学位論文要旨



No 217105
著者(漢字) 岡本,英男
著者(英字)
著者(カナ) オカモト,ヒデオ
標題(和) 福祉国家の可能性
標題(洋)
報告番号 217105
報告番号 乙17105
学位授与日 2009.02.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第17105号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渋谷,博史
 東京大学 教授 神野,直彦
 東京大学 教授 持田,信樹
 東京大学 教授 佐口,和郎
 東京大学 教授 工藤,章
内容要旨 要旨を表示する

1970年代後半以降の福祉国家に対するバックラッシュ、80年代における新自由主義の興隆、そして90年代以降の経済のグローバル化の進展のなかで、ほとんどの先進資本主義諸国において福祉国家は大きく再編された。この再編をめぐって、この再編過程のなかで福祉国家は解体しつつあるという解釈と、再編にもかかわらず福祉国家は根強く存続しているという二つの異なった解釈が生まれた。本論文の課題は、この福祉国家再編をめぐる論争を整理し、その論争に対して筆者の見解を提示することにある。このような課題に対して、本論文は、(1)近年における福祉国家の再編の性格を明らかにするには、狭義の福祉国家と広義の福祉国家の両面から福祉国家の転換の有無を捉えなおす必要があることを指摘し、(2)このような視点から、アメリカとスウェーデンの福祉国家の再編の実態を明らかにした後、(3)狭義の福祉国家はいくつかの重要な再編や改革をおこないながらも全体的には根強く存続しており、社会保障制度をその核に抱く福祉国家体制は当分存続する可能性が高い、という結論を導いた。

第I部「資本主義と福祉国家」においては、林健久と加藤榮一によって切り開かれ、筆者が継承・発展させた福祉国家理論が、福祉国家のダイナミックな展開をトータルに認識するうえで有効であることを論じた。

1章「福祉国家論の生成と展開」の課題は、林と加藤の福祉国家論の特質を明らかにするなかで、筆者の福祉国家理解を提示することである。この課題を果たすために、欧米の代表的な福祉国家理論を検討し、それらとの比較で林と加藤の福祉国家論の理論的特質を明らかにし、その過程で現実の福祉国家の展開を分析するうえで筆者が有効であると考える福祉国家理解の枠組み提示する、という方法をとった。その結果、現実の福祉国家のダイナミクスをトータルに把握するには、(1)「系譜論」的把握よりも「段階論」的把握、(2)国家による福祉機能(安定機能と再分配機能)にできるだけ広く焦点を当てる広義の福祉国家論、(3)国家や政府に代わって福祉機能を果たしている組織や制度(労働組合や企業を含む)を含めて一つの社会システムと捉える福祉国家システムというアプローチ、が望ましいという結論に達した。

2章「福祉国家財政論の到達点と課題」では、福祉国家財政論という分析枠組みによって現代財政の展開過程や現状がいかに整合的に理解しうるかを、村上泰亮の「開発主義」の概念と対比しながら、まず明らかにした。そのうえで、1970年代末期から今日まで続いている福祉国家抑制について、同じ段階論的方法を採る林と加藤の解釈が大きく異なっていることを紹介し、(1)既存の福祉国家財政論では、近年急速に進展したグローバル化に伴う福祉国家の再編については十分に説得力ある説明をなしえないこと、(2)福祉国家再編の現状を正確に捉えるには、社会保障制度をはじめとした諸制度とその財政に分析の焦点を当てた狭義の福祉国家論とフィスカル・ポリシーや規制政策等をも分析対象に含めた広義福祉国家論の両面から福祉国家の転換を捉えなおす必要があることを提示した。

第II部「グローバル化の進展と福祉国家」では、上記の課題に答えるために、現実の福祉国家がグローバル化の進展のなかでどのような展開を示しているかを明らかにした。

3章「アメリカ福祉国家システムの再編」の課題は、1980年代と90年代におけるアメリカ福祉国家の変化の実態を明らかにすることである。この課題を果すために、社会福祉支出の動向を分析した後、福祉国家システムとその財政の再編(具体的には、レーガン政権下における2度の税制改革、1996年福祉改革とEITCの拡大、都市問題対策の変化、フィスカル・ポリシーの変化)を考察の対象として取り上げ、最後に規制緩和政策とアメリカ経済における所得格差の拡大について考察した。考察の結果、アメリカ福祉国家の核である社会保険制度、公的扶助制度、企業福祉は大きく解体されることなく存続しているものの、税制改革、AFDCの廃止、都市プログラムの縮小、フィスカル・ポリシーの消極化、そして経済の規制緩和による競争の激化と所得格差の拡大、という点では、アメリカ福祉国家は大きな変化を経験した、という結論を得た。

4章「スウェーデン福祉国家の危機と再編」の課題は、1980年代以降のスウェーデン福祉国家の変容の実態を明らかにすることである。この課題に取り組むための準備作業として、(1)従来の代表的研究を転換説と継続説に分類し、スウェーデン福祉国家再編をめぐる争点を明らかにし、(2)1990年代初頭の経済危機に至る経済過程(60年代のスウェーデン・モデルの成功と石油危機以降の経済不振、1980年代の危機対応策とインフレの昂進)を明らかにした。その後、転換説と継続説を念頭に置きながら、狭義の福祉国家の変化の度合いを明らかにするために、社会福祉の経費構造の推移とその制度改革の性格を考察し、広義の福祉国家システムの再編の実態を明らかにするために、賃金交渉の分権化、税制改革、金融市場の規制緩和について考察した。考察の結果、これらの改革を経ることによって、スウェーデン福祉国家はグローバル化をはじめとした経済構造の長期的変化により柔軟に対応しうるようになり、経済のインフレ体質と財政赤字体質を払拭し、社会保障制度の骨格とそれを支える財政は維持・強化された、という結論を得た。

5章「マクロ経済政策と福祉国家」の課題は、ヨーロッパ福祉国家の現状を分析し、新しい福祉国家システムのあり方を提起した、ノータマンズの所説の検討を通じて、福祉国家にとって現在どのような経済政策が望ましいかを考察することである。そのために、彼の自由主義的社会民主主義論、経済政策のレジーム転換論を検討した後、グローバル化の進展下でもマクロ経済政策の自律性は存在するという主張の理論的根拠について検討した。検討の結果、成長第一主義の点は問題であるが、現代のヨーロッパ福祉国家が抱える問題に対するノータマンズの診断は適切であり、対処方法も現実的であるという結論を得た。

第III部では、福祉国家解体説や行き詰まり説を検討するなかで、そして既存の福祉国家に対するオルタナティヴの意義を明らかにするなかで、福祉国家の新たな可能性を探った。

6章「福祉国家はどのように変容したか」における課題は、新自由主義の興隆、グローバル化の進展のなかで変化を遂げてきた福祉国家の変化の程度とその性格を概括的に明らかにすることである。この課題に答えるために、オッフェと加藤榮一に代表される福祉国家解体説とピアソンに代表される存続説を批判的に検討し、福祉国家体制の変容とその意義を明らかにするには、福祉国家を広義の福祉国家と狭義の福祉国家に分けて考えることの必要性を論じた。そのような視点から福祉国家の変容を考察すると、ほとんどの国において、広義の福祉国家は大きく変容しているものの、狭義の福祉国家はいくつかの重要な再編や改革をおこないながらも、全体的に根強く存続している。最後に、アメリカ、イギリス、ドイツ、スウェーデン、日本における1980年代以降の所得分配と財政による所得再分配の推移を分析することによって、国ごとの分岐を含みながらも、全体として狭義の福祉国家は存続しているという本章の結論を補強した。

7章「福祉国家の正統性の危機」では、福祉国家の歴史的使命は終わっていないこと、市民社会論の視角を新たに導入することによってその可能性は広がること、を明らかにした。そのために、福祉国家は政治経済システムとして展望がないという見方に対して、その根拠の当否について検討を加え、それらの根拠は一面的であることを明らかにした。その後で、「福祉国家の危機」という文脈のもとに、1980年代以降注目されるようになった市民社会論(福祉の側面に限定すると福祉社会論)が提起した問題を明らかにするために、キーン、コーエン、ウォルツァーの市民社会論を、福祉国家との関係に焦点を絞りながら検討した。検討の結果、福祉国家と市民社会の関係は、対立関係にあるのではなく、相互補完的な関係にあることを明らかにした。最後に、福祉国家はナショナリズムを飼い慣らすこと、なかでも普遍主義的福祉国家は貧困の排除に成功することによって、市民の自律性をむしろ強化し、市民社会を活性化することを明らかにした。

8章「グローバル社会における福祉国家の可能性」の課題は、7章を受けて、既存の福祉国家の可能性を広げるための改革の方向性を示すことである。そのために、80年代以降の福祉国家の新潮流である、福祉における当事者主権や福祉多元主義、ボランティア活動、民営化と分権化がどのような歴史的文脈で生まれ、既存の福祉国家にどのような影響を与えつつあるのかを考察した。当事者主権はサービス受領者による権利の民主的行使であり、民営化も分権化も当事者に選択権を与えて新しい個人主義に対応するものであり、それゆえ、これらの思想に基づいた改革は福祉国家の解体ではなく、福祉国家体制の枠組み内部でその現代化を図るための改革になりうるという結論を得た。その後、福祉国家が機能するためのロジックの考察に進み、福祉国家の道徳的ロジックという観点からみた場合、普遍主義的福祉国家のほうが選別主義的福祉国家よりも優れていることを明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

I.審査論文の主題と構成

本研究は、20世紀の経済成長を追い風として、あるいは経済成長の結果である「豊かな社会」の重要な一環として形成された先進諸国の福祉国家が、20世紀末からのグローバル化等の新しい状況下で解体されるかと危惧される中で、福祉国家の本質的な役割と基本的な仕組みは確固として存続することを示し、さらには21世紀の新しい状況下で厳しい市場経済の論理が人間社会に及ぼすインパクトを緩和するためにも福祉国家の存在意義は増しているとして、それに整合する福祉国家の再編の可能性を探求する意欲作である。

具体的には、1970年代後半以降の大きな歴史状況の中で、先進資本主義諸国において進行した福祉国家の再編について、実証的な分析と学問的論争の整理の二面から、その再編の本質にアプローチして、広義の福祉国家における大きな変化と区別して、狭義の福祉国家の部分は根強く存続しており、いくつかの重要な再編や改革をおこないながらも、社会保障制度を軸とする福祉国家体制は存続するという結論に導く論理構造である。

本研究の構成は、次の通りである。

第I部 資本主義と福祉国家

1章 福祉国家論の生成と展開

2章 福祉国家財政論の到達点と課題

第II部 グローバル化の進展と福祉国家

3章 アメリカ福祉国家システムの再編

4章 スウェーデン福祉国家の危機と再編

5章 マクロ経済政策と福祉国家

第III部 福祉国家の可能性

6章 福祉国家はどのように変容したか

7章 福祉国家の正統性の危機

8章 グローバル社会における福祉国家の可能性

第2次世界大戦後のパクス・アメリカーナという仕組みを軸として安定的な世界秩序が形成され、その下で先進資本主義国が経済成長を続け、その経済成長のもたらす重要な成果として先進諸国の福祉国家、あるいはもっと広義な意味での福祉国家システムが構築された。しかし、1970年代の石油危機を契機とするスタグフレーションや、1980年代の新自由主義の興隆、そして1990年代以降の経済のグローバル化の進展というあたらしい条件下で、その福祉国家は大きく再編された。

岡本氏は、この再編過程のなかで福祉国家は解体しつつあるのか、あるいは再編にもかかわらず福祉国家は根強く存続しているかという論争についての先行研究を網羅的かつ詳細に検討して、自身の視座を定立した。第1に、近年における福祉国家の再編の性格を明らかにするために、狭義の福祉国家と広義の福祉国家の両面から福祉国家の転換の有無を捉えなおすことを切り口として、第2にその切り口から、実証的な分析の対象としてアメリカとスウェーデンを取り上げて、それらの福祉国家の再編の実態を検討して、そして第3に、狭義の福祉国家はいくつかの重要な再編や改革をおこないながらもその本質的な意義とコアの仕組みは存続しており、今後も社会保障制度をその核に抱く福祉国家体制は当分存続する可能性が高いという結論に至っている。

II.各章の概要

第I部「資本主義と福祉国家」では、上記の第1の作業として、福祉国家のダイナミックな展開をトータルに認識するために、林健久と加藤栄一によって切り開かれた財政面からの分析を基礎とする福祉国家財政論をさらに発展させて、狭義の福祉国家と広義の福祉国家を区別して論じる福祉国家理論を構築する試みが行われる。

1章「福祉国家論の生成と展開」では、主に日本における大内力以降の現代資本主義分析の流れ、特に財政学者の林健久と加藤栄一の福祉国家財政論をベースにして、分析の枠組みを提示して、福祉国家あるいは福祉国家を軸とする社会編成を資本主義の発展段階の一つと捉えた上で、国家による経済安定機能と再分配機能について焦点を当てる広義の福祉国家論を提示し、さらに、国家や政府だけではなく、労働組合や企業等の組織や制度が果たしている福祉機能も含めて、一つの社会システムと捉える福祉国家システムというアプローチも示されている。

2章「福祉国家財政論の到達点と課題」では、第1章で提示した枠組みを具体化して、従来の福祉国家財政論をさらに綿密に検討しながら、1970年代からの福祉国家に対するバック・ラッシュ、1980年代の新保守主義の興隆、1990年代のグローバル化という大きな歴史的状況の及ぼす影響の下で、福祉国家が解体・終焉するのか、あるいは再編されながらも基本的には存続するのかという問題設定を、分析の切り口として提示するのである。

そして、第1に既存の福祉国家財政論にとどまっていては、近年急速に進展したグローバル化に伴う福祉国家の再編については十分に説得力ある説明をなしえないこと、第2に、福祉国家再編の現状を正確に捉えるには、社会保障制度をはじめとした諸制度とその財政に分析の焦点を当てた狭義の福祉国家論とフィスカル・ポリシーや規制政策等も分析対象に含めた広義の福祉国家論の両面から福祉国家の転換を捉えなおす必要があることが強調される。

第II部「グローバル化の進展と福祉国家」では、第I部で提示した分析の枠組みと切り口に基づいて、実証的な分析の対象としてアメリカとスウェーデンを取り上げて、現実の福祉国家がグローバル化の進展のなかでどのような展開を示しているかを明らかにする。

3章「アメリカ福祉国家システムの再編」では、1980年代と90年代におけるアメリカ福祉国家の変化の実態を明らかにするために、社会福祉支出の動向、レーガン政権下における2度の税制改革、1996年福祉改革と勤労所得税額控除(EITC)の拡大、都市問題対策の変化、フィスカル・ポリシーの変化、さらに検討対象を広げて規制緩和政策とアメリカ経済における所得格差の拡大について考察し、次のような結論に達している。

第1に狭義の福祉国家については、貧困者向けの公的扶助は1996年改革等によってスリム化されたが他方ではEITC等は拡充され、第2にミドルクラスに対する租税優遇措置に裏打ちされる企業福祉等については市場論理の強化の方向へのシフト(管理医療、確定拠出年金)があるが、基本的な役割は維持されているとしている。

第2に広義の福祉国家については、雇用の安定という「隠れた社会保護」をもたらしていた産業規制が、レーガン政権等による規制緩和政策によってその機能はかなり低下しており、労働組合の弱体化や社会全体の経済格差につながっていると指摘している。

第3にレーガン税制改革では、公平概念が垂直的公平から水平的公平に転換され、また政策課題の重心が所得再分配から貯蓄・投資促進に移動したが、それは、経済政策全体におけるケインズ的な消費促進からサプライサイダー的な投資促進への転換の重要な一環でもあった。

第4に、アメリカの福祉国家のコアとなる狭義の福祉国家については市場論理の強化の方向での再編を伴いながらも基本的な役割という次元では存続したが、税制や経済政策という広義の福祉国家の分野では、質的にも量的にもかなり大規模な削減・縮小、方向転換があったと結論付けている。

そして第5に、このようなアメリカにおけるサプライサイダー的な質を持つ「小さな政府」のベクトルの強化は、アメリカが世界構造の中心国であるが故に、世界各国における福祉国家の再編に対するインパクトを発することになったのである。

4章「スウェーデン福祉国家の危機と再編」では、1980年代以降のスウェーデン福祉国家の変容の実態を明らかにするために、狭義の福祉国家の変化については社会福祉の経費構造の推移とその制度改革の性格を、広義の福祉国家の再編については、賃金交渉の分権化、税制改革、金融市場の規制緩和を考察している。

これらの狭義及び広義の福祉国家の諸改革を経ることによって、スウェーデン福祉国家はグローバル化をはじめとした経済構造の長期的変化に柔軟に対応しうるようになり、経済のインフレ体質と財政赤字体質を払拭し、社会保障制度の骨格とそれを支える財政は維持・強化されたという結論に達している。すなわちスウェーデン福祉国家の諸改革は、福祉国家を防衛するためのものであり、決して根本的な解体に向かうものではなかったというのである。

5章「マクロ経済政策と福祉国家」では、ヨーロッパ諸国の福祉国家の現状を踏まえて福祉国家システムの新しいあり方を提起したノータマンズの所説を検討している。

1970年代以降にマクロ的な経済政策では、失業の減少と物価の安定に効果はなく、特に経済のグローバル化の下では従来のマクロ経済政策は困難になっているという批判がある。それに対してノータマンズは、インフレが沈静化して大量失業が持続する状況下では、金融市場が開放的であっても拡張的な金融政策、あるいはマクロ経済政策が可能であると主張する。それを踏まえて岡本氏は、福祉国家の存続あるいはその可能性のためには、グローバル化の中でも労使協調等に基づく「新しい社会契約」が形成されれば、それが「社会福祉と公共投資の両立」、さらには拡大的なマクロ経済政策の実施の条件となり、またその実施が望ましいとしている。

第III部では、第I部で提示された分析の切り口に基づく第II部における福祉国家の再編の現状分析を踏まえて、福祉国家の将来と新たな可能性について、検討されることになる。

6章「福祉国家はどのように変容したか」では、新自由主義の興隆、グローバル化の進展の中における福祉国家の変化をみるために、アメリカ、イギリス、ドイツ、スウェーデン、日本における1980年代以降の所得分配と財政による所得再分配の推移を分析して、民間部門における所得不平等は拡大しているが、他方では財政システムを通して所得再分配も増大しており、したがって、グローバル化に伴う競争の激化によって生じるとされる社会保障給付の「底に向かっての競争」は現実には生じていないとしている。これは、第II部におけるアメリカとスウェーデンの福祉国家の実証的な分析から得た狭義の福祉国家は本質的に根強く存続し続けるという結論を、他の諸国にも拡大するものである。

そして第6章の最後で岡本氏は、その存続説の根拠として、グローバル化、脱工業化とそれに伴う低成長、ジェンダー平等化、個人主義的価値観の浸透という新しい条件による経済社会の大転換における創造的破壊の痛みを緩和する安定装置としての福祉国家の役割をあげており、その新しい条件下の福祉国家の役割と再編という問題設定を受けて、次の第7章及び第8章へと検討が進められる。

7章「福祉国家の正統性の危機」では、福祉国家は政治経済システムとして展望がないという危機論を背景として展開される市民社会論(福祉の側面に限定すると福祉社会論)について、ジョーン・キーン、ジーン・コーエン、マイケル・ウォルツァーの諸説を検討し、これら3者の市民社会論は既存の福祉国家の限界を突破するには共同組織を中心として市民社会の活性化が不可欠であると同時に市民社会の活性化と安定化にとって福祉国家の存在が不可欠という理論構造になっているとする。

そして、現在のグローバル化等の新しい状況下で文化・宗教・生活様式・民族集団が多様化する先進国内では、福祉国家の存在によってナショナリズムの暴発や非抑圧集団の暴走を抑制するという意義が一層大きくなっているとして、岡本氏は、21世紀の新しい状況下で福祉国家は解体されるどころか、逆にその必要性と存在意義は増しているというのである。そういう意味でも、福祉国家と市民社会の関係は、後者が前者に代替するという関係ではなく、むしろ相互補完的であり、スウェーデンに見られるような普遍主義的な福祉国家は貧困を排除することによって、市民の自律性をむしろ強化し、市民社会を活性化するという方向性を示唆している。

続いて8章「グローバル社会における福祉国家の可能性」では、福祉における当事者主権や福祉多元主義、ボランティア活動、民営化と分権化という新潮流が生じた歴史的文脈とその影響を考察し、それらに基づいた諸改革も従来の福祉国家体制を解体して代替的な社会体制に向かうという方向ではなく、むしろ、福祉国家体制の枠組み内部でその現代化を図るために有効に機能するとしている。

必ずしも適切に表現できていないという意味で後に改善すべき点として指摘するが、本研究の結論部分として重要な含意が第8章で示されている。すなわち、21世紀における福祉国家の存在意義として、生産力の限界を突破できるか否かという経済的な側面だけではなく、市民社会の成熟に伴って個々の市民が求める自立的な選択の自由や多様性に対応できる方向に福祉国家を再編するという側面も提起している。

III.評価

本研究は意欲的な福祉国家論であり、一方で、計数的な検討も含めた極めて実証的なアプローチでアメリカやスウェーデン等の実態を総合的に分析した上で、さらに他方では、福祉国家の再編・危機・解体あるいは可能性にかかわる学問的な文献を幅広く取り上げて網羅的かつ詳細に検討して、福祉国家の将来と可能性について真摯に論じている。

特に以下の2点が本研究の意義として重要である。

第1に、第I部で提示されたように、日本における代表的な福祉国家財政論である林健久と加藤栄一の段階論的な分析枠組みを継承しながら、岡本氏は、福祉国家財政論にとどまらず、福祉国家システムの全体を包摂しうる切り口を提示している。アメリカとスウェーデンという現代の福祉国家論における両極をなす2つの国を取り上げて、具体的な制度や政策展開を実証的に分析したことで、林健久及び加藤栄一が抽象的な指摘にとどめていた広義の福祉国家論について具体的な内実を伴う形で体系化する成果を生み出している。

第2に、特に岡本氏の研究面での蓄積が質量ともに豊かなアメリカの福祉国家システムの部分は出色の出来と評価できる。公的扶助や企業福利(医療や年金)にかかわる分析も手堅く、さらにレーガン政権期の規制緩和を、アメリカ福祉国家の再編過程の中に位置づけて、競争激化、企業売却、労働組合組織率の低下、賃金切下げと格差拡大というアメリカ的な経済現象を、アメリカ型の福祉国家における「隠れた社会保護」の仕組みの解体と捉えなおしている。

従来の日本におけるアメリカ福祉国家の研究には2つのパターンがあり、第1はヨーロッパ諸国におけるいくつかの福祉国家の構造を基準として、それと比較して、アメリカ福祉国家の不十分性や低水準を指摘するものであり、第2はアメリカ独自の福祉国家の自由主義的な構造だけを詳細に分析して、ヨーロッパ諸国とは異なる市場主義的な社会風土に由来する特異性を強調することに終始するものであった。それらのアメリカ福祉国家研究の物足りなさは、岡本氏の福祉国家論からみれば、狭義の福祉国家についてのみアメリカやヨーロッパ諸国を検討することに由来しており、広義の福祉国家と狭義の福祉国家で構成される福祉国家論の切り口からアメリカとヨーロッパ諸国をみれば、それぞれの福祉国家システムにおけるさまざまな機能が、それぞれのいかなる仕組みやメカニズムで担っているのかが、比較可能となる。

そのようにして構築される岡本氏の独自のアメリカ福祉国家システム論では、上記の広義の福祉国家部分の解体が、その「隠れた社会保護」の機能を低下されるので、狭義の福祉国家のコアの仕組みの存在意義は逆に強まるということも明確に提示できるのである。そういう意味でも、アメリカ福祉国家の再編にかかわる分析は、岡本氏の提示する狭義の福祉国家と広義の福祉国家という切り口の効果を、最も鮮明に示す事例となっている。

しかしながら以下のような改善すべき点、課題も指摘できよう。

第1に上記のように、福祉国家財政論から出発して狭義及び広義の福祉国家から構成される独自の福祉国家論を構築して、それを切り口として、一方ではアメリカとスウェーデンを具体的な事例として検討しながら、他方で福祉国家論にかかわる膨大な文献を取り上げて21世紀における福祉国家の存続可能性という視点で整理するというスケールの大きな研究作業であるので、当然のことながらそれぞれの個別分野の研究としてみれば濃淡が生じてしまう。たとえば、スウェーデンをはじめとしてヨーロッパの福祉国家に関する分析では、福祉国家の政治的な基盤となる社会民主主義の変化との関係についての踏み込みが欠けており、またアメリカと比較するためのもう一つの典型例として位置づけるスウェーデンの福祉国家の具体的な分析がやや手薄であった印象もある。

第2に、第II部におけるアメリカとスウェーデンの比較でも、また第III部第6章における先進諸国の比較においても、岡本氏の福祉国家論のコアとする制度の定義や、あるいは広義の福祉国家にあたるフィスカル・ポリシーの概念にも微妙なブレがみられ、そのことによって、全体の分析にやや曖昧性の印象を与えている。また、第II部と第III部で現代の福祉国家にかかわる重要な論者について膨大な文献が取り上げられて検討され、しかも上に述べた岡本氏独自の福祉国家論の切り口からそれぞれを明快に整理しているが、その際に、岡本氏の存続説に近い論者の扱いにやや甘さが見られ、そのことも同様に曖昧性の印象につながっている。

以上述べたように、本研究は若干の改善すべき点、課題を残しているものの、全体として学位請求論文としての要件を十分に満たしている。平成20年9月26日に論文が提出された後、審査委員会(審査委員:渋谷博史(主査)、神野直彦、工藤章、持田信樹、佐口和郎)を設置し、論文について検討した。さらに平成21年1月28日に口頭試問を行った上、慎重な審議を行った結果、審査委員一同、岡本英男氏に経済学博士の学位を授与するのが妥当であるとの結論に達した。

[審査委員]

主査 渋谷博史

副査 神野直彦

工藤 章

持田信樹

佐口和郎

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