学位論文要旨



No 217104
著者(漢字) 平野,正雄
著者(英字)
著者(カナ) ヒラノ,マサオ
標題(和) 顧客価値創造型イノベーションの研究
標題(洋)
報告番号 217104
報告番号 乙17104
学位授与日 2009.02.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17104号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松島,克守
 東京大学 教授 影山,和郎
 東京大学 教授 山口,由岐夫
 東京大学 准教授 青山,和浩
 東京大学 准教授 松尾,豊
内容要旨 要旨を表示する

イノベーションは、人間社会や経済発展のエンジンである。人の持つ創造性、探究心、情熱、そして成功への欲望などが注ぎ込まれて、イノベーションは成立してきた。製品の競争力強化、市場拡大、収益最大化に結びつくイノベーションを効果的に成立させることは、今日の企業経営の最重要命題の一つである。本論文の目的は、独創的かつ実践的なイノベーション・モデルの構築にある。

近年、この企業組織におけるイノベーションの研究が進展している。その流れは、イノベーションを外在する機会や脅威として捉える戦略構造論と、イノベーションを内在的プロセスの成果と捉える組織行動論に大別される。前者は成功している企業ほど次のイノベーションの実現力に劣る「イノベーションのジレンマ」問題を分析し、後者は組織内での知の創造と交換がイノベーションに結実するプロセスを解析して、それぞれに企業イノベーションに関する戦略論および組織論に対して有用な知見を引き出している。

だが、本論文では全く独自の視点から、イノベーションの戦略と組織を統合的に論じることを目指した。その着眼は、顧客価値の創造とイノベーションを結合することである。言うまでもなく、経済価値を追求する企業にとってのイノベーションとは、顧客にとって価値あるものでなければならないからである。そこで、顧客価値とイノベーションとを結合し、その関係を構造化することができれば、イノベーションに関する体系的な考察と有効な含意を引き出すことができると考えた。

顧客価値は、マーケティングの分野でしばしば議論される概念である。本論文では、その顧客価値を主観的な体験価値(スマート)と客観的な提供価値(リーン)という独立変数に分解し、それぞれの要素を直交する2軸とする平面を構成することで独創的なスマート・リーン・マトリクス(SLM)というフレームワークが導き出せる。このSLMの適用により、イノベーションに関する多様な含意を引き出せる。例えば、両軸に挟まれた平面状に現在の顧客価値の均衡を示す価値双曲線を描くことで、効果的なイノベーションとは既存の顧客価値の均衡を打破し、新たな価値基準を打ち立てることと導きだせる。さらに、過去の成功あるいは失敗した複数のイノベーション事例の検証から、有効なイノベーションには体験価値(スマート軸)と提供価値(リーン軸)の相互革新が重要であることも確認できる。

また、顧客の価値基準を形成しているのは単品の製品ではなく、その製品を創り出している仕組み全体であると認識することが重要である。つまり、顧客の価値基準を形成しているのは製品の機能、デザイン、品質、コスト、サービス、納期などの組み合わせであり、これらを実現するためには、製品ごとに適切なアーキテクチャ(設計)やバリューチェーン(生産・流通)などの仕組みの作り込みが必要である。このような特定の製品提供に向けて作り込まれた仕組みを製品プラットフォームと定義する。

ところで、イノベーションには持続的イノベーションと破壊的イノベーションとが存在する。持続的イノベーションとは、主に改良により製品の競争力を連続的に改善していく営みであるのに対して、破壊的イノベーションとは、新市場を切り開きかつ旧製品を一気に置き換えてしまう程のインパクトを有するものである。家電メーカによる電気洗濯機の進化は持続的イノベーションの典型例であり、アップル社によるiPodの開発は破壊的イノベーションの代表的事例である。

実は、破壊的イノベーションが生じたときには、その裏側で製品プラットフォームの置き換えが発生しているのだ。定義されたように製品プラットフォームは、特定の製品を顧客に提供するための総合的な仕組みであるために、それは同時に(1)その製品の開発・生産・流通に関するノウハウや知識の集積体であり、(2)収益を生み出すシステムそのものであり、結果として(3)社内外の関係者との利益共同体的な性質を帯びるのである。従って、成功している製品ほど強固な製品プラットフォームが構築されており、(1)から(3)の理由により関係者は大きな変化に対して自己防衛的な思考や行動をしばしば誘発することになる。これこそ製品プラットフォームを置き換えてしまう破壊的イノベーションに対して、現在成功している企業ほど有効に対応することができない「イノベーションのジレンマ」問題に対する体系的な説明となる。

また、固有の製品プラットフォームによって一定の顧客の価値基準が形成されていることから、破壊的イノベーションとは、プラットフォームの革新を通して、顧客の価値基準を大きく(上方に)移行させてしまうことに他ならない。その結果、一旦新たな価値基準が顧客に形成されてしまうと、古い製品が競争力を回復することは困難であり、その既存の製品プラットフォームの陳腐化は免れられないことになる。零細な個人商店がコンビニエンス・ストアに席巻されたことや、求人広告がフリーペーパーに置き換えられていったことは、まさに顧客の価値基準がシフトしてしまい、製品プラットフォームの革新が起きたことと分析できる。

従って、企業がイノベーションを効果的に実現するためには、顧客価値の創造を究極の目標にして、プラットフォームを革新することの重要性がここで明らかになる。そのような革新を実現するためには、既存のプラットフォームに思考や行動を制約されることなく、開発関係者(メンバー)間で自由な知識の創造と交換を促していくことが不可欠ある。このような特定のイノベーションの実現に向けた組織内外で創造・交換・実施される知識や実験などをイノベーション・エレメント(IE)と定義することにしよう。実際、アップルによるiPodの開発などにおいて、メンバー間で活発なIEの創造と交換が確認されている。

そこで、既存の製品プラットフォームの存在に制約されることなく、自在なIEの創造と交換を促すための方法が求められる。それがメンバー間で共有される思考の枠組みとしてのメンタルフレームである。効果的なメンタルフレームとは、新たな顧客の価値基準を想起させ、その実現に向けて体験価値と提供価値に沿って知識の創造と交換を誘発するものである。そして、効果的なメンタルフレームを形成し、企業組織による優れたイノベーションを育むのは、アップルのスティーブ・ジョブスやソニーの盛田昭夫のような、顧客や技術への洞察力を有し、そして決断力に富む経営者やリーダの仕事なのである。

以上が、顧客価値の創造を外在的な目標として、組織内外での知識の創造と交換を活性化することでイノベーションを実現していく、独創的かつ実践的な「顧客価値創造型のイノベーション・モデル」の概要である。

この論考は、経営コンサルタントとして、20年間に渡る300以上のプロジェクトにおける企業改革の現場で獲得した経験知を総動員して、顧客価値創造という「問題」に対してイノベーションという「解」のあり方を、仮説検証を繰り返す問題解決型で探るという方法によって構築されたものである。今後は、例えば破壊的イノベーションによる顧客価値基準の変化を具体的に測定することや開発組織におけるメンタルフレームの存在とその影響力などを実際に検証することを進めていきたい。

審査要旨 要旨を表示する

イノベーションは、人間社会や経済発展のエンジンである。人の持つ創造性、探究心、情熱、そして成功への欲望などが注ぎ込まれて、イノベーションは成立してきた。製品の競争力強化、市場拡大、収益最大化に結びつくイノベーションを効果的に成立させることは、今日の企業経営の最重要命題の一つである。本論文の目的は、独創的かつ実践的なイノベーション・モデルの構築にある。

本論文では全く独自の視点から、イノベーションの戦略と組織を統合的に論じることを目指した。その着眼は、顧客価値の創造とイノベーションを結合することである。言うまでもなく、経済価値を追求する企業にとってのイノベーションとは、顧客にとって価値あるものでなければならない。そこで、顧客価値とイノベーションとを結合し、その関係を構造化することができれば、イノベーションに関する考察と含意を体系的に引き出すことができると第1章では論じている。

第2章では、イノベーションには連続的イノベーションと破壊的イノベーションとが存在するが、持続的イノベーションが、主に改良により製品の競争力を連続的に改善していく営みであるのに対して、破壊的イノベーションは、新市場を切り開きかつ旧製品を一気に置き換えてしまう程のインパクトを有するものと定義し、破壊的イノベーションが生じたときには、その裏側で製品プラットフォームの置き換えが発生していることを、家電メーカによる電気洗濯機の進化は持続的イノベーションの典型例、アップル社によるiPodの開発は破壊的イノベーションの代表的事例を分析して、論証している。

第3章では、零細な個人商店がコンビニエンス・ストアに席巻されたことや、求人広告がフリーペーパーに置き換えられていった事象を、顧客の価値基準がシフトし不可逆的な製品プラットフォームの革新が起きたことであると分析し、製品プラットフォームとは、特定の製品を顧客に提供するための総合的な仕組みで、それは同時に、その製品の開発・生産・流通に関するプロセスや知識の集積体であり、収益を生み出すシステムそのものであり、結果として社内外の関係者との利益共同体的な性質を帯びるとし、従って成功している製品ほど強固な製品プラットフォームが構築されており、関係者は大きな変化に対して自己防衛的な思考や行動をしばしば誘発することになるため、現在成功している企業ほど破壊的イノベーションに対して、有効に対応することができないという「イノベーションのジレンマ」問題に対し、体系的かつ実証的な論証をしている。

そして第4章では、既存の製品プラットフォームの存在に制約されることなく、イノベーションを促すための方法論として、メンバー間で共有される思考の枠組みとしての効果的なメンタルフレームの形成であることを論証している。効果的なメンタルフレームとは、新たな顧客の価値基準を想起させ、その実現に向けて体験価値と提供価値に沿って知識の創造と交換を誘発するものであると定義してる。そして、効果的なメンタルフレームを形成し、企業組織による優れたイノベーションを育むのは、経験と学識が豊富で、決断力に富む経営者やリーダの仕事であると事例を基に論証している。

第5章の結論として、筆者の経営コンサルタントとして、20年間300以上の企業改革プロジェクトに参画した中で獲得した経験知を、整理・分析し、知の構造化を行うことにより、組織内外の知識の創造と交換を活性化することでイノベーションを実現していく、独創的かつ実践的な「顧客価値創造型のイノベーション・モデル」を提案している。この提案は産業界に広く重要な知見として有効であると考える。

よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク