学位論文要旨



No 217108
著者(漢字) 浅野,豊美
著者(英字)
著者(カナ) アサノ,トヨミ
標題(和) 帝国日本の植民地法制 : 法域統合と帝国秩序
標題(洋)
報告番号 217108
報告番号 乙17108
学位授与日 2009.02.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17108号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 教授 若林,正丈
 東京大学 准教授 木宮,正史
 東京大学 准教授 野島(加藤),陽子
内容要旨 要旨を表示する

日本の帝国としての法的特徴は、西欧主権国家体系の周辺地域であった居留地制度の中において、それを代替することによって膨張が行われたことに起因する。つまり、西洋諸国が「無主地」先取の原則に従いながら、主権国家を形成した世界の外側に向けて拡張したのに対して、日本の周辺地域には開港場・居留地が既に存在していた。そこには「治外法権」特権を有する西洋人が、宣教師、貿易商、鉱山技師・資本家として居住し商業を営んでいた。日本の帝国的拡張は、国際関係の中で、そして少なくとも初期において西洋人の暗黙的明示的同意のもとで、「植民地版条約改正」作業を通じて形成されたのである。

西洋人の治外法権特権の廃止を念頭にして「帝国法制」が編成され、植民地的司法機関が整備されたことは、日本の陸奥宗光の条約改正の際に民法や刑法等の法典編纂と司法整備が行われたことと同じであった。その意味で、植民地版条約改正作業によって、帝国法制が整備されたことにより、日本帝国は「文明」的外国人の生命と財産を守護するに十分な秩序として、「文明」的国際社会からの承認を受けて形成されたといえる。

本博士論文は、こうした国際秩序の中に形成された日本の帝国秩序が、やがて今度は逆に国際秩序を規定していこうとする時代や、その解体過程にも焦点を当てて、近代日本の帝国としての起源、展開、変質、崩壊の各々の重要な転換点を、東アジア地域の国際秩序という環境の中で、帝国法制の実証分析によって論じたものである。

第一編「台湾の領有と住民の地位」で明らかになったのは、陸奥条約改正が準備される過程で台湾が領有されたために、帝国法制の基軸となる「法域」の原型が、台湾において属人法をその内に宿して形成されたことであった。最初に問題となった台湾人への国籍付与過程で、日本の国籍法は、法的権利と国籍が一体となった市民権としてではなく、法的権利・市民権とは分離されたものとして台湾に施行された。そして、その法的権利に関しては、台湾の領域内で日本の民法・刑法他が「依用」される一方、台湾「本島人」の民事・刑事は旧慣に「依ル」こととされ、依用された民事・刑事の法体系から、属人的に分離された法領域が形成された。その例外は「土地」という単位法律関係であり、旧慣に依拠した属地的法制がそこには導入された。旧慣立法は、初期において台湾人「ノミノ間」と、こうした例外部分において想定された。条約改正による主権国家体系への参加は、裏を返せば、主権国家群が「東洋」において形成した帝国主義的居留地制度への参入と、居留地制度に取って代わる可能性を有する日本の帝国秩序の萌芽の形成につながっていた。

第二編「保護下韓国の条約改正と帝国法制」では、韓国を台湾同様の帝国法制の基本型の中に抱擁し帝国に編入しようとする併合路線以外に、伊藤博文統監によってそれと明確に異なるものとして意識されていた保護路線が存在していたこと、それは帝国法制への韓国編入路線ではない選択肢として存在していたことが論じられた。ハーグ条約以前において保護下の法制整備の原理とされたのは、日本の「指導」性を承認するという原則の下ではあったが、一定の水平的な地域的結合を治外法権廃止によって実現し、国内の内政を国際行政的枠組みで統合するという路線であった。それは、基礎生活レベルにおける消防組織や衛生組合等の合同運営を実現することも志向していた。更に、ハーグ事件以後においてさえ、韓国で初めての工業所有権に関する治外法権廃止を、アメリカ相手に実現するに際しては、法令の形式を韓国法律施行に求め、裁判管轄権のみを日本裁判所とする案が検討されていた。それらは実現しなかったものの、伊藤統監が認めた特許法や商標法等を勅令で韓国に施行するという法令形式と日本裁判所による裁判管轄権は、あくまで暫定的なものであった。しかし、それが一転して恒久化させられ、日本法の勅令施行方式が、工業所有権のみならず民事・刑事の基本法制にまで、経費節減を名目に拡大されてしまったのが併合への法的過程であった。義兵の叛乱と韓国内政の混乱に直面する中で、伊藤に反対して併合を主張する勢力は、保護国の裁判所に西洋列強が自国民の生命と財産に関する管轄権を委ねるはずがないという議論と、イギリスの在韓治外法権廃止の拒否、日露戦後における膨大な予算の継続困難な状況により、勢いを増していった。それでも、伊藤が一九〇九年四月以後に承認した「併合」は、後の「武断統治」的なものではなかった。それは、あくまで明治憲法体制の中に司法権独立を保った状態で韓国を編入しようとするものであり、統監や総督からさえ独立した併合後の韓国最高裁判所構想がそれを支えていた。しかし、その構想も伊藤の暗殺によって消滅し、武断的併合が実現していった。

第三篇「帝国法制の構造と展開」においては、「法域」、およびそこに所属する集団ごとの属人法(「人域」)に分かたれた帝国法制の全体構造を、一九一八年制定の共通法の機能との関連から分析した。共通法により内地の民刑事法令と、外地に依用された民刑事法令とが「連絡」され、それによって日本内地人中心の実定法が、例外部分を除いて全土に施行されたような状態が作り出された。一方、外地人に適用される旧慣は、制令・律令で一定の範囲に制限され実定法化されることのない状態が作られた。旧慣は行政府の判断で内地の法律が一方的に延長されるだけの対象となり、法律として成文法化されることのない弱い存在となった。また、外地の「法域」は住民の代表に由来する立法機関を有せず、内地の帝国議会に代表を送るための選挙区も存在しない点で、弱い法域であった。現地の住民のみならず本国の議会にさえ責任も負わない行政制度が外地には築かれ、司法制度さえもその法域の上に築かれ、内地の大審院とは切断された。

また、戸籍法令によって、属人法を埋め込んだ法域にヒトが帰属させられ、ヒトの所属する地域が「個人」のみの意志では変更できないが故に、公法分野であるべき徴兵、公務員給与、刑事法、教育法において、帝国全土に属人法が波及することとなった。共通法は、本来、民事と刑事において、内地と外地の法域にまたがる事件の際の「適用」規則を決め、外地において依用されている内地法と内地法それ自体との「連絡」を規定するものであった。しかし、ヒトが地域に家制度を媒介として所属するシステムが作られ、個人の意志は婚姻や養子等の身分行為を通じてしか「家」に及ぼせず、外地法域内部には属人法が存在していたため、共通法は、形式上の準国際私法ではなく、属人法を基礎とする人際法的性格をも合わせ持った。

第四編「帝国秩序としての日満特殊関係と満州国国籍法の挫折」においては、満洲国が独立国として民族自決主義による建国理念を必要としたため、法域の直接的拡大としてではなく、日満特殊関係の形成という形で条約改正が達成された過程とその帰結が論じられた。満洲国条約改正は、在満日本人の実質的二重国籍状態を通じて、日本帝国の属人主権を満洲国の領域主権に優越せしめ、日満司法共助や日本の民事諸法令の満洲国法制への依用によって、実質的に満洲国を帝国内部の「弱い法域」同様の存在としていった。内地人を筆頭に、各民族をその属する地域によって識別し、個別の地位を満洲国法制の上で与えていくという点で、階層的帝国的な秩序に満洲国は条約改正を通じて組み込まれた。また、満洲国に所属する漢人・満人・蒙古人のみを対象として、満洲国親属継承法が作られたことにより、その適用を受け二重国籍を有しない「満洲国人」が定義された。そうした人々が所属する地域として、満洲国は帝国内の法域同様の存在となった。満洲国に在住する日本内地人、朝鮮人、台湾人は、あくまで日本国籍を失わず、二重国籍によって併合以上の特権を享受した。つまり、在満日本人は、二重国籍により日本国民として教育や兵役分野で特別の保護を日本政府から受けると同時に、他方で満洲国の国民待遇も享受し、満洲国民としての一切の公権・私権も享受した。こうした偽善的ともいうべき法秩序の矛盾を覆い隠したのが日満特殊関係の称揚であった。日満特殊関係の形成は、属人主権を利用して在外日本人の移住と居住を保護するという帝国法制の基本原理の延長線上にあり、それが満洲国の領域主権の空洞化と帝国秩序内部への満洲国の編入と法域化をもたらしていった。

第五編「大東亜広域秩序建設と日本帝国最後の再編」では「大東亜共栄圏」の時代、民族自決主義原則に対する偽善としての帝国秩序修正の問題を論じた。東南アジアにおいて従属民族の西洋植民地支配からの解放を叫ぶ一方で、なぜ、朝鮮と台湾という日本自身の植民地を独立させなかったのかという問題を、戦中期に展開された朝鮮と台湾への衆議院議員選挙法改正プロセスを焦点に分析した。日本が全く孤立した状況下における連合国との競合という文脈から、植民地の民族解放政策と矛盾しない帝国法制の再編の必要は確かに認識され、それは朝鮮人と台湾人の処遇改善の必要として提唱されるに至っていた。植民地からの解放後に築かれるべき新秩序を、法制度としていかに表現するのかという問題が、戦争の終末期、民族自決主義を実践し英米の「偽善」を曝す戦略の一環として浮上していた。しかし、それは国民国家体系を基軸とする選挙法改善としてしか求められず、それを実質化するための法域撤廃や総督府制度廃止も実行はされなかった。その意味で、大衆にわかりやすいシンボル的なものとしてのみ、選挙法改正は意図された。つまり、帝国秩序の質的転換が政治処遇の模索として追及されたにもかかわらず、朝鮮と台湾の法域は放置された。内務省を中心とする内地の生活感情秩序を優先すべしとの主張によって、共通法秩序を修正し転籍を可能とする案も否定された。参政権そのものも、朝鮮と台湾においては国税納入額による制限選挙にとどまり、帝国の再編は整合性を欠いたものとなった。

第六編「帝国から国際関係へ」では、敗戦によって民間人を含めた植民地からの一斉引揚がGHQによって命令されて以後、戦後世界に最後まで残された日本人「私有財産」の問題をとりあげた。それは国交正常化交渉の中で政治化した問題であったが、帝国法制の上に存在していた錯綜する法的権利(財産・債権)を、戦争被害補償ともからめて、いかなる原則によって国際法的存在へと移し変えるのかという脱植民地化の原則問題をめぐる論争の一環でもあった。在外財産が搾取故の不当利得か、正当な国際法上の権利かをめぐって展開された日韓国交正常化交渉の議論を取り出すことで、戦前の帝国の時代の精算が十分になされたかった構造にまで考察を深めた。

敗戦によって民間人を含めた植民地からの一斉引揚がGHQによって命令された際、引揚者が保有していた在外私有財産は、賠償の一部として接収された。それは帝国解体後にも残された日本人の属人的権利の最後の一滴と見なし得る存在であった。また、財産をめぐって展開された日本国内での議論は、植民地を論じること自体が国内的にタブー視されていった社会的力学を浮かび上がらせた。在留邦人は引揚者として、戦後日本社会に包摂されたが、彼らは国内定住に困難を感じる社会的弱者であり、しかも、多くの未帰還邦人が北朝鮮とソ連に存在していた。そうした状況で引揚者から提出された、外地統治一般の政治的性格を鮮明にして欲しいとする要求は、引揚者の私有財産の性格をめぐる議論と結びつき、明治以来の「大陸政策」が「侵略」であったのか否かという論争に対する、政府や個々人の政治的踏み絵ともいうべき性格を帯びた。こうして国内において、引揚者と財産の政治的性格をめぐる論争は封印され、国民すべてが「被害者」であるという戦争の記憶がそれを覆った。しかし、封印された在外財産の性格をめぐる問題は、韓国との外交交渉の場において、日韓併合条約の正当性や消滅時期の問題とも絡まり、日韓両国民の異なる感情を喚起する対象として深刻な争点を形成していった。

以上、本博士論文は、歴史に顕現した帝国としてではない形で日本と周辺地域が同じ秩序に結ばれる「地域主義的結合」の可能性やその変質のダイナミズムを、法的な論理の展開によって浮かび上がらせた。法的論理の展開を歴史の補助線として位置付け、政治過程のマクロ的分析を進める手法は、法的差別待遇の中で人々が抱いた国民的感情の起源を論じ、国民史の枠組みを越える地域史の土台として活用されるに足るものと信じる。

審査要旨 要旨を表示する

提出論文は、日本の帝国法制の起源・展開・崩壊の諸相を、国際関係史的視点から検討したものである。西洋諸国が「無主地」先取の原則に従いながら、主権国家を形成した地域の外側に向けて拡張したのに対して、日本の周辺地域には開港場・居留地が既に存在し、治外法権特権を有する西洋人が居住していた。日本帝国の膨張は、西洋諸国の居留地制度を代替し、帝国法制のなかに組み込むことによって行われた。本論文は、このような「植民地版条約改正」を通じて形成された帝国法制の構造と展開を実証的に解明した、800頁近い大著である。提出論文の構成及び要旨は、以下の通りである。

序論で、帝国法制研究の意義・研究史・方法論の検討がなされた後、第一編「台湾の領有と住民の地位」では、陸奥条約改正が準備される過程で台湾が領有されたため、帝国法制の基軸となる「法域」の原型が、属人法をその内に宿して形成されたことが検討される。台湾人への国籍付与過程で、日本の国籍法は、法的権利と国籍が一体となった市民権としてではなく、法的権利・市民権とは分離されたものとして台湾に施行されたこと、その法的権利に関しては、台湾の領域内で日本の民法・刑法等が「依用」される一方、台湾「本島人」の民事・刑事は旧慣に「依ル」こととされ、依用された民事・刑事の法体系から属人的に分離された法領域が形成されたこと、その例外は「土地」という単位法律関係であり、旧慣に依拠した属地的法制がそこには導入されたこと、などが指摘されている。

第二編「保護下韓国の条約改正と帝国法制」は、従来取り上げられることのなかった工業所有権関連法令を中心に、韓国を台湾同様の帝国法制の基本型の中に包摂しようとする併合路線とは質的に異なるものとして、伊藤博文統監によって追求された保護路線を論じている。ハーグ条約前において保護下の法制整備の原理とされたのは、日本の指導性を承認するという原則の下ではあったが、一定の水平的な地域的結合を治外法権廃止によって実現し、国内の内政を国際行政的枠組みで統合するという路線であった。更に、ハーグ事件以後においてさえ、韓国で初めての工業所有権に関する治外法権廃止を、アメリカに対して実現する際には、法令の形式を韓国法律施行に求め、裁判管轄権のみを日本裁判所とする案が検討されていた。それらは実現しなかったものの、伊藤が認めた特許法や商標法等を勅令で韓国に施行するという法令形式と日本裁判所による裁判管轄権は、あくまで暫定的なものであった。併合への過程で、日本法の勅令施行方式は、工業所有権のみならず民事・刑事の基本法制にまで拡大されてしまうが、それでも、伊藤が承認した「併合」は、明治憲法体制の中に司法権独立を保った状態で韓国を編入しようとするものであり、統監や総督から独立した併合後の韓国最高裁判所構想がそれを支えていた、と述べられている。

第三篇「帝国法制の構造と展開」は、「法域」、およびそこに所属する集団ごとの属人法(「人域」)に分かたれた帝国法制の全体構造を、1918年制定の共通法の機能との関連から分析している。共通法により内地の民刑事法令と、外地に依用された民刑事法令とが「連絡」され、それによって内地人中心の実定法が、例外部分を除いて全土に施行されたような状態が作り出された一方、外地人に適用される旧慣は、制令・律令で一定の範囲に制限され実定法化されることのない状態が作られた。また、外地の法域は住民の代表に由来する立法機関を有せず、内地の帝国議会に代表を送るための選挙区も存在しない点で、弱い法域であり、現地の住民のみならず本国の議会にも責任も負わない行政制度が外地には築かれ、司法制度も内地の大審院とは切断された。また、戸籍法令によって、属人法を埋め込んだ法域にヒトが帰属させられ、ヒトの所属する地域が「個人」のみの意志では変更できないが故に、公法分野であるべき徴兵、公務員給与、刑事法、教育法において、帝国全土に属人法が波及することとなった。ヒトが地域に家制度を媒介として所属するシステムが作られ、個人の意志は婚姻や養子等の身分行為を通じてしか「家」に及ぼせず、外地法域内部には属人法が存在していたため、共通法は、形式上の準国際私法ではなく、属人法を基礎とする人際法的性格をも合わせ持った、と結論づけられる。

第四編「帝国秩序としての日満特殊関係と満洲国国籍法の挫折」では、満洲国が独立国として民族自決主義による建国理念を必要としたため、法域の直接的拡大としてではなく、日満特殊関係の形成という形で条約改正が達成された過程とその帰結が論じられている。満洲国条約改正は、在満日本人の実質的二重国籍状態を通じて、日本帝国の属人主権を満洲国の領域主権に優越させ、日満司法共助や日本の民事諸法令の満洲国法制への依用によって、実質的に満洲国を帝国内部の「弱い法域」同様の存在としていった。また、満洲国に所属する漢人・満人・蒙古人のみを対象として、満洲国親属継承法が作られたことにより、その適用を受け二重国籍を有しない「満洲国人」が定義された。満洲国に在住する日本内地人、朝鮮人、台湾人は、あくまで日本国籍を失わず、二重国籍によって併合以上の特権を享受した。このように、日満特殊関係の形成は、属人主権を利用して在外日本人の移住と居住を保護するという帝国法制の基本原理の延長線上にあり、それが満洲国の領域主権の空洞化と帝国秩序内部への満洲国の編入と法域化をもたらしていったのである。

第五編「大東亜広域秩序建設と日本帝国最後の再編」は、戦中期に展開された朝鮮と台湾への衆議院議員選挙法改正過程を中心に、「大東亜共栄圏」下の帝国再編を分析している。朝鮮人と台湾人の処遇改善の必要性は、民族解放政策をめぐる連合国との競合という文脈からも認識されていたが、法域撤廃や総督府制度廃止も実行はされず、また、内務省を中心とする内地の生活感情秩序を優先すべしとの主張によって、共通法秩序を修正し転籍を可能とする案も否定された。参政権そのものも、朝鮮と台湾においては国税納入額による制限選挙にとどまり、帝国の再編は整合性を欠いたものとなったことが指摘されている。

第六編「帝国から国際関係へ」では、敗戦によって民間人を含めた植民地からの引揚がGHQによって命令された際に生じた引揚者が保有していた在外私有財産の問題をとりあげ、帝国法制の上に存在していた錯綜する法的権利(財産・債権)を、戦争被害補償ともからめて、いかなる原則によって国際法的存在へと移し変えるのかという脱植民地化の原則をめぐる論争の一貫として、日韓国交正常化交渉の議論を考察している。あわせて、本編では、この論争の過程で、引揚者と財産の政治的性格をめぐる論争が封印され、国民すべてが「被害者」であるという戦争の記憶がそれを覆っていく過程を分析している。

上述の六編を受けて、結論では、本編の要約と各編相互の連関が再説されるともに、本論文が扱った越境的な社会集団への法的制御が持つ国際関係論研究上の意義について、展望が述べられている。

以上が提出論文の要旨であるが、本論文は次のような点で評価することができる。まず、帝国法制という未開拓の主題を軸に、台湾領有から戦後の日韓国交正常化交渉までの長期間にわたる一貫した見通しを与えた点が挙げられる。従来の植民地史研究においても、法制の問題は軽視されていたわけではないが、これらの先行研究は、専ら憲法の植民地の施行という視角から、本国の植民地統治の文脈として法制を論じてきた。これに対して、本論文は、属人法と法域という帝国法制の基本原理に着目し、内地人・外地人・外国人というヒトの法的地位の区分と異法域間の調整機能を分析することで、個々の植民法制の叙述や比較ではない、帝国法制の有機的な機能を分析することに成功している。このことにより、通時的な見通しが可能になるとともに、治外法権や居留地制度のような国際関係史との関連で植民地史を論ずる視点を提供し得た功績は大きい。

第二に、これまでの植民政策や対外政策を扱ってきた政治史研究が、政治主体の競合関係に焦点をあてた結果、ともすれば日本の帝国統治体制を場当たり的な妥協の産物として描く嫌いがあったのに対して、本論文では、帝国法制の構成をめぐる同時代の議論に焦点をあてることで、一貫した論理構造の抽出に努力が注がれている。法制度は、単なるイデオロギーではなく、また単なる政治勢力の力学の産物でもない。従来の研究では、軽視されがちな法規範としての論理的一貫性から、逆に、日本の帝国法制の構造を照射した点は、本論文の着眼の良さを示している。

第三に、このような帝国法制の基本原理に着目した結果、越境的な社会集団への法的制御が国際関係論研究に持つ含意が示唆されている点が挙げられる。本論文は、一次史料に沈潜した実証的歴史研究であるが、扱われた主題の一般的特徴を自覚している点で、著者の視野の広がりが窺えるものになっている。

だが、提出論文にはいくつかの弱点と思われる個所も存在する。第一に、本論文では、二者択一的に扱われている帝国主義と地域主義は本当に対立的なものなのか、という問題がある。提出論文が対象としている時期の多くは、帝国再編期とも呼ぶべき時期であり、植民地帝国を相互扶助的な共同体と読み替える試みがなされた時期である。著者は、帝国法制の未発の可能性として水平的な地域的結合関係を示唆するが、これらが、どこまで水平的な地域主義と見なしえるかについては、より慎重な配慮が必要なのではないか、という疑問は提示されるだろう。このことは、提出論文中恐らく最も論争的な箇所である、第二編の伊藤博文の韓国保護路線の評価とも関わる問題である。

第二に、帝国法制の論理構造に焦点をあてながら、長期間の歴史過程を追跡していく提出論文の視点は魅力的であるが、広範な対象に手を染めた結果、マクロ的な帝国法制の論理構造を扱った箇所と、ミクロ的な帝国法制の立法過程を扱った箇所が、未分化なまま混在しているように思われる部分もある。本論文のような大作に対しては望蜀の感もあるが、史料の引用や叙述の際、帝国法制を補助線として引く描きかたがより陰影に富んだものであれば、本論文の魅力は更に増したものと思われる。

しかしながら、これらの点は本論文の学術的価値をいささかも損なうものではない。総じて、本論文は、帝国日本の植民地法制に国際関係史的視点から切り込んだ貴重な研究であり、学界に対して多大な貢献をしたものと認めることができる。以上の点から審査委員会は、本論文の提出者は、博士(学術)の学位を授与されるのにふさわしいと判断する。

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