学位論文要旨



No 217111
著者(漢字) 笠原,十九司
著者(英字)
著者(カナ) カサハラ,トクシ
標題(和) 第一次世界大戦期の中国民族運動と東アジア国際関係
標題(洋)
報告番号 217111
報告番号 乙17111
学位授与日 2009.02.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17111号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 准教授 川島,真
 明治大学 教授 後藤,春美
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、第一次世界大戦期の中国民族運動の展開について、二十一ヵ条反対運動、日中軍事協定反対運動、パリ講和会議に対する山東主権回収運動ならびに五・四運動に焦点をあてて、東アジア国際関係に位置づけながら解明することを試みたものである。

1911年の辛亥革命によって1912年1月1日に樹立された中華民国の国家建設をめぐる東アジアの国際環境は、第一世界大戦の勃発と長期化によって大きく変動した。日本は、第一次世界大戦の勃発を、それまで後発帝国主義国であった日本の植民地・侵略拡大の衝動を抑圧していた西洋列強の圧力が取り除かれ、西洋列強が中国から後退した間隙に乗じて「自立した」帝国主義国になれる「天佑」の機会到来と見なし、日英同盟を理由に第一次大戦に参戦、日独青島戦争により山東半島を軍事占領し、韓国「併合」につづいて中国「併呑」までも企図した二十一ヵ条を強要した。さらにロシア革命により、日露協約路線のパートナーであったロシア帝国が崩壊すると革命干渉戦争を推進、日中軍事同盟を締結して列強の批判を朧しながら満州北部、内モンゴルへの進出をはかり、沿海州から北樺太への軍事進出まではかった。日独青島戦争、シベリア革命干渉戦争の発動にみられるように、日本は大陸膨張への強い衝動を持ち続け、乗ずべき国際情勢のチャンスが到来したとみれば、国際法や国際的道義に拘泥されることなく、武力行動をともなった侵略政策を強引に遂行しようとする帝国主義となったのである。

1915年の二十一ヵ条反対運動は、第一次世界大戦期の中国民族運動の思想と方法、運動の組織・団体と担い手の構造などについて、ほぼ基本的な形態が出そろっていた。そのなかで、辛亥革命によって「中華民国の主権は国民全体に属する」(中華民国臨時約法第二条)という国民国家が器として誕生したことが、国民全体が主権者として救国に責任を持つという国民意識が形成される決定的な契機となった。二十一ヵ条反対運動における五月七日を「国恥記念日」とする設定も、中華民国の恥=国民の恥という意識が有効性をもった。また「国民大会」、「国民会議」、国民救亡のための「救国儲金運動」という呼称が使われたように、国民全体主権の意識が中国ナショナリズムの基底をなすものとして、共有されるようになったことも、中華民国の国民というアイデンティティ形成の基礎となった。

二十一ヵ条反対運動において、主要な運動形態として展開された日貨ボイコット、国貨提唱運動は、五・四運動さらに1920年代、1930年代初頭にかけて展開され、中国民族運動の基本構造を形成するようになった。同運動は、清朝末期の洋務運動、清末新政、民国政府の実業振興政策、産業育成政策の成果の上に、第一次大戦勃発によるヨーロッパ帝国主義の中国経済支配の後退が到来したのに乗じて、中国資本主義経済の発展を促し、国民経済を形成しようとした民族運動、国民運動として展開された。思想・文化運動においては清末啓蒙運動を担った梁啓超らが五・四運動においても学生運動、青年運動に大きな影響力をもった。「五・四文学革命」によって開始されたとする白話(口語)運動も、二十一ヵ条反対運動のビラや新聞において、大衆啓蒙をはかるために提唱され、実践されていた。

二十一ヵ条反対運動において、華僑、留日学生、省議会、商会、教育会、商工業者組織・団体など、五・四運動へと継承発展される中国民族運動の担い手がすでに登場していた。なかでも新聞報道とジャーナリストの活動が決定的に重要な役割を果たしたことは、五・四運動に先だっていたものとして注目される。二十一ヵ条反対運動と五・四運動とが大きく異なるのは、前者の段階では学生運動がまだ前面に登場しなかったことである。清末の科挙制度の廃止と近代学校教育制度の導入の結果を受け、中華民国になってから教育救国、教育建国の理念にもとづいて、北京政府の教育部主導による義務教育の普及と中等学校以上の学校教育の振興など、国民教育形成に向けた行政努力がおこなわれ、その成果として五・四運動当時には中等学校以上の学生が大量に輩出され、学生運動を組織するまでの階層として成長したのである。その結果、五・四運動の主役として初めて中国の歴史舞台に登場することになった。

第一次世界大戦が終結し、中国も戦勝国として参加することになったパリ講和会議においては、日本が日中軍事協定に基づいて西原借款、参戦借款などによる財政援助と引き替えに、段祺瑞安徽派が締結した山東密約が切り札となって山東ドイツ利権の日本への一旦譲渡が決定される。この山東条項決定に抗議して五・四運動が爆発したが、目標に掲げられた売国三官僚の罷免は、山東密約締結当事者の処分を要求したものであった。日中軍事協定反対運動から南北和平運動、そして五・四運動へと継続して展開された民族運動、国民運動において一貫した目標は、段祺瑞安徽派、安福クラブなどの親日派軍人、官僚、政客を北京政府の中枢から排除、追放することであった。

日本の外務当局が北京政府内の安徽派、安福クラブ勢力を利用して学生の「排日運動」、新聞の「排日煽動」への取締りを強化させたことが、五・四運動をいっそう激化させ、全国化させた。五・四運動によって新交通系の三官僚を罷免させられた段祺瑞安徽派にとっては、財源を失う結果となり、大きな痛手となった。反日・反安徽派の民族運動、民衆運動が全国に拡大するにともない、自派の巻き返しを図った徐樹錚・安徽派が参戦軍を辺防軍と改称して「外蒙自治取消」を強行、中華民国に「併合」したことで国威の発揚をアピールしようとした。しかし、五・四運動を通じて勢力を失墜した段祺瑞安徽派は、1920年7月の安直戦争で敗退、徐樹錚は辺防軍司令官を免職され、辺防軍も解散させられた。北京政府の外蒙古支配の混乱に乗じたセミョーノフの部下のウンゲルンが外蒙古に進駐、これにたいしてモンゴル人民義勇軍は中国軍を撃退して後、ソビエト赤軍・極東共和国軍の援助をうけてウンゲルン軍を駆逐、1921年7月モンゴル人民政府を樹立した。

中国にとって第一世界大戦期は、欧米列強に代わって、中華民国の国家建設に立ちはだかった日本の干渉政策に反対、抵抗しながら国民国家の形成に奮闘する時代となった。このため、中華民国の国民意識として、強力な救国・愛国ナショナリズムとセットになって反日ナショナリズムが形成された。中国民族運動の基本構造であった日貨排斥・国貨提唱運動が第一次世界大戦期を通じて展開したことにより、「民族産業の黄金時代」を現出するまで商工業を発達させ、国民経済形成の歴史的基礎を築いていった民族運動、国民運動の力量には強靭なものがあった。

第一次世界大戦期の中国は、日本の侵略、干渉に反対する民族運動を展開しながら、中華民国という国民国家建設を推進し、一定の成果を得ていった。国民国家建設を保障するか、どうかをめぐって、中国の「門戸開放、機会均等、領土保全」を唱えて一定の保障を与えようとするアメリカと、干渉・妨害を企図する日本との齟齬、対立が顕在化するようになったのも第一次世界大戦期においてであった。アメリカの勧誘によって中国が対独参戦をはたし、中国とアメリカが同盟国になったことにより、中国の国民国家建設がアメリカの支援と影響を受けながら親米派の活躍のもとに推進されることになった。

イギリスにとっては「清帝国(中国)の独立と領土保全を維持」することを約定した日英同盟にも反して、イギリスの勢力範囲の華中、華南まで利権獲得をもくろんで侵略拡大をはかる日本との溝はしだいに深まり、ワシントン会議における日英同盟の廃止により、20世紀初頭の東アジア国際関係において重要な意味をもった日英同盟時代は終わる。

1920年7月、北京政府の支配をめぐって対立を深めていた軍閥の安徽派と直隷派との間に安直戦争が起こり、五・四運動以来親日売国派として国民から糾弾されていた安徽派は簡単に敗れた。この結果、親日派は政界、財界、教育界において勢力を失い、代わって親米派やナショナリストが影響力を持つようになった。1921年1月日中軍事協定は、日本側が継続を希望したにもかかわらず、正式に廃棄された。さらに1922年2月、ワシントン会議中の日中直接交渉によって日本は山東権益の中国返還を認めた「山東懸案解決に関する条約」の締結、二十一ヵ条要求の主要部分の撤回を認めた幣原喜重郎全権の陳述(1922年2月2日の極東委員会)など、第一世界大戦中に日本が獲得した中国大陸での諸権益や独占的・排他的地位を否定する取り決めがなされた。そして「中国に関する九国条約」(1922年2月6日調印)により、中華民国の国民国家建設を保障する平和的な国際環境の保障を謳い、第一次大戦期の日本の干渉、妨害政策を抑止すること約定したのである。

こうして、第一次世界大戦とロシア革命を千載一遇の好機として中国ならびに東アジアに拡大した日本の侵略政策は挫折を余儀なくされたのであるが、当時の日本政府および国民は、その事実を直視せず、そこから歴史の教訓を汲み取ろうとする認識に欠けていた。

1911年の辛亥革命によって1912年1月1日に樹立された中華民国の国家建設をめぐる東アジアの国際環境は、第一世界大戦の勃発と長期化によって大きく変動した。日本は、第一次世界大戦の勃発を、それまで後発帝国主義国であった日本の植民地・侵略拡大の衝動を抑圧していた西洋列強の圧力が取り除かれ、西洋列強が中国から後退した間隙に乗じて「自立した」帝国主義国になれる「天佑」の機会到来と見なし、日英同盟を理由に第一次大戦に参戦、日独青島戦争により山東半島を軍事占領し、韓国「併合」につづいて中国「併呑」までも企図した二十一ヵ条を強要した。さらにロシア革命により、日露協約路線のパートナーであったロシア帝国が崩壊すると革命干渉戦争を推進、日中軍事同盟を締結して列強の批判を朧しながら満州北部、内モンゴルへの進出をはかり、沿海州から北樺太への軍事進出まではかった。日独青島戦争、シベリア革命干渉戦争の発動にみられるように、日本は大陸膨張への強い衝動を持ち続け、乗ずべき国際情勢のチャンスが到来したとみれば、国際法や国際的道義に拘泥されることなく、武力行動をともなった侵略政策を強引に遂行しようとする帝国主義となったのである。

審査要旨 要旨を表示する

第一次世界大戦期から大戦直後における中国史は、これまで五・四運動を軸とし、中国民族運動における五・四運動の画期性を指摘する形で描かれることが多かった。それに際して強調されてきたのはロシア革命の影響であり、より広い第一次世界大戦下の国際環境との関連、辛亥革命期からの中国の民族運動の流れとの関連に十分注目して、大戦中から五・四運動期の民族運動の歴史的様相・性格を論ずる試みは乏しかったといってよい。また、当時の民国北京政府の役割も、従来の研究においては本格的に論じられてこなかった。本論文は、そのような研究史に対する批判的視座に立って、第一次世界大戦期から大戦直後の中国民族運動を、東アジア国際関係の中に位置づけつつ、国民国家建設という側面に焦点をあてて検討することを試みた論文である。

本論文は、「はじめに」、第1章から第7章までの本論、「おわりに」、参考文献、とから成り、注を含めて、400字詰め原稿用紙に換算して約1100枚である。以下まず本論文の内容を紹介する。

「はじめに」において、筆者は本論文のテーマ設定の理由として以下の三点をあげる。第一は、第一次世界大戦が、東アジア世界、すなわち東アジア国際関係と、中国、日本、朝鮮の社会、民族、国民に何をもたらしたかという問題関心である。第二は、中国近代史にとって第一次世界大戦期とは何であったかという問題関心である。第一次世界大戦によって中国をめぐる帝国主義列強の関係が大きく変化しただけでなく、中国自体が参戦し戦勝国の一角を占めたことは、中国が不平等条約体制から脱却するための第一歩となったが、この時期の中国民族運動の展開を史料に基づいて整理、叙述することが、筆者の研究課題として提示される。さらに第三は、大戦によるヨーロッパ帝国主義の中国支配の間隙に乗じて中国侵略政策を拡大しようとした日本において、中国民族運動の前にその企図が挫折したことの意味が、どれほど自覚されたかという問いである。この内、第二の問題意識から発する課題が本論文の中心的対象となる。

第1章「二十一ヵ条反対運動」では、最初に日本政府による二十一ヵ条作成過程が紹介され、とりわけ政府顧問傭聘の要求が韓国併合の前段階を想起させるという点が強調されている。本章の中心部分である二十一ヵ条要求反対運動については、その前提として山東侵略反対運動が位置づけられた後、各省の商務総会、教育会、実業団体、海外華僑団体、留学生団体による反対運動の開始が紹介され、さらにそれが拡大して、上海で大規模な国民大会がもたれ、日貨ボイコット運動が広がっていく様相や、在米華僑の間でも運動が盛り上がっていった様相が分析される。中国政府は、こうした反対運動の盛り上がりと、イギリスやアメリカの二十一ヵ条要求への批判的態度を認識しえたことから、対日対応を強硬化させていった。そのような状況に直面した日本政府は最も問題となっていた第五号を撤回した上で、受諾を迫る最後通牒を出すが、それに対して救国儲金運動が官民一体の形で拡大していった様相が詳述される。さらに各地で出された檄文に着目し、そこに辛亥革命の成果としての国民主権意識の浸透という事態を見出している。

第2章「北京政府とシベリア出兵」はロシア革命干渉戦争への中国の関与が扱われる。まず、日中軍事協定を利用してセミョーノフ軍を全面支援しようとした日本側と対照的に、中国側がそれに加担しようとしなかった状況が描かれ、それは、現地地方軍が、北京政府の指示・命令を仰ぎつつ日本軍の北満洲侵入に抵抗しようとしていたことの表れであったとして、北京政府が中央政府としての指導力をもっていたことがそれによって示された、と論じられる。こうした日中間の疎隔は、当時の中国国民の反日・排日感情の高まりと連動しつつ、日本の支援を得て大モンゴル建国運動を展開しようとしたセミョーノフの動きをめぐってさらに拡大する。また日本軍の朝鮮民族運動弾圧策に対しても、北京政府や吉林軍・奉天軍は消極的協力しか行わなかったり、サボタージュをしたりした。このような経緯の末、日中軍事協定は破棄されるに至るが、その過程に、筆者は、アメリカを中心とする欧米列強の外交政策に協調する形で、日本の侵略政策を牽制しようとした北京政府の主体性を見出している。

第2章で触れられた国民の反日感情の姿は、第3章「日中軍事協定反対運動」でさらに検討される。ここではまず協定締結交渉の過程における新聞による報道状況の推移が述べられた後、西南派軍閥、全国商工連合会などの反対運動、留日学生の帰国の動きが紹介され、そうした動きによって協定の締結が日本側の予想をこえて遅延することになり、運動の圧力のもとで中国側代表が協定の有効期間や作戦区域の限定を日本側に譲歩させることになったと指摘される。同時に、北京政府がこの協定調印によって日本から西原借款や武器供給を継続して引き出すことに成功したとして、ここでも、北京政府の駆け引きの巧妙さが強調されている。一方、協定締結後各地を回って反日民族意識の啓蒙活動を行った留日学生救国団の学生たちの活動の中に、1年後の五・四運動に継承される動きを見出していることも重要である。さらに、筆者は軍事協定によって成立した日中関係を「軍事関係」と呼び、協定締結阻止には失敗した反対運動が、「軍事関係」に基づく北京政府の諸政策、とりわけ段祺瑞内閣の武力統一政策に対抗し、和平統一をめざすものとして継続していった点を重視する。

続く第4章「日中軍事協定と北京政府の「外蒙古自治取消」」では、この「軍事関係」が北京政府の外蒙古政策との関連で検討される。日中軍事協定で「蒙疆」一帯が中国の分担地域とされたことによって、北京政府をはじめ外蒙に関わる中国の勢力は、総体として外蒙における中国権益の拡大に向けた活動を活発化させていった。筆者はその動きを三つの時期に分けて論じている。この動きは、日本軍を背後に有するセミョーノフの策動などによる汎モンゴル国運動の抵抗を受けるかにみえたが、日本政府によるセミョーノフ援助の中止によって汎モンゴル国運動は急激に衰退していく。筆者はさらに、外蒙における中国の活動の社会・経済面を紹介した後、五・四運動によって「軍事関係」の動揺が決定的になる中で、徐樹錚によって安徽派の再興をかけた「外蒙自治取消」が行われた事情を説明する。しかし、安直戦争の結果、安徽派が敗北したことによって「軍事関係」は崩壊し、それに伴って中国による外蒙支配も終焉を迎えることになる。

第5章「パリ講和会議と山東主権回収運動」では、日本の中国政策の転換とアメリカの中国政策積極化によって促された徐世昌政権の成立事情が述べられた後、同政権誕生と欧州大戦の終結という情勢が重なる中で南北和平運動が急速に進展した模様が、徐政権との関連が深かった和平期成会と全国和平連合会を対象として紹介される。パリ講和会議で行われた山東主権回収運動が、このような国内の和平運動と共振しつつ展開されたことを筆者は強調し、全体として徐世昌率いる北京政府の役割を重視する議論を展開している。筆者はさらに、パリ講和会議への代表決定の過程、講和会議初期における山東問題討議での中国代表の成功、それにもかかわらず徐政権を日本が取り込んでいるとの錯覚を抱いたまま北京政府に圧力をかけようとした「小幡事件」、その事件がきっかけとなって実現した南北和平会議について検討し、これらの流れの中で、五・四運動爆発の政治環境が作られ、運動主体が準備されていったと論じる。

それに続く時期は、北京を対象とした第6章と上海を対象とした第7章で扱われる。第6章「パリ講和会議に対する五・四運動の展開」では、まず1919年4月20日の山東国民請願大会に示されたパリ講和会議に向けた山東省民の運動の重要性が指摘された後、五・四運動の発端となった北京の学生運動(五・四事件)の様相が描かれる。そこでは、親日派「売国三官僚」への「制裁」がナショナリズム発揚にとって大きな比重を占めていたことが、強調される。その際、筆者は日本を背後にした安徽派が徐世昌政権の動揺に乗じて巻き返しをはかったことに注目し、それが五・四事件を五・四運動に展開させた要因であったと指摘している。日本の圧力が強まる中で、徐世昌政権も親日路線への傾斜を始めたが、民衆運動の爆発によって安徽派の巻き返しは阻止されることになった。本章での議論に基づき、筆者は五・四運動の性格について「反北京政府・反帝国主義一般ではなく、反日、反段祺瑞・安徽派の民族運動」であったと結論づけている。

第7章「中国民族運動の基本構造―上海の日貨ボイコット運動を事例に」は、上海に主として焦点を絞り、五・四運動時からその後にかけての経済面での民族運動を検討する。特に、日貨排斥運動に比べて軽視されがちであった国貨提唱運動の様相が詳しく分析されていることは貴重である。国貨提唱運動の中では、民族工場や銀行の設立、生産技術の改良などが取り組まれたし、労働者教育にも力点が置かれた。本章の後半では、時系列にそって、最初は自然発生的に噴出した民族運動が組織化されていった経緯がまとめられる。筆者はこれによって、「国民意識」の形成が進み、国民革命の経済的基盤の準備がなされたと評価している。

最後に「おわりに」において、筆者は本論文で明らかにした点をまとめた上で、本論文での議論の延長上に、ワシントン体制下における中国の国民国家建設の様相を探っていくことを、今後の課題として提示している。その際、ワシントン体制が国民国家としての中華民国の建設を保障する平和的な国際環境を与えたものとして評価していることは、注目に値する。

このような内容をもつ本論文は、二十一ヵ条反対運動、日中軍事協定反対運動、パリ講和会議に対する山東主権回収運動について、詳細な分析を行うことにより、中国民族運動の中での五・四運動の位置を明らかにする(筆者はそれを、「五・四運動を第一次世界大戦期の中国民族運動に位置づけて、歴史事実の等身大に叙述する」と表現している)ことに成功している。とりわけ、二十一ヵ条反対運動の構造と広がりが豊富な一次史料に基づいて検討され、中国民族運動の思想、方法、担い手などがこの運動の中で出揃ったこと、そうした基盤の上に第一次世界大戦末期から直後にかけての民族運動が展開されていったことを立証した研究史的意味は大きい。

また、民族運動との関係に留意しつつ、北京政府の役割について具体的な歴史像を描いたことも高く評価できる。かつての中国共産党史を軸とする近現代中国史像のもとでは、北京政府はもっぱら反動的な軍閥政府として描かれた。そうした北京政府像は、近年の中国史研究の新たな流れによって修正されてきているが、本論文は、北京政府を中国国民国家建設の過程の中に積極的に位置づけつつ、北京政府と反日民族運動の間が敵対的なものでなかったことを説得的に立証している。

さらに、第一次世界大戦が中国民族運動に及ぼした影響については、ロシア革命の直接的な思想的・政治的影響という面を相対化しつつ、シベリア出兵をめぐる中国内部の政治動態を描いている点が、重要である。ロシア革命を生んだ第一次世界大戦がもたらした東アジアの政治変動の中での中国民族運動の展開という歴史像が巧みに提示されている。

このように、本論文は、この分野における従来の研究水準を引き上げる業績であるといってよい。ただし、本論文には不十分な点もいくつか存在する。

本論文では、辛亥革命後の中国の国民国家建設という方向性を強調しつつ、民族運動もそれとの関連で評価しようとしているが、国民国家形成の過程における民族運動の位置づけは、必ずしも明確に論じられていない。また、国民意識の広がりが指摘されてはいても、それが具体的に立証されていないというきらいがある。

また、国際関係と民族運動との関連を論じるという本論文のねらいはきわめて貴重であり、上述のようにそのねらいはある程度達成されているものの、国際関係と民族運動の間の双方向の関係を全体として十分に論じるには至っていない。

さらに、北京政府について詳細で説得的な分析が行われている反面、広東政府の問題がほとんど論じられていないことは、本論文の一つの限界である。

これらの問題は存在するものの、それは本論文の価値を損なうものではなく、論文審査の結果として、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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