学位論文要旨



No 217063
著者(漢字) 長倉,淳子
著者(英字)
著者(カナ) ナガクラ,ジュンコ
標題(和) 土壌への窒素添加がスギ、ヒノキの水消費におよぼす影響に関する研究
標題(洋)
報告番号 217063
報告番号 乙17063
学位授与日 2008.12.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17063号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 丹下,健
 東京大学 教授 寳月,岱造
 東京大学 教授 鈴木,雅一
 東京大学 准教授 大手,信人
 東京大学 講師 益守,眞也
内容要旨 要旨を表示する

人間の経済活動によって大気中に放出される窒素酸化物やアンモニアが増え、大気から森林生態系に流入する窒素降下物量が増大している。窒素は植物の生育に必須な元素のひとつであるが、過剰な窒素は土壌の酸性化や樹木の養水分アンバランスを引き起こし、森林衰退の原因となることが懸念されている。日本で森林衰退が観察された当初は大気汚染物質の関与が疑われたが、現在ではスギ林の衰退については水ストレスの影響が大きいことが指摘されている。水ストレスの発生には降水量や土壌の保水力と共に樹木の蒸散特性が影響しており、スギ林の衰退は土壌の保水力が低い地域や降水量に対する蒸散量の比が高い地域で多く観察されている。窒素降下物量の増加によって樹木の葉の窒素濃度が上昇することが予想されるが、葉の窒素濃度と光合成能には正の相関があるため、葉の窒素濃度が上昇すると葉の光合成速度も高まる。光合成能が高い植物はCO2固定効率が高いため葉の細胞間隙CO2濃度が低下し、気孔開度が大きくなる。気孔開度が大きいと葉の内部にCO2を取り込みやすくなるが、同時に蒸散量が増える。したがって、窒素降下物量の増加は樹木の蒸散を促進することによって水ストレスの発生を助長し、森林衰退の原因となる可能性がある。

本研究は、大気から森林生態系への窒素降下物量の増加が樹木の水消費を促進するという仮定に基づき、土壌への窒素添加が日本の主要造林樹種であるスギとヒノキの水分生理状態に与える影響を解明することを目的とし、スギ、ヒノキ苗木を用いたモデル実験と、スギ成木林への窒素添加実験を行なった。

第1章では、窒素供給の変化に対する樹木および土壌の応答と、窒素降下物量の増加が森林におよぼす影響に関する既往の研究を精査し、窒素降下物量の増加は葉量を増加させるとともに、葉の蒸散能を高め、その結果として樹木の水消費を促進する可能性を提示した。その上で、明らかにすべき点として、(1)窒素過剰に対する水分生理的応答、特に水消費の増大に、スギとヒノキで違いがあるのか、生育する土壌水分条件によって違いがあるのか、(2)窒素過剰に対する水分生理的応答は土壌乾燥に対する感受性を高めるのか、(3)苗木と成木で窒素過剰に対する水分生理的応答に違いはあるのか、の3点を挙げた。

第2章、第3章、第4章では、土壌に添加する窒素量を変えてスギ、ヒノキ苗木を育成する窒素降下物量の増加を想定したモデル実験を行なった。造林地では斜面位置によって土壌水分環境が異なり樹木の生育応答に差違があることを考慮し、苗木を育成する土壌水分条件として、土壌が-60~-100kPaまで乾燥してから灌水する乾燥区と、土壌マトリックポテンシャルを-20kPa以上に保つ湿潤区の2つの水分処理を設定した。

まず、第2章では、土壌への窒素添加量として窒素が不足している状態から過剰な状態までの3段階を設定してスギ、ヒノキ1年生苗を育成し、窒素添加量の増加が乾物分配と個体あたりの水利用におよぼす影響を調べた。スギは水分処理に関わらず窒素添加量の増加にともなって地上部乾重が増大し、個体あたりの蒸散量は増加した。一方、ヒノキの地上部乾重および個体あたりの蒸散量に窒素添加の有意な影響はみられなかった。この結果は、窒素添加量の増加が水分生理的応答に与える影響がスギとヒノキでは異なる可能性を示している。スギとヒノキともに乾燥区では、窒素添加量の増加にともなって根への乾物分配が低下した。

第3章では、苗木による年間窒素吸収量と同程度の中庸な窒素量、またはその5倍以上の過剰な窒素量を土壌に添加してスギ、ヒノキ2年生苗を育成し、過剰なレベルの窒素添加が個葉の蒸散速度におよぼす影響を調べた。窒素添加量の増加にともなう葉量の増加は、ヒノキよりもスギで、乾燥区よりも湿潤区で顕著だった。スギの葉の窒素濃度は、湿潤区では窒素添加量の増加にともなって上昇したが、乾燥区では有意な上昇はみられなかった。スギでは葉の窒素濃度の増加にともない葉の純光合成速度が増加した結果、葉の蒸散速度も増加した。一方、ヒノキでは、葉の窒素濃度と葉の光合成速度に相関がなく、窒素添加量が増加しても葉の窒素濃度と葉の光合成速度が高まらなかった。ヒノキはスギよりも低い窒素添加量で光合成能への影響がみられなくなると考えられた。スギについては、葉量、葉の窒素濃度、葉の純光合成速度および葉の蒸散速度の増加といった窒素添加の効果が乾燥区よりも湿潤区で顕著であった。これらのことから、窒素降下物量の増加は、湿潤な土壌条件で生育するスギの葉の蒸散能を促進することが示された。スギ、ヒノキともに窒素添加量の増加によって根への乾物分配が低下する傾向があり、特にスギの湿潤区で顕著だった。窒素添加量の増加は根への乾物分配を低下させるため、土壌乾燥に対する形態的な適応を打ち消す方向に働くと考えられた。

第4章では、土壌への窒素添加量として窒素が不足している状態、または充分な状態の2段階を設定して育成したスギ、ヒノキ3年生苗を用いて、窒素添加量の増加にともなう根への乾物分配の低下が、土壌乾燥に対する感受性におよぼす影響を調べた。ここでは、土壌乾燥過程における土壌から葉までの通水抵抗の増大の程度を、土壌乾燥に対する感受性の指標とした。スギの湿潤区では窒素添加量の増加にともなって当年葉に対する細根の比率が低下したが、スギの乾燥区では乾物分配に窒素添加による有意な影響はみられなかったため、当年葉に対する細根の比率は高窒素×湿潤区で最も小さかった。スギの高窒素×湿潤区は、土壌乾燥にともなう通水抵抗の増大の程度が他の処理区よりも大きかった。また、スギの高窒素×湿潤区は他の処理区に比べて、当年葉量が多く葉の蒸散速度が高いため個体あたりの蒸散量が大きく、土壌乾燥の進行が速かった。ヒノキは水分処理に関わらず、窒素添加量が増加しても葉に対する細根の比率が低下せず、土壌乾燥にともなう通水抵抗の増大の程度に処理間差はみられなかった。これらのことから、湿潤な土壌条件で生育するスギは窒素降下物量の増加によって土壌乾燥に対する感受性が増大し、無降雨期間が続くような場合に水ストレスを受けやすくなることが示唆された。

第5章では、スギ成木林の林床に降雨による年間窒素流入量の12倍および24倍の窒素を添加する処理を7年1ヶ月間続け、土壌への窒素添加に対するスギ成木の水分生理的応答、および土壌の養水分状態の変化を調べた。窒素添加によって、表層土壌が酸性化し、土壌の養分バランスが変化したが、スギ成木の成長は顕著な影響を受けなかった。しかし、窒素添加区では対照区に比べ、土壌の乾燥が強く、降雨後の土壌水分の低下が速かった。窒素添加区では葉の窒素濃度が高い傾向があったことと、処理終了2年半後に測定した葉の蒸散速度が高かったことから、窒素添加によってスギ成木の葉量が増加するとともに葉の蒸散能が促進されたために樹木による水消費が増え、土壌の乾燥が強くなったと考えられた。以上より、スギ成木林でも窒素添加によって蒸散量が増加することが示された。

第6章では、第2章から第5章の結果を総括した。本研究では、スギは湿潤な土壌条件では土壌への窒素添加によって蒸散量が増大し、土壌乾燥に対する感受性が高まること、ヒノキは土壌水分条件に関わらず窒素添加量の増加による水分生理状態の変化が小さいことを明らかにした。スギは酸性土壌やAlに対する耐性が比較的高い樹種であるうえに、日本の森林には火山灰の影響により酸性降下物に対する緩衝能が高い土壌が多く分布するため、窒素降下物量の増大が引き起こす土壌の酸性化がスギ人工林の衰退原因となる可能性は低いといえる。しかし、本研究で得られた知見により、窒素降下物量が増大すると、湿潤な土壌条件に植栽されたスギ人工林では、樹木による水消費が増大し、かつ根系の発達が抑制されるため、無降雨期間が長く続いた場合に土壌乾燥による水ストレスを強く受けるようになる可能性が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

化石燃料の大量消費によって大気から森林生態系に流入する窒素降下物量が増大し、我が国のいくつかの森林流域でも窒素飽和現象が報告されている。土壌の窒素供給能が増大することは、葉の窒素濃度の上昇、光合成能力の増大を介して樹木の蒸散を高める方向に作用すること、葉への乾物分配を増やし根への乾物分配を減らす方向に作用することなど、樹体の水分生理状態に影響を与える可能性がある。本論文は、土壌への過剰な窒素添加が樹木の生理状態、特に水分生理状態に与える影響を明らかにすることを目的として、我が国の代表的な造林樹種であり、植栽適地が異なるスギとヒノキを材料に、土壌水分条件と窒素添加量の組み合わせた苗木栽培実験とスギ成木林への窒素過剰添加実験によって、窒素の過剰添加に対する水分生理的な応答を明らかにしたものである。

第1章では、窒素添加による土壌と植物への影響や窒素降下物量の増加が森林生態系に及ぼす影響に関する既往の研究をレビューし、窒素が不足している樹木では葉量増加と蒸散の促進によって水消費が増大する可能性を示した。そして本論文で明らかにする点として、(1)窒素の過剰添加に対する水分生理的応答、特に水消費の増大にスギとヒノキで違いがあるか、生育する土壌水分条件によってその応答に違いがあるか、(2)窒素の過剰添加に対する水分生理的応答は土壌乾燥に対する感受性を高めるのか、(3)苗木と成木で窒素の過剰添加に対する水分生理的応答に違いがあるのか、の3点をあげている。

第2章では、スギ、ヒノキ1年生苗を用いて、過剰な窒素添加が地上部と地下部への乾物分配と個体あたりの水消費に与える影響を調べている。スギは、土壌水分条件にかかわらず窒素添加量が多いほど葉量と個体あたりの蒸散量が増大すること、ヒノキについては土壌水分条件によらず過剰な窒素添加の成長や水消費への有意な影響が認められないことを明らかにした。また両種とも、土壌水分条件によらず窒素添加量の増大によって地下部への乾物分配率が低下することを示した。

第3章では、スギ、ヒノキ2年生苗を用いて、過剰な窒素添加が個葉の蒸散速度に与える影響を調べている。湿潤な土壌水分条件のスギでは葉量増加が促進されるため、窒素添加量の多いほど葉量増加に見合う窒素吸収が容易になり、葉の窒素濃度が高く蒸散速度も大きいこと、乾燥した土壌水分条件では葉量増加が抑制されるため窒素添加量によって葉の窒素濃度が変わらず蒸散速度にも差がないこと、ヒノキは土壌水分条件によらず過剰な窒素添加によっても葉の光合成能力が高まらず蒸散も促進されないことを明らかにした。

第4章では、スギ、ヒノキ3年生苗を用いた栽培実験によって、潅水停止後の土壌乾燥の進行に伴う土壌から葉までの通水抵抗の変化を調べている。湿潤な土壌水分条件で過剰な窒素が添加されたスギでは、他の処理区に比較して葉量に対する細根量が有意に少なく、土壌乾燥に伴い通水抵抗がより急激に増大することを示している。このことから、湿潤な土壌条件に生育するスギでは、窒素添加量が増大すると、無降雨期間が長く続いた時に強い水ストレスを受ける可能性を示唆した。

第5章では、スギ成木林の林床に降雨による年間窒素流入量の12倍と24倍の窒素を添加する処理を約7年間続け、土壌やスギへの影響を調べている。窒素の過剰添加によって、表層土壌で酸性化やアルミニウムの溶出が認められたがスギの成長への影響は認められないこと、葉の窒素濃度が高まり個葉の蒸散速度が高まること、土壌の乾燥が速まることを明らかにした。苗木に比べて樹高が高いことによる樹体の通水抵抗や重力の吸水への影響が大きい成木でも、窒素の過剰添加によって林分の蒸散量が増大することを示した。

第6章では、苗木と成木林への窒素添加実験の結果を総合的に考察し、スギは湿潤な土壌条件では過剰な窒素添加によって蒸散量が増大し、土壌乾燥に対して感受性の高い形態になり、また成木でも苗木と同様に蒸散量が高まるのに対して、ヒノキの成長や水消費は土壌水分条件にかかわらず過剰な窒素添加の影響を受けにくいと結論づけた。我が国の森林土壌は酸に対する緩衝能が高いこと、スギは土壌酸性やアルミニウムに対する耐性が高いこと、スギは湿潤な土壌条件の立地に植栽されることが多いことから、窒素降下物量の増大はスギ人工林の成長への負の影響は小さく、水消費を増大させる可能性を示した。

以上のように本研究は、窒素降下物量の増大に対するスギとヒノキの水分生理的応答の違いを明らかにしたものであり、化石燃料の大量消費に起因する気候変動の森林生態系に対する影響評価に関して、学術上及び森林生態系管理への応用上、貢献するところが多い。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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