学位論文要旨



No 217096
著者(漢字) 青木,祐介
著者(英字)
著者(カナ) アオキ,ユウスケ
標題(和) 幕末・明治期の横浜における都市と建築に関する研究
標題(洋)
報告番号 217096
報告番号 乙17096
学位授与日 2009.02.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17096号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 准教授 藤井,恵介
 東京大学 准教授 大月,敏雄
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、幕末・明治期の横浜における都市と建築に関する諸論考を、都市と建築(第I部)、近代遺跡(第II部)という2つのテーマに分けてまとめたものである。

第I部(第1章~第4章および付論1)には「都市と建築の諸相」と題して、幕末から明治初期にかけて居留地が形成されていく時期の都市と建築に関する論考を収める。

横浜という都市が、幕末の開港をきっかけとして発展をとげ、建築をはじめさまざまな異文化の窓口となったことはあらためて言うまでもない。しかしながら、日本近代の都市史・建築史上における横浜という地域の重要性は、単なる「もののはじめ」ではない、異文化移植にともなう技術的・社会的な葛藤、混乱、そして融合の様相を捉えて初めて理解できるものであろう。

第1章「伝統都市としての横浜 -幕末・明治初期の都市形成-」では、伝統都市の観点から横浜の都市形成を捉え直そうとしたもので、幕末・明治初期の都市形成過程をたどるなかで、開港場横浜では、江戸と同じ両側町で構成される日本人市街と、地番ごとに板塀で区切られた防御的な外国人居留地の2つの都市が並立する二重構造が形成されたこと、さらにそれらが江戸期の微地形のうえに重合する二重構造でもあることを示した。そして慶応年間の大火を経て、居留地の都市改造が実施されるなかで整備された日本大通りが、近代的な都市計画の手法からみて特異な街路であり、その特異性の背景には、伝統的な「火除地」としての機能があったことを示した。

第2章「教会建築の近代史 -洋風建築の移入過程-」では、開港以後、横浜居留地を中心に建設された教会堂に焦点をあて、開港期から震災復興期にいたる建築様式の変遷を概観した。開港当初、外国人神父や技師の指示のもとに日本人大工たちが手がけた教会堂は、和洋が混在する居留地特有の建築であった。やがて建築家たちの手に設計が委ねられ、明治中期の煉瓦造の時代、震災後の鉄筋コンクリート造の時代へと移るにつれて、教会堂の様式も同時代の歴史主義のなかへと埋没していく過程が確認できた。幕末のクライストチャーチ建設資料(イギリス外務省資料)のような建設の具体的状況を知ることのできる資料が発見でき、建設に関わった日本人大工の名前が確認できたことは大きい。

第3章「高島嘉右衛門と大綱山荘 -高島台に残る和洋折衷住宅-」では、実業家高島嘉右衛門が晩年を過ごした高島台の大綱山荘について、現存する建物の一部を紹介し、関連する銅版画や古写真などの資料をもとにその建設年代や改修時期を検討した。大綱山荘の別邸群が建設されるのは、伝記などから明治10年代後半とみられるが、現存する建物の一部には、箱根の福住旅館(明治10年竣工、国指定重要文化財)に共通する和室天井部の刳形が残っており、明治10年代後半の創建時の遺構と判断できる。近代の和洋折衷住宅として貴重な遺構であり、今後も写真や図面など新しく資料が発見されることを期待したい。

第4章「明治初期におけるアメリカ公使官邸の建築とその所在地について」では、従来、山手97番地所在とされてきたアメリカ公使の住宅について、ディレクトリーや絵図、古写真を総合的に分析して、その所在地を山手27番地と訂正した。アメリカ公使の住所はディレクトリーから27番地であることはすぐにわかるはずであるが、明治4年の山手居留地地図の97番地に「米公使館」と書き込まれていたため、長いあいだ、97番地だと誤解されていた。そして誤解が生じた原因として、外務省記録をもとに、山手97番地もアメリカ公使館用地として予定されていたことを明らかにした。

古写真にうかがえるアメリカ公使官邸は、それまで知られていた『ファー・イースト』貼付写真では正面がよくわからなかったが、横浜開港資料館および神戸市立博物館所蔵の写真により、周囲にヴェランダを回すバンガロー形式の住宅で、正面には華麗な装飾を備えた和風の車寄せが付いた、明治初期特有の和洋折衷建築であることが判明した。

付論1「史料としての『ファー・イースト』貼付写真」では、『ファー・イースト』紙に貼付された写真を素材に、原本の違いによって貼付写真の細部がどの程度異なるものかを分析した。横浜開港資料館所蔵の2種類の原本を比較検討し、(1)人物の配置や小道具が異なる場合、(2)写真の貼られた号が異なる場合、(3)写真の貼られた台紙が異なる場合、の3つのパターンを抽出した。(1)については大きな問題は生じないものの、(2)、(3)の場合では、写真と解説とが元来別々のものである事例も発見でき、復刻版だけではなく複数の原本にあたることで、これまで不明だった被写体が明らかになる可能性を指摘した。

第II部(第5章~第7章および付論2)には、「近代遺跡と建築史学」と題して、横浜の近代遺跡に関する論考を収める。

近年、再開発が進む横浜の都心部では、工事現場から関東大震災以前とみられる建物の基礎遺構などが頻繁に発見されている。筆者が現職(横浜都市発展記念館)に就いて以来、こうした発見の現場に立ち会う機会が非常に増えたが、埋蔵文化財の枠組みではなかなか調査が実施されない現状に対し、近代遺跡という言葉を積極的に用いて、調査とその成果を公表することに務めてきた。

その過程で、近代に足を踏み入れ始めた考古学分野との共同作業が格段に増えるようになったが、こうした状況は、ともすれば建築史学としての自分自身の立場を問いただす機会ともなった。ここに収めた論考は、これまで建築史学の分野で進められてきた煉瓦やフランス瓦などの研究に対して、自分なりの返答を試みたものである。

第5章「横浜における近代遺跡調査史」では、これまで横浜市域で確認された近代の地下遺構について、調査史をまとめて、今後の近代遺跡調査に向けての提言をおこなった。近代遺跡という言葉は、考古学分野から出てきている言葉ではあるが、文化庁が進めている全国の近代遺跡調査は、むしろ史跡としての意味合いに近く、現存する地上の遺構を調査対象としていても、埋蔵文化財への意識はない。しかし、外国人居留地が存在した横浜のように、近代の地下遺構が都市形成史を明らかにするうえで重要な場合は、新しい時代のものであっても行政による保存・調査の枠組みが必要である。建造物でも史跡でもない、近代遺跡という分野の調査研究の蓄積が今後もいっそう望まれる。

第6章「御幸煉瓦製造所にみる煉瓦生産 -分銅印の刻印をめぐって-」では、近代の出土遺物の調査研究成果として、赤煉瓦の刻印に関する報告をおこなった。これまで分銅印の刻印については小菅集治監製と推測されてきたが、根拠とされていた煉瓦の出土状況がはっきりしないこと、本拠地である東京でまったく発見例がないことをもとに、その説に対して疑問を提出した。一方、同じ刻印をもつ煉瓦が、神奈川県川崎市内の御幸煉瓦製造所の元経営者宅から発見され、周辺資料との整合性から、分銅印の刻印が同社のものであることが判明した。元来、家内工業的な小規模の経営が多かった煉瓦工場については、地域に眠る関係資料を地道に発掘していく作業が欠かせない。今後は、遺物の採集に加えて工場の資料調査もあわせて実施していく必要がある。

第7章「アルフレッド・ジェラールと瓦工場」では、横浜でフランス瓦や煉瓦の製造・販売をおこなっていたフランス人実業家ジェラールと彼の瓦工場について、幾つかの新しい仮説をもとに、現時点での筆者の知見をまとめた。ジェラールが製造していたフランス瓦は地域住民の間でもよく知られているが、その工場の実態については銅版画に描かれた内容を紹介するだけのものがほとんどであったといえる。

本稿では、ジェラール帰国年の解明をきっかけに、その後の工場経営者に関して、ジェラール周辺のフランス人ネットワークを明らかにするとともに、その人脈形成の原点として1863年の上海が挙げられることを指摘した。ディレクトリーの記載でしか確認できないが、ジェラール本人も上海から横浜へと移ってきた可能性は高いと考えている。

そして、ジェラール帰国後の工場の経営者に注目することで、それまで個別に紹介されていたフランス瓦や煉瓦などの遺物、古写真や銅版画などの記録、現存する煉瓦造貯水槽という遺構を、総合的に関係づけて評価することを試みた。ジェラール工場が繁栄を迎えたのは、むしろジェラール帰国後のドゥヴェーズによる第二期工場のときである。

「遺物から遺構へ、遺構から遺跡へ、モノから場所への広がりのもと、そこで営まれた歴史の実態を総体として評価する態度」こそ、筆者の目指そうとする<近代遺跡>研究であり、ジェラール工場跡はこれからも多くの可能性を秘めていると考えている。

そして本論文を締めくくるにあたって、付論2では、都市横浜のアイデンティティを形成している歴史遺産の保存と活用について、<復元>という整備手法の抱える問題について取り上げた。現在、横浜では2009(平成21)年の開港150周年にむけて、横浜港の原点に位置する象の鼻防波堤の復元がおこなわれている。シティセールスに大きく寄与するこうした復元事業は、これからも無くなることはないであろう。歴史遺産を継承することと創造することの境界は、ますます曖昧になりつつある。

地上の建造物であれ地下の遺構であれ、学術的な研究の進展とともに、その価値を社会にどう伝えていくのかも、歴史学に携わる者にとって考えるべき大きな課題である。私たちが歴史遺産から何を学んで何を後世に残していくのか。それはとりもなおさず、現在の私たちの視線の問題として問われてくるのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は幕末・明治期の横浜における都市と建築に関する諸論文を都市と建築、近代遺跡という2つのテーマに分けてまとめたものである。

第1部(第1章~第4章および付論1)には「都市と建築の諸相」と題して、幕末から明治初期にかけて居留地が形成されていく時期の都市と建築に関する論考を収める。

第1章「伝統都市としての横浜 -幕末・明治初期の都市形成-」では、伝統都市の観点から横浜の都市形成を捉え直そうとした。居留地の都市改造が実施されるなかで整備された日本大通りが、近代的な都市計画の手法からみて特異な街路であり、その特異性の背景には、伝統的な「火除地」としての機能があったことを示した

第2章「教会建築の近代史 -洋風建築の移入過程-」では、教会堂に焦点をあて、開港期から震災復興期にいたる建築様式の変遷を概観した。幕末のクライストチャーチ建設資料(イギリス外務省資料)のような建設の具体的状況を知ることのできる資料が発見でき、建設に関わった日本人大工の名前が確認できたことは大きい。

第3章「高島嘉右衛門と大綱山荘 -高島台に残る和洋折衷住宅-」では、実業家高島嘉右衛門が晩年を過ごした高島台の大綱山荘について、現存する建物の一部を紹介し、関連する銅版画や古写真などの資料をもとにその建設年代や改修時期を検討した。

第4章「明治初期におけるアメリカ公使官邸の建築とその所在地について」では、従来、山手97番地所在とされてきたアメリカ公使の住宅について、ディレクトリーや絵図、古写真を総合的に分析して、その所在地を山手27番地と訂正した。

付論1「史料としての『ファー・イースト』貼付写真」では、『ファー・イースト』紙に貼付された写真を素材に、原本の違いによって貼付写真の細部がどの程度異なるものかを分析した。横浜開港資料館所蔵の2種類の原本を比較検討し、の3つのパターンを抽出した。複数の原本にあたることで、これまで不明だった被写体が明らかになる可能性を指摘した。

第2部(第5章~第7章および付論2)には、「近代遺跡と建築史学」と題して、横浜の近代遺跡に関する論考を収める。

第5章「横浜における近代遺跡調査史」では、これまで横浜市域で確認された近代の地下遺構について、調査史をまとめて、今後の近代遺跡調査に向けての提言をおこなった。建造物でも史跡でもない、近代遺跡という分野の調査研究の蓄積が今後もいっそう望まれることを指摘している。

第6章「御幸煉瓦製造所にみる煉瓦生産 -分銅印の刻印をめぐって-」では、近代の出土遺物の調査研究成果として、赤煉瓦の刻印に関する報告をおこなった。これまで分銅印の刻印については小菅集治監製と推測されてきたが、その説に対して疑問を提出した。一方、同じ刻印をもつ煉瓦が、神奈川県川崎市内の御幸煉瓦製造所の元経営者宅から発見され、周辺資料との整合性から、分銅印の刻印が同社のものであることが判明した。

第7章「アルフレッド・ジェラールと瓦工場」では、横浜でフランス瓦や煉瓦の製造・販売をおこなっていたフランス人実業家ジェラールと彼の瓦工場について、幾つかの新しい仮説をもとに、現時点での筆者の知見をまとめた。ジェラール帰国年の解明をきっかけに、その後の工場経営者に関して、ジェラール周辺のフランス人ネットワークを明らかにするとともに、その人脈形成の原点として1863年の上海が挙げられることを指摘した。ジェラール本人も上海から横浜へと移ってきた可能性は高いと指摘する。そして、ジェラール帰国後の工場の経営者に注目することで、ジェラール工場が繁栄を迎えたのは、むしろジェラール帰国後のドゥヴェーズによる第二期工場のときだと明らかにした。

最後の付論2では、<復元>という整備手法の抱える問題について取り上げている。現在、横浜では2009(平成21)年の開港150周年にむけて、横浜港の原点に位置する象の鼻防波堤の復元がおこなわれている。歴史遺産を継承することと創造することの境界は、歴史学に携わる者にとって考えるべき大きな課題であることを指摘する。

以上の諸論考は、横浜を舞台とした幕末・明治の都市史・建築史研究として多くの成果を上げたものであり、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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