学位論文要旨



No 217106
著者(漢字) 中村,順昭
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ヨリアキ
標題(和) 律令官人制と地域社会
標題(洋)
報告番号 217106
報告番号 乙17106
学位授与日 2009.02.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17106号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 准教授 大津,透
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 准教授 早乙女,雅博
 史料編纂所 教授 加藤,友康
内容要旨 要旨を表示する

律令官人制については、これまで膨大な研究が蓄積されている。太政官を頂点とする中央政府の権力機構や諸官司についての研究、地方行政に関する国司・郡司の制度史的研究などは高いレベルまで達しているが、行政機構を担った下級官人については、史料の偏在もあって体系的な研究は乏しい。本論文では、下級官人を中心に中央・地方の行政機構の末端につらなる人々に焦点を当てて、官人制のありようと、平城京および諸国の地域社会との関わりを考察したものである。

第I部「律令制下の官司と官人」では、中央官司とその官人に関する問題を、下級官人を中心に考察した。第一章「律令制下における農民の官人化」では、中央官司で官人身分を持たない人々も多く活動していたことを明らかにし、そのことが官人の子弟でない人々の官人身分獲得を可能にしたことを論じた。律令制で位階の初位、官職の雑任は庶人にも開放されていた面があり、庶人もさまざまな縁故を通じて官司と関わりを持ち、官人身分を獲得していき、その過程で「未選」という官人と庶人の中間的な段階が設定された。

官司のあり方を、官人の構成面から検討したのが第二章「律令官司の四等官」である。律令官司の四等官では、次官以上と判官以下との間に大きな差があり、長官と次官は、ともに官司を総括する存在であるが、二人の人間によって職務を担うあり方は、律令制下にしばしば見られる。また判官と主典が官司の実務を扱うが、書記を担当する主典は、フヒトとして番上の史生とも共通点があり、長上と番上との区分の曖昧さを示している。そのような官司の実態について、第三章「造東大寺司の「所」と別当」と第四章「光明皇太后没後の坤宮官」で考察した。具体例として造東大寺司と坤宮官をとりあげ、その下部機関として造石山寺所など種々の「所」があり、「所」は、おおむね二人の別当を責任者とし、その別当は造東大寺司の判官以下や史生が分担したが、実務は別当より下の案主や領によって担われていて、二人の責任者とその下の実務者という官司の四等官と共通する側面が「所」の運営にも見られる。また「所」は複数の官司にまたがって所属することもあり、勅旨所から勅旨省に発展したように「所」から正式の官司に変化することもあった。

第II編「平城京の住民と下級官人」では、官司や下級官人のあり方を通じて平城京の地域社会について考察した。第一章「平城京の住民構成」では、平城京の主要な住民は官人・僧尼・市人であるが、戸籍上で京内に本貫を持つ京戸以外に、仕丁や官人などで諸国に本貫を持ちながら官司などに出仕する人が多かったこと、手工業者や商人は官司の活動と関連することが多く、京の住民のあり方は中央官司の動向に大きく依存したことを指摘した。平城京の住民のうち、本貫を京内に持つ京戸について、天平5(733)年の右京計帳手実をもとに考察したのが、第二章「平城京の京戸について」である。京内での移住は計帳に反映されるが、京の内と外との間の移貫は行われておらず、籍帳上の京戸はほぼ固定されていたと考えた。京戸の設定は全国から官人らを集住させるためと考えられるが、実際にはおもに畿内諸国に本貫を持ちながら京の官司に出仕する人々が多く、また京戸の口分田が周辺の畿内諸国に班給されることなどから京と畿内諸国との違いが薄れていったことなどを指摘した。

次に下級官人の生活と官司との関わりを、第三章「奉写一切経所の月借銭について」で、宝亀年間(770~782)の月借銭に関する文書から考察した。宝亀年間の写経所では、それ以前に比べて布施や食料の支給量が低下し、写経生の生活が苦しくなっていた。また写経所は自ら銭出挙を行って、その利息を財源に利用しており、緊縮財政のもとで官司の財政が写経所のような下部機関による独自の運営に委ねられた。写経生など下級官人の生活が官司の動向に大きく依存しており、政府の財政状況が、平城京住民のあり方を変化させたことが推定できる。京の住民の中で力役夫として集められた人々について考察したのが、第四章「長岡・平安遷都の役夫について」である。奈良時代の造営事業における雇夫について検討した上で、長岡・平安京造営では雇夫あり方が変化したと考えた。長岡・平安京の造営では畿内だけでなく周辺諸国からも雇役の徴発が行われ、畿内では雇役に加えて和雇による人夫の動員も行われ、和雇では国司・郡司を通じないで官司あるいは官人によって直接に集められることも多く、それが畿内での郡司の支配力の低下にも結びつき、また畿内と畿外との違いの拡大にもなったことを指摘した。

第III編「地方行政機構と下級官人」では、国郡の地方行政機構とその職員についての考察を通じて、地方行政と地域社会のあり方や、その変化について考えた。

第一章「律令郡司の四等官」では、律令地方行政の主要な担い手である郡司について、おもに制度的な面から検討した。郡司は中央官司と同様に四等官から構成されるが、郡司では大領・少領と主政・主帳との間に大きな格差があり、日本の四等官制の特色がもっとも顕著にあらわれている。国司との関係では、郡司は国の行政を地域割りで分担する分局的存在で、国と郡とはそもそも行政機能としては一体であったと考えるべきである。郡司の行政を支えたのがいわゆる郡雑任で、これを考察したのが第二章「郡雑任の諸様相」である。税長・田領などの郡雑任については、その呼称も地域により異なり、個々の郡司により編成されるものも見られ、郡司の職務を補完するものと位置づけられる。郡雑任には外散位など官人身分の者と徭丁など白丁身分の者とがあり、同じ仕事をしたと考えられ、中央官司の末端で官人と官人以外の者とが混在して勤務していた様相と同様である。その郡雑任の具体的な事例を考察したのが、第三章「愛智郡封戸租米の輸納をめぐる郡司と下級官人」である。近江国愛智郡の東大寺封戸租米の輸納をめぐる史料を分析し、この輸納には愛智郡大領と造東大寺司史生が介在していたこと、租米を輸納するにあたり郡の綱丁となったのは大領の指揮下に編成された郡雑任の一種であり、綱丁を編成したのが組織としての郡家ではなく大領個人であったこと、また郡司と中央官人との結託による租税物の流用が行われたことなどを推定した。また郡司や郡雑任の存在と関連して『和名抄』に見える郡家郷について、第四章「郡家の所在と郷の編成」で考察した。『和名抄』所載の郷名の多くは8世紀前半に付けられ、その後には郷名の変更や地方行政区分の変更はほとんど行われなかったことを指摘した。

第五章「律令制下の国府とその職員」では、国府の雑任について考察した。国府の諸施設は八世紀の前半に整備されたことが考古学による研究で指摘されている。国府の雑任もそれとともに増えていったと考えられるが、8世紀前半には雑掌・綱丁などの中央政府へ赴くもののほかは、某郡の人という程度の意味の某郡散事という呼称が中央政府に対しては用いられていた。それが八世紀末頃には国書生の呼称が多く用いられるようになり、その待遇も定められていった。同じ時期には擬任郡司も増加し、国司により任用される擬任郡司は、国書生と同質化していった。一方、衛府の舎人など中央官人の身分を持つものも国司のもとで雑任に編成されることが多くなり、国府雑任と中央下級官人との同質化も進行したと考えられる。

そのような国府構成員の変化と関連して国司について、第六章「8世紀の武蔵国司と在地社会」で、武蔵守高麗福信に着目して、国司と在地社会、国司と中央との関係を考察した。高麗福信は武蔵国高麗郡に本貫を持ちながら、三回にわたって武蔵守を務めた。福信は中央官人としての活躍が顕著だが、高麗氏は高麗郡に拠点を持っており、中央と地方を結ぶ国司の役割の一端を見ることができる。また国司と任国との深い関わりは、8世紀から既に見られることを指摘した。第七章「地方社会における位階」は、国府や地方社会での位階の機能についてを検討した。8、9世紀には、地方では官人の序列では位階の上下よりも官職の方が重要な要素であったが、10世紀になって中央官人の身分を持つものが多くなるのにともない、位階による序列が国府などで機能するようになったことを指摘した。地方社会で位階の機能が高まれば、地方の諸勢力は位階の獲得、昇進を望むことも多くなり、そのことが中央の官司や王臣家などとの結びつきを強める要因にもなったことも推測される。

以上のように、中央官司、地方官司ともに官人以外の人々も多く含んで活動していた。その人々の編成は、職務の運営の必要性に応じて展開し、組織的、制度的にではなく個別的に行われた。律令制の官僚機構が実際にはそれを構成する個人とその周囲にいる人々によって支えられていたのであり、それがまた官僚機構を変質させる要因ともなったと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

中村順昭氏の論文『律令官人制と地域社会』は、律令官人制の末端に位置し、官司運営に不可欠でありかつ多数にのぼった下級官人や官人身分獲得以前にある人々の存在形態を明らかにし、律令官司と地域社会との関係について見通しをもたらした基礎的な研究成果である。研究の特徴は、比較的史料に乏しい官人制末端の人々に関する制度・待遇を可能な限り明らかにし、また彼らの実態・出身母体を、正倉院文書や木簡など出土文字資料の広範な検討から実証的に解明したところにある。その際、中央官司と地方行政機構との両者にわたり、官人制末端層を介した官司と地域社会との接点について、幅広い視野から堅実で説得力に富む論旨を展開している。

第I部「律令制下の官司と官人」では、太政官のもとにある中央官司の官人たちは、蔭子孫・位子の制によって貴族・官人が同一階層内で基本的に再生産されるシステムになっていたが、他方、官人の子弟ではない一般庶人が官人身分を獲得する道筋も存在したことを解明する。官司の末端に出仕して勤務実績を積んで官人となっていく方式であり、はじめは縁故を通じて勤めることから、官司と地域社会との結びつきが生じることを指摘するとともに、造東大寺司の下に置かれた写経所など末端官司の運営実態を正倉院文書から明らかにした。律令官人制の末端のあり方に対する見通しをもたらした基礎的な研究といえよう。

第II部「平城京の住民と下級官人」では、平城京の住民構成を実証的に明らかにし、京に戸籍をもつ京戸以外に、上京する仕丁などの力役者、諸国に戸籍をもちながら官司に出仕する下級官人、さらに官人身分をもたずに下級官人と同様に官司に勤める人々が多数にのぼったことに注目する。中央の律令官司の末端と平城京やその周辺の地域社会との関係を展望した点は、古代都市史の面からも高く評価されよう。

第III部「地方行政機構と下級官人」では、地方の国府や郡家においても官人身分以外の人々が数多く官司運営に携わっていた実態を明らかにする。郡司の行政を支えた「郡雑任」たちは、呼称や職務分掌が多様で、一人で複数の職務を担ったり、個々の郡司により編成されたりしつつ、「外散位」とよばれる官人身分の者と一般の白丁とが混在して勤務した実情を指摘する。また国府の実務を支えた国雑任たちの歴史的変遷を明らかにし、八世紀末に「国書生」が増えてその待遇も定められたこと、同時期に郡司が国司の下僚化して国書生と同質化したこと、さらに国雑任と中央下級官人とも同質化したことなどを展望する。出土文字資料や地方官衙遺跡の発掘調査成果をも取り入れた歴史的展望であり、地方官司と地域社会とを見通した有益かつ先駆的な研究成果といえよう。

以上、本論文は、律令官司の運営を支えた官人制末端の人々に焦点をあて、史料的制約を打ち破る幅広い検討によって律令官人制の基盤について実証的で説得力ある展望を提示しており、日本古代史に有益な基礎をもたらした研究成果として評価できる。

したがって審査委員会は、本論文が博士(文学)にふさわしい研究であると判断する。

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