学位論文要旨



No 217084
著者(漢字) 髙橋,典幸
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ノリユキ
標題(和) 鎌倉幕府軍制と御家人制
標題(洋)
報告番号 217084
報告番号 乙17084
学位授与日 2009.01.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17084号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 准教授 大津,透
 東京大学 准教授 六反田,豊
 史料編纂所 教授 近藤,成一
 放送大学 教授 五味,文彦
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、鎌倉幕府の人的組織の柱である御家人制の特質を糾明し、それを主たる構成要素とする鎌倉幕府軍制の構造と展開について考察するものである。

第1部では御家人制の特徴を、その形成過程及び展開過程に即して考察した。第1章「武家政権論と鎌倉幕府」では、高麗武臣政権や平氏政権との比較考察により、土地恩給制と結びついた緊密な主従組織である御家人制は、鎌倉幕府に固有の存在であったことを明らかにした。すなわち、治承・寿永内乱という状況の下で既存の国家権力に対する反乱軍として御家人制が登場した点に、その主従組織としての緊密さ=土地恩給制の端緒が求められるのであるが、さらにそれが主人と従者の間で完結する私的な関係にとどまらなかった点も重要な特質である。治承・寿永内乱が克服され、反乱軍として出発した鎌倉幕府が朝廷と一定の関係を取り結んで全国的権力として立ち現われるようになると、内乱を戦い抜くための「私的」軍事組織であった御家人制は、(独占的な)国家的軍務遂行組織として位置づけられることによって、内乱後の平時にも維持・存続が図られたのである。そのことは、(1)御家人制によって収取された御家人役には、主人たる鎌倉殿ないし鎌倉幕府に対する直接的な奉仕とともに、それらを対象とはしない奉仕が共存すること、(2)後者の代表が京都大番役をはじめとする国家的軍務にかかる奉仕であるが、むしろ後者の方が前者よりも優先されていたこと、(3)前者は役の在地転嫁が禁じられていたにもかかわらず、後者はそれが認められていたこと、などからうかがい知ることができる((3)御家人役の在地転嫁の問題については第三章「御家人役研究の一視角」で詳しく取り上げた)。

第2章「御家人制の周縁」では、御家人制はまた別の意味で鎌倉殿の「私的」な軍事組織ではありえなかったことを明らかにした。鎌倉時代を通してみると、御家人制にはその人的範囲について限定的性格が顕著である。その理由としては、13世紀後半に展開する徳政(御家人所領取り戻し)政策など政治動向との関連も想定されるが、御家人制そのものに(鎌倉殿による恣意的な)拡大ないし開放を許さない性格が内在していたと考えられる。この点についての考察を深めたのが第4章「武家政権と戦争・軍役」である。すなわち、御家人制とは内乱期における在地の領主間競合・結集状況を前提として構築された組織だったのであり、そうした在地の状況に規定された様態を示す/規定されて機能していたのである。その一方で鎌倉時代後半以降には悪党に代表される新たな武士団結合が展開したが、御家人制はすでにそうした動きを捕捉することができず、軍事組織としては硬直化、桎梏と化していたのである。この点に関連して、当該期の武力のあり方についても考察し、モンゴル戦争期から南北朝内乱にいたるまで、武家諸権力はどのような形でそれらの武力を吸収しようとしたかについても考えた。その結果、それが武家・荘園領主・在地の間で新たな均衡(秩序)を生み出すことになったことを明らかにした。

第2部では、第1部の時間軸に即した視角ではとらえきれなかった御家人制の特徴を探った。

まず第1章「武士にとっての天皇」では、第1部でもふれた「御家人制と在地の領主間競合・結集状況の関係」について、武士という存在に内在する動機から照明を当てることを試みた。そもそも武士という存在の存立基盤は武芸を伝える「弓馬の家」にあったわけであるが、それは天皇との二重の回路によって結びついていた。一つが祖先意識であり、もう一つが官位の授受とそれにともなう奉仕である。後者の奉仕の代表が京都大番役であり、鎌倉幕府はそこに介在していくことによって自らの政治的・社会的プレゼンスを高めていったわけであるが、重要なのは、京都大番役という共同勤仕の場を通じて天皇ないし将軍と武士との回路が形成されていることである。すなわち「主人(天皇もしくは将軍)―従者(武士)」という縦方向の組織・秩序が形成される契機として、在地の領主間のメンバーシップの確認という横方向の動きがあったと考えられるのである。武士の天皇観を観察すると、ともするとこの横方向の動きが縦方向の動きを相対化する可能性があったことがうかがわれるのである。このことは当然、将軍(幕府)と御家人との関係にも当てはまる可能性がある。

次に第2章「鎌倉幕府と東海御家人」では御家人制の地域性の問題を扱った。これまでも御家人制の地域性はしばしば語られてきたが、それは東国御家人を鑑として、東国御家人との差異(距離)を論じる傾向があった。その場合、鑑たる東国御家人は均質な存在であることが前提とされてきた。しかし一口に東国御家人と言っても、その内部に偏差がはらまれていたことを伊豆・駿河・遠江の御家人を素材として論じた。こうした偏差が生じた理由として「東国」としての成り立ちの違い、伊豆の場合は国御家人が、その挙兵当初から一貫して源頼朝に従っていたのに対し、駿河・遠江の場合は甲斐源氏による支配を受けた上であらためて幕府によって「再占領」されるという経過をたどったことが、その後の幕府内における両地域の国御家人の地位の違いとして結果したと考えられる。駿河・遠江と同様の性格は同じく「東国」の縁辺部に位置する越後についても見てとることができる。

また、東海地域の御家人・御家人制が固有に担った役割という意味での地域性についても考察し、それは鎌倉幕府の交通政策を体現するものであったことを明らかにした。すなわち、これら東海地域の御家人たちは東海道の交通の要衝である宿の管理者(「宿の長者」)であることを実態としており、それら「宿の長者」を御家人制としてまとめ上げることによって、鎌倉幕府は東海道を掌握することができたのであった。その意味で、在地の秩序を捕捉することによって幕府による支配・政策は実現していたと言えよう。その一方で幕府の交通政策に組み込まれることによる反作用も当然存在し、それに乗じることによって勢力を拡大する武士、逆に没落する武士も現われた。幕府による支配・政策は在地の秩序に影響を与えうるものであったとも言いうるのである。

第3章「御家人役「某跡」賦課方式に関する一考察」は鎌倉時代半ば以降、御家人役徴収に際して採られた「某跡」賦課方式について、「深堀文書」を素材として考察した。鎌倉時代半ばは、第1部でも明らかにしたように、御家人制変質の画期であり、時を同じくして採用された「某跡」賦課方式はこの変質と連動している可能性がある。

「某跡」賦課方式の手続き的側面については本論に譲るが、「深堀文書」に即してみた場合、重要なことは、その催促状の宛所(名義上の御家人役負担責任者)は現役の御家人ではなく、「某跡」の「某」そのものであったことである。本章では「深堀文書」の個別研究にとどまったため、今後なお幅広い事例の収集・検討が必要であるが、この現象は御家人制の固定化・形骸化の端緒を示すものではないかと考えられる。

第3部は御家人制を機軸とする鎌倉幕府軍制がその後どのような展開をたどったかを考察した。

第1章「鎌倉幕府軍制の構造と展開」では、まず御家人領保護令として知られる「天福・寛元法」(鎌倉幕府追加法68・210条)を鎌倉幕府軍制との関わりで理解した。すなわち、数ある御家人役の中でも京都大番役をはじめとする軍役については13世紀半ばに在地転嫁が認められるようになったが、それは御家人・御家人制が独占的に国家的軍務に携わるという当時の軍制形態と関わるものであった。その結果、御家人知行の所領は軍役を負担する所領として「武家領」「御家人領」と概念化されるようになった。それに対抗する形で「本所一円地」概念が形成され、「御家人領対本所一円地」という枠組みにもとづいた軍制構造が出現することになった。さらに、この枠組みは軍制の領域にとどまることなく、荘園制そのものに影響を与え、それまでの荘園公領制に代わって社会の基本的な枠組みとして機能するようになると考えられる。

第2章「武家政権と本所一円地」は第1章で提示した「武家領対本所一円地」という枠組みについて、とくに「本所一円地」の側について考察を深めた。モンゴル襲来以後、軍事力強化という課題に迫られた武家政権は本所一円地にも軍役負担を求めていく。これは、御家人制では捕捉しきれない、在地に遍在する武力を、本所一円地という形式を通じて吸収していこうとする試みであるが、実際に荘官・沙汰人層を中心として本所一円地の側にもそうした試みに応えうる軍事的力量が備わっていた。武家政権の介入・干渉を排除してきた本所一円地ないし荘園領主にとって、上のような事態は自らの立場の侵害でもあるわけだが、その一方で軍役負担に応じていくことはその存立を武家に認めさせる根拠ともなった。いわば「本所一円地」とは両義的な存在なのであり、以上のような武家政権と本所一円地との関係は室町時代にも引き継がれ、「武家領対本所一円地体制」という形で荘園制が再編される端緒になったと考えられる。

第3章「荘園制と武家政権」は第1章・第2章では主として軍制・武家政権の側から論じてきた事態を荘園制の側から捉え直そうとしたものである。第1章でも扱った「武家領」の成立は、それに対抗する形で「本所一円地」が登場するなど、モンゴル襲来から南北朝内乱へと至る折からの戦争状況とも関わって、荘園制再編の牽引車としての役割を果たしたと考えられる。上の事態を荘園制に即して評価すれば、いわば軍事的契機が起点となって新たな秩序が生み出されていった、と評価することができる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、日本中世史研究の主要テーマの一つであり、長くかつ厖大な研究史をもつ鎌倉幕府御家人制(武家政権の編成原理の一つで将軍・御家人間の主従関係を軸とする)を正面からとりあげ、12世紀末における創成と定着、鎌倉時代を通じた性格の変遷、さらに次の室町時代への展開までを、通時的かつ実証的に解明しようとした重厚な研究である。とくに目覚ましい成果として、以下の4点を挙げることができる。

(1)12世紀末の内乱のなかで、源頼朝を戴く反乱軍が、従前の国家体制の外に強固な主従制で結ばれた武力を編成した点に、御家人制の創成を見いだし、内乱の終結ののち、その主従制に包含しきれない領域における国家的奉仕(京都大番役が中心)を御家人制の最優先の属性に位置づけることで、国家機構のなかに体制化された、という道筋で御家人制の出発を説明した。その際、先行する平氏政権および隣国高麗の武人政権との比較によって、御家人制を特徴づけるという視点を切り開いた。

(2)御家人制が主従制というタテの関係を軸とすることは当然であるが、地域ごとの武士集団相互間に結ばれるヨコの関係も、御家人制を特徴づける大きな要素であり、京都大番役の重要性は、天皇や首都との関わりという点だけでなく、それを通じて御家人であることが地域内の他の武士との関係において可視化される点にも存する、と指摘した。

(3)13世紀中葉に御家人身分の開放化(御家人役を勤めた侍身分の者を御家人に認定)の時期があったことを指摘し、それが1270年前後に放棄されて、仁治年間(1240-43)以前に溯る由緒のない者を排除するという限定的な方向へ逆転する、という動向を発見した。

(4)13世紀第2四半期以降の御家人所領保護法が、幕府軍役を勤める土地=武家領(御家人領)という概念を生み出し、それに対抗する本所側の概念として幕府軍役を勤めない「本所一円地」が成立するが、蒙古襲来の脅威のなかで、幕府が、荘園領主を通じてその支配下にある在地の武力を動員する意図のもとに、「本所一円地住人」にも軍役を賦課したことにより、荘園所領が「武家領対本所一円地」という二つの柱に再編され、ここに室町期以降につながる荘園制の新段階が萌芽した、という大きな構想を提示した。

このように本論文は、多方面から御家人制に迫ることを通じて、狭義の軍制にとどまらず、中世の土地制度の根幹をなす荘園制の研究史にも一石を投じた、意欲的な研究である。上記(1)の論点において、先行学説の精緻化という段階から脱却しきれておらず、また御家人制とならぶ武家政権の編成原理である地頭制への言及があまりに少ないこと、上記(2)に述べたヨコ軸の解明に宛てられるはずの第二部が、「御家人制の諸相」という標題にも表われているように、熟成度の点で物足りないこと、など不満を感じさせる部分もあるが、それを補って余りある学説史的意義が認められる。

以上より、本委員会は、本論文を博士(文学)の称号を授与するにふさわしい優れた業績として認めるものである。

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