学位論文要旨



No 217073
著者(漢字) 伊藤,弘
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ヒロム
標題(和) 近代における海岸林の風景生成過程
標題(洋)
報告番号 217073
報告番号 乙17073
学位授与日 2009.01.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17073号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下村,彰男
 東京大学 教授 永田,信
 東京大学 教授 鈴木,雅一
 東京大学 准教授 斎藤,馨
 東京大学 准教授 小野,良平
内容要旨 要旨を表示する

本論文の要旨

全国の海岸汀線沿いに存在している海岸林は白砂青松という言葉で表されるように、日本を代表する風景として認識されるところである。しかしが、実際はその存在する地域の社会情勢や行政による施策等の影響を受けやすく、沿岸部開発による他の土地利用への転換や松くい虫による樹勢の衰退などで現在その姿は大きく変容している。こうした中、沿岸部の開発計画による海岸林伐採計画に対する地域住民たちによる反対運動や、松くい虫等によって海岸林の喪失が起こった時のに起こる地域住民による管理活動など地域によって住民の海岸林に対する反応が異なる。こうした反応の差異は、海岸林が集団表象としての風景となっているかどうかがひとつの要因と考えられる。本研究は海岸林の成立過程を環境や空間が集団表象としての風景へと変わる風景生成から捉えるために、実体が集団表象としての風景になる風景生成モデルを設定し、(1)海岸林と関係のない一般社会の海岸林に対する関心の変遷、(2)地域における海岸林の身近さの差異とその形成過程、(3)地域における海岸林に対する価値の差異とその形成過程を明らかにするとともに住民の反応の差異との関係を考察し、今後の海岸林管理のあり方を提言することを目的とした。

第1章では、既往研究の整理および用語の定義を行なうとともに、本研究における風景生成モデルの設定を行なった。モデルは、対象と視点の距離感を示す海岸林の身近さ、海岸林を想起させる働きを持つと思われる海岸林以外のクロマツ(海岸林構成樹種)の身近さ、地域社会における海岸林の価値から構成される。

第2章では、文献調査により、海岸林とは直接関係を持たない一般社会が海岸林に対してどのような関心を持ち、またそれに応じて海岸林のどの要素が着目され、具体例(対象海岸林)としてをどのように選定されしてきたのか、その選定基準の差異をみた。海岸林は時代ごとに国政や国策と大きく関わり合いを保ちながら関心を持たれてきた。戦前では国民教化のツールとして海岸林の成立過程に関心が向けられ、戦後の高度成長期には開発への対抗策としてその保有する機能に関心が向けられた。その後国政の開発志向が沈静化し土地利用の転換による海岸林の消失よりも、松くい虫による被害が全国的に蔓延していく中で、他の文化財などとともにその歴史的・文化的を背景とした文化的景観としての存在に関心が向けられてきたことが明らかになった。それぞれの関心によって選定された対象海岸林の特徴をみると、国民教化のツールとして関心が向けられた海岸林の多くは、海岸林造成後レクリエーション整備や各種指定などなされず、元々その保護する対象である耕作地および雑草群落と接しているのに対し、文化的景観としての存在に関心が向けられた海岸林は、自然公園や文化財指定、レクリエーション施設の整備などが行なわれ、住宅地と接しているなど現在の利用形態に関心が向けられていることも考えられ選定基準になっていることも考えられ、関心の違いによって海岸林の選定基準が異なっていることが明らかになった。

第3章では、藩政時代のほぼ同じ時期から植林が開始され、一般社会からは常に何らかの関心をもって見られてきたにも関わらず地域住民の反応が異なる東北の4地域(秋田県能代・本荘、山形県庄内(川北・川南))を対象に、居住地における海岸林の身近さについて文献調査および現地踏査により比較考察した。能代と本荘の海岸林は8割が国有林もしくは県有林であるのに対して、庄内の2地域では海岸林の9割以上が私有林であった。いずれの地域も市街地は国有林と接している。海岸林の物理的身近さの指標である海岸林と居住地を含んでいる街区(500m四方)の割合は、能代では低く本荘と川北では中庸、川南では高かった。しかし、能代および川南では市街地内の街路から海岸林を眺めることのできる視点場の分布が地域内で広範囲にわたっている一方、川北と本荘では街路から海岸林を眺めることのできる視点場の分布は狭い。また本荘を除いては、海岸林と市街地の境界部に海岸林を眺めることのできる主要な都市施設や観光資源があり、いずれもそこから海岸林を眺めることができ、海岸林を眺めることのできる特定の視点場が存在している。以上より、能代と川南では視覚的に身近、川北では視覚的に一定の距離感があり、本荘では視覚的に身近ではない。これら視点場分布の変遷をみると、能代では港町特有の格子状の街路構成を保持した市街地の拡大とともに海岸林を見ることのできる視点場の範囲は広がっている。市街地が沿岸部という立地特性を持ち続け、また新たに施設を設けるのではなく自然発生的に出現した利用を踏襲する形で施設整備がなされたことによって視点場は確保されてきたことが明らかになった。

第4章では、前章の東北4地域において海岸林を植林することによって形成された地域の地域特性を表す海岸林以外のクロマツの身近さを現地踏査により把握した。意識上の身近さとしてみた神社の境内地におけるクロマツの植栽状況は、本荘ではクロマツを植栽した神社は少なくその他の3地域ではクロマツを植栽した神社は過半数を占めており、特に川北ではクロマツが植えられている神社の数も多い。主に海岸林が身近でない本荘と川北においてクロマツを植栽した神社が存在する街区での、神社も含めた全ての海岸林以外のクロマツの見え方は、本荘では神社以外にも公的施設などに多くクロマツは植えられており街路上からはそれらも見ることができるものの、敷地割りや道路と同じ方向性を持つなど街の骨格と同化している(他の地域も神社の数が少ないため同様)のに対し、クロマツを植栽した神社の数および割合の多い川北では敷地割りや道路とは異なる見え方をするなど街の骨格と異化しており、本荘に比べてクロマツの視認性は高いと考えられる。クロマツが植えられている土地の管理が神社の境内地は氏子などの地域団体が、公的施設は行政が行なっていることも併せて考えると、本荘ではクロマツは意識上・視覚的に身近ではない一方、川北では双方とも身近である。その他の地域では、神社の数が少ないため意識上は身近だが、視覚的には身近でないと考えられく、敷地内の空間全体で地域特性を発揮していくことによって視覚的に身近になることが明らかになった。

第5章では、3章・4章での対象地域での海岸林の管理主体および管理目的から、地域における海岸林に対する価値の形成過程の差異を比較考察した。能代では藩政時代より地域開発と植林が一体となって行なわれてきており、防風・防砂機能からレクリエーション機能へと、地域の実情を踏まえた植林・管理がなされてきた。このように海岸林が地域と一体的に存在することで、新住民による新たなレクリエーションという価値が認識されたといえる。庄内の私有林に対しては、集落も拡大しないため新たな価値は認識されずに現在に至っている。本荘と川北・国有林では、それぞれ海岸林が地域の実情を踏まえずに植林行為自体を目的として管理され、また市街地の大規模な開発も行なわれてきたために地域と海岸林の関係は希薄になり価値が認識されなくなった。このように、地域における海岸林の価値は地域の実情を踏まえて管理されることで認識されるものであることが明らかになった。

第6章では、第3章から第5章までの対象とした4地域における現在の海岸林管理の実態および課題を法制度および管理体制と活動内容から比較考察し、集団表象としての風景から各地域の海岸林を整理した。本荘では、行政主導により松枯れ被害対策の植林を中心とした管理活動を行っているのに対し、能代では地域住民主導により松食い虫による被害拡大の防止と併せて地域での位置づけを意識したレクリエーション活動の場としての管理も行われている。庄内では森林組合および地域住民主導による地域団体の協働で松食い虫対策と同時に学習林の場としての管理も行なわれている。こうした地域団体の活動場所は、秋田県の2地域においては、地域住民による管理活動が国有林に限定されている一方、庄内では民有保安林でも松食い虫対策以外の活動も行なわれている。秋田県の2地域においても森林管理活動自体を他の目的を持った活動と組み合わせることで活動の場を民有林へと広げていくことが可能になってくると考えられる。能代では海岸林は伐採計画への反対活動をきっかけに管理活動が行なわれるようになり、海岸林は集団表象としての風景であるといえる。本荘では、松枯れ現象によって海岸林が枯損していても住民による管理活動は行なわれず、認識されていないといえる。川北・国有林は、雪害による倒木を契機に住民による管理活動が行なわれており、集団表象となっていない風景といえる。川南・国有林は、海岸林は変容していないが住民による管理は行なわれておらず、認識されていないといえる。庄内2地域の私有林は、住民たちが組合員となっている森林組合が管理に当たっており、また所有者たちも管理活動を行なっているため、集団表象としての風景になっていると整理される。

第7章では、各章の内容で得られた結果を踏まえた上で風景生成のモデルに当てはめ整理し、今後の海岸林管理のあり方を論じた。地域ごとに風景生成モデルは異なり、それによって集団表象としての風景の差異に結びついたといえる。能代では、海岸林は意識上・物理的に身近ではないものの視覚的に身近であり、海岸林以外のクロマツは意識上身近であるが視覚的には身近ではない。海岸林は機能・文脈・意味を有しており、価値が認識されてきたといえる。こうして、能代の海岸林は集団表象としての風景となったといえる。本荘では、海岸林は物理的に身近であるとはいいがたく、意識上・視覚的に身近ではない。海岸林以外のクロマツも意識上・視覚的に身近でない。海岸林は機能・意味・文脈を有しているとはいいがたく、地域において価値が認識されていないと考えられる。こうして、本荘では海岸林は認識されなくなってしまった。川北の国有林は市街地と接しており、物理的にも視覚的にも身近であるとはいいがたく、意識上も身近でないが、海岸林以外のクロマツは意識上・視覚的に身近である。しかし、海岸林は意味・機能・文脈を有しておらず、地域において価値が認識されているとはいいがたいと考えられる。こうして川北の国有林は集団表象となっていない風景になっていたといえ、倒木という環境の変容によって集団表象としての風景になった。川南の国有林は物理的・視覚的に身近であるが、海岸林以外のクロマツは意識上・視覚的に身近ではない。また、海岸林は、機能を有しているものの意味と文脈を有しておらず、地域において価値が認識されていないために、認識されていないといえる。庄内2地域の私有林は、意識上・物理的・視覚的に身近であり、海岸林以外のクロマツは、意識上は身近であるが視覚的には身近でない。海岸林は機能・文脈を有しており、価値が認識されている。このようにして、庄内の私有林は集団表象としての風景となっている。

地域ごとの風景生成モデルの差異は、大きく地域社会が沿岸部という立地条件や従来の行動様式を踏まえて発展してきたかどうか、地域の実情を踏まえた管理がなされているかどうか、敷地空間全体で地域特性を示しているかどうかといった差異に拠っており、今後の海岸林を管理するに当たっては、地域の特性を踏まえ、地域管理の一環として捉えていくことが求められるところである。海岸林は身近なだけでは集団表象としての風景になるとはいいがたく、地域において価値が認識される必要があり、そのためにはあくまでも利用するために保全する、という考えが必要であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、海岸林に対する地域住民の認識や行動を、風景生成の観点から論じたものである。ある地域や集団において、人々が「もの」や「場」に愛着を感じたり、価値づけや意味づけを行ったりするうえで、人々がその「もの」や「場」を風景として認識し、それを共有しているか否かが影響すると考えられる。そこで本論文では、海岸林を対象に、実体が「集団表象としての風景」へと生成されていく風景生成モデルを設定し、地域住民の海岸林に対する行動と風景生成過程との関係について考察することを目的としている。

第1章では、既往研究の整理および用語の定義を行ない、風景生成モデルの設定を行なっている。モデルは、海岸林の身近さ、海岸林構成樹種であり海岸林を想起させる働きを持つクロマツの身近さ、地域社会における海岸林の価値から構成されている。

第2章では、文献・資料調査により、社会における海岸林に対する関心の変遷について論じている。海岸林に対する関心は、時代ごとに政策等と深く関わりながら変化しており、戦前においては国民教化のツール、戦後は防災やレクリエーションの機能に関心が向けられ、その後、徐々に歴史的・文化的な側面に関心が向けられてきたことを明らかにしている。

第3章以降では、藩政時代のほぼ同じ時期から植林が開始され、社会からは常に関心をもたれてきたにも関わらず、地域住民の海岸林に対する認識や行動が異なる東北の4地域、秋田県能代および本荘、山形県庄内の川北および川南を対象とし、文献・資料調査、現地調査を通して、風景生成過程と地域住民の行動との関係について分析、考察を進めている。

そして3章では、居住地における海岸林の身近さについて比較考察している。海岸林の身近さには、意識上の身近さ、物理的な(近接性)身近さ、視覚的な身近さの各側面がある。そして、それらの身近さに関わる要因として、土地所有が官民のいずれであるか、市街地と海岸林との位置関係における近接性、市街地内の街路から海岸林を眺める視点分布の広さがあげられ、これらの要因によって身近さが左右されることを考察している。

また第4章では、当該地域の海岸林を構成し象徴的な樹種となっているクロマツ自身の身近さが風景生成に影響を与えているとして、海岸林以外の場所でのクロマツ植栽状況を調査分析し、その身近さを比較考察している。これについては意識上の身近さ、および視覚上の身近さがあり、前者は古くから地域の拠点である神社等にどの程度植栽されているか、後者は街路からのクロマツの視認性によって左右されることを考察している。

第5章では、海岸林の造成・管理主体の教材等における扱われ方、および造成・管理目的に関する地域要請との整合性から、海岸林に対する価値の形成過程を比較検討している。そして、地域における海岸林の価値は地域の実情を踏まえて管理されることで向上することを考察している。

第6章では、4地域における現在の海岸林管理の実態および課題を法制度および管理体制と活動内容から比較考察している。そして第7章では、3~5章で得られた結果を風景生成モデルに当てはめて整理し、風景生成過程における位置づけと、6章で検討した地域住民の海岸林に対する行動との関係を考察するとともに、今後の海岸林管理のあり方を論じている。

以上、本論文は、近代以降における海岸林の風景生成モデルを提示し、風景生成過程と地域住民の認識や行動との関係を明らかにするとともに、実体としての環境が地域に共有される風景となる条件について論じたものである。本論文で得られた知見は、自然環境の保全管理や地域計画に関する研究、実践に大きな影響を与えると考えられ、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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