学位論文要旨



No 217091
著者(漢字) 山本,健久
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,タケヒサ
標題(和) 確率論的手法を用いた日本における牛海綿状脳症(BSE)に関する疫学研究
標題(洋)
報告番号 217091
報告番号 乙17091
学位授与日 2009.02.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第17091号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 熊谷,進
 東京大学 教授 明石,博臣
 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 吉川,泰弘
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

牛海綿状脳症(BSE)は神経症状を主徴とする牛の疾病であり、感染牛の中枢神経等に蓄積した病原体の経口摂取により感染すると考えられている。本病は神経症状を主徴とする人の変異型クロイツフェルトヤコブ病(vCJD)との関連が指摘されていることから、公衆衛生上も重要な疾病となっている。日本では2001年9月に初めて感染牛が確認されたため、と畜場における特定危険部位(SRM)の除去や肉骨粉の飼料利用の禁止といった感染防止措置が直ちに実施されたほか、と畜場や農場におけるBSEサーベイランスが順次開始された。こうした中で、国内でBSEの感染源となるおそれのある物品に対するリスクの評価や、サーベイランスの結果に基づく感染状況の推定が必要となった。本病に関連するリスクの評価や感染状況の推定においては、本病に対する科学的知見やデータの不足から生じる不確実性を考慮した確率論的手法の適用が不可欠となっている。しかしながら、家畜衛生分野における確率論的手法の応用事例は乏しく、必要なデータの分析手法や適用すべき具体的な評価手法については明らかにされていない。このため、本研究では、いくつかの異なる確率論的手法を開発し、BSEに関するリスク評価や国内での感染動態の推定を行った。

第1章 と畜場の排水処理汚泥による牛へのBSE感染リスクの評価

2001年10月以降、と畜場で処理される全ての牛からのSRMの除去・焼却が開始されたが、と畜処理時に飛散した組織片がと畜場の排水に流入する可能性があるため、排水処理によって生じる汚泥を通じて牛が感染するリスクが懸念された。こうした経路で牛への感染リスクが生じる過程については明らかにされていないことから、評価に必要なデータを収集するため、と畜場での排水処理の実態について全国的なアンケート調査を行った。回答が得られた126施設について分析した結果、排水流入部へのスクリーンの設置などによりSRMの流入を低減させる措置が実施されているものの、SRMの一部はと畜場内の排水処理施設に流入するものと考えられた。排水処理の際に残さとして排出される汚泥の一部は肥料として利用されていたことから、こうした肥料が放牧地や牧草地へ散布された場合に、牛への感染リスクを生じると考えられた。このリスクについて定性的な評価を行ったところ、散布された肥料は牧草地の土壌によりかなり希釈されること、牧草地の土壌量と比較して牛の土壌摂取量は非常に少ないことから、最終的に汚泥由来の肥料が牛に摂取される可能性はかなり低いと考えられた。定量的な評価として、調査結果から推定された感染経路に基づくシナリオツリーモデルを作成し、1頭の感染牛がと畜場で処理された場合に、排水処理汚泥から製造された肥料を通じて日本の牛が摂取する感染価を推定した。この結果、国内で飼養されている全ての牛が摂取する感染価の合計は5.5×10-3 bovine oral ID50と推定された。定量的にも排水処理汚泥を介して牛が感染するリスクは低いと考えられたが、リスク管理措置として、と畜場排水へのSRMの流入防止を徹底するとともに、汚泥由来の肥料の放牧地等への使用を制限することが有効と考えられた。

第2章 国内での肉骨粉によるBSE感染リスクの評価

日本においては、BSEの感染拡大を防止するため、2001年10月以降、すべての家畜に由来する肉骨粉について飼料原料としての利用が禁止された。1996年以前はBSEに関する飼料規制はなされていなかったが、1996年以降は牛由来の肉骨粉を牛用飼料の原料とすることが規制されていた。しかしながら、豚・鶏用飼料としての利用は認められていたことから、製造・流通の過程で豚・鶏用飼料から牛用飼料へ肉骨粉が混入する可能性があったと考えられた。過去における肉骨粉を介した牛への暴露リスクを明らかにすることは、我が国におけるBSE拡大リスクの解明につながることから、1996年の規制によるリスク低減効果を推定するとともに、牛の飼養形態の違いや地域差が肉骨粉による感染リスクに与える影響を推定した。1頭の感染牛に由来する肉骨粉を通じて、国内飼養牛が摂取する合計感染価を推定するためのシナリオツリーモデルを作成した。このモデルでは感染経路として(1)成分として肉骨粉を含む牛用配合飼料の給与、(2)飼料工場における交差汚染により豚・鶏用飼料から混入した肉骨粉を含む牛用配合飼料の給与、(3)飼料以外の肉骨粉の農場における直接給与の3経路を想定した。データに含まれる不確実性や変動性を反映するため、モデル中のパラメーターに確率分布を適用し、モンテカルロ・シミュレーションを行った。シミュレーションの結果、1996年の飼料規制以前における合計感染価の中央値は、乳用牛で0.49 bovine oral ID50 (95%信頼区間 0.43~0.54 b.o.ID50)と推定され、新たに生じる感染牛の頭数は、感染源となった頭数よりも少ないものと考えられた。この値は、1996年に実施された飼料規制により0.22 ID50まで減少した。飼料規制以前の肉用牛への感染価は乳用牛への感染価の半分以下と推定され、この値は飼料規制後も変化しなかった。これらの結果から、肉骨粉を介した暴露リスクに着目すると、日本では飼料規制以前においてもBSEの感染は拡大傾向にはなかったと考えられ、また、1996年の飼料規制により乳用牛での暴露リスクは半減したと考えられた。

第3章 誕生年ごとの感染頭数の推定

第2章の結果から、日本で感染牛由来の肉骨粉を介して感染が拡大する可能性は低いと考えられたが、BSE感染状況の全体像を知るには、日本における過去の感染牛の総数を推定することが重要と考えられた。このため、これまでにBSEサーベイランスで摘発された感染牛の頭数から、過去におけるBSE感染牛の合計頭数の推定を試みた。まず、BSE感染牛がと畜または死亡するまでをシミュレーションする個体モデルを開発した。この個体モデルでは、BSEの潜伏期間やサーベイランスの実施状況などにそれぞれ特定の確率分布を仮定し、これらの確率分布からサンプリングしたパラメーターの値に基づいて、感染牛1頭ごとに死亡年齢と死亡時の状態(と畜・農場での死亡の別、サーベイランスによる摘発の有無など)を推定した。個体モデルを用いて同一年に誕生した感染牛群の死亡年と死亡時の状態を再現し、サーベイランスによる実際の感染牛の摘発状況に最もよくあてはまる、感染牛の合計頭数を最尤推定法により求めた。この結果、1996年生まれの感染牛が最も多く、155頭(95%信頼区間 90~275頭)と推定された。1997年と1998年生まれの感染牛の最尤推定値はいずれも0頭であり、1999年から2001年にかけてはそれぞれ5頭、24頭および2頭と推定された。

第4章 感染源となった可能性のある感染牛の頭数の推定

過去のBSE感染牛の合計頭数から国内に存在した感染リスクを推定するためには、感染牛のうち、実際に牛や人への感染源となった可能性のある頭数を推定する必要がある。すなわち、感染牛のうち、BSEサーベイランスで摘発された個体や、潜伏期間の初期にあり病原体の蓄積以前に死亡した個体は感染源とならない。また、2001年10月以降に死亡した個体についても、と畜場でSRMが除去されていること、肉骨粉の飼料利用が禁止されていることから感染源とならない。したがって、2001年10月以前に、病原体の蓄積を伴って死亡またはと畜された個体のみが牛や人への感染源になったと考えられる。感染牛の誕生年ごとに、第3章で推定された感染牛の合計頭数を用いたシミュレーションを行い、これらの感染牛のうち人や牛への感染源となった可能性のある頭数を推定した。感染牛の死亡年齢及び死亡理由のシミュレーションには、第3章で用いた個体モデルを利用した。この結果、1996年以外の年に生まれた感染牛には、人や牛への感染源となった個体はいなかったと推定された。1996年生まれの感染牛のうち、体内に病原体を蓄積した状態で2001年10月以前にと畜されたと推定される個体は5頭(95%信頼区間 3~9)であり、これらの牛は、SRMを含んだ畜産物や飼料を通じて人または牛への感染源となった可能性があると考えられた。同様に、51頭(同29~91)は、1999年から2001年にかけて農場で死亡したと推定され、化製処理後の肉骨粉等を通じて牛への感染源となった可能性があると考えられた。

おわりに

以上の研究により、定性的なリスク評価と確率論に基づく定量的リスク評価を併用することで、と畜場由来の排水処理汚泥によるBSEリスクが低いことが示された。また、不確実性を考慮したモデルを作成して、日本においては肉骨粉を介してBSEが拡大する可能性が低かったことが示された。さらに、確率分布を考慮して感染個体の動態をシミュレーションするモデルを開発することにより、過去にBSEに感染した牛の合計頭数を推定するとともに、これらのうち人や牛への感染源となった可能性のある感染牛の頭数を推定することができた。本研究により、日本におけるBSEの浸潤状況が明らかにされたことは、将来の感染牛の摘発動向の推定や、これに基づく今後の感染防止対策の検討に有用と考えられる。また、本研究により、モンテカルロ・シミュレーションなどの確率論的手法が、BSEを始めとする家畜の伝染性疾病に関連するリスクの定量的評価や、疾病の発生状況及び防疫対策の有効性の評価などに広く応用可能であることが示された。

審査要旨 要旨を表示する

牛海綿状脳症(BSE)は神経症状を主徴とする牛の疾病であり、感染牛の中枢神経等に蓄積した病原体の経口摂取により感染すると考えられている。本病は神経症状を主徴とする人の変異型クロイツフェルトヤコブ病(vCJD)との関連が指摘されていることから、公衆衛生上も重要な疾病となっている。本病に関連するリスクの評価や感染状況の推定においては、本病に対する科学的知見やデータの不足から生じる不確実性を考慮した確率論的手法の適用が不可欠である。本研究では、確率論的手法を開発し、BSEに関するリスク評価および国内での感染動態の推定を行った。

第1章では、と畜場の排水処理汚泥による牛へのBSE感染リスクの評価を行った。排水処理の際に残さとして排出される汚泥を利用した肥料が放牧地や牧草地へ散布された場合の牛への感染リスクについて、定量的な評価として、調査結果から推定された感染経路に基づくシナリオツリーモデルを作成し、1頭の感染牛がと畜場で処理された場合に、排水処理汚泥から製造された肥料を通じて日本の牛が摂取する感染価を推定した。この結果、国内で飼養されている全ての牛が摂取する感染価の合計は5.5×10(-3)bovine oral ID(50)(50%牛経口感染量)と推定された。

第2章では、国内での肉骨粉によるBSE感染リスクの評価を行った。日本においては、1996年以降、牛由来の肉骨粉を牛用飼料の原料とすることが規制されたが、豚・鶏用飼料としての利用は認められていたことから、製造・流通の過程で豚・鶏用飼料から牛用飼料へ肉骨粉が混入する可能性があったと考えられた。1996年の規制によるリスク低減効果を推定するとともに、牛の飼養形態の違いや地域差が肉骨粉による感染リスクに与える影響を推定した。1頭の感染牛に由来する肉骨粉を通じて、国内飼養牛が摂取する合計感染価を、シナリオツリーモデルを作成し推定した。このモデルでは感染経路として(1)成分として肉骨粉を含む牛用配合飼料の給与、(2)飼料工場における交差汚染により豚・鶏用飼料から混入した肉骨粉を含む牛用配合飼料の給与、(3)飼料以外の肉骨粉の農場における直接給与の3経路を想定した。モデル中のパラメーターに確率分布を適用し、モンテカルロ・シミュレーションを行った。その結果、1996年の飼料規制以前における合計感染価の中央値は、乳用牛でO.49bovine oral ID(50)と推定され、1996年に実施された飼料規制により0.221D(50)まで減少した。

第3章では、誕生年ごとの感染頭数を推定した。BSEの潜伏期間やサーベイランスの実施状況などにそれぞれ特定の確率分布を仮定し、これらの確率分布からサンプリングしたパラメーターの値に基づいて、感染牛1頭ごとに死亡年齢と死亡時の状態(と畜・農場での死亡の別、サーベイランスによる摘発の有無など)を推定した。個体モデルを用いて同一年に誕生した感染牛群の死亡年と死亡時の状態を再現し、サーベイランスによる実際の感染牛の摘発状況に最もよくあてはまる感染牛の合計頭数を最尤推定法により求めた。この結果、1996年生まれの感染牛は155頭(95%信頼区間90~275)と推定され、1997年と1998年生まれの感染牛のはいずれも0頭、1999年から2001年にかけてはそれぞれ5頭、24頭および2頭と推定された。

第4章では、感染源となった可能性のある感染牛の頭数を推定した。感染牛の誕生年ごとに、第3章で推定された感染牛の合計頭数を用いたシミュレーションを行い、これら0)感染牛のうち人や牛への感染源となった可能性のある頭数を推定した。この結果、1996年以外の年に生まれた感染牛には、人や牛への感染源となった個体はいなかったと推定された。1996年生まれの感染牛のうち、体内に病原体を蓄積した状態で2001年10月以前に、と畜されたと推定される個体は5頭(95%信頼区間3~9)であり、これらの牛は、SRMを含んだ畜産物や飼料を通じて人または牛への感染源となった可能性があると考えられた。同様に、51頭(同29~91)は、1999年から2001年にかけて農場で死亡したと推定され、化製処理後の肉骨粉等を通じて牛への感染源となった可能性があると考えられた。

以上、本研究により、日本におけるBSEの浸潤状況が明らかにされるとともに、用いられた確率論的手法が、BSEを始めとする家畜の伝染性疾病に関連するリスクの定量的評価ならびに疾病の発生状況と防疫対策の有効性の評価に応用可能であることが示された。よって審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位を授与するのに値するものと認めた。

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