学位論文要旨



No 217119
著者(漢字) 阪谷,美樹
著者(英字)
著者(カナ) サカタニ,ミキ
標題(和) 牛体外受精胚の高温条件下における胚損耗機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 217119
報告番号 乙17119
学位授与日 2009.03.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第17119号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 眞鍋,昇
 東京大学 准教授 今川,和彦
 東京大学 准教授 桑原,正貴
内容要旨 要旨を表示する

地球温暖化に伴う夏季の高温環境は家畜における生産性を著しく低下させ安定的な畜産物生産を妨げることから、現在、畜産分野において重要な問題の一つとなっている。生産性低下の一因となっているのが、高温下での受胎率の低下であり、乳用牛では人工授精成績が夏季に劇的に低下するなど特に深刻である。これらの問題には受精が不成立である可能性と受精後の胚の早期死滅が考えられている。特に受精後の早期胚死滅は発情間隔の延長による空胎期間の延長を引き起こすなど、経済的に与える影響も大きいために、高温条件下の初期胚発生が受ける影響とそのメカニズムを解明することは極めて有意義であるが、これまで生体由来胚を使ってその損耗メカニズムを明らかにすることは非常に困難であった。体外培養技術は大量の胚を培養することが可能であり、さらに個々の発生ステージの胚における発生機構を解明する上で非常に有用な手法である。また人為的に培養温度や気相といった培養環境を変更することにより、胚発生における各種ストレスの影響を検討することが可能である。そこで、本研究では夏季における牛特に乳用牛の受胎率低下原因を明らかにし、さらにその対策技術を開発していく上での基礎的な知見を得るために受精後の胚に着目し、体外受精胚を用いて高温培養条件が胚の死滅並びに発生停止の機構に及ぼす影響を解明することを目的とした。

1.高温条件が体外受精胚の発生に及ぼす影響

高温環境に曝された胚が発生のどの段階で影響を受けるかを、体外培養胚を用いて検討した。培養温度並びに高温に曝す胚のステージを変化させ、高温条件が胚盤胞発生率並びに胚盤胞細胞数に与える影響を評価した。38.5℃で発生培養を行った胚を対照区として処理区との比較検討を行った。1)発生培養開始0, 2, 4, 6日目 (Day0, 2, 4, 6)に胚を42℃の温度条件に移し、8日目まで培養を行った場合、胚盤胞発生率はDay0, 2, 4胚は0%、D6胚においても2.5%で、対照区の22.4%と比較し有意に低く、42℃の条件はすべての発生ステージの胚に致死的であることが明らかとなった。2) 発生培養(8日間)を通じて体内条件に近い40℃で培養した胚の発生率は11.0%であり、対照区の37.5%と比較し有意に低く、40℃で培養した胚の多くは8細胞期以下で発生が停止していることが明らかとなった。3) 胚発生のステージと高温培養条件の関係を明らかにするために、発生培養開始0, 2, 4, 6日目 (Day0, 2, 4, 6)に41℃ 6時間の高温処理を行い、その後は38.5℃にて培養を行った。8日目に胚盤胞に達した胚については核染色を行い、細胞数測定を行ったところ、Day0, 2区では胚盤胞発生率が18.8%、23.6%と対照区(37.5%)と比較して有意に低く、胚盤胞細胞数(107.5、118.1)も対照区(143.2)と比較し有意に低かった。Day4, 6区の発生率はそれぞれ40.0%, 38.1%であり、対照区との間に細胞数も含めて差は認められなかった。以上より、高温に対する感受性が高い胚ステージは8細胞期胚までであり、それ以降の発生の進んだ胚では生理的な温度範囲であれば耐暑性を獲得していることが示唆された。

2.高温培養条件と細胞内酸化還元状態の関係

次に高温に対する細胞及び胚の感受性と酸化還元状態を評価し、高温処理と酸化ストレスの関係について検討した。発生培養開始0, 2, 4, 6日目 (Day0, 2, 4, 6)に41℃ 6時間の高温処理直後に10nM 2',7'-dichlorodifluorescein diacetateにて染色し、細胞内活性酸素を緑色蛍光輝度により検出した。また、Day2, 4, 6胚について41℃ 6時間の高温処理直後に10nM CellTracker Blueを用いた青色蛍光による還元型グルタチオンの検出と酵素リサイクリング法による総グルタチオン量の評価を行った。高温に対する感受性の高いDay0, 2胚は、胚内活性酸素も対照区と比較し有意に高い(p<0.05)輝度を示したが、Day4, 6胚の蛍光輝度は対照区と差は認められなかった。また還元型グルタチオン並びに総グルタチオン量はすべての区において差は認められなかった。以上のことから、胚の発生阻害が生じるステージと活性酸素が増加するステージが一致したことから、初期胚における高温処理による発生阻害は、活性酸素類に由来する酸化ストレスによるものである可能性が示唆された。

3.還元物質の添加による高温処理下での酸化ストレス、胚発生能の改善効果

高温条件下の初期胚発生阻害が酸化ストレスに起因することを明らかにするために、抗酸化物質を培養液に添加し胚の高温処理後の胚発生を検討した。

紫イモ由来ポリフェノールであるアントシアニンを0.1, 1, 10 μg/ml 培養液に添加し、高温に対する感受性が高い8細胞期胚に41.5 ℃ 6時間の高温処理を行った胚では、すべての区において活性酸素の発現量が未添加胚と比較し有意に抑制されたが、グルタチオン量に有意差は認められなかった。また0.1 μg/ml添加区での胚盤胞発生率28.7%は、未添加区の12.2%と比較し有意に高い値を示したが、1, 10 μg/mlでは17.1%, 18.8%となり有意差は認められなかった。

還元剤であるβ-メルカプトエタノールを10, 50 μMで培養液に添加し、8細胞期胚に41℃ 6時間の高温処理を行った胚は活性酸素の発現が未添加胚と比較し有意に抑制され、細胞内の還元型並びに総グルタチオン量は濃度依存的に増加した。さらに10μM添加区での胚盤胞発生率46.1%は、未添加区25.9%と比較し有意に高い値を示したが、50μM添加区は34.9%であり有意差は認められなかった。

すなわち抗酸化物質の投与により細胞内活性酸素発現が抑制されることによって高温処理後の胚盤胞発生率が改善したことから、高温処理に伴う胚の障害は、活性酸素類の増加に起因する酸化ストレスが原因であることが明らかとなった。また、発生環境の抗酸化力を高めることで高温環境下での胚の発生を促進できることが明らかとなったが、高濃度の抗酸化物質の添加は細胞毒性を示し、胚発生を抑制する可能性が示唆された。

4.高温処理が体外培養胚の抗酸化遺伝子およびタンパク質発現に与える影響

細胞内の活性酸素の増加に伴う酸化ストレスが高温による胚損耗要因の一つであることが明らかとなったことから、活性酸素が増加する要因を検討するために、ストレスタンパク質並びに抗酸化能の遺伝子発現とタンパク質発現を定量的に測定した。

8細胞期に41℃ 6時間の高温処理を行った体外培養胚を用い、高温処理終了直後にmRNAを抽出し、遺伝子発現を38.5℃で培養した対照区胚と比較した。また高温処理終了3時間後と18時間後のウェスタンブロテッィング法によるタンパク質発現量を、対照区胚と比較検討した。

ストレスタンパク質HSP70は、遺伝子発現並びに高温処理終了後18時間でのタンパク質発現が対照区と比較し有意に増加した。しかしながら、高温処理終了後3時間のタンパク質発現は増加していないことから、高温に対する胚のタンパク質発現応答に一定の時間がかかることが明らかとなった。一方、抗酸化関連酵素であるCuZn-SOD並びにCatalaseに関しては高温処理後の遺伝子発現に増加傾向が認められたものの、タンパク質の発現量には3, 18時間後どちらにおいても対照区との差は認められなかった。この結果は、高温処理を受けた胚では抗酸化関連酵素の絶対量が少ない可能性を示唆している。すなわち、高温により障害を受けたタンパク質を修復する機能は有しているものの、不十分な抗酸化機能によって、活性酸素の除去が正常に行われず、残存した活性酸素がDNA損傷をもたらし、胚発生が阻害される可能性が示唆された。

5.総括

本研究で得られた結果は、高温環境下における牛胚の発育を促進し受胎率向上を目指すためのいくつかの可能性を示唆している。第一に、培養液に抗酸化物質を添加することで高温処理胚の還元力が増強され胚盤胞発生率が改善されたことから、生体においても母体の子宮内還元力を高めることで高温環境下における胚の生存性を上昇させ、受胎率の向上を実現できる可能性を示唆している。

また、培養4日目以降の胚では生理的な体温範囲である高温下であれば発生への影響がないことから、高温環境下における受精卵移植技術応用の制約を低減しうることが示唆される。受精移植に供する培養7~8日目の胚盤胞期胚では耐暑性を有していることが予測され、このステージでの受精卵移植では受胎する可能性が高いと考えられる。さらに、培養液への抗酸化物質の添加により胚の還元力が増強されたことから、この技術を受精卵移植胚に応用することにより移植後に牛が高温環境に曝されても高温障害を受けにくい受精卵の作製に向けでの方策が可能になったものと思われる。

一方、高温に感受性が高い初期発生胚にタンパク質修復を司るHSP70や抗酸化関連酵素を過剰発現させることにより、活性酸素除去能が維持され高温環境下においても胚の損耗を防止する可能性も示唆される。

以上を要するに、本研究で明らかになった知見は、地球温暖化に伴う夏季高温環境による家畜の受胎性低下を予防し、引いては家畜生産性向上と食料資源確保に向けた技術の向上を高める上で極めて重要な基礎資料を提供するものであると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

地球温暖化に伴う夏季の高温環境は家畜における生産性を著しく低下させ、安定的な畜産物生産を妨げる要因になっている。特に受精後の早期胚死滅は発情間隔の延長による空胎期間の延長を引き起こすなど、経済的に与える影響も大きいために、高温条件下の初期胚発生が受ける影響とそのメカニズムを解明することは極めて有意義である。本研究は、夏季における乳用牛の受胎率低下原因を明らかにし、さらにその対策技術を開発していく上での基礎的な知見を得るために受精後の胚に着目し、体外受精胚を用いて高温培養条件が胚の死滅並びに発生停止の機構に及ぼす影響を解明する目的として行われたものである。

1.高温条件が体外受精胚の発生に及ぼす影響

高温環境に曝された胚が発生のどの段階で影響を受けるかを、体外培養胚を用いて検討した。38.5℃で発生培養を行った胚を対照区として高温処理区との比較を行った。その結果、1)発生培養開始0, 2, 4, 6日目 (Day0, 2, 4, 6)のいずれの段階においても 42℃の条件は胚に致死的であることが明らかとなった。2) 発生培養(8日間)を通じて体内条件に近い40℃で培養した胚の発生率は11.0%であり、対照区の37.5%と比較し有意に低く、40℃で培養した胚の多くは8細胞期以下で発生が停止していることが明らかとなった。3) 胚発生のステージと高温培養条件の関係を明らかにするために、発生培養開始0, 2, 4, 6日目 (Day0, 2, 4, 6)に41℃ 6時間の高温処理を行い、その後は38.5℃にて培養を行った。細胞数測定を行ったところ、Day0, 2区では胚盤胞発生率が18.8%、23.6%と対照区(37.5%)と比較して有意に低く、胚盤胞細胞数(107.5、118.1)も対照区(143.2)と比較し有意に低かった。Day4, 6区の発生率はそれぞれ40%, 38.1%であり、対照区との間に細胞数も含めて差は認められなかった。以上より、高温に対する感受性が高い胚ステージは8細胞期胚までであり、それ以降の発生の進んだ胚では生理的な温度範囲であれば、耐暑性を獲得していることが示唆された。

2.高温培養条件と細胞内酸化還元状態の関係

次に胚発生の各段階における高温処理と酸化ストレスの関係について検討した。発生培養開始0, 2, 4, 6日目 (Day0, 2, 4, 6)に41℃ 6時間の高温処理直後の還元型グルタチオンの測定と酵素リサイクリング法による総グルタチオン量の評価を行った。高温に対する感受性の高いDay0, 2胚は、胚内活性酸素も対照区と比較し有意に高いことが示された。以上のことから、胚の発生障害が生じるステージと活性酸素が増加するステージが一致したことから、初期胚における高温処理による発生阻害は、活性酸素類に由来する酸化ストレスによるものである可能性が示唆された。

3.還元物質の添加による高温処理下での酸化ストレス、胚発生能の改善効果

高温条件下の初期胚発生阻害が酸化ストレスに起因することを明らかにするために、抗酸化物質(アントシアニンおよびβ-メルカプトエタノール)を培養液に添加し胚の高温処理後の胚発生を検討した。その結果、これらの抗酸化物質の投与により細胞内活性酸素発現が抑制され、高温処理後の胚盤胞発生率が改善したことから、高温処理に伴う胚の障害は活性酸素類の増加に起因する酸化ストレスが原因であることが明らかとなった。

4.高温処理が体外培養胚の抗酸化遺伝子およびタンパク質発現に与える影響

高温負荷により胚での活性酸素が増加する要因を検討するために、ストレスタンパク質(HSP70)並びに抗酸化遺伝子発現とタンパク質発現を調べた。HSP70は、遺伝子発現並びに高温処理終了後18時間でのタンパク質発現が対照区と比較し有意に増加した。しかしながら、高温処理終了後3時間のタンパク質発現は増加していないことから、高温に対する胚のタンパク質発現応答に一定の時間を要することが明らかとなった。一方、抗酸化関連酵素であるCuZn-SOD並びにCatalaseに関しては高温処理後の遺伝子発現に増加傾向が認められたものの、タンパク質の発現量には3, 18時間後どちらにおいても対照区との差は認められなかった。これらの結果は、高温処理を受けた胚では抗酸化関連酵素の絶対量が少ない可能性を示唆している。すなわち、高温により障害を受けたタンパク質を修復する機能は有しているものの、不十分な抗酸化機能によって、活性酸素の除去が正常に行われず、残存した活性酸素がDNA損傷をもたらし、胚発生が阻害される可能性が示唆された。

以上を要するに、本研究は、乳牛の体外受精胚の高温ストレスによる発生障害の機序を解明したものであり、地球温暖化に伴う家畜の受胎性低下を予防し、引いては家畜生産性向上と食料資源確保に向けた技術の向上を高める上できわめて有益な知見を提供するものであり、学術上、応用上寄与する面が少なくない。よって審査委員一同は本論文が学位(獣医学)を授与するにふさわしいものと認めた。

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