学位論文要旨



No 217120
著者(漢字) 新井,鐘蔵
著者(英字)
著者(カナ) アライ,ショウゾウ
標題(和) 牛の脳幹機能解析による牛海綿状脳症の臨床診断に関する研究
標題(洋)
報告番号 217120
報告番号 乙17120
学位授与日 2009.03.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第17120号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 明石,博臣
 東京大学 教授 熊谷,進
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 局,博一
内容要旨 要旨を表示する

牛海綿状脳症(BSE)は、異常プリオン蛋白質(PrPSc)の伝達によって生じる牛の致死性の神経変性疾患である。現在、BSEの確定診断は死後の脳材料を用いたPrPScの検出によって実施されている。BSEにおけるPrPScの蓄積は脳幹や脊髄などの特定部位に局在しており、これらの部位を牛が生きたまま採取して診断に用いることは極めて困難なことから、これまでのところ有効なBSEの生前診断技術は確立されていない。このため、農場段階でBSEの可能性を簡便に非侵襲的に絞り込むことができる生前検査法の開発が行政や生産・獣医療現場で切望されている。BSE罹患牛では脳幹において特徴的な病変形成が見られることから、脳幹機能を評価する診断手法として牛の聴性脳幹誘発電位(BAEP)測定法を開発し、BSE罹患牛の脳幹機能障害の特徴を評価することができれば、神経症状を示している牛についてBSEの疑いがあるか否かを絞り込む有用な臨床診断法となる可能性がある。本研究では、牛を立たせたまま安全に牛の脳幹機能検査を実施することが可能な牛のBAEP測定法を開発し、BAEPを用いてBSE罹患牛の脳幹機能障害の特徴を解析することでBSE臨床診断の可能性について検討した。

第1章 第1項では、牛への鎮静剤(キシラジン)の投与がBAEPの波形形状、潜時、波間潜時、測定時間、波形のアーティファクト除去回数及び臨床所見におよぼす影響について検討した。鎮静処置群では反芻(咀嚼運動)が停止し、体動も少なく安静な立位の状態が保てBAEP測定は安定的に実施できた。一方、無鎮静処置群では反芻や体動が頻繁に見られ、ノイズ混入によりBAEP波形の基線が不安定化し、安定した測定が困難であった。鎮静処置群と無鎮静処置群においてBAEPの潜時と波間潜時は、どの刺激音圧の強度でも有意な差は認められなかった。牛では鎮静剤の投与によるBAEPの測定数値(潜時、波間潜時)への影響が認められず、牛の体動や反芻を抑制できるため無鎮静処置に比べてBAEP導出波形の解析感度が改善されることから、BAEP測定時に牛へ鎮静剤を投与することは臨床的に有用であると考えられた。以上のように、本項において、鎮静剤を効果的に用いることで牛を立たせたまま安定的にBAEPを測定できる手法を開発した。

第1章 第2項では、第1項で開発した手法を用いて健康な黒毛和種成牛におけるBAEP測定法と正常値について検討するとともに、ホルスタイン種と黒毛和種でBAEPの波形形状、潜時及び波間潜時等に品種間差が認められるかどうか比較検討した。ホルスタイン種及び黒毛和種ともに全ての牛のBAEP波形において、I、II、III、Vの明瞭な4つの主要な陽性波が認められ、IV波は両群ともに全ての牛で欠損していた。BAEP波形の出現閾値は、ホルスタイン種では65-75 dBnHLで黒毛和種では75-85 dBnHLと両品種で異なっていた。黒毛和種のI-III及びI-V波間潜時(IPL)はホルスタイン種に比べ有意(P<0.05)に短かった。以上のように、牛ではホルスタイン種と黒毛和種の間で、BAEP波形の出現閾値や波間潜時に品種間差が認められることから、牛におけるBAEPの臨床検査にあたっては、品種間差を留意して測定を実施することが必要であると考えられた。本章で開発した牛のBAEP測定法は、測定数値の再現性も良好で牛を立たせたままで非侵襲的に牛の脳幹機能検査を実施することが可能である。鎮静剤の効果的な使用により牛の体動も制御できることから、様々な神経症状を示す牛についても脳幹機能検査を安全に実施することが可能な臨床検査法であると考えられた。

第2章では、実験的にBSE罹患牛を作製し、経時的にBAEPの波形形状、潜時及び波間潜時を測定解析することでBSE罹患牛における脳神経機能障害の特徴を明らかにするとともに、脳病変の進行や臨床症状の発症とBAEPとの関連について比較検討することで、BAEPによるBSE臨床診断の可能性について検討した。BSE脳内接種牛のIII波とV波の潜時は、脳内接種14ヶ月以降で左右両側性の進行性の遅延が認められ、BSE脳内接種牛のV波の潜時とI-V波間潜時は脳内接種22及び24ヶ月後には対照牛に比べて左右両側性に有意(P<0.05)に遅延していた。さらに、BSE罹患牛のBAEP各波の電位は対照牛と比べて低く、症状の進行に伴い電位低下の度合いは強くなった。前肢の震え等の神経症状が発症したBSE罹患牛ではBAEP波形の出現閾値が95-105 dBnHLで、未発症の牛のBAEP波形の出現閾値65-75 dBnHLに比べて、大幅な出現閾値の上昇が認められ聴覚障害の併発が示唆された。またBAEPの潜時や波間潜時の遅延の程度は、BSE罹患牛の脳幹の聴覚中枢路における空胞変性やPrPScの蓄積等の病変形成の進行段階を反映していた。以上のことから、BSE罹患牛の脳神経機能障害の生理的な特徴として、脳幹の聴覚神経路における左右両側性の伝導遅延と電位低下が進行性に生じることがBAEP測定により初めて明らかになった。またBAEP波形の潜時や波間潜時の測定・解析は、BSE罹患牛における脳病変の進行段階や臨床症状の発症段階などのBSE罹患牛の神経学的徴候を評価する上で、有用な臨床診断技術になり得ることが示された。

以上の一連の研究において、牛の脳幹機能検査としての聴性脳幹誘発電位測定法を確立するとともに、BSE罹患牛における脳幹機能障害の神経生理学的特徴を初めて明らかにし、脳幹機能解析による新しいBSE臨床診断技術を示した。

審査要旨 要旨を表示する

牛海綿状脳症(BSE)は、異常プリオン蛋白質(PrPSc)の伝達によって生じる牛の致死性の神経変性疾患である。現在、BSEの確定診断は死後の脳材料を用いたPrPScの検出によって実施されている。BSEにおけるPrPScの蓄積は脳幹や脊髄などの特定部位に局在しており、これらの部位を牛を生かしたまま採取して診断に用いることは極めて困難なことから、これまでのところ有用なBSEの生前診断技術は確立されていない。BSE罹患牛では脳幹において特徴的な病変形成が見られることから、この病変の特徴を脳幹機能の解析により評価できれば、BSEの臨床診断が可能になると考えられる。本研究では、牛を立たせたまま安全に脳幹機能検査を実施できる牛の聴性脳幹誘発電位(BAEP)測定法を開発し、このBAEPを用いてBSE罹患牛の脳幹機能障害の特徴を解析しBSE臨床診断の可能性について検討した。

第1章 第1項では、牛への鎮静剤の投与がBAEPの波形形状や測定数値(潜時、波間潜時)におよぼす影響について検討した。鎮静処置群では反芻(咀嚼運動)が停止し、体動も少なく安静な立位の状態が保てBAEP測定が安定的に実施できた。一方、無鎮静処置群では反芻や体動が頻繁に見られ、ノイズ混入によりBAEP波形の基線が乱れ、安定した測定が困難であった。BAEPの潜時と波間潜時は、鎮静処置群と無鎮静処置群において有意な差は認められなかった。牛では鎮静剤の投与によるBAEPの測定数値への影響が認められず、無鎮静処置に比べてBAEP波形の解析感度や測定時間を改善できる効果が認められることから、BAEP測定時に牛へ鎮静剤を投与することは臨床的に有用であると考えられた。

第1章 第2項では、第1項で開発した手法を用いて健康な黒毛和種成牛におけるBAEPの波形形状及び正常値について検討するとともに、ホルスタイン種と黒毛和種でBAEPの品種間差が認められるかどうか比較検討した。ホルスタイン種及び黒毛和種ともに全てのBAEP波形において、I、II、III、Vの明瞭な4つの主要な陽性波が認められ、IV波は両群ともに全ての牛で欠損していた。BAEP波形の出現閾値は、ホルスタイン種では65-75 dBnHLで黒毛和種では75-85 dBnHLと両品種で異なっていた。黒毛和種のI-III及びI-V波間潜時(IPL)はホルスタイン種に比べ有意(P<0.05)に短かった。以上のように、牛ではホルスタイン種と黒毛和種の間で、BAEP波形の出現閾値や波間潜時に品種間差が認められることから、牛におけるBAEPの臨床検査にあたっては、品種間差を留意して測定を実施することが必要であると考えられた。

第2章では、実験的に作出したBSE罹患牛を用いて、経時的にBAEPの測定・解析を行うことでBSE罹患牛における脳幹機能障害の特徴を明らかにするとともに、脳病変や臨床症状との関連について比較検討することで、BAEPによるBSE臨床診断の可能性について検討した。BSE脳内接種牛のIII波とV波の潜時は、脳内接種から14ヶ月以降で左右両側性の進行性の遅延が認められ、特にV波では接種22ヶ月以降で対照牛に比べて有意(P<0.05)に遅延していた。一方、I波とII波の潜時については変化は認められなかった。また、BSE罹患牛のBAEP各波の電位は対照牛と比べて低く、症状の進行に伴い電位低下の度合いは強くなった。前肢の震え等の神経症状が発症したBSE罹患牛ではBAEP波形の出現閾値が95-105 dBnHLで、対照牛の出現閾値65-75 dBnHLに比べて、大幅な出現閾値の上昇が認められ聴覚障害の併発が示唆された。BAEPの潜時遅延が著しい中脳下丘では空胞変性やPrPScの蓄積が著しく、BAEPの異常値が病変形成の進行段階を反映していた。以上のことから、BSE罹患牛では症状の進行に伴い、BAEP波形のIII・V波の潜時遅延と電位低下が左右両側性に生じることが初めて明らかになった。BAEP波形の測定・解析は、BSE罹患牛における脳病変の進行段階や臨床症状の発症段階などのBSE罹患牛の神経学的徴候を評価する上で、有用な臨床診断技術になり得ることが示された。

以上本論文は、牛の脳幹機能検査としての聴性脳幹誘発電位測定法を確立するとともに、BSE罹患牛における脳幹機能障害の神経生理学的特徴を明らかにし、BSEの臨床診断技術に関し新しい知見を与えたもので、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)論文として価値あるものと認めた。

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