学位論文要旨



No 217064
著者(漢字) 稲野,俊直
著者(英字)
著者(カナ) イネノ,トシナオ
標題(和) 高温選抜育種ニジマスの高温耐性に関する研究
標題(洋)
報告番号 217064
報告番号 乙17064
学位授与日 2008.12.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17064号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,終五
 東京海洋大学 教授 佐藤,秀一
 東京大学 教授 松永,茂樹
 東京大学 教授 金子,豊二
 東京大学 准教授 落合,芳博
内容要旨 要旨を表示する

ニジマスOncorhyncus mykissは、水産養殖産業において重要なサケ科魚類の一種であるが、冷水性であるため温暖な気候での養殖には限界がある。わが国の南方に位置する宮崎県では標高の高い山間部以外でのニジマス養殖は難しいことから、宮崎県水産試験場は県内におけるニジマスの生産拡大を図るため、1966年から高温に対して抵抗性を有する系統の選抜育種に取り組んできた。すなわち、未成熟のニジマスを20~27℃の高水温で飼育して生残した個体を継代する方法で、14世代以上の選抜飼育を繰り返した。その結果、他県の水産試験場や民間養魚場である程度の評価が得られるまでになった高温耐性系統の作出に成功した。しかし、この高温選抜系ニジマスの高温耐性については、科学的な究明が必ずしも充分でなく、その分子機構も不明とされてきた。高温耐性機構の解明は、未だ不明な点が多い魚類の温度適応の分子機構を探る上で重要であると同時に、その成果は他魚類の育種への応用が期待できる。さらに近年の地球規模の温暖化が魚類の生理・生態に及ぼす影響の評価にも不可欠と考えられる。

本研究はこのような背景の下、宮崎県で作出した高温選抜系ニジマスを対象に受精卵や胚の高温処理に伴うふ化率の変化や半数致死温度、稚魚の臨界最高温度や半数致死温度、幼魚の水温上昇に伴う摂餌率の変化を調べて標準系のニジマスと比較した。さらに、高温選抜系ニジマスの高温処理に伴うタンパク質の動態変化や遺伝子の発現変化などを調べたもので、成果の概要は以下のとおりである。

高温選抜育種ニジマス受精卵および胚の高温耐性

ニジマス高温選抜系および標準系(ドナルドソン系)のそれぞれ平均体重700gおよび850gの2才魚雌10尾ずつから採卵し、同系統、同サイズの雄各1尾の精子を用いて授精した後、授精時の10°Cまたは14°Cより高温で処理してふ化率を調べた。すなわち、授精時の水温で管理して卵割初期、胞胚期、神経胚期に達した胚につき、10°Cで授精した胚は13~19°C、14°Cで授精した胚は17~21°Cに設定した60l水槽でそれぞれ6gずつを7.5~1,440分間処理してふ化率を求めた。その結果、10°Cで授精した胚のふ化率は、系統と発生段階に関係なく処理時間の増加に伴い低下した。なお、卵割初期に処理した胚のふ化率は、他の発生段階で処理した胚より明らかに高かったが、両系統間で差はなかった。一方、胞胚期および神経胚期の処理では高温選抜系の胚のふ化率の方が標準系よりも有意に高く(P<0.05)、とくに1,140分処理でその差は大きかった。

14℃で授精した卵割初期胚を17~19℃で処理したときのふ化率は、両系統とも10℃で授精した胚より低かった。一方、神経胚期に17~19℃で720分および1,440分処理した胚のふ化率は、10℃で授精した胚より高かった。また、14℃で授精した胚のふ化率は、概して高温選抜系の方が標準系より高かった。胞胚期で処理した胚では、17°C~19℃の低い処理温度でもふ化率は非常に低かった。以上の結果を基に処理時間毎に50%致死温度(LT50)を算定したところ、10℃および14℃で授精、ふ化管理された胚はいずれも処理時間の延長に伴い低下した。10℃で授精した胚のLT50は、胞胚期の1,440分間処理で、高温選抜系は15.1℃と標準系の13.5℃より有意に高かった(P<0.05)。しかしながら、卵割初期ではそれぞれ17.4℃と17.3℃、神経胚期ではそれぞれ15.7℃と14.0℃であり、両系統間でLT50に有意な差は認められなかった。一方、14°Cで授精した胚のLT50は、いずれの発生段階においても高温選抜系は標準系より有意に高かった(P<0.05)。両系統のLT50の差は、卵割初期、胞胚期および神経胚期でそれぞれ、1.7℃、1.3℃および1.4℃であった。以上の結果は、高温選抜系は高温耐性の形質を確立していることを示唆する。

高温選抜育種ニジマス稚魚の高温耐性

予め15℃または20℃に馴致した高温選抜系と標準系(ドナルドソン系および長野系)の稚魚(3.0~24.2g)を対象に、5℃ /時間で水温を上昇させて臨界最高温度(CTM)と死亡温度(DT)を調べて比較した。実験には38lの円筒形循環水槽を用い、1回の実験に2系統を同時に2~3尾ずつ収容して、馴致温度の異なる飼育群毎に7~12回繰り返し行った。その結果、15℃馴致群では26℃以上、20℃馴致群では27℃以上で供試魚の遊泳異常が認められた。なお、15℃に馴致した高温選抜系および長野系ともにCTMは29.6~29.7℃、DTは30.0~30.1℃と有意な差は認められなかった。また、20℃に馴致した高温選抜系および長野系のCTMはともに30.4℃と有意な差はなかったが、ドナルドソン系のCTMは29.9℃と他の2系統より有意に低かった(P<0.05)。20℃馴致魚のDTは、高温選抜系、長野系およびドナルドソン系で、それぞれ30.9℃、30.6℃および30.2℃と、高温選抜系が標準系の2系統より有意に高かった(P<0.05)。

次に高温選抜系と標準系(ドナルドソン系)を対象に、24~29℃において1℃間隔で試験区を設定し、稚魚を0.5~96時間飼育して各試験区の死亡数を記録した。3~12時間処理したときのLT50は、両系統間で差は認められなかったが、72時間では高温選抜系のLT50は25.8℃と標準系の24.3℃よりも有意に高かった(P<0.05)。したがって、高温選抜系はある程度の高温耐性を獲得していると考えられるが、高水温下における長期飼育など、さらに詳細に高温耐性能を調べる必要があると考えられた。

高温選抜育種ニジマス稚魚の摂餌活性

自発摂餌装置を用いて高温選抜系および標準系(ドナルドソン系)の高温下における摂餌活性を調べた。実験水槽は0.18m3の流水式水槽を用い、水温は29℃の加温水と17℃の湧水を混合して調整した。平均体重7.5および8.7gの0才の両系統を50尾ずつ供して、17.5~25.7℃、0.3℃/日で21日間水温を上昇させたところ、高温選抜系の日間摂餌率は7.1%と、標準系の4.1%より有意に高かった(P<0.05)。次に平均体重22.4および22.6gの0才の両系統を37尾ずつ供し、水温を0.5℃/日で13日間かけて24.1℃に上昇させたところ、18日目までは両系統間の日間摂餌率に差は認められなかったが、それ以降、高温選抜系の日間摂餌率は0.8%と、標準系の0.2%より有意に高かった(P<0.05)。さらに平均体重34.8および34.1gの0才の両系統を27尾ずつ供し、水温を16.7℃から21.7℃へと1日で急上昇させ、以降28日間かけて0.1℃ /日で24.4℃ に緩やかに水温を上昇させたところ、高温選抜系および標準系の日間摂餌率は、それぞれ1.0%および0.1%と前者の方が有意に高かった(P<0.01)。以上のように高温選抜系のニジマスは標準系に比べて高温で高い日間摂餌率を示した。

高温選抜育種ニジマスの遺伝生化学的特性

高温選抜系13尾(382~867g)および標準系(奥多摩系)12尾(118~191g)を10m2のコンクリート水槽を用いて、25℃で1週間飼育した後、血清を採取し二次元電気泳動に供した。その結果、標準系の血清中で発現量が増加するいくつかのタンパク質がみられた。これらタンパク質はN末端アミノ酸分析により、クレアチンキナーゼ、アンギオテンシノーゲンおよびグリセルアルデヒドリン酸デヒドロゲナーゼと同定された。一方、高温選抜系では同じ条件下の飼育でも上記タンパク質の血清中での発現量の増加は認められなかった。この原因は標準系が高温処理に伴い肝臓および筋肉の細胞がストレスを受けて血清中に上記タンパク質を漏出させたのに対して、高温選抜系では高温ストレスに抵抗性を示したためと推定された。

さらに、高温耐性に関わる遺伝子を同定するために、2~3才魚(体重517~1,995g)から採卵し受精させた高温選抜系および標準系(ドナルドソン系)の胚をいくつかの発生段階毎に21℃または22℃で30分処理して、12℃で発生させた。この間、胚のふ化率と奇形の発生比率を調べるとともに、mRNA arbitrarily primed reverse transcription-PCR (RAP RT-PCR)で解析し両系統を比較した。その結果、2-4細胞期胚の温度処理後のふ化率は高温選抜系が標準系より有意に高かった。また、高温選抜系で多く発現する遺伝子として、ミトコンドリア電子伝達系の呼吸反応を担う複合体IVのシトクロムcオキシダーゼ(COX)のサブユニットの一つであるCOXIIをコードする遺伝子COXIIが同定された。次に、このCOXIIを対象に高温選抜系の胚および未受精卵における転写産物をノザンブロットで調べたところ、高温選抜系のCOXII mRNA蓄積量は標準系より胚では1.8倍、未受精卵では5倍多いことが示された。このことから、高温選抜系がミトコンドリアにおけるATP供給に優れていることが推定された。

以上、本研究において高温選抜系ニジマスでは、胚のLT50、稚魚のCTM、DTおよびLT50は標準系ニジマスに比べていずれも高い値を示した。また、高温下における高温選抜系稚魚の摂餌率は、標準系に比べて高かった。さらに、高温選抜系幼魚を高温下で飼育したところ、標準系とは異なり血清中に異常に増大するタンパク質成分は認められず、一方、未受精卵および胚体のミトコンドリア遺伝子COXIIの転写産物量は高温選抜系の方で多かった。以上の結果は、宮崎県で高温選抜育種したニジマスが高温耐性能を獲得していることを生理、生化学的に示したもので、魚類の温度適応についての研究に資するのみならず、産業的にも有用な知見を与えた。

審査要旨 要旨を表示する

ニジマスOncorhyncus mykissは、水産養殖産業において重要なサケ科魚類の一種であるが、冷水性であるため温暖な気候での養殖には限界がある。わが国の南方に位置する宮崎県では標高の高い山間部以外でのニジマス養殖は難しいことから、宮崎県水産試験場は県内におけるニジマスの生産拡大を図るため、1966年から高温に対して抵抗性を有する系統の選抜育種に取り組み、14世代以上の選抜飼育を繰り返した。しかし、この高温選抜系ニジマスの高温耐性については、科学的な究明が必ずしも充分でない。本研究はこのような背景の下、宮崎県で作出した高温選抜系ニジマスを対象に受精卵や胚の高温処理に伴うふ化率の変化や半数致死温度、稚魚の臨界最高温度や半数致死温度、幼魚の水温上昇に伴う摂餌率の変化を調べて標準系のニジマスと比較した。さらに、高温選抜系ニジマスの高温処理に伴うタンパク質の動態変化や遺伝子の発現変化などを調べた。

まず、ニジマス高温選抜系および標準系(ドナルドソン系)のそれぞれの2才魚雌10尾ずつから採卵し、同系統、同サイズの雄各10尾の精子を用いて授精した後、授精時の10℃または14℃より高温で処理した。その結果、10℃で授精した胚においては、胞胚期および神経胚期の処理で高温選抜系の胚のふ化率の方が標準系よりも有意に高かった(P<0.05)。次に、14℃で授精した胚のふ化率は、概して高温選抜系の方が標準系より高かった。そこで処理時間毎に50%致死温度(LT50)を算定したところ、10℃で授精した胚のLT50は、胞胚期の1,440分間処理で高温選抜系は15.1℃と、標準系の13.5℃より有意に高かった(P<0.05)。また、14℃で授精した胚のLT50では、いずれの発生段階においても高温選抜系は標準系より有意に高かった(P<0.05)。

予め15℃または20℃に馴致した高温選抜系と標準系(ドナルドソン系および長野系)の稚魚を対象に、5℃/時間で水温を上昇させて臨界最高温度(CTM)と死亡温度(DT)を調べて比較した。その結果、20℃に馴致した高温選抜系および長野系のCTMはともに30.4℃と有意な差はなかったが、ドナルドソン系のCTMは29.9℃と他の2系統より有意に低かった(P<0.05)。20℃馴致魚のDTは、高温選抜系、長野系およびドナルドソン系で、それぞれ30.9℃、30.6℃および30.2℃と、高温選抜系が標準系の2系統より有意に高かった(P<0.05)。次に高温選抜系と標準系(ドナルドソン系)を対象に、24~29℃において3~12時間処理したときのLT50は、両系統間で差は認められなかったが、72時間では高温選抜系のLT50は25.8℃と標準系の24.3℃よりも有意に高かった(P<0.05)。

さらに自発摂餌装置を用いて0才の高温選抜系および標準系(ドナルドソン系)の高温下における摂餌活性を調べた。17.5~25.7℃、0.3℃/日で21日間水温を上昇させたところ、高温選抜系の日間摂餌率は7.1%と、標準系の4.1%より有意に高かった(P<0.05)。次に、水温を0.5℃/日で13日間かけて24.1℃に上昇させたところ、18日目以降、高温選抜系の日間摂餌率は0.8%と、標準系の0.2%より有意に高かった(P<0.05)。さらに、水温を16.7℃から21.7℃へと1日で急上昇させ、以降28日間かけて0.1℃ /日で24.4℃に緩やかに水温を上昇させたところ、高温選抜系および標準系の日間摂餌率は、それぞれ1.0%および0.1%と前者の方が有意に高かった(P<0.01)。

高温選抜系および標準系(奥多摩系)の幼魚を25℃で1週間飼育した後、血漿を採取し二次元電気泳動に供したところ、標準系の血漿中で発現量が増加するいくつかのタンパク質がみられた。これらタンパク質はN末端アミノ酸分析により、クレアチンキナーゼ、アンギオテンシノーゲンおよびグリセルアルデヒドリン酸デヒドロゲナーゼと同定された。この原因は高温選抜系では高温ストレスに抵抗性を示したためと推定された。

さらに、2~3才魚から採卵し受精させた高温選抜系および標準系(ドナルドソン系)の胚を21℃または22℃で30分処理して、12℃で発生させた。RAP RT-PCRで解析し両系統を比較したところ、高温選抜系で多く発現する遺伝子として、ミトコンドリア電子伝達系の呼吸反応を担う複合体IVのシトクロムcオキシダーゼ(COX)のサブユニットの一つであるCOXIIをコードする遺伝子COXIIが同定された。この遺伝子の転写産物をノザンブロットで調べたところ、高温選抜系のCOXII mRNA蓄積量は標準系より胚では1.8倍、未受精卵では5倍多いことが示された。

以上、本研究において高温選抜系ニジマスでは、胚のLT50、稚魚のCTM、DTおよびLT50は標準系ニジマスに比べていずれも高い値を示した。また、高温下における高温選抜系稚魚の摂餌率は、標準系に比べて高かった。さらに、高温選抜系幼魚を高温下で飼育したところ、標準系とは異なり血漿中に異常に増大するタンパク質成分は認められず、一方、未受精卵および胚体のミトコンドリア遺伝子COXIIの転写産物量は高温選抜系の方で多かった。以上、本研究は、宮崎県で高温選抜育種したニジマスが高温耐性能を獲得していることを生理、生化学的に示したもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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