学位論文要旨



No 217090
著者(漢字) 草野,寛一
著者(英字)
著者(カナ) クサノ,カンイチ
標題(和) 競走馬の炎天性下気道疾患ならびにBreath-by-breath呼吸機能検査法の開発と応用に関する研究
標題(洋)
報告番号 217090
報告番号 乙17090
学位授与日 2009.02.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第17090号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 教授 西村,亮平
 東京大学 准教授 桑原,正貴
内容要旨 要旨を表示する

序論

走ることが宿命であるウマは、呼吸のエネルギーコストを軽減するための効率を上げるため、動作-呼吸関連など他の動物とは異なる呼吸戦略を有することが知られている。またウマの呼吸器疾患は、競走馬のプアパフォーマンスの原因として運動器疾患に次いで2番目に多いことが分かっており、経済に与える影響度に加え動物福祉上問題となり、競馬のイメージ低下につながることから世界中で精力的に研究されている。中でも炎症性下気道疾患(Inflammatory Airway Disease:IAD)は、初めて調教を開始する競走馬の80%がIADに罹患しているとの報告があり、上気道疾患と比較して罹患率が高く、再発性であることから、競馬サークルにおける本疾患の重要度は高い。しかし、本疾患の原因や病因については未だ未解明であり、詳細な研究が望まれている。

一方、ウマの呼吸器検査法については、内視鏡検査、気管液吸引検査および気管支肺胞洗浄が一般的に普及しているが、診断が主観的であることは否めず、パフォーマンスとの関連を間接的に評価しているに過ぎないことから、本分野の研究は運動器疾患に比べ遅れている。

本研究では、 近年プアパフォーマンスの原因として最も注目されているIADの発症状況、病態、従来検査の有効性を明らかにすることと同時に、ウマに有用な新しい呼吸機能検査法の確立を目標としてbreath-by-breathスパイロメーターに呼気ガスサンプリング用の一方向弁を組み合わせたQuadflow maskシステムを開発し、ウマにおける呼吸機能検査法としての有用性を検討した。

1)炎症性下気道疾患(IAD)の発症状況調査

競走馬のプアパフォーマンス、調教遅延および早期引退の主要原因として注目されているIADについて、まず調査Iとして日本で飼養されている競走馬におけるIADの発生状況を調査するとともに、IADの病態解明の一助として敷料や乾草の給餌法などの飼養環境と本疾病との関係を解析した。さらには、調査IIとして呼吸器疾患が疑われるプアパフォーマンス馬の呼吸器疾患診断法について、内視鏡検査をはじめとする炎症マーカー(SAA, Fgb)や肺胞損傷マーカー(SP-D)の増減を比較検討した検査法の有用性について検討するとともに、IADの特徴を明らかにすべく供試馬の出走歴についても検討した。

調査Iの結果、日本中央競馬会、美浦・栗東トレーニングセンターに在厩する競走馬におけるIADの発生率は0.3%であり、日本においてもIAD罹患馬が一定頭数存在することが確認された。また、IAD罹患馬は敷料にウッドチップを利用し、乾草を馬房の床に置いて給与している割合が高かったことから、馬房内環境の改善はIADの予防に効果があると考えられた。

調査IIの結果、咳嗽やプアパフォーマンスを主訴とする競走馬が高率にIADに罹患していること、中でも咳嗽を呈すウマは比較的急性期の病態にあること、さらには、走能力減退群の有出走歴が、咳嗽群の有出走歴に比較し有意に高く、さらに検査日を基点とした場合の前走までの出走回数も同様に有意に多かったことなど日本で発生しているIADの特徴に関する知見を明らかにするとともに、プアパフォーマンス馬の呼吸器検査にあたっては、上気道の検査とともに、気管液吸引検査および炎症マーカーや肺胞損傷マーカーなどの血液検査を組み合わせて実施することの有用性を明らかにした。

2)Breath-by-breathスパイロメーターの応用による呼吸機能検査法の開発と 運動負荷時の換気指標の変化

著者らが新しく開発した、ウマ用breath-by-breathスパイロメーターに呼気ガスサンプリング用の一方向弁を組み合わせた、QFシステムにおける、呼吸機能評価指数や酸素摂取量測定値の信頼性を検討した。

その結果、Quadflow mask装着により最大下運動時において血中乳酸値と最大心拍数の軽度の上昇をもたらすが、運動負荷試験により得られた呼吸機能評価指標や酸素摂取量値は信頼性が高く、ウマの疾走時における呼吸機能検査法として臨床や研究目的の使用に十分に耐え得るものであることを証明した。

3)Breath-by-breathスパイロメーターによるウマの運動負荷中および運動負荷後の呼吸様式の解明

ウマの呼吸機能検査法の確立を目指す上で重要な、ウマ疾走中の正常な呼吸パターンについて、第3章で測定値の信頼性が証明されたQuadflowシステムを用いて調査した。その結果、 (1)5種類の異なる呼吸パターンすなわち、正常単相呼吸(normal monophasic)、正常2相性呼吸(normal biphasic)、嚥下(deglutition)、努力性呼吸休止(effort pause)および大呼吸(large breaths)が観察された。(2)運動直後120秒間ではlarge とnormal monophasicの2タイプのみが出現する。(3)強運動中は、走速度の増加に伴い正常呼吸および大呼吸サイクルにおいて、一回換気量(VT)は増加し、呼吸時間(TE, TI)は短縮した。(4)大呼吸サイクルは、駈歩中のみならず常歩運動中においても観察された。(5)運動中の呼吸数の増加に伴い、大呼吸サイクルの出現回数は減少した。(6)安静時および運動のステージによりflow-volume曲線は異なるパターンを示した。(7)運動負荷試験における、最大一回換気量(29.6±1.4L)は、強運動終了直後10秒までに観察された。(8)大呼吸サイクルの回数および一回換気量は、運動終了後2分まで指数関数的に減少した。(9)大呼吸サイクルが発生する3-4呼吸前より呼気炭酸ガス分圧(FECO2)の増加が認められた。これらの知見は、運動負荷による呼吸機能検査の実施上重要な基礎となることが示唆された。

4)Breath-by-breathスパイロメーターによる運動負荷後測定の応用と換気指標の検証

今回開発したウマ用呼吸機能検査システムについて、その臨床応用機会を更に広げるために、調査Iとして強運動後に呼吸機能検査を行う際に有用な運動後の呼吸機能指標の検索とそれらの経時的変化、およびQFシステムを用いた単回呼吸における呼気・吸気相解析の呼吸機能検査法としての有用性について検討した。また調査IIとして、呼吸器疾患を有するウマにおけるbreath-by-breath換気指標を測定することにより、ウマの呼吸器疾患における換気指標の変化を考察するとともにQFシステムを臨床応用する際の注意点や課題を明らかにした。

調査Iの結果、多くの呼吸機能指標について運動後の時間経過は一回換気量に影響をおよぼし、大呼吸サイクルは正常呼吸と異なる呼吸パターンであることから、呼吸機能を異なるウマと比較する場合、ランダムで選択した呼吸を用いてはならないことが明らかとなった。また、単回呼吸における呼気相-吸気相解析は呼吸機能検査において補完的な換気指標として期待できることが明らかとなった。さらに、本研究で用いたbreath-by-breathスパイロメーターにおいて、運動負荷後の呼吸機能評価指標としての理想的な「運動後の時間経過および一回換気量に影響を受けない」条件を満たした測定項目はizp75%およびTpef/TEの2項目であることがわかった。

これらの知見は、強運動後に適正な呼吸機能検査を行うに当たって採用すべき指標および測定時間範囲の基準を提供するものと考えられる。今後breath-by-breathスパイロメトリーを用いることによってウマの様々な呼吸器疾患の病態を評価するための広範な基礎的、臨床的研究が可能になると思われる。

調査IIの結果、喉頭片麻痺(LH)罹患馬では、12m/sにおけるVTの低値、安静時から運動終了後までのPIFが低値を示す、Flow-volume曲線において、すべての運動ステージで吸気パターンが呼気パターンより小さいなど、喉頭片麻痺特有の著しい吸気制限が観察された。さらには、安静時および強運動中のTpif/TIの高値、運動後におけるTpef/TE やTpif/TIの低値など、本疾患の診断指標となり得る新しい知見が得られた。上記の成績により、QFシステムにより喉頭片麻痺の診断が可能であることを明らかにすることが出来た。

IAD罹患馬では、強運動終了後のTpif/TI、Tpef/TEは低値を示した、izp25%、izp50%は高値を示した、および強運動中のflow-volume曲線では最大流量が呼気相の後期に出現、運動後ではより前期に出現したなど新しい知見が得られた。これらはIADの特徴的なパターンであり、特にTpef/TE やzp25%はウマにおける下気道疾患の有用な指標である可能性が示唆された。

5)結論

以上の成績から、近年競走馬のプアパフォーマンスの原因として最も注目されているIADの病態に関する新知見が明らかとなり、breath-by-breathスパイロメーターに呼気ガスサンプリング用の一方向弁を組み合わせたQFシステムのウマにおける呼吸機能検査機器としての有用性が明らかとなった。

審査要旨 要旨を表示する

ウマの呼吸器疾患は他の疾患にくらべて診断手法が乏しく、そのため有効な治療が遅れがちである。競走馬は様々な潜在的疾患を抱えており、運動能力低減の大きな要因になっている。骨折、腱炎、急性感染症などは原因や症状が特定しやすいために対策をとりやすいが、外見上は健康であるものの運動能力が著しく低下する、いわゆる「プワーパフォーマンス」が問題になっている。しかしながら、プワーパフォーマンスを示す馬も詳細な検査を行うと、喉頭片麻痺や運動性肺出血などの呼吸器疾患が明らかになることも少なくない。近年、熱発までには至らない下気道の慢性炎症がプワーパフォーマンスの原因の一部であることが海外で知られるようになった。本研究課題においては、わが国の競走馬における炎症性下気道疾患(Inflammatory Airway Disease:IAD)の罹患状況に関する疫学調査を実施するとともに、従来にはない新しいタイプの呼吸器疾患診断法としてbreath-by-breath呼吸機能検査法の開発と応用に関する研究を行ったものである。

競走馬における炎症性下気道疾患(IAD)の発症状況調査および呼吸機能検査法の検証

日本で飼養されている競走馬についてIADの発生状況と飼養環境調査を行った(調査I)。さらに、呼吸器疾患が疑われるプアパフォーマンス馬の呼吸器疾患診断を従来法によって実施した(調査II)。 調査Iの結果、日本中央競馬会、美浦・栗東トレーニングセンターに在厩する競走馬全体におけるIADの発生率は0.3%であり、日本においてもIAD罹患馬が一定頭数存在することが確認された。また、IAD罹患馬は敷料にウッドチップを利用し、乾草を馬房の床に置いて給与している割合が高かったことから、馬房内環境の改善はIADの予防に効果があると考えられた。調査IIの結果、咳嗽やプアパフォーマンスを主訴とする競走馬のうち、IADに罹患している個体が高率に見出された。また、プアパフォーマンス馬の呼吸器検査にあたっては、上気道の検査とともに、気管液吸引検査および炎症マーカー(SAA, Fgb)や肺胞損傷マーカー(SP-D)などの血液検査を組み合わせて実施することが有用性であることを明らかにした。

Breath-by-breathスパイロメーターの応用による呼吸機能検査法の開発と運動負荷時の換気指標の変化

著者らが新しく開発した、ウマ用breath-by-breathスパイロメーターを用いて呼吸機能評価指数や酸素摂取量測定値の信頼性を検討した。

その結果、Quadflow mask装着により最大下運動時において血中乳酸値と最大心拍数の軽度の上昇をもたらすが、運動負荷試験により得られた呼吸機能評価指標や酸素摂取量値は信頼性が高く、ウマの疾走時における呼吸機能検査法として臨床や研究目的の使用に十分に耐え得るものであることを証明した。

Breath-by-breathスパイロメーターによるウマの運動負荷中および運動負荷後の呼吸様式の解明

ウマの呼吸機能検査法の確立を目指す上で重要な、ウマ疾走中の正常な呼吸パターンを新規に開発したbreath-by-breathスパイロメーターを用いて調べた。その結果、 (1)5種類の異なる呼吸パターンすなわち、正常単相呼吸(normal monophasic)、正常2相性呼吸(normal biphasic)、嚥下(deglutition)、努力性呼吸休止(effort pause)および大呼吸(large breaths)が観察された。とくに大呼吸サイクルの発現様式と運動および呼気炭酸ガス分圧(FECO2)との関連性が明らかにされた。また、運動前後のflow-volume曲線の特徴を明らかにした。

Breath-by-breathスパイロメーターによる運動負荷後測定の応用と換気指標の検証

数多くの呼吸機能指標のトレッドミル運動前後の変化を明らかにした。多くの呼吸指標は時間経過に伴って変化することから、呼吸機能検査の際は運動負荷後の一定時間を選択する必要があることと、呼気相-吸気相の時間要素解析、ピークフロー解析は呼吸機能検査において重要であることが示唆された。本研究で検討した多くの呼吸機能指標のうち、izp75%(吸気相の75%フロー値)およびTpef/TE(ピーク呼気時間/呼気時間)の2項目がもっとも安定した指標であることが明らかになった。

次いで、breath-by-breathスパイロメーターを用いて喉頭片麻痺罹患馬(LH)および炎症性下気道疾患(IAD)馬の特徴を明らかにした。その結果、LH 馬では一回換気量(VT)とピーク吸気流量(PIF)が低値を示すなど、明瞭な吸気制限が観察された。IAD罹患馬では、すべての呼吸機能指標について、対照群と明らかな差が認められなかった。しかし、flow-volume曲線では運動ステージごとに異なるパターンが観察され、特に強運動時の最大流量が呼気相の後期に出現したことは新知見であり、IAD罹患馬の特徴的なパターンであることが示唆された。

以上を要するに、本研究は近年競走馬のプアパフォーマンスの原因として最も注目されている炎症性下気道疾患(IAD)の病態に関する新知見を明らかにしたとともに、新規に開発した呼吸機能検査システムの有用性を検証したものであり、ウマの運動科学および臨床医学の発展に寄与するところが少ない。よって審査委員一同は本研究が博士(獣医学)を授与されるにふさわしいことを認めた。

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