学位論文要旨



No 217080
著者(漢字) 花田,佳明
著者(英字)
著者(カナ) ハナダ,ヨシアキ
標題(和) 建築家・松村正恒に関する研究 : 八幡浜市役所における活動を中心にして
標題(洋)
報告番号 217080
報告番号 乙17080
学位授与日 2009.01.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17080号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 難波,和彦
 東京大学 教授 西出,和彦
 東京大学 教授 松村,秀一
 東京大学 教授 藤森,照信
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、戦後間もない1950年代を中心に、愛媛県八幡浜市役所職員として活躍した建築家・松村正恒(1913年~1993年)に関する研究である。松村は、1947年から1960年までの在職期間中に、多くの優れた学校や病院関連施設などの公共建築を設計し、地方にありながら、中央の建築研究者と建築ジャーナリズムから注目を浴びた。特に、その代表作といえる新谷中学校(大洲市)や八幡浜市の神山小学校、日土小学校は、建築雑誌や『建築学大系』などの書物に繰り返し紹介され、高い評価を得た。1960年には、松村は『文藝春秋』誌によって日本の建築家の10人のひとりにも選ばれている。

1960年に独立して松山に設計事務所を構えた後は、建築デザインの最前線からは遠のいた感があるが、近年、モダニズム建築に対する再評価の機運の中で再び注目を集め、日土小学校は、2000年にドコモモ・ジャパンによって日本を代表する20のモダニズム建築のひとつに選ばれ、その保存活動も展開されてきた。

ところで、八幡浜市役所時代の松村の作品、とくに日土小学校に代表されるような大型の木造建築群は「白い箱」という印象が強く、いわゆるモダニズム建築の流れの中で歴史的に位置づけられることが多い。しかし、それらは欧米のいわゆるモダニズム建築の安易な意匠のみの模倣や、建築史的知識を手がかりにした観念的思考の産物ではなく、戦前に松村がおこなった建築計画的学習や社会的弱者に対する支援活動に基づき、きわめてゆっくりと、しかも戦前との連続的な思考の果てに彼がたどりついた結論ではないかとも考えられる。戦後、多くの建築家たちがコンクリートによるコルビュジエ的造形へ転じていく中で、松村はそういったものから距離をおき、木造を中心とした独自のデザインを展開した。それは「もうひとつのモダニズム」とでも呼ぶべき、あり得た別の建築史を示す希有な実践であったと考えられるのではないか。そして、もしそうだとすれば、松村はどのような設計手法によってそのようなデザインを実現していたのだろうか、またそういった設計活動はどう評価されていたのだろうか。

しかし、このように各方面から高い評価を得、またデザイン上もさまざまな問題を提起した建築であるにもかかわらず、これまで、松村および彼の建築についてのまとまった研究はなく、その全貌はいまだ十分に把握されていない状況にある。

本論文は、そういった歴史上の空白地帯を埋め、上記のような仮説を検証し、さまざまな疑問に答えるために、彼の生い立ちから、最もアクティブに設計活動を展開した八幡浜市役所時代までについての全貌を把握し、八幡浜市役所時代に彼が設計した建築群のリスト化とその特徴や設計手法の詳細な分析をおこない、彼の築いていた人的ネットワークや彼への評価の変遷などを解明したものである。

第1章では、松村の誕生から八幡浜市役所への就職にいたるまでの歩みを、さまざまな文献資料や写真資料等によって描いている。彼は、1913年に愛媛県大洲市で生まれた。武蔵高等工科学校(現在の武蔵工業大学)において、欧米のモダニズム建築を日本に紹介した蔵田周忠の薫陶を受けた後、同校を1935年に卒業し、モダニズム建築の実践者である土浦亀城の設計事務所に就職した。そこでは近代化された戦前の東京という都市や華やかな建築家の姿を間近に見、1939年からは満州(新京)に移転した土浦事務所で働くことで日本の侵略地での生活も経験した。その後帰国し、1941年に土浦事務所を辞して農地開発営団へ移り、竹内芳太郎らの指導のもとで日本海側の貧しい農村の住宅調査に従事した。転身の背景には、生来の社会派的気質と社会主義思想への傾倒があったと思われる。そして、終戦とともに故郷の大洲市へ戻り、1947年10月に八幡浜市役所の職員となり土木課建築係に勤務した。

このような、愛媛→東京→満州→東京→新潟→愛媛という移動によって、松村は、都市と農村と植民地によって成立していた日本の近代化の本質を自らの目で確認したといえるだろう。また、蔵田と土浦の狭間で、モダニズム建築あるいはモダニズム建築家に対する、共感と反発を実感したと思われる。そしてこういった経験の中から、世界に対する松村なりの価値観を手にしたことを明らかにした。

第2章では、八幡浜市役所時代の作品群を詳細に分析している。まずは、八幡浜市役所に残る工事台帳に基づき松村の担当物件を特定し、それに別自治体の作品3件を加え、37件の作品リストに整理した。そして、八幡浜市役所と松村の自宅に残された設計図や写真、関係者の証言、現地調査などをふまえ、37件の松村担当作品に関する資料を可能な限り収集・整理し、各作品のデザイン上の特徴や相互関係などの詳細な分析をおこない、八幡浜市役所時代に松村独自のデザインが確立されていく過程を追跡した。その結果、以下のことを明らかにした。

(1)八幡浜市役所における作品は、時系列に沿った3つの時期に分類できる。第1期(作品の竣工年でいえば1948年から1950年)は、旧態依然とした地方の教育行政と戦いながら、学校建築における教室への「両面採光」などの解くべきテーマを見つけた時期である。第2期(同1951年から1954年)は、学校建築と病院関連施設においてさまざまなデザインの実験をおこない、松村の建築の特徴が確立されていった時期であり、その特徴は「平滑な外壁と屋根の組み合わせ」、「両面採光の確立」、「生涯教育の場としての学校というテーマの発見」、「ハイブリッドな木構造」等のキーワードで整理できる。第3期(同1955年から1960年)は、クラスター型教室配置の採用やハイブリッドな構造の展開等によって、松村が学校建築の代表作をまとめ、一連の病院関連施設も完結させた時期である。

(2)八幡浜市役所における松村の建築のデザインの変化は、文化的・物理的文脈などの外的要因を根拠にして新たなヴォキャブラリーを決定しているのではなく、松村の用意した建築言語の内部において、前作から次作に向かって可能な選択肢を辿りながら展開したといえることを明らかにし、これを「自己参照的メカニズムによるデザイン」と位置づけた。学校建築についていえば、教室の「両面採光」という目標の実現のため、外廊下の屋根を上げ、外部昇降口の断面構成が複雑化し、そこが内部化され、さらに教室と廊下部分が切り離されるといったプロセスであり、外装部分においては、採光・通風上の工夫と構造形式が連動しながら変化し、日土小学校における木造のカーテンウォール形式として完成されたプロセスである。このメカニズムは、学校建築においてはデザインを豊饒化・複雑化させる方向に機能したが、病院関連施設においては、逆に最初の作品である市立八幡浜総合病院東病棟を出発点とし、「生活像の空間化」という目標のために、前作品を簡略化していく傾向があった。また、病院関連施設において発見された建築的ヴォキャブラリーが学校建築に移行されてもおり、全体としても、デザインは自己参照的に変化したといえる。

(3)木造に鉄骨トラスや丸鋼ブレース等を加えたハイブリッドな構造を採用し、木構造についても洋風トラスや登り梁など形式の違うさまざまな小屋組を使いこなし、松村は、多くの建築家が戦後は捨ててしまった戦前からの大規模木造という領域に新たなデザインの可能性があることを具体的な作品によって示した。これは戦前と戦後の建築をつなぐ希有な連続的事例であるといえる。

第3章では、松村家に残る松村宛の多くの書簡を分析することによって、地方都市で孤独な設計活動をおこなっていた松村と、東京の建築家、研究者、編集者らとのあいだのやり取りを明らかにした。それによって、蔵田周忠は地方在住の松村を中央の建築ジャーナリズムにつなぎ、内田祥哉は松村の設計した学校建築の革新性を発見し、川添登は松村を戦前からの社会活動を通して評価し、神代雄一郎は地方性という反近代主義的視点から評価したことなどを明らかにした。また土浦事務所時代の関係者とのやり取りからは、モダニスト・土浦亀城に対する松村のトラウマティックな心情を指摘した。

さらに、『文藝春秋』1960年5月号の「建築家ベストテン-日本の十人-」という企画についても取り上げ、松村への当時の評価の構図を分析した。そして松村は、このように種々の外部世界との関係をもちながらも、そこにデザイン根拠を求めようとはしていなかったことを指摘した。

結論では、以上の分析をふまえ八幡浜市役所時代の松村の設計活動を総括した上で、建築デザインについて彼が提示した諸問題を整理し、モダニズム建築の意味や可能性についても考察を展開した。

その中で、松村は建築デザインを自己参照的メカニズムによって非文脈的に決定するために、「規範」としての文脈に代わる契機として種々の「価値」を導入したことを指摘し、彼の建築と言葉がもつ物語性や説話性の意味を説明した。

そして、このようないわば非歴史的な解釈に対し、歴史的に見れば、松村のデザインは木構造のハイブリッド化を通して戦前のモダニズム建築との連続性をもっていることと、価値を明示することによる彼の設計作業は、思い描く世界像の提示としての「近代化(モダナイズ)」という行為であるともいえ、その意味では、まさに松村はモダニズム建築家であり、彼のつくり出した建築はモダニズム建築であったといえることを指摘した。なお、補遺において、独立後の松村の設計活動について若干の紹介をおこなっている。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は建築家・松村正恒(1913年~1993年)の初期の活動に関する研究である。

第1章では、松村の誕生から八幡浜市役所への就職にいたるまでの歩みを、文献資料や写真資料等によって描いている。彼は1913年に愛媛県大洲市で生まれ、武蔵高等工科学校(現東京都市大学)に入学、欧米のモダニズム建築を日本に紹介した蔵田周忠の薫陶を受け、1935年に卒業、モダニズム建築の実践者である土浦亀城の設計事務所に就職した。そこでは近代化された戦前の東京や華やかな建築家の姿を間近に見、1939年からは満州(新京)に移転した土浦事務所で働き、日本の侵略地での生活も経験した。その後帰国し、1941年に土浦事務所を辞して農地開発営団へ移り、竹内芳太郎らの指導のもとで日本海側の貧しい農村の住宅調査に従事した。転身の背景には、生来の社会派的気質と社会主義思想への傾倒があったと思われる。そして、終戦とともに故郷の大洲市へ戻り、1947年10月に八幡浜市役所の職員となり土木課建築係に勤務した。

このような、愛媛→東京→満州→東京→新潟→愛媛という移動によって、松村は、都市と農村と植民地によって成立していた日本の近代化の本質を自らの目で確認したといえるだろう。また、蔵田と土浦の狭間で、モダニズム建築あるいはモダニズム建築家に対する、共感と反発を実感したと思われる。そしてこういった経験の中から、世界に対する松村なりの価値観を手にしたことを明らかにした。

第2章では、八幡浜市役所時代の作品群を詳細に分析している。八幡浜市役所に残る工事台帳に基づき松村の担当物件を特定し、それに別自治体の作品3件を加え、37件の作品リストに整理した。そして、八幡浜市役所および自宅に残された設計図や写真、関係者の証言、現地調査などをふまえ、37件の松村担当作品に関する資料を可能な限り収集・整理した。

(1)八幡浜市役所における作品は、時系列に沿った3つの時期に分類できる。第1期(1948-1950年)は、旧態依然とした地方の教育行政と戦いながら、学校建築における教室への「両面採光」などの解くべきテーマを見つけた時期である。第2期(1951-1954年)は、学校建築と病院関連施設においてさまざまなデザインの実験をおこない、松村の建築の特徴が確立されていった時期であり、その特徴は「平滑な外壁と屋根の組み合わせ」、「両面採光の確立」、「生涯教育の場としての学校というテーマの発見」、「ハイブリッドな木構造」等のキーワードで整理できる。第3期(1955-1960年)は、クラスター型教室配置の採用やハイブリッドな構造の展開等によって、学校建築の代表作をまとめ、一連の病院関連施設も完結させた時期である。

(2)八幡浜市役所における松村の建築のデザインの変化は、文化的・物理的文脈などの外的要因を根拠にして新たなヴォキャブラリーを決定しているのではなく、松村の建築言語の内部において、前作から次作に向かって可能な選択肢を辿りながら展開したといえるので、これを「自己参照的メカニズムによるデザイン」と位置づけた。このメカニズムは、学校建築においてはデザインを豊饒化・複雑化させる方向に機能したが、病院関連施設においては、逆に最初の作品である市立八幡浜総合病院東病棟を出発点とし、「生活像の空間化」という目標のために、前作品を簡略化していく傾向があった。デザインは自己参照的に変化したと結論づけた。

(3)木造に鉄骨トラスや丸鋼ブレース等を加えたハイブリッドな構造を採用し、木構造についても洋風トラスや登り梁など形式の違うさまざまな小屋組を使いこなし、戦前からの大規模木造という領域に新たなデザインの可能性があることを示した。これは戦前と戦後の建築をつなぐ希有な連続的事例である。

第3章では、書簡を分析することによって、松村と東京の建築家、研究者、編集者らとのあいだのやり取りを明らかにした。蔵田周忠は地方在住の松村を中央の建築ジャーナリズムにつなぎ、内田祥哉は松村の設計した学校建築の革新性を発見し、川添登は松村を戦前からの社会活動を通して評価し、神代雄一郎は地方性という反近代主義的視点から評価したことなどを明らかにした。また土浦事務所時代の関係者とのやり取りからは、モダニスト・土浦亀城に対する松村のトラウマティックな心情を指摘した。松村はこのように種々の外部世界との関係をもちながらも、そこにデザイン根拠を求めようとはしていなかったことを指摘した。

結論では、以上の分析をふまえ八幡浜市役所時代の松村の設計活動を総括した上で、建築デザインについて彼が提示した諸問題を整理し、モダニズム建築の意味や可能性についても考察を展開した。

松村は建築デザインを自己参照的メカニズムによって非文脈的に決定するために、「規範」としての文脈に代わる契機として種々の「価値」を導入したことを指摘し、彼の建築と言葉がもつ物語性や説話性の意味を説明した。このようないわば非歴史的な解釈に対し、歴史的に見れば、松村のデザインは木構造のハイブリッド化を通して戦前のモダニズム建築との連続性をもっていることと、彼の設計作業は世界像の提示としての「近代化」という行為であり、その意味ではまさに松村はモダニズム建築家であり、彼のつくり出した建築はモダニズム建築であったといえることを指摘した。

以上の研究は、戦後に活躍した建築家に関する初めての総合的研究であり、その資料収集、分析の手法は、斯界に大きな貢献をなすものである。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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