学位論文要旨



No 217135
著者(漢字) 谷川,竜一
著者(英字)
著者(カナ) タニガワ,リュウイチ
標題(和) 日本植民地とその境界における建造物に関する歴史的研究 : 1867年~1953年の日本と朝鮮半島を中心として
標題(洋)
報告番号 217135
報告番号 乙17135
学位授与日 2009.03.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17135号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 村松,伸
 東京大学 教授 御厨,貴
 東京大学 准教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに-研究の目的

本論文は、物理的空間認識が、歴史的に形成される中で、それが近代国家の建設に密接に関係しているという仮説に基づき、次の二つのことを明らかにすることを目的としている。一つ目は建設を司る人々が、政治・経済的な思惑とどのように連動して、近代国家を空間的に物質化したのかということであり、二つ目は完成した建造物が、我々をいかに規定し、時に我々の想像を超えていかなる空間を用意してきたのかということである。具体的には、近代東アジア世界における日本の植民地の拡大―その中でも日本が最も重視した朝鮮半島の獲得、拡充を主な対象とし、その広がっていく帝国の界面に造られていく建造物を検証することを目的としている。

仮に日本帝国主義の一端を建造物の力が担ったならば、大日本帝国が崩壊した今日でも建造物がある限りその力は残っていると考えた方がよい。テロや格差、移民や犯罪者の管理など、今日ますます空間の支配者として国家は力をつけているのであり、そこには大日本帝国から続く(ポスト)コロニアル的な構造も見え隠れしている。だとすれば本論では、いわゆる日本近代の幕開けである明治維新を、そうした構造の「はじまり」と見立て、今日の我々が生きる「空間」に含まれる問題の深層にアプローチしていきたい。分析の概念・手法としては、ルフェーブル、あるいは原広司の「均質空間」をめぐる議論が、一つの手がかりとなる。

2.内容構成と対応するキーワード

本論文は三部構成となっている。第一部では、第一章で明治維新後に西洋列強から日本が強引に灯台建設を促されることで、文字通り日本の沿岸が内外に照らし出されると同時に、近世以前の地域の海運を支持した灯明台が、近代国家として出発した日本の管理体制の中に、再編されていくことを示した。そして1880年代になると、道路や鉄道敷設の技術の進捗とともに、灯台建設による海運ネットワークの整備は、帝国日本の輪郭を浮かび上がらせる手法として完成する。一方、その同時代において、東北や北海道が日本内部の問題(例えば政府にとっての不平士族や自由民権運動家ら)の解決の場所として注目されていたことは周知の通りである。それらに関しては、大久保利通やそのブレーンによる企業公債プロジェクトがその急先鋒であり、建設によって絶えず国家の延長線が示されながら、中央からの支配と統合が広がっていったことを第二章で示した。第三章では、日清戦争後から日露戦争までの間に、朝鮮半島が新たに国際的注目を浴びる中で、灯台建設が国際的な「公益性」を前面に出されることで建設がなされることを示した。そして日露戦争後は、日本がその建設を通して朝鮮半島を帝国の版図の中につなげていったのであった。

以上のような流れの中で、第一部でキーワードとしたのは「構想された均質空間」であり、世界に経緯度のような座標軸を設定し、具体的な場所を地図のような形で記号化し、可視化していく営み、あるいはそれによって構想された想像の世界を意味している。明治新政府は当初は列強に押しつけられながらも、測量や建設を通して座標系にのせて自国の領土を描き出したが、海図の作成や利用と密接に結びついた灯台は、「構想された均質空間」を用意することに大きく貢献しただけでなく、現実の空間とその空間の間を行き来するためのゲートとして機能してきたのである。そこで人々は、見ず知らずの場所や人々の存在を体系的に仮定できる新たな枠組みを得た反面、その世界認識の中では、完全な空間的未知の存在というものはありえなくなり、すべては予測可能な状態として落ち着くこととなった。予測できる、ということは言うまでもなく近代社会では「有益」なものであった。

第二部(日露戦争~韓国併合)においては、朝鮮半島が日露戦争後から韓国併合に至る間に、帝国が統治可能な場所へと、建設を通して変容していく過程を、政治・経済的な動きと連動するものとして示した。具体的には、第四章において、独立国と植民地との間を揺らぐ朝鮮の姿を、議政府庁舎、平理院(最高裁判所)、大韓医院の建設を通して明らかにした。そこは保護国とはいえ、韓国人たちの主体も建築的に確かに刻印されており、この時期の建築をおしなべて植民地建築として扱うことは適切ではないことが浮かび上がった。次に第五章では、植民地化の本格的な開始の中で、「近代国家」に必要な建造物である警察署、財務署、裁判所等が朝鮮半島に建設されていくことが、当時の日本の国際戦略とどのように具体的に連動していたのかを、伊藤博文と韓国政府高官のやり取りなどから論じた。続く第六章では、伊藤博文と後藤新平の描いた植民地開発構想の差異が、帝国・植民地という空間をどのように変容・ねじれさせたのか、ということを分析した。

こうした考察を経て第二部では、均質空間が構想され、そこが国家によって色分けがなされていく際に、そのベタリと塗られる色、すなわち国家の均質性(国家はどこにいても同じサービスを提供する)を確保するような建造物が多く建設されることを確認した。これは重要な転倒的視座を基点としている。多少論文を離れて卑近な例で言えば、我々が瀬戸内海を船で旅行する時、「あ、さっき神戸港を過ぎたから、あの港は広島だな」とか、淡路島と本州を結ぶ橋やその周辺の陸地の起伏を見て、「地図の通りだ」とする世界の見方は、ある転倒的空間認識であろう。具体的な自己の経験や認知に先立って、仮定的な世界、それもデカルト的透視によって細かに現実空間との正確な一致を確認できる世界(「構想された均質空間」)を脳裏に持っているということは、非常に近代的な所作でもある。その思考法の延長上には、空間の合理的利用という名の下で、未来のプロジェクトを人々に予測させるし、その下で統治や支配を一般的に合理化する。土地を制御し、物資と通貨を流通させ、どこでも同じような生活を提供し、税を回収し、衛生的な環境を管理し、犯罪者を捕まえ、裁き、囚人を収監する場所やシステムも、そうした空間把握と密接に関係しながら刷新されていったのである。第五章で述べた朝鮮半島に均質に広がる財務署や警察署、裁判所などがその証左であろう。国家が社会的サービスを、均質性を前提として提供する時、その背景にあるのは「構想された均質空間」である。従って、「構想された均質空間」が実際の空間に逆流して物質化する現象を、本論では「空間の均質化」と定義した。それは有益であっただけでなく「構想された均質空間」が本来の世界であると錯覚させることとなり、世界観の起源が問われる必要はなくなった。しかも「終わりのない」すべてを包含する世界観を利用する以上、それ以外の世界観の存在すら、想定する必要がなくなったのである。ここに「均質空間」が、観念的にも実践的にも完成した。

とはいえ、先の建造物に投影されたような韓国人の主体性など、空間の支配者側がリードする空間の均質化に抗うもの、漏れ落ちるものは、様々にある。第三部ではそれを踏まえつつ、第八章において、明治末年の日本における建築家たちの「国民様式論争」が、そうした「空間の均質化」を一つの背景として成立していたことを明らかにした。均質化が進む中で、差異を求める意識が、建築家という空間の物質化を担う者たちの間に芽生え始めたのである。こうした意識や危機感は、均質化の動きをいかに変容させるのか。その答えの一つは、帝国としての台湾や朝鮮の中心に、総督府庁舎のような建築を造る際に現れている。そこでは、その場所を帝国の一部として同化しながら、植民地として差異化するという手法が、様式的にも建設の構造的にも編み出されたのである。第九章では、それまでに完成した帝国における「同化と異化の空間的手法」が、国家的プロジェクトとしてより大きな規模で推進される過程を、巨大ダムの建設を通して考察を行った。一方で、均質空間を想定してなされたダムの建設計画も、それを造る現場では、決して取り換え可能な均質なモノや人が生み出されたわけではなかった。それは帝国として同化しながら、植民地として異化するという本質的な矛盾を包含していた総督府庁舎のような建造物とも共振している。そうしたアンビバレンスを「空間の象徴化」は孕んでいた。

3.結論

近代日本の出発と、その帝国主義的拡大において、「構想された均質空間」の創造、その起源の忘却とそれを利用した「空間の均質化」、そして均質化の中で差異を探るような「空間の均質化」の限界としての「空間の象徴化」が、建設の現場や建造物に現れていた。それは建物の側から捉え返せば、近代日本が帝国として東アジアに立ち現れた時に、建造物が発揮した「同化と異化の空間的手法」であり、帝国の矛盾を物質化しながら直視することを回避する手法でもあった。だとすれば、建造物や建設がそうした手法で用意する空間認識そのものが、歴史的なものであることを意識することで、現代の我々が生きる空間が抱える矛盾は何か、ということも逆照射することができるだろう。そしてその矛盾を割き、あるいは逆手に取りながらその空間にいる自己を批判的に見つめなおす時、植民地研究がより広く実践的な地平へと切り結ばれることになるはずである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、近代日本の成立を、空間をテーマとして論じており、非常に多くの具体的事例を踏査しながら、緻密に用意された優れた論文である。

建築史はもちろんのこと、それ以外の多くの歴史学的資料および既往研究を、資料批判と同時に精選し、その上に、建築のみに関わらず土木構造物、あるいは上下水道などのインフラストラクチャー、そして建築に関わる人々や、その彼ら/彼女らの営為を、トータルに見据えており、広い視野、長い時間軸で考察されている。実証研究としても、十分な探求・証明がなされており、歴史研究として必要な手続きは十二分になされている。

さらに、集められた事例とそこでなされた考察は、空間に関する抽象度の高い論理で、社会学、文化人類学、表象文化研究等の既往の研究成果と連携させながら組み立てられている。その構想に関しても、現代的な問題と絡めながら、普遍的かつ本質的な問題意識を兼ね備えていると言える。

一方、支配・被支配の構図を、次の観点から掘り下げたことが、本論文の最も大きく評価できる点である。既往研究においては、日本の旧植民地に建設された建造物一般は、おしなべて植民地建築としてみなされている節があるが、本論文では、それらを「同化・異化」という抽象度の高い論理で分別・整理し、その二重性が機能した政治的メカニズムにまで突っ込んで論じている。それにより、植民地建築研究が、より開かれた普遍性を持つものとして、あるいは建築が孕む根源的な問題として、建築物の「同化・異化の力」が描き出されている。そうした意味で、本論文は植民地論にとどまらず、近代化論、あるいは公共性をめぐる統治(支配)論へ届く射程を持っており、評価できるものである。そして、そのことは次の二つの観点に踏み込む可能性を示唆する。

一つは、近代合理主義の本質的問題であり、その本質こそが帝国主義や植民地といったものを生み出した原理的要因であるとする見方であろう。この点に関しては、今後の研究に期待したい。審査においても議論になった通り、近代合理主義の批判に終わるのではなく、合理主義自体の構造に分け入りながら、どうしても孕んでしまう近代の抑圧性(あるいは審査者側からも指摘された「犯罪性」)の根源的要因を突き止める必要がある。非常にアカデミックで高い抽象性を持つ課題であるため、人文・社会科学にとどまらない、いっそう広い視野が必要とされるだろう。

もう一つは、公共性をめぐって織りなされた建造物を用いたポリティクスの問題であり、具体的なガバナンスの問題である。この点に関しては、現在の建築、あるいは空間が露呈する「問題」を見据える時に、それを人間不在の、あるいは建築家や技術者中心の課題に還元してしまうのではなく、その建造物と関係する人々との間に生まれる実践的課題として捉える必要がある。審査において、提出者もそうしたことを指摘はしていたが、その際に、提出者の専門である工学、もっといえば建築を離れて構想することは出来ないであろう。その時に、近代批判をしつつ自らも同じ近代の抑圧性に手を染めるのか、あるいはそれ以外のやり方があるのか。はたまた、手を染める、という思考の構図そのものを刷新するのか。審査において議論となったこの種の問題に対して、今後の研究が問われるであろう。ただし、その際に、審査者からの批判としてもあったが、社会環境をトータルに論じている反面、建築家たちの営為として、建造物を捉える視点が相対的に弱く、既往の建築史研究との接合の面で今後考察していくべき具体的なモノをめぐる課題、問題も残されている。そうした点を今後さらに洗練させていくことで、専門知としての建築史にも還元していかねばならないだろう。建築史に関する博士論文である以上、それは一つの責務でもあり、同時に提出者のオリジナリティが、専門知に活かされることを審査側も願うものでもある。本論文はそうしたことを思考するための、最適な足場となるものであり、その点でも高く評価できることは、審査者の間でも共通する意見であった。

以上の他に、文献や図面等の読み解きを行うための建築史に関する専門知だけでなく、政治経済史、および研究手法としてのフィールド調査やその成果など、提出者は十分な素養を兼ね備えていると判断できる。インタビュー記録や、収集した図面・文献、その成果などは、いずれも新資料が多い上に、貴重かつ現代的な要請に応えるものであった。

審査委員会は、平成21年2月9日に論文提出者に対し、本学大学院の博士課程を終えて学位を授与される者と同様に広い学識を有する者と認定した。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク