学位論文要旨



No 217056
著者(漢字) 松隈,洋
著者(英字)
著者(カナ) マツクマ,ヒロシ
標題(和) 前川國男の戦前期における建築思想の形成について
標題(洋)
報告番号 217056
報告番号 乙17056
学位授与日 2008.12.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17056号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 難波,和彦
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 准教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

本研究の目的

本研究は、戦前、戦後の日本近代建築を主導し、数多くの建築作品を残した建築家・前川國男(1905~1986年)の戦前期における建築思想の形成について明らかにしようとするものである。ここでいう戦前期とは、前川が、1928年3月、東京帝国大学建築学科を卒業し、フランスの建築家・ル・コルビュジエ(1887~1965年)のアトリエに学んだ時点から、1930年4月に日本へと帰国し、同年8月からアメリカ人建築家のアントニン・レーモンド(1888~1976年)の事務所を経て、1935年10月1日、前川國男建築設計事務所を設立して独立し、1945年8月15日の敗戦を迎えるまでの時期を指している。

よく知られているように、「日本相互銀行本店」(1952年)、「神奈川県立図書館・音楽堂」(1954年)、「京都会館」(1960年)、「東京文化会館」(1961年)など、前川國男が設計を手がけた代表的な建物の大半は戦後のものであり、これらの作品に対する6度にわたる日本建築学会賞や、「近代建築の発展への貢献」を受賞理由とする初の日本建築学会大賞など、数多くの建築賞の受賞からも明らかなように、その建築史的な評価は定まっているといえる。しかし、その一方で、前川の戦前期については、これまで、著名な「東京帝室博物館」(1931年)や、「在盤谷日本文化会館」(1943年)などのコンペ案や「前川國男自邸」(1942年)など個別の検討は、何度となく行われて来たものの、その全体像についての詳細な検証はなされておらず、また戦前期に対する評価も依然として流動的なままである。また、ここには、戦時下の建築界が戦争とどのような関係性を持っていたのか、その中で建築家はどのように仕事をしていたのか、という問題も横たわっている。本研究では、このような課題を持つ前川國男の戦前期を取り上げて、その評価に一定の視点を提示しようとするものである。

論文の構成について

戦前期の前川國男に関する一次資料の大半は、東京銀座にあった前川の事務所が1945年の空襲により焼失してしまったために、ほとんどの設計原図や写真資料などが失われてしまっている。本研究では、こうした中で、自邸に保管されていたことなどによって奇跡的に焼失を免れた、前川國男の『日誌』(1941年3月~1942年1月)、蔵書に残されたメモとスケッチ、個人のアルバム、一部の建築の設計原図や写真などの資料と、各種刊行物などを基に検証を行う。また、本論は、序論と結論、全5部より構成される。

第I部では、前川が東京帝国大学を卒業する1928年から、パリのル・コルビュジエのアトリエに学んで、1930年に帰国するまでの2年間を扱う。その中で、まず、前川がなぜコルビュジエに師事しようと決意したのか、その経緯と、彼に学ぶ以前に手がけた卒業設計に触れて、卒業時点における前川の近代建築理解を検証する。続いて、コルビュジエのアトリエでどのような仕事を担当し、何を学んだのかについて見ていく。さらに、戦前期の前川の主要な活動の舞台となった公開コンペへの応募の始まりとなった「名古屋市庁舎」コンペ案(1930年)についての分析も行っている。その結果、前川はコルビュジエから、製図技術から始まって、設計の実務的な知識やプロセスといった基礎的な建築教育を施されたこと、近代建築が建築をその構成要素を統合して組立てられるものであり、その基本にある平面計画、プランニングが重要であること、それを着実なものにするための技術的な基盤を整備することが大切なこと、近代建築の実現を阻む旧体制やアカデミズムとの闘いが避けて通れないことなどを学んだことを明らかにした。

続く第II部では、1930年の帰国後、レーモンド事務所に勤務してから、1935年10月に独立するまでを扱う。その中で、前川の名前を一躍有名にした「東京帝室博物館」コンペを扱い、審査員たちの募集要項をめぐる議論と前川案との位相の違いを明確にする。また、前川の処女作となった「木村産業研究所」(1932年)がどのような意味を持っていたのかを検証する。さらに、戦前期のコンペにおいて一等当選し唯一実現した「明治製菓銀座売店」コンペ(1931年)や、3等に入選した「東京市庁舎」コンペ(1934年)など、この時期に重ねられたコンペでの模索に見られる方法の推移についても確認している。さらに、レーモンド事務所における担当作品や、その実務経験から何を学び、レーモンドからどのような影響を受けたのかについても検討している。その結果、「東京帝博物館」コンペ案に見られるデザインが審査員の考えた建築様式の議論とはまったく位相を異にする考え方から生み出されたものであり、むしろ使用者の要求に応えつつ、建築を白い背景に徹底させようとしてものであることを明らかにした。また、「木村産業研究所」の経験が、前川に、近代建築を日本の気候風土に適合させることが必要だとの認識を与えたことを確認した。さらに、各コンペでは、コルビュジエの方法を試しながらも、それをそのまま日本で実現されることはむずかしく、その限界を自覚し始めていたことにも触れた。

第III部では、1935年の独立以降、1937年の日中戦争が始まる時期までを扱う。まず、独立後の第一作となった「森永キャンデーストアー銀座売店」(1935年)で試みられた方法を検証する。次に、「ひのもと会館」(1936年)、「富士通信機製造工場」(1937年)、「昭和製鋼所本館」(1937年)などのコンペ案を見ていく。また、「日本的なるもの」をめぐって大きな議論が起きた「パリ万国博覧会日本館」コンペ(1936年)や、恩師である岸田日出刀の下で作成にかかわった、1940年の幻に終わった「第十二回オリンピック東京大会」の会場計画へのかかわりについても詳しく検証している。そして、この間に手がけた「守屋邸」(1936年)から「笠間邸」(1939年)へと至る住宅作品において、どのような方法が試みられていたのかを確認している。その結果、「森永キャンデーストアー」では、コルビュジエに学んだ「自由な平面」と「自由な立面」の方法が、「富士通信機製造工場」や「昭和製鋼所本館」では、コルビュジエの「ドミノ」という空間概念を用いて単位空間による平面計画が、さらに、「パリ万国博覧会日本館」や住宅作品では、人の歩みに沿って内外の空間が展開する構成的な方法が、それぞれ試みられていることを明らかにした。また、「第十二回オリンピック東京大会」会場計画などを通して、ナチス・ドイツのオリンピック会場デザインからも影響を受けた新古典主義的な意匠が施されていることを検証した。

さらに、第IV部では、日中戦争の勃発から、建築界を襲った建築資材統制と戦時体制への急激な移行の中で、前川がかかわった満州などの国策企業に関係する仕事や、「日本万国博覧会建国記念館」コンペ(1937年)、一等を獲得した「大連市公会堂」コンペ(1938年)、「忠霊塔」コンペ(1939年)などから読み取れる設計思想の変化を検証している。そして、国策プロパガンダの制作を担った「報道技術研究会」への参加の実態についても見ていく。その結果、この時期においては、前川は、「日本的なもの」への意識は稀薄であり、むしろ、近代構造の確立を目指した空間造形を試みていたこと、「大連市公会堂」では、敷地の外へと広がる都市的なスケールのデザインが施されていたこと、戦時体制が強まる中にありながらも、前川は、近代建築の実現のためには技術の確立が必要である、というような原理的な思考を続けていたことを明らかにした。

第V部では、1941年12月の太平洋戦争勃発以降の最終的な局面の中で、前川が深くかかわっていった建築学会に設置された「大東亜建築委員会」や、「大東亜建設記念営造計画」コンペ(1942年)の審査をめぐる議論の推移を検証する。また、その傍らで記された前川の『日誌』や蔵書から見る読書歴、そこに残されたメモやスケッチなどから、前川の建築思想の深化について触れている。そして、それらの一つの結実となった、「前川國男自邸」や、「在盤谷日本文化会館」コンペで示された前川國男の戦前期の建築思想の到達点について見ていく。その結果、建築界が挙って戦争への協力体制へと突き進む中で、国策へと働きかけることを目的に、「大東亜建築委員会」などの活動があったこと、前川が京都学派の著作を精読し、そこから建築のありようを考える手がかりを得ていたこと、そのような思想の深まりをもって、「前川國男自邸」や「在盤谷日本文化会館」などに取り組み、日本の伝統から近代建築の空間構成をより良きものにできるエッセンスを見つけ出していたこと、などを明らかにした。

そして、結論では、戦時下の前川の建築思想の深化が、自覚的に伝統と向き合う中で育まれたものであり、従来言われてきたような転向や挫折という文脈にあったものではないことを確認し、むしろ、前川の戦後の代表的な建築へと結実する建築思想の核心部分が、この戦前期に形成されたものであることを明らかにしている。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は戦前、戦後の日本近代建築を主導し、数多くの建築作品を残した建築家・前川國男(1905~1986年)の戦前期における建築思想の形成について明らかにしようとするものである。ここでいう戦前期とは、前川が、1928年3月東京帝国大学建築学科を卒業し、フランスの建築家・ル・コルビュジエ(1887~1965年)のアトリエに学んだ時点から、1930年4月に日本へと帰国し、同年8月からアメリカ人建築家のアントニン・レーモンド(1888~1976年)の事務所を経て、1935年10月1日、前川國男建築設計事務所を設立して独立し、1945年8月15日の敗戦を迎えるまでの時期を指している。

戦前期の前川國男に関する一次資料の大半は、東京銀座にあった前川の事務所が1945年の空襲により焼失してしまったために、ほとんどの設計原図や写真資料などが失われてしまっている。本研究では、こうした中で、自邸に保管されていたことなどによって奇跡的に焼失を免れた、前川國男の『日誌』(1941年3月~1942年1月)、蔵書に残されたメモとスケッチ、個人のアルバム、一部の建築の設計原図や写真などの資料と、各種刊行物などを基に検証を行っている。

本論は、序論と結論、全5部より構成されている。

第I部では、前川が東京帝国大学を卒業する1928年から、パリのル・コルビュジエのアトリエに学んで、1930年に帰国するまでの2年間を扱う。コルビュジエのアトリエでどのような仕事を担当し何を学んだのかを分析し、さらに、戦前期の前川の主要な活動の舞台となった公開コンペへの応募の始まりとなった「名古屋市庁舎」コンペ案(1930年)についての分析も行っている。その結果、前川はコルビュジエから基礎的な建築教育を施され、平面計画、プランニングが重要であること、近代建築の実現を阻む旧体制やアカデミズムとの闘いが避けて通れないことなどを学んだことが明らかにされた。

第II部では、1930年の帰国後、レーモンド事務所を経て1935年10月に独立するまでを扱う。その中で、「東京帝室博物館」コンペを扱い、前川の処女作となった「木村産業研究所」(1932年)を検証する。さらに、レーモンドからどのような影響を受けたのかについても検討している。その結果、「東京帝博物館」が審査員の考えた建築様式の議論とはまったく位相を異にする考え方から生み出されたものであり、むしろ使用者の要求に応えつつ、建築を白い背景に徹底させようとしてものであることを明らかにした。また、「木村産業研究所」の経験が、近代建築を日本の気候風土に適合させることが必要だとの認識を与えたことを確認した。

第III部では、1935年の独立以降、1937年の日中戦争が始まる時期までを扱う。独立後の第一作となった「森永キャンデーストアー銀座売店」(1935年)、「日本的なるもの」をめぐって大きな議論が起きた「パリ万国博覧会日本館」コンペ(1936年)、幻に終わった1940年の「第十二回オリンピック東京大会」の会場計画へのかかわりについても詳しく検証している。また、この間に手がけた「守屋邸」(1936年)から「笠間邸」(1939年)へと至る住宅作品の方法を確認している。

第IV部では、日中戦争の勃発から、建築資材統制と戦時体制への急激な移行の中で、前川がかかわった満州などの国策企業に関係する仕事、「日本万国博覧会建国記念館」コンペ(1937年)、一等を獲得した「大連市公会堂」コンペ(1938年)、「忠霊塔」コンペ(1939年)などでの設計思想の変化を検証している。そして国策プロパガンダの制作を担った「報道技術研究会」への参加の実態についても見ていく。その結果、この時期の前川は「日本的なもの」への意識は稀薄であり、近代建築の実現のためには近代構造の確立、技術の確立が必要であるという原理的な思考を続けていたことが明らかにされた。

第V部では、1941年12月の太平洋戦争勃発以降、前川が深くかかわっていった建築学会の「大東亜建築委員会」、「大東亜建設記念営造計画」コンペ(1942年)の審査をめぐる議論の推移を検証する。また、前川の『日誌』や蔵書から見る読書歴、そこに残されたメモやスケッチなどから、前川の建築思想の深化について触れている。そして、それらの一つの結実となった、「前川國男自邸」や、「在盤谷日本文化会館」コンペで示された前川國男の戦前期の建築思想の到達点について見ていく。その結果、前川が京都学派の著作を精読し、そこから建築のありようを考える手がかりを得ていたこと、日本の伝統から近代建築の空間構成をより良きものにできるエッセンスを見つけ出していたこと、などが明らかにされた。

結論では、戦時下の前川の建築思想の深化が、自覚的に伝統と向き合う中で育まれたものであり、従来言われてきたような転向や挫折という文脈にあったものではないことを確認し、むしろ、前川の戦後の代表的な建築へと結実する建築思想の核心部分が、この戦前期に形成されたものであることを明らかにしている。

以上を通じてこの研究は戦前期における前川國男の建築的立場を全体的に位置づけることに成功したものであり、日本近代建築史研究に多大な貢献をなす業績を上げている。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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