの活動、造船所であり軍事施設でもあったアルセナーレの発展の歴史、水利技師サッバディーノが1557年に作成した計画案の重要性(彼の提案によって、ヴェネツィアは南北の輪郭線を定めて都市の概形を保持し、その後の埋め立て拡張は東西両端に限定された)など、ヴェネツィアのこれまであまり知られていない側面について論じている。

[ III章 パラーディオのヴェネツィア進出] では、パトロンたちとの関係を軸に、パラーディオがヴェネツィアを特別視していた証拠を『建築四書』の記述から導いている。彼はヴェネツィアではパラッツォ設計の機会を与えられなかったが、『建築四書』には幻のパラッツォ計画案とでも呼べるものが2案掲載されており、これらを廻る論議もとりあげた。

[ IV章 ヴェネツィアにおけるパラーディオの初期の仕事] では、宗教界に通じていたパトロンのダニエーレ・バルバロによってパラーディオのヴェネツィアでの仕事の方向付けが行なわれたこと、最初の大きな仕事となったカリタ修道院について詳述している。カリタ修道院はヴェネツィアの作品の中では唯一、『建築四書』の出版に間にあって図面が掲載された(とはいえ左右逆版)。この建物は19世紀初頭以来、アッカデーミアの施設に転用され、美術学校と美術館が併存していたが、美術学校のほうは2006年に別の16世紀の建物(サンソヴィーノ設計の病院だった施設)に移転した。いずれも歴史的な建物の改修、転用、活用の例としてあげられる。

[ V章 ヴェネツィアにおけるパラーディオの主要三作品] では、よく知られた3つの教会建築(サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ、サン・ジョルジョ・マッジョーレ、イル・レデントーレ)をとりあげ、神殿正面の重ね合わせの手法を導入したことや内部空間の構成など、主にデザイン的な分析を試みているが、イル・レデントーレにはイスラム建築の影響が見られるという新説にも触れている。

[ VI章 ヴェネツィアにおけるパラーディオのその他の仕事] では、あまり知られていない2つの小教会(その1つサンタ・ルチーアは19世紀半ばの鉄道駅建設に伴って取り壊された)、フランスのアンリ3世歓迎式典のための仮設の装置、書物の出版などについて語った。これらを通してパラーディオのヴェネツィアにおける明暗、当時の政治状況などを知ることができる。

[VII章 「建築家パラーディオ」とテッラ・フェルマの二つの都市] では、格調高い「古代風」の建築様式に通じた「郷土の建築家」を希求していたヴィチェンツァによってパラーディオが育てられた経緯、彼がパラッツォを設計する際には「都市の装飾」としてという意識が強くあったことなどを分析している。「ポルティコの街」として有名な生地パドヴァは別の方向をたどり、パラーディオを必要としなかったという2つの都市の比較論の試みでもある。

[ VIII章 ヴェネツィア共和国の建築家たち] は終章として、本論でとりあげた建築家たちそれぞれの貢献についてまとめ、パラーディオの果たした役割については教会建築のデザインにおける革新と後世への影響を指摘し、特にサンソヴィーノとの比較を行なっている。

付録は1617年にパオロ・グァルドという人物によって書かれた最初のパラーディオ伝の翻訳・注解である。

以上が本論の概要である。II章を除くすべての章でパラーディオを中心に論じているが、全体を通して見えてくるのは、ヴェネツィアという都市こそが主役で、建築家たちはその都市に奉仕し貢献した存在であったということである。16世紀はヴェネツィアの都市形成史のなかでも最も重要な時代であったということを、パラーディオおよび同時代の建築家たちの活動を通して詳細に証明しようとしたのが本論である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は16世紀のヴェネツィアにおける都市景観の完成過程と、その過程に貢献した建築家たちの活動および建築作品についての研究をまとめたものである。

ヴェネツィアは中世を通して航海貿易で繁栄していたが、1453年のコンスタンティノープル陥落を機にオスマン・トルコと対峙することになり、また15世紀末の地理上の大発見以来、物流通経路が変化したことで、貿易一辺倒だった経済基盤が崩れて行く。すでに15世紀初頭までにヴェネツィアはテッラ・フェルマ(本土)の諸都市とその領土を支配下に治め、領域国家となっていたが、その本土側に土地を購入し、農園経営を始める動きが16世紀には顕著にみられた。貿易商人であったヴェネツィア貴族が土地所有者となって行ったのである。

16世紀のヴェネツィアを代表する建築家としては、J・サンソヴィーノ(Jacopo Sansovino, 1486-1570)をあげる場合が多いが、ここでは本土側との結びつきが強いアンドレア・パラーディオ(Andrea Palladio, 1507-1580)を中心に据え、他の建築家たちの活動とあわせて論じている。

[序章 ヴェネツィア共和国の十六世紀] は、導入部である。パラーディオはパドヴァに生まれ、十代半ばでヴィチェンツァに移り住んでから、建築家として大成する。ヴィチェンツァにはバジリカを始め幾つもののパラッツォ(邸館建築)を設計し、同時に田園のヴィラも数多く手がけた。しかし彼は共和国の首都ヴェネツィアに入り込むため、ヴェネツィアのカナル・グランデ(大運河)の中心に位置するリアルト橋建て替え計画のコンペが1556年に行なわれた時、それに応募した。

[ I章 「リアルト橋」をめぐって] では、リアルト橋の老朽化に伴って行なわれたコンペに応募したパラーディオの案、その後の習作などについても分析している。この時のコンペでは誰の案も受け入れられず、パラーディオは第2案を後に自著『建築四書』(1570年)に掲載したことで、時空を超えた影響を及ぼすことになる。18世紀の英国ではパラーディオ様式のカントリーハウスに付随する風景庭園の中にパラーディアン・ブリッジと呼ばれる橋が生まれるきっかけとなり、また18世紀のヴェネツィアの景観画家はパラーディオのリアルト橋を描き込んだ架空のヴェネツィア風景を描いた。また『建築四書』の中の橋に関する章を手がかりに、普段あまり言及されない彼のエンジニア的な側面に焦点をあてた。パラーディオの死後、1588-91年にアントニオ・ダ・ポンテの設計によって石造のリアルト橋が建設されるが、この橋とパラーディオ案との比較も行なわれている。

[ II章 16世紀ヴェネツィアにおける「都市改装」] では、前半で主にサン・マルコ広場の海側の景観がサンソヴィーノによって整えられた経緯について詳述し、後半では、サンミケーリの活動、造船所であり軍事施設でもあったアルセナーレの発展の歴史、水利技師サッバディーノが1557年に作成した計画案など、ヴェネツィアのあまり知られていない側面について論じている。

[ III章 パラーディオのヴェネツィア進出] では、パトロンたちとの関係を軸に、パラーディオがヴェネツィアを特別視していた証拠を『建築四書』の記述から導いている。彼はヴェネツィアではパラッツォ設計の機会を与えられなかったが、『建築四書』には幻のパラッツォ計画案とでも呼べるものが2案掲載されており、これらを廻る論議もとりあげた。

[ IV章 ヴェネツィアにおけるパラーディオの初期の仕事] では、パラーディオのヴェネツィアでの最初の大きな宗教建築となったカリタ修道院について詳述している。この建物は19世紀初頭以来、アッカデーミアの施設に転用され、美術学校と美術館が併存していたが、美術学校のほうは2006年に別の16世紀の建物に移転した。いずれも歴史的な建物の改修、転用、活用の例である。

[ V章 ヴェネツィアにおけるパラーディオの主要三作品] では、よく知られた3つの教会建築(サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ、サン・ジョルジョ・マッジョーレ、イル・レデントーレ)をとりあげ、神殿正面の重ね合わせの手法や内部空間の構成など、デザイン的分析を試みており、イル・レデントーレにはイスラム建築の影響が見られるというデボラ・ハワードの新説にも触れている。

[ VI章 ヴェネツィアにおけるパラーディオのその他の仕事] では、あまり知られていない2つの小教会、アンリ3世歓迎式典のための仮設の装置、書物の出版などについて述べた。

[VII章 「建築家パラーディオ」とテッラ・フェルマの二つの都市] では、格調高い「古代風」の建築様式に通じた「郷土の建築家」を希求していたヴィチェンツァによってパラーディオが育てられた経緯、彼がパラッツォを設計する際には「都市の装飾」としてという意識が強くあったことなどを分析している。「ポルティコの街」として有名な生地パドヴァは別の方向をたどり、パラーディオを必要としなかったという、2つの都市の比較論の試みでもある。

[ VIII章 ヴェネツィア共和国の建築家たち] は終章として、本論でとりあげた建築家たちそれぞれの貢献についてまとめ、パラーディオの果たした役割については教会建築のデザインにおける革新と後世への影響を指摘し、特にサンソヴィーノとの比較を行なっている。

付録は1617年の、パオロ・グァルドによるパラーディオ伝の翻訳・注解である。

以上の研究は、都市史と建築家論を有機的に総合したものであり、斯界に大きな貢献をなすものである。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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