学位論文要旨



No 217112
著者(漢字) 吉川,豊
著者(英字)
著者(カナ) ヨシカワ,ユタカ
標題(和) 超放射ラマン散乱を用いた光と物質波のコヒーレント制御
標題(洋) Coherent Manipulation of Light and Matter Waves with Superradiant Raman Scattering
報告番号 217112
報告番号 乙17112
学位授与日 2009.02.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第17112号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久我,隆弘
 東京大学 教授 清水,明
 東京大学 教授 山崎,泰規
 東京大学 准教授 井上,慎
 電気通信大学レーザー新世代研究センター 准教授 中川,賢一
内容要旨 要旨を表示する

本研究では,レーザー冷却及びトラップ技術により冷却された極低温原子気体を用いて,レーザー光の非共鳴ラマン散乱過程における超放射(SuperradiantRaman scattering:SRAMS)に関する実験的研究を行った.ま た,この現象を原子波及び光のコヒーレント制御に応用した.

超放射とは,R.H.Dickeが1954年に提唱した多粒子系における集団的な緩和現象の総称で,現在まで主に原子分子系からの自然放出過程において実験が進められてきた.本研究の主題であるSRAMSは,この従来までの超放射と異なり,励起光(Pump光)を照射している間しか系が時間発展しない.そのため,この制御性を用いることで,原子集団のコヒーレンス時間測定やコヒーレンス-光間の任意変換など,様々な応用が可能となる.

図1は気体原子ボース凝縮体(BEC)を用いたSRAMSの実験概要図である.図1(a)-(b)にあるように,初期状態|1〉≡|5S1/2;F=2,mF=2〉にいる葉巻状の形をした87RbのBECはπ偏光のPump光によって状態|3〉≡|5P1/2;F=2,mF=2〉へ(非共鳴的に)励起され,状態|2〉≡ |5S1/2;F=1,mF=1〉ヘラマン散乱を起こす.このとき,ある閾値以上のPump光強度ではSRAMSが誘起され,ラマン散乱光がBECの長軸方向にのみ強く放出される(この放射モードはend-fire mode:EFMと呼ばれる).その結果,図1(b)のように光を散乱した原子はPump光に対して斜め45度方向に反跳運動量を受け取り,図1(c)-(d)に示したような原子集団の吸収イメージ上で離散的なピークとして観測される.SRAMSでは一度光を散乱した原子は状態|2〉に遷移してPump光との相互作用が切り離されるため,それ以降はPump光を散乱することがない.このため,SRAMSは多重散乱などの問題がある従来の超放射と比べて非常にクリーンな系となっている.

物理的なSRAMSの起源はEFMへの光散乱に関する原子の不可別性である.すなわち,どの原子が光を散乱したのか「原理的に」区別できないことから,媒質中の個々の原子間に長距離コヒーレンスが生じEFMへの光散乱が増強される.そのため,SRAMSはサンプルがBECでなくとも起こりえる.非凝縮原子の温度をTとすると一般にPump光の閾値強度は√Tに比例する.これは状態|1〉-|2〉間のデコヒーレンスレートが原子集団の最確速度v0∝√Tで決まり,これに打ち勝つために必要なPump光強度が変わるためである.図2にSRAMSによるポンプープローブ分光法によって測定された原子集団のコヒーレンス時間(デコヒーレンスレートの逆数)の温度依存性を示す.黒丸で示したデータが非凝縮成分に対する測定値で,理論通り温度の下降に伴ってコヒーレンス時間が徐々に長くなっていく様子が分かる.一方で白丸で示したデータがBEC成分に対する測定値で,相転移温度Tc以下では非凝縮成分のそれよりもはるかに長寿命な集団コヒーレンスがBEC中に生成・保存されていることを示している.これはBECがSRAMSの本質ではないものの,Pump光の閾値強度が劇的に下がるということを意味している.

BECが持つ長いコヒーレンス時間は,量子情報処理の分野で重要となる光-原子コヒーレンス間の量子媒体変換を行う上で非常に有利である.本研究ではこの応用の一例として,双方向性SRAMSを用いた集団コヒーレンスの多モード保存・読み出しの原理検証実験を行った.図3(a)-(b)に実験の概要図を示す.まず先程と同様に,状態|1〉にいるBECにWrite光と呼ばれる非共鳴光を照射し,状態|2〉へのanti-Stokes SRAMSを誘起する.このときEFMへのラマン散乱光を光電子増倍管で検出すると指数関数的に立ち上がる超放射特有のパルス波形が観測できる[図3(c)-(e)].この超放射の途中でWrite光を切ると,状態|1〉-2〉間に反跳運動量の波数ベクトルを持つ集団コヒーレンスが生成・保存される.次に,Write光と対向する別の非共鳴光(Read光)を照射すると,内部状態を|2〉→|4〉≡ |5P1/2;|F=1,mF=1〉→|1〉と経由するStokes SRAMSにより,この集団コヒーレンスが位相共役光に変換される[図3(c)].一方,図3(d)のようにRead光とWrite光が非対向の場合には,StokesSRAMSの位相整合条件が満たされないため変換が起こらない.その ため,対向したWhte光とRead光のペアを複数用いることで,一つのBEC中に複数の異なるモードの(異なる波数ベクトルを持つ)集団コヒーレンスを生成し,且つ,それらを独立に光に変換することが可能になる[図3(e)].

本研究ではWrite光による散乱光子数は104程度と古典的な領域で実験を行っていた.しかし,Write光の強度をSRAMSの閾値以下まで下げることで容易に散乱光子数を一光子レベルにまで下げることができる.これによって単一光子の多重生成や保存した量子状態の演算など量子情報処理分野における様々な応用が可能となる.

図1:(a)87Rb原子のエネルギー準位図,(b)気体原子ボース凝縮体(BEC)における超放射ラマン散乱の概略図,及び,(c)-(d)超放射ラマン散乱後の状態|1〉及び|2〉の原子集団の吸収イメージ(原子集団の運動量分布を表す).

図2:コヒーレンス時間の原子温度依存性.黒丸は非凝縮成分,白丸はBEC成分に対する測定値を表す.実線は原子集団の最確速度で決まるコヒーレンス時間の理論曲線.点線はボース凝縮の転移温度Tcを表す.

図3:(a)集団コヒーレンスの多重保存に用いる実験配置.PBS,QW,PMTはそれぞれ偏光ビームスプリッタ,1/4波長板,光電子増倍管を表す.(b)実験に使用するエネルギー準位.(c)-(e)光電子増倍管で検出されたラマン散乱光の時間波形.点線はWrite光及びRead光の照射タイミングを表す.

審査要旨 要旨を表示する

レーザー技術の発展は、気体原子を100万分の1ケルビン以下の極低温にまで冷却することを可能にした。このような極低温の原子は、波動性が顕著に現れるため原子波(物質波)とも呼ばれる。また近年では物質波をさらに冷却して量子縮退させる技術も確立し、物質波を用いた基礎学問領域から応用技術領域にわたる広範な研究が盛んに行われている。その中で吉川氏は超放射ラマン散乱過程に着目し、物質波の内部状態および外部(運動量)状態をレーザー光によりコヒーレントに制御する実験的研究を行った。

超放射とは、多数の発光体から放出される光がどの発光体から放出されたものかを区別できないことに起因する協同現象として理解されている。たとえば、個々の発光体が独立に光を放射する通常の等方的な発光に対し、超放射は発光体の空間分布形状に依存する非等方的なものとなる。また発光強度も、通常発光では発光体の数に比例した強度から次第に減衰していくのに対し、超放射では発光体数の二乗に比例するピーク強度をもつ速やかに減衰するものとなる。

なかでも超放射ラマン散乱は、入射させるレーザー光の周波数、偏光等により、散乱過程の中断、再開、反転等を行うことができる。これは、関与する気体原子の内部状態、外部状態をレーザー光により自在に操ることが可能であるということであり、量子情報処理をはじめとした様々な研究分野への応用が期待されている。

このような点に着目した吉川氏は、冷却された原子集団、およびさらに冷却して量子縮退領域、ボース・アインシュタイン凝縮した原子集団を用いて、超放射ラマン散乱による物質波のコヒーレント制御ついての詳しい実験的研究を行った。

まず、超放射ラマン散乱現象の物理学的な起源を探るために、ボース・アインシュタイン凝縮体と凝縮していない冷却原子集団において系統的な実験、および比較を行った。その結果、超放射現象は量子凝縮相に特有の現象ではなく、冷却原子集団でも起こることを確認した。さらに理論的な考察から、超放射ラマン散乱現象は励起光と散乱光によって原子集団内に書き込まれるコヒーレンスグレーティングにより説明できることを示し、シミュレーションにより実験結果を再現した。

このように、超放射により冷却原子集団内にはコヒーレンスグレーティングができ上がる。そしてグレーティングの寿命は発光体が集団内で移動する速さで決まる。したがって十分に冷却した発光体、特にボース・アインシュタイン凝縮体ではこのグレーティングは長持ちする。この長寿命な点と、超放射ラマン散乱過程は人為的な制御が可能であることに着目した吉川氏は、この原子集団内に光のもつ情報を貯蔵し再生ができるのではないか、すなわち量子メモリーとして利用できるのではないかという発想に至った。そして、実際に光のもっ情報の書き込みと読み出しに成功した。さらにこの手法では、一つの原子集団内に複数個の情報を記録することも原理的には可能であることを予想した。そして吉川氏は、実際に二種類の情報を貯蔵・再生できることも確認した。学術的にも今後の応用に向けても大変価値の高い研究成果である。

論文は、第一章から第三章までが研究の背景や超放射、ボース・アインシュタイン凝縮の理論的な枠組み、第四章から第六章までが実験についての詳細な解説にあてられており、そして第七章がまとめである。いずれの章も必要な事柄が詳しくかっ分かりやすく記述されており、学位申請論文として十分なものと考えられる。

また、本申請論文の第四章から第六章で記述された光と物質波のコヒーレント制御についての研究成果は、既に物理学の専門雑誌に公表されている。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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