学位論文要旨



No 217139
著者(漢字) 松村,隆
著者(英字)
著者(カナ) マツムラ,タカシ
標題(和) 水質汚染事故の発生特性と対策に関する研究
標題(洋)
報告番号 217139
報告番号 乙17139
学位授与日 2009.03.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17139号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大垣,眞一郎
 東京大学 教授 中西,友子
 東京大学 教授 花木,啓祐
 東京大学 教授 古米,弘明
 東京大学 教授 滝沢,智
内容要旨 要旨を表示する

1.研究の背景と目的

わが国の水質環境は全般的には改善傾向にある。例えば、全国の一級河川109水系を対象とした水質環境基準の達成状況を見ると逐年改善してきており、2007年度における環境基準達成地点数は88%と過去最高の水準となっている。

他方、毎年、工場から流出した有害化学物質や油による河川の汚染など通常では予測し得ない突発的な水質汚染が発生している。こうした突発的な水質汚染に対応するため、水質保全の一般法である水質汚濁防止法では事故時の応急措置の義務規定の創設や貯油事業場等を規制対象施設に追加するなどの法令改正・強化が進められてきている。国レベルでの取組に加え、地方自治体でも対応マニュアルの整備などが展開されている。

しかしながら、一級河川水系だけでも年間1,000件を大きく上回る水質汚染事故が発生しており、2007年度は1,327件と高い水準となっている。こうした水質汚染により、魚のへい死や水道被害など利水上の被害も生じており、2007年度には水道の取水停止を伴う重大な事故の発生件数は32件に上ると報告されている。

国・地方自治体双方における取組にもかかわらず、なぜ、こうした突発的な水質汚染が繰り返し発生し、また、利水被害が防げないのか。水質汚染事故はどのような過程で進行・拡大してゆくのか。その過程にはどのような要因が関与しているのか。当該要因を制御するものは何か。これまでの対策はなぜ制御装置として有効に機能してこなかったのか。このような問いに対する体系的な研究は現在のところほとんど無い。

国際的な状況に目を転ずると、欧州を中心として新たな政策面での動きがある。すなわち、欧州連合(EU)では、いわゆるセベソ指令を、1986年に発生した化学工場事故によるライン河汚染事故を契機として、それまでは工場事故に関する措置だけであったものから工場事故と環境汚染を一体的なものとしてとらえた内容(セベソ第II指令)へと強化・改正した。同改正・強化を受けて、EU加盟国は必要な国内法の整備を進めてきている。

さらに、経済協力開発機構(OECD)においては、EUが中心となって、こうした包括的な環境汚染事故対策をグローバル・スタンダード化するための議論を進めており、わが国も水質汚染事故対策の有効性に関する考察を行い、こうした国際的な動向に応えたものとする必要がある。

地球温暖化の進行など地球規模での環境変化を背景として、今後、水資源の希少性がますます高くなっていくことが考えられるなか、限られた貴重な水資源を将来にわたって維持してゆくためは、平常時の対策に加え、水質保全分野における危機管理を進めることは大きな課題である。

本研究は、以上の背景状況を踏まえ、地球環境の変化とグローバル・スタンダード化の進行といった国際的な流れのなかにおいて、水質汚染事故を包括的に制御するための対策体系は、今後、いかにあるべきかを、独自に収集した水質汚染事故事例を対象とした事例分析の結果をもとに論じ、提案するものである。

2.論文の構成

本論文は6章で構成されている。第1章は本研究の序論として、研究の背景、先行調査研究の概要、国際動向および目的を述べたうえで、研究範囲の設定、本研究で用いる用語の定義、事例選定手順など研究の枠組み的事項を示した。第2章では、水質汚染事故対策を法令制度、組織体制および技術支援情報の3側面でとらえ、現状について公表資料などをもとに把握し、その整備状況に関する考察を行った。第3章では、第2章で示した日本の水質汚染事故対策に係る法令制度の特徴点の国際的な位置づけを明らかにするため、EUと日本の法令制度比較分析を行った。第4章では、独自に作成した91例からなる水質汚染事故事例マスター情報を概説したうえで、同マスター情報から選定した21件の水質汚染事故事例の内容を示した。第5章では、工場保安分野における手法を援用し、選定した水質汚染事故事例について、異常事象の発生から水質汚染の拡大・利水被害の発生へといたる過程を4段階に分け、各段階における特性を明らかにするとともに、関係する要因構造に関する考察を加えた。第6章では、以上の分析・考察結果から導かれる結論として、水質汚染事故への今後の包括的な制御体系のあり方を提示した。

3.結果の概要

1)水質汚染事故の発生特性および事故対応経過

本研究で明らかにした水質汚染事故の発生特性および事故対応経過に関する主要な特徴点は次のとおりである。

第一に、水質汚染事故の発生特性および事故対応経過に関する全般的な特徴に関しては、次の5点がある。

(1)水質汚染事故は特定の段階におけるひとつの失敗で引き起こされるのではなく、各段階での失敗が複合して生ずる。

(2)この失敗には複数の要因が関係していることが多く、個人行動に起因するもの、当該工場等の機器・安全システムの不備に起因するものおよび当該工場等の組織体制に起因するものに分けることができる。また、各段階での失敗に関連する要因の背景として、社会慣習や企業体質の存在がある。

(3)水質汚染事故による汚染には、異常事象に起因する直接的な汚染に加え、異常事象に伴う二次的生成物による汚染と異常事象への対応措置に伴う二次的汚染がある。

(4)時間の経過とともに、表流水の汚染が二次的に地下水汚染につながる場合がある。

(5)水質汚染および利水被害の規模と程度には、事故発生者による初動対応の有無と対応内容および行政機関による対応が関係している。

第二に、事故発生者による事故対応に関する特徴に関しては、次の点がある。

(1)事故発生者が汚染物質の施設外への流出防止措置を全く取らない場合がある。これは、事故の種類や業種に関係のない現象であり、工場・事業場の関係者に、事故に伴う施設外の環境汚染への対応を怠る傾向があることが推測できる。

第三に、行政機関による事故対応に関する特徴に関しては、次の3点がある。

(1)水質汚染事故へは流域単位での対応が重要であり、特に、県境をまたがった汚染事例の場合は、上・下流県の間での連携の優劣で利水被害の内容と程度や原因者特定の成否が決まる。

(2)行政機関が迅速に対応ができなかった原因は、事故発生工場で使用されていた汚染物質の種類が不明であったこと、未知化学物質に関する分析方法の決定、大量の検体処理および汚染物質の流下速度の推計に時間を要したことである。

(3)魚のへい死や河川水の変色など断片的かつ五感情報に基づく通報により地元行政機関が事故を覚知する例が多い。

2)今後の水質汚染事故対策のあり方

本研究の分析・考察結果から導かれる結論として、今後の水質汚染事故対策の基本的な方向およびそれを実現するために必要な法令制度・組織体制・技術支援情報における具体的な措置は以下のとおりである。

(1)今後の水質汚染事故対策は、多重防護の考え方に立脚した包括的な取組の構築を基本とする必要がある。水質汚染事故はひとつの失敗により引き起こされるわけではない。いくつかの失敗が複合して事故が発生しており、その失敗には複数の要因が関係している。異常事象への対応が二次的汚染を引き起こす可能性があること、表流水の汚染が時間の経過とともに二次的に地下水汚染につながる場合があることなど汚染の態様も一様でない。さらに、行政機関の対応状況が利水被害の内容と程度に関係する例があることを事例分析結果が示している。したがって、事故発生場所での個別の失敗要因への対応や事故発生直後の汚染対処を目的とするこれまでの対策を改めなければならない。

(2)水質汚染事故に係る法令制度面での課題としては、初動対応措置を徹底するための法令整備、法令間の連携の徹底および個別法の厳格な執行がある。初動対応措置を現場での技術的対応の問題としてではなく企業体質にまでさかのぼって徹底するため、事故時対応の原則となる基本的法制の整備が必要である。EUに比して法令制度の統合性が欠如していること、事例分析で明らかにしたように統合性の欠如が二次的汚染を引き起こしている実態を踏まえ、法令間の連携を徹底する必要がある。個別法の厳格な執行に関しては、水質汚濁防止法の事前審査や立入検査を、平常時の稼動状態を前提として運用するのではなく、事故防止の有効な手段としても用いることが特に重要である。

(3)水質汚染事故に係る組織体制面での課題としては、関係機関間での通報・連携を行うため、流域レベルでの組織体制を整備・強化する必要がある。この点に関しては、第一に、現在は未整備の二級河川水系において一級河川水系で設けられている水質汚濁防止連絡協議会と同等の常設組織を設ける必要がある。第二点として、本研究の結果を踏まえると、常設組織が設けられている一級河川水系であっても、特に、上・下流間で密接な連携を図ることが重要である。

(4)水質汚染事故に係る技術支援情報面での課題としては、有害化学物質に関するデータ・情報の整備、有害化学物質を一定量以上使用・排出している事業者の流域単位でのGIS化、汚染原因である可能性のある物質を五感情報などから自動的に抽出する検索・推理エンジンの開発および地方環境研究所におけるLC/MSのライブラリ・データの充実である。有害化学物質に関するデータ・情報整備に関しては、事例分析で明らかにしたように、臭気などの外見的特徴および魚毒性に関するデータの充実が特に重要であり、五感情報や断片的な情報で作動する検索・推理エンジンの開発が求められる。分析法のライブラリ・データ充実のためには、単独機関で対応するのではなく、複数の機関がネットワークを形成し、ライブラリの充実を図ることが有益である。

審査要旨 要旨を表示する

わが国の水質環境は全般的には改善傾向にある。しかし、一方、工場から流出した有害化学物質や油による河川の汚染など、通常では予測し得ない突発的な水質汚染が、一級河川水系だけでも年間1,000件を超える水質汚染事故が発生している。こうした水質汚染により、魚のへい死や水道被害など利水上の被害も生じており、2007年度には水道の取水停止を伴う重大な事故の発生件数は32件に上ると報告されている。

国・地方自治体双方における取組にもかかわらず、なぜ、こうした突発的な水質汚染が繰り返し発生し、また、利水被害が防げないのか。水質汚染事故はどのような過程で進行し拡大してゆくのか。その過程にはどのような要因が関与しているのか。これらの要因を制御するものは何か。これまでの対策はなぜ制御装置として有効に機能してこなかったのか。このような問いに対する体系的な研究は現在のところほとんど無い。

本論文は、以上の状況を踏まえ、水質汚染事故を制御するための包括的な対策体系のあり方について、独自に収集した水質汚染事故事例の分析により、水質汚染事故と被害の発生の構造を解明し、対策のあり方を示した研究成果である。

本論文は「水質汚染事故の発生特性と対策に関する研究」と題し、6章で構成されている。第1章は、本研究の序論である。研究の背景、目的、研究範囲の設定、日本の用語の定義、事例選定手順など、研究の枠組みを示している。

第2章では、日本の水質汚染事故対策の整備状況を、法令制度、組織体制および技術支援情報の3側面からとらえている。法令毎に規制対象物質が異なること、また、法令により事故発生初動時の通報先が異なること、および、各法令の執行機関が異なっているなど、制度体系としては著しく統合性に欠けている点を抽出している。また、二級河川水系などの水系では、一級河川のような水質汚濁防止連絡協議会が設けられていない点なども明らかにしている。

第3章では、日本の水質汚染事故対策に係る法令制度の国際的な位置づけを明らかにするため、EUと日本の法令制度の比較分析を行っている。日本の法令では周辺環境のとらえ方が極めて限定的であるとしている。EUセベソ第II指令では、施設内外を分断することなく、施設外への影響も一体的にとらえた包括的な法令制度となっており、人的・物的被害、社会的サービスへの被害に加え、生態系への影響を含め周辺被害を具体的に規定している。これらの規定が日本の法令体系にはないことを指摘している。

第4章では、独自に収集作成した91例からなる水質汚染事故事例マスター情報を整理し、同マスター情報から本研究の課題の解析に適する21件を抽出し、それぞれの水質汚染事故事例の詳細を示している。

第5章では、工場保安分野における手法を援用し、選定した水質汚染事故事例について、異常事象の発生から水質汚染の拡大・利水被害の発生へといたる過程を4段階に分け、各段階における特性を明らかにするとともに、関係する要因構造に関する考察を加えている。具体的には、水質汚染事故は特定の段階におけるひとつの失敗で引き起こされるのではなく、各段階での失敗が複合して生ずる、水質汚染事故の態様には、異常事象に起因する直接的な汚染に加え、二次的生成物による汚染と異常事象への対応措置に伴う二次的汚染がある、事故発生者が汚染物質の施設外への流出防止措置を全く取らない場合がある点などを明らかにしている。これらの対応等は、事故の種類や業種に依らない普遍的な構造であることを見い出しており、工場・事業場の関係者に、事故に伴う施設外の環境汚染への対応を怠る傾向があることを推測している。また、魚のへい死や河川水の変色など断片的な五感情報に基づく通報により、地元行政機関が事故を覚知する例が多いことなどの知見も示し、水質汚染事故の構造的な特性を明らかにしている。

第6章では、以上の分析・考察結果から導かれる結論として、水質汚染事故への今後の包括的な制御体系のあり方を以下の4点に集約して提示している。

(1)今後の水質汚染事故対策は、多重防護の考え方に立脚した包括的な取組の構築を基本とする必要がある。水質汚染事故は単独の要因により引き起こされるわけではない。いくつかの要因が複合して事故が発生しており、その要因も複数の段階にまたがっている。

(2)法令制度に係る課題としては、初動対応措置を徹底するための法令整備、法令間の連携の徹底および個別法の厳格な執行がある。EUに比して法令制度の統合性が欠如していること、事例分析で明らかにしたように統合性の欠如が二次的汚染を引き起こしている実態を踏まえ、法令間の連携を徹底する必要がある。個別法の執行に関しても、例えば水汚濁防止法の事前審査や立入検査を、事故防止の有効な手段としても用いることも重要である。

(3)組織体制に係る課題としては、関係機関間での通報・連携を行うため、流域レベルでの組織体制を整備・強化する必要がある。

(4)技術支援情報に係る課題としては、有害化学物質に関するデータ・情報の整備、有害化学物質を一定量以上使用・排出している事業者の流域単位でのGIS化、汚染原因である可能性のある物質を五感情報などから自動的に抽出する検索・推理エンジンの開発および地方環境研究所におけるLS/MSのライブラリ・データの充実である。

以上のように、本論文は水質汚染事故の発生構造の解明とその対策を考察した優れた研究成果であり、都市環境工学の学術分野の発展に大きく貢献するものである。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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