学位論文要旨



No 217085
著者(漢字) 山本,信
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,ノブヨシ
標題(和) 摂関政治史論考
標題(洋)
報告番号 217085
報告番号 乙17085
学位授与日 2009.01.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17085号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 准教授 大津,透
 東京大学 教授 藤原,克巳
 史料編纂所 教授 加藤,友康
 放送大学 教授 五味,文彦
内容要旨 要旨を表示する

本論文は平安時代中期(9世紀後半から11世紀中頃)にかけて成立した所謂摂政・関白政治(以下、「摂関政治」と略称する)について、主として政治制度史の観点に立って考察を加えた論考15篇からなり、主題に関連する奈良時代の政治制度に関する論文2篇を附として加えている。その構成は次の通りである。

第1部 摂政・関白と太政官運営(第1章「摂政・関白と左右大臣」、第2章「平安中期の内覧について」、第3章「一上考」)

第2部 よそ人の摂政・関白(第1章「冷泉朝における小野宮家・九条家をめぐって―安和 の変の周辺―」、第2章「藤原実頼と藤原道長の准摂政について」、第3章「関白藤原頼忠論」)

第3部 藤原兼家政権の考察(第1章「摂政藤原兼家と左大臣源雅信・右大臣藤原為光」、第2章「永祚元年二月の藤原兼家奏上について」、第3章「摂政藤原兼家と弁官」)

第4部 藤原道長の周辺(第1章「藤原実資と鳳輿・葱花輿」、第2章「長和三年の上東門第臨時競馬」、第3章「法華八講と道長の三十講」、第4章「起請宣旨・勘宣旨小考」)

第5部 摂関時代における令外官と蔵人日記(第1章「穀倉院の機能と職員」、第2章「『親信卿記』の研究」)

附篇 第1章「内臣考」、第2章「内豎省の研究」

以上17篇のうち12篇はすでに研究誌等に発表しているが、その他の5篇は本論文刊行にさいして新しく起稿したものである(各論文の成稿・発表年次は論文目録参照のこと)。

摂関政治は平安時代に天皇の外戚である藤原氏(北家)が幼帝の代理もしくは成人天皇の補佐として政治の実権を掌握した政治形態をいい、平安時代研究の主要テーマとされているが、この研究は従前は専ら外戚政治という観点に重点が置かれて行われていた傾向があった。このため、かつては国政が摂関家の家政機関で行われたとする、いわゆる政所政治論も論じられたが、土田直鎮・橋本義彦氏らの研究によって、摂関政治も律令制度の下で太政官組織を中心に行われていたことが改めて確認された。

ただし、私が摂関政治に関心を深めた昭和40年から50年前半の時代では、摂政・関白の政治的権限は専ら天皇の権力基盤の上に成立したと考えられていて、研究の視点は貴族政権の構成に重点を置いて行われていた傾向にあり、太政官機構との関係の考察は必ずしも充分でなかった。

しかしながら、初期の摂政・関白の職制上の特徴は太政官の大臣を本官としていたことで、このため、摂政・関白はその職能として天皇権力の代行もしくは補佐者として太政官の政務を決定する立場にある一方で、大臣として太政官行政の執行者としての権限を持つという二重機能を併せ保有した。したがって摂政・関白の成立は太政官運営の上に様々な影響を与えた。例えば初期の摂政・関白であった藤原良房・同基経が大臣として太政官政務を直接指揮したため、太政官の筆頭公卿であった左大臣が朝廷に出仕しないという事態を引き起したのはその一例である。

本論第1部「摂政・関白と太政官運営」は、摂政・関白の成立が太政官政治の運営にどのような影響を与え、摂政・関白は太政官行政を掌握するためにどのように対処したのか、その実状を検討し、律令制度の中に摂関政治体制を整合させ、摂政・関白が太政官政務を掌握する機能として「一上」「官奏候侍者」「内覧」という新しい職能を創設したことを論証している。第1章「摂政・関白と左右大臣」は摂政・関白の本官が左・右大臣であった場合に生じたそれぞれの状況についてその影響を検討した。いわば本論の序論である。第3章の「一上考」は摂政・関白が太政官政務を掌握するため、筆頭大臣である左大臣から太政官政務の指揮権を与奪して「一上」という職能を新設し、摂政・関白が指名する大臣・大納言に付与した制度であったことを明らかにした。この機能は摂政・関白が令制上に位置した左大臣の存在を認めつつ、その政治上の権力を無力化した摂関政治特有の政治形態であったことを論証し、併せてこの一上の職能の活用が摂関政治史上重要な役割を果していたことを指摘した。なお、文中「官奏候侍者」についての考察は、この制度が一上と関連した職能で、令制上、天皇に対して太政官が行う重要政務奏上である太政官奏にさいし、本来は筆頭大臣(左大臣)の職務であった官奏候侍者を官奏の都度に天皇(実際は関白)が指名する制度であったことを論証し、一上の制と共に関白が太政官行政を実質支配する機能であったことを明らかにした。

また第2章に述べた内覧の研究は、その制度の考察と摂関政治上に果した意義を究明している。この制度が天皇に奏上・奏下する文書を事前に査閲し、併せて太政官組織を支配する権限を特定の公卿に付与した職能であったことを実証し、具体的には太政官の行政事務局である外記局(のちの局務)および弁官局(のちの官務)の指揮権を事実上掌握する職能であったことを明らかにした。この職能は以前、藤原基経の時代に太政大臣の職掌を具体化するため案出されたもので、のち醍醐天皇の親政を実現するため父帝宇多天皇が藤原時平・菅原道真に付与したことを制度上の起原としている。その後、この職能は円融天皇の時代に権中納言藤原兼通、一条天皇の時に権大納言藤原道長と大臣を帯さない執政者に付与されたが、この職能を最も活用したのは道長であった。道長は左大臣の職掌にこの内覧の職能を重ねて太政官政務機構を支配下に置き、他方、一上として諸政務の運営を直接指揮して、執政・執行の両面から太政官を掌握し、通例の関白を上廻る権限を保有していたことを明らかにした。

第2部の「よそ人の摂政・関白」は外戚の地位に恵まれなかった藤原実頼・頼忠父子の摂関政治史上の地位を考察している。藤原摂関家は忠平ののちは小野宮実頼・九条師輔の二流に分かれ、実頼は摂政・太政大臣に昇ったが女子運に恵まれず、外戚の地位を獲得できなかった。第1章では左大臣源高明を政界から追放した安和の変の実態を考察し、叙位・除目の人事権は外戚である九条家が掌握し、実頼の権限は官奏などの行政面に限られていたことを論証した。第2章は冷泉天皇の准摂政であった実頼と三条天皇の准摂政であった道長の政治上の地位を検証し、実頼は官奏の権のみであったのに対し、道長は除目・官奏の両面を把握し、さらに一上の職能を確保して、政治権力の掌握に万全を期していた状況を明らかにした。第3章は外戚の地位になく「よそ人の関白」と呼ばれた頼忠が親政を目指す円融・花山両天皇の下で、関白の職能の保持に苦労した姿を検証し、外戚の地位と一上の職能を持たない関白の実態を考察した。

第3部は幼帝一条天皇の時代に外祖父として強力な摂政政治を行った藤原兼家が、その権力を確立するために、外戚の地位を背景に様々な方策を必要とした過程とその実態を考証した。第1章は上位に太政大臣頼忠・左大臣源雅信を頂き、かつ子弟が弱年で一上の職能を活用できなかった兼家が太政官を掌握するため右大臣を辞して摂政を独立した職事官としたこと、円融天皇の父権に対抗するため女詮子を皇太后として母権を確立したこと、円融天皇が信任した左大臣源雅信に対抗するため右大臣藤原為光を活用したことなど、権力確立のための努力を論証した。第2章は永祚元年(989)2月に兼家が円融法皇に奉った3ヶ条の奏状を検証し、兼家が外戚の地位を固めるため、外孫一条天皇の春日行幸を強行したこと、摂政・関白の後継者とするため長子道隆を内大臣とすることを望んだ経由を明らかにし、併せて摂関政治にみる神社行政を概観し、かつ内大臣の在り方を検証した。第3章は一上の制を活用できなかった兼家が自身の家司を中心にして太政官弁官を掌握し、これに伴って殿上弁が増大するなど太政官事務局(弁官局・外記局)の地位が高まって行く実状を明らかにした。

第4部「藤原道長の周辺」は藤原道長の政務運営にみられる特質の幾つかを論述している。第1章・第2章は藤原実資からみた道長観を紹介し、式制・故実を次第に改変して華麗に整え、人心を収攬していた状況を述べた。第3章は摂関家を中心に盛行した法華八講の歴史を明らかにし、道長が法華一品経による三十講に拡実して行った過程を論証した。道長はこの三十講を公式性格が強い法会とすると共に、結縁者を当初の一族・家司から諸国受領層に広げ、摂関政治の基盤を拡大していた状況を検討した。また第4章は摂関政治の中で多用された宣旨のうち、新儀を施行するさいに用いた起請宣旨と先例を尊重した勘宣旨の在り方を考察し、道長が格式などの諸規定を改めていた政治の在り方の一端を解明した。

第5部は第1章で摂関政治時代の宮廷経済を支えた令外官穀倉院についてその機能と職員構成を検討した。律令制官司が衰退する中で、穀倉院が新儀あるいは臨時行事、もしくは内廷行事を令制の内蔵寮と共に支えていた状況を考証し、平安時代の官司が持つ重層的性格を解明した。併せてその別当を摂政・関白、殿上弁・蔵人頭が務めていて、摂関政治体制を経済的に支えていた官司であることを立証した。また第2章は未刊史料である平親信の蔵人時代の日記『親信卿記』について、部類記から復元された蔵人日記で、関白兼通の時代を伝えた重要史料であることを論証した。

なお、附篇の二篇は奈良時代の内臣と、令外官であった内豎省について考察を加えたもので、「内臣考」は摂関時代の内大臣の先行官職であった内臣の在り方を考察し、「内豎省の研究」は称徳天皇の時代に新設された令外官内豎省が光明皇太后の近侍の官司豎子所が発展した機構で、道鏡政権を支えた官司であったことを考証している。

審査要旨 要旨を表示する

山本信吉氏の論文『摂関政治史論考』は、平安時代中期の摂関政治を対象として、政治運営をめぐる天皇、摂政・関白と太政官との関係に焦点をあてつつ、政治制度とその構造を実証的に明らかにするとともに、政治史展開について基礎的な見通しをもたらした研究成果である。研究の特徴は、古記録・法制史料の検討を踏まえた実証の上に、文化史的視点を取り入れ、堅実で説得力に富む論旨を展開するところにある。摂関時代の政治制度・政権構造や政治動向について、幅広い視野から歴史的展望を提示した研究といえよう。

第一部「摂政・関白と太政官運営」では、「平安中期の内覧について」で、太政官から天皇に奏し天皇から太政官に下す文書を事前に見る「内覧」制度の実態を摂政・関白との関わりのなかで解明する。「一上考」では、本来太政官を統括する左大臣が担っていた太政官行政事務を主催する職能が、摂政・関白が特定の大臣・大納言らにその職能をゆだねる制度として「一上」の制が藤原忠平の時代に成立したこと、一上のあり方は時々の摂政・関白のあり方により変遷したが、藤原道長が長く左大臣の座にとどまって一上の職能に固執して実権を保持した背景などを明らかにした。忠平から道長に至る時代、とくに摂関政治の諸段階において、天皇・摂関・太政官の関係をめぐる政治制度と政治展開の両者にわたる見通しをもたらした基礎的研究として、評価されよう。

第二部「よそ人の摂政・関白」では、外戚の地位をもたない摂政・関白であった小野宮家の藤原実頼・頼忠の、実権に欠けた摂政・関白としての実態を明らかにする。同じ「准摂政」の地位でも、太政官奏を見る権能のみであった実頼とは異なり、道長の場合は官奏を見、除目を行い、一上のことを行う権能を制度的に獲得し太政官を掌握していたことを明らかにした。

第三部「藤原兼家政権の考察」では、右大臣ながら一条天皇の外戚として摂政となった藤原兼家が、上席の太政大臣藤原頼忠・左大臣源雅信に対するために右大臣を辞し、一上の制を適応できないなかで、太政官の弁官を家司とすることによって太政官機構を掌握したことを明確に指摘する。

第四部「藤原道長の周辺」では、「法華八講と道長の三十講」で、法華経を信奉した道長の法華三十講を分析し、平安時代初期から台頭した亡者追善のための法華八講の歴史上に道長の信仰を位置づける。法会を支えた者が身内から受領層に広がることを明らかにし、道長の政治基盤の変化を指摘するなど、文化史と政治史を見通した有益な研究成果を提示した。第五部「摂関時代における令外官と蔵人日記」では、「穀倉院の機能と職員」で、摂関時代の財政を支えた穀倉院の機能を明らかにし、先駆的な研究成果を挙げている。

なお道長政権の構造分析や頼通以降への関説も望まれるが、以上、本論文は、摂政・関白と太政官運営の関係に焦点をあてながら、摂関政治の政務運営や政治動向について政治制度史の面から実証的で説得力ある論旨を展開し、律令官制の変質過程と摂関政治の政治過程をめぐって研究に有益な基礎をもたらした成果として高く評価できる。

したがって審査委員会は、本論文が博士(文学)にふさわしい研究であると判断する。

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