学位論文要旨



No 217093
著者(漢字) 山室,智康
著者(英字)
著者(カナ) ヤマムロ,トモヤス
標題(和) 近赤外エシェル分光器"NICE"の開発とρ Cassiopeiaの突発的質量放出現象の分光モニター観測
標題(洋) Development of Near-Infrared Echelle Spectrograph "NICE" and Spectroscopic Monitoring Observations of an Eruptive Phenomenon of ρ Cassiopeia
報告番号 217093
報告番号 乙17093
学位授与日 2009.02.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第17093号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村上,浩
 東京大学 教授 小林,行泰
 東京大学 准教授 奥村,幸子
 東京大学 教授 野口,邦男
 東京大学 教授 小林,秀行
内容要旨 要旨を表示する

大質量星はその一生の終盤で様々な物質を周囲に放出するため、宇宙の化学進化に大きな影響を与える。その大質量星について、これまでに幾つかの進化モデルが提唱されてきたが、それらのモデルには大きな不定性があった。その理由は、進化トラックは質量放出に大きく影響されるにも関わらず、信頼性の高い質量放出モデルがこれまで構築されていないためである。

そこで我々は大質量星の質量放出を研究するため、近赤外線エシェル分光器NICE を開発した。NICE はクロスディスパーザを切り替えることにより0.91 - 1.20 μm、1.17 - 1.47μm、1.41 - 1.78 μm、1.73 - 2.45 μm の4つの波長域で分光観測でき、すなわちこれらをつなぐことで0.91 - 2.45 μm の途切れのないスペクトルを得ることができる。波長分解能はその全波長域で、λ/σλ、 ~2600 である。この広波長域にわたる性能により、星や赤外超過のSED を同時に正確に見積もったり、また様々な原子および分子からの輝線・吸収線の強さを見積もることが可能である。即ち大質量星の観測においては、その星の現在の状況を星のコンティニュウムや原子吸収線から探り、また過去の質量放出の痕跡を赤外超過や原子・分子の輝線から探ることができる。以上の分光上の仕様に加えて、大質量星が起こす突発的な質量放出現象をモニター観測しやすいように、NICEは小型に設計され、小口径- 中口径の望遠鏡に取り付けられるようになっている。この小型化は二つの光学的な特徴により実現されている。一つは"瞳移行型光学系" を採用したことで、これによりクロスディスパーザや集光光学系の有効径が小さくて済み、集光光学系の結像性能の向上も果たしている。もう一つはコリメータや集光光学系の全てに"屈折光学系" を採用したことで、これにより煩雑な光軸調整が不要で小型の光学系を実現している。また屈折光学系のレンズ材には、フッ化物結晶と光学ガラスの新たな組み合わせを採用しており、全波長域に渡って色収差は皆無である。

我々はこのNICE を国立天文台の1.5m 赤外シミュレータに取り付け、黄色極超巨星(yellow hypergiant)の分光モニター観測を行った。黄色極超巨星は主系列初期の段階で25 -40 M〓であった星が、赤色超巨星を過ぎた後に質量放出をしながらHR図上で青側に向かって進化している天体と考えられている。明るさはlog L/L〓~5.3 - 5.9 であり、温度は~4000 K - 8000 Kの間で吸収線の変化に連動して変化している。我々は北天から観測可能な代表的な黄色極超巨星であるρ Cas、HR 8752、IRC+10420 を観測した。このうちHR 8752とIRC+10420 には変光は見られなかったのに対し、ρ Casはその2.3 μm COスペクトルが、2002 年11 月に何も見られなかった後、2003年1月に輝線となって見え、2003年10月以降は吸収線になって徐々に弱くなっていった。即ち、ちょうど一連の現象と思われる変化を示した。これらの観測から得られた最も重要な結果は、その各々の時点でのCO スペクトルが単一の励起温度のモデルスペクトルでよくフィッティングできたことである。即ち、COを含むガスは温度が変化する空間スケールよりも狭い領域に分布していると考えられる。さらに、その励起温度は3200 K から800 K へと時間と共に冷えていった。そこで我々はこの変光現象を厚みの薄いガス球殻が星から放出されて、膨張しながら冷えていった結果だと考え、その質量を次の通りに求めた。まずガスが400 R〓、7000 K の光球から放出されて、その後はT(r) ∝ r(-α) に従って温度変化するとし、また膨張速度は35 km s(-1) と仮定して、ガス球殻の大きさを見積もった。次いでガス球殻の柱密度をCOの吸収の深さから求めた。以上から球殻のCO の全分子量を求め、さらに全ての炭素原子がCO を形成していて、かつsolar abundance であることを仮定してガスの全質量に換算した。その結果、ガス質量は~ 2 × 10(-3)M〓となった。なおこのモデルでは輝線も吸収線も同じ単一のT(r) ∝ r(-α) に従うと考えたが、球殻が光球面に近いときに輝線を発するには、一般には何らかの励起機構が必要であり、その励起された温度は準熱平衡の場合のT(r) より高い可能性がある。この場合には上で見積もった質量は下限値となる。以上では単一のガス球殻を仮定したが、輝線は球殻とは別の現象である可能性もある。そこで吸収のみが球殻に起因しているとするモデルを考えて同様に見積ると~ 5×10(-4)M〓 となった。ただしこれらの値は球殻(球対称性)の仮定、膨張速度、abundance、CO分子の解離状態に大きく依存している点に注意が必要である。また、膨張速度の35 km s(-1) は脱出速度に達していないため、質量放出につながるには他に何かの加速メカニズムが必要である。しかしながら、これらの不定性があるとしても、突発的な質量放出が大質量星の進化に大きく寄与している可能性が示唆されたことは重要な結果である。

Fig. 1.-観測されたρ CasのCOスペクトル.

観測されたスペクトル(黒線)に単一温度を仮定したモデルスペクトル(赤線)を重ねてプロットしてある。詳細は本文を参照。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、大質量星からの質量放出現象観測を目的としたEchelle 分光器の開発、及びそれを用いた観測結果について述べたものである。

論文は4章からなり、第1章は導入部である。この章では、主系列後の進化段階にあると考えられる大質量星について、これまでの観測的知見がまとめられている。ここでは質量放出現象の観測の欠如が、大質量星進化モデルにおける不確定さの大きな原因であることが指摘され、本論文では黄色極超巨星(Yellow Hypergiants)の質量放出現象の観測を目的とすることが述べられている。またこのために開発されたEchelle 分光器の仕様がまとめられている。特に、多くの光学材料の極低温での屈折率等の測定に基づき、広い波長範囲で色収差のない屈折光学系を実現できたことにより、小型軽量の分光器となっていることが強調されている。

第2章では、近赤外線 Echelle分光器 NICE (Near-Infrared Cross-dispersed Echelle spectrograph) の光学・構造・電気設計の詳細、及び分光器全体としての性能評価結果が述べられている。この分光器は 波長0.91 μmから2.45 μmまでの広い領域を分解能λ/Δλ~2600でカバーしており、原子・分子の輝線・吸収線のみならず、連続波スペクトルの観測をも可能としている。また観測時間が確保しやすい中・小口径望遠鏡に搭載可能な小型・軽量の分光器となっている。小型の光学系が実現できているのは、Echelle回折格子の像をクロスディスパーザ上につくる工夫により再結像光学系が小さくできたこと、及びすべての光学系が屈折光学系で構成できたことによる。屈折光学系では、レンズ材料にフッ化物と光学ガラスの新しい組み合わせを使うことにより、従来よりも格段に色収差の少ない光学系が実現できている。これは論文提出者により測定、蓄積されて来た様々な光学材料の屈折率データに基づくものであり、独自の設計として高く評価できる。この装置は国立天文台1.5mo赤外シミュレータ用の分光器として完成させられ、OH夜光や標準星の観測結果に基づく限界等級、波長分解能等の評価結果が示されている。また複数の超巨星の観測例も提示され、分光器が超巨星外層の観測に有効であることが示されている。

第3章は、黄色極超巨星の観測とその結果についての記述である。Echelle分光器 NICE により取得された3つの黄色極超巨星の近赤外スペクトルが提示されているが、そのうちの一つρCasの一酸化炭素のスペクトル線にのみ質量放出に関わると考えられる時間変動が見られたため、以後の議論ではこの星に焦点が当てられている。ρCas については約1年半にわたる6回の観測により、最初の観測では見られなかった波長2.3 μm付近の一酸化炭素スペクトル線が、次の観測で輝線として現れ、その後の観測では吸収線として見られるという、変動のシーケンスが初めて捉えられている。観測された一酸化炭素によるスペクトルは、単一温度で光学的に薄いガス層による輝線・吸収線の計算で非常に良く再現でき、励起温度は時間とともに3200Kから800Kまで低下したことが示されている。この間連続波成分や一酸化炭素以外のスペクトル線には変動は見られないため光球には変動は無く、スペクトル線の変動は、放出された一酸化炭素を含んだ薄いガス球殻が広がって行った、という単純な描像で理解できることが主張されている。ガス球殻は一定速度で広がること、ガスの温度は球殻の半径のべき乗rーαで表されることを仮定し、一連の観測値よりべきαを与えている。またガス球殻は光球(半径r=400太陽半径を仮定)から光球と同じ7000Kで放出されたとする初期条件を与えると、観測時点での球殻の半径を決めることができ、これと一酸化炭素吸収線の有効幅から求めたガスの柱密度を使って、放出されたガスの全質量が10-3太陽質量程度であることを結論づけた。このガス質量の導出は様々な不確定性を含んだものではあるが、スペクトルのモニター観測から放出ガス量を決定できる可能性を示したものとして価値が高い。

第4章は、本論文のまとめであり、開発した近赤外線分光器NICEの特徴と有用性、及び黄色極超巨星ρCasから放出されたガス球殻に関して観測から求められた物理量がまとめられている。またNICEによる連続的なモニター観測が、星の質量放出の観測に有用であることが改めて主張されている。

以上のように、本論文は、独自の工夫により小型化が可能となったEchelle分光器についての記述を与え、またそれを用いた観測においても、黄色極超巨星からの質量放出の1イベントを連続的にモニターしたこれまでに無い観測結果を提示しており、高く評価できる。

なお、本論文の第2章は田中培生、本原顕太郎、宮田隆志、西巻祐一郎、川端拡信、Tae-Soo Pyo、根津航、武山芸英との共同研究、第3章は田中培生、本原顕太郎、宮田隆志、西巻祐一郎との共同研究である。しかし、その全てが論文提出者を第一論文提出者とする論文として出版されており、論文提出者の寄与は十分であると判断できる。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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