学位論文要旨



No 217152
著者(漢字) 前田,竜郎
著者(英字)
著者(カナ) マエダ,タツロウ
標題(和) 食パン生地特性の可視化技術と品質評価に基づく製造工程最適化手法の開発
標題(洋)
報告番号 217152
報告番号 乙17152
学位授与日 2009.03.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17152号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 相良,泰行
 東京大学 教授 大下,誠一
 東京大学 教授 黒倉,壽
 東京大学 連携教授 鍋谷,浩志
 農研機構食品総合研究所 室長 杉山,純一
内容要旨 要旨を表示する

製パン工程はミキシング、発酵、焼成工程から成り立っており、この製法は古代エジプト時代から職人の技によって現在まで継承されてきた。しかし、同じ製パン材料でも職人が造ったパンのおいしさは、一般の人が造ったものとは異なる。ここに示す発酵と焼成は時間と温度によりコントロールが可能であるが、いわゆる職人の技が発揮されるのはミキシングの良し悪しによる。この技を定量化するには、ミキシング工程の解明と最終製品の機器分析と官能評価を行い、その関連性を定量的に明らかにし、製パン工程の最適化を行うことが重要である。本研究では、製パン工程の最適化手法として食感性工学の導入を試み、得られた最適条件を製パン工程にフィードバックすることにした。

ミキシングの主な目的は、パン酵母などの原材料の均一分布化を図るとともに、グルテンを形成し、気泡核を抱き込むことにある。すなわち製パンは、パン酵母から発生した炭酸ガスにより生成された気泡核を膨らませ、これを焼成により固定化することと言える。例えば、硬くてまずいパンは気泡と原材料であるパン酵母と澱粉粒が不均一に分布しており、ソフトで美味しいパンは均一であると言われている。しかし、この構造を解明する技術は未発達の現状にあります。さらにこの技術を開発するためには生地全体の3次元構造を計測する必要がある。例えば、同じ気泡の数でもそのサイズと分散が異なる。さらに同じサイズの気泡であっても観察する切断面によって、ここに示すようにその大きさが異なると考えられる。

本研究の目的は、伝統的匠の技を解明するために、ミキシング工程の定量化、最終製品の機器分析および官能評価に基づき製パン工程を最適化する手法を開発することである。具体的には、製パン工程において経験的に最も重要視されているミキシング工程と発酵工程を解明するため、製パン工程のミキシング工程の3つの目的を明らかにし、生地中の酵母、気泡、グルテンの可視化技術とそれぞれの定量的指標を推算する方法を開発した。また、開発した手法を実際のミキシング4段階の生地で有効性を確認した。さらに、ミキシング工程や発酵工程が食パンクラム中の品質特性(香気成分・呈味成分・食品テクスチャー・外観)に及ぼす影響を明らかにするため、食感性工学に基づく機器分析と官能評価を同時に行い、得られた計測値とスコアを統計解析手法により評価を行った。

本論文は9章から成り立ち、その内容は大きく分けて、生地ミキシング工程における可視化可能なパン酵母、すなわちEGFP酵母の開発とこれを用いた気泡とグルテンの3次元計測法、次に最終製品の機器分析と官能評価、およびこれらの定量化に基づく、製パン工程の最適化手法で構成されている。次にその内容を第2章~第8章に分けて述べる。

第2章では、従来からパン酵母を可視化するために酵母内部を染色する方法がとられてきたが、顕微鏡による計測が極めて困難であった。パン酵母の計測を容易にするためには酵母外部を発光させる必要があると考え、このアイディアを京都大学の植田らは、細胞表層工学として提唱した。そこで、本研究ではパン生地に適した酵母を創製する方法として用いることを着想した。つまり遺伝子操作により、パン酵母の細胞表層に変異体緑色蛍光タンパク質、すなわち EGFPを発現させることにより、パン酵母の表層を強く発光させることに成功した。生地全体の中に分布するパン酵母が明瞭に識別され、拡大することにより、従来不可能であった小粒澱粉とパン酵母の識別も可能にした。以上のように、本研究によりパン生地に適した酵母の可視化手法の開発に成功した。

第3章では、供試材料の作成に標準的な配合と4段階ミキシング法を用いた。それぞれの段階で、マイクロスライサ画像処理システム、すなわちMSIPS を用いて2次元断面画像を撮像し、2値化した後、最終的にパン酵母の3次元計測法を確立した。この技術の米国特許を取得した(米国特許番号:6,761,916)。パン生地中の酵母を連続した300枚で構成した動画から、パン酵母の連続性が確認された。全ての酵母を同じ色でラベリングして3次元像を構築すると、3次元空間内の位置の識別が困難となるため、このように個々の酵母にそれぞれ異なった擬似カラーを付けた。これにより,パン生地内における酵母の分布を3次元的に可視化することが可能となった。酵母の分散状況をいろいろな角度から観察するためにアニメーションを作製し、観察した結果、クリーンナップ段階では、パン酵母に偏在が観られたが、ファイナル段階では、比較的均等に分散していることが確認された。この研究成果は、世界で初めてパン酵母の3次元可視化に成功した。また、ミキシング4段階におけるパン酵母間の最短重心間距離の平均値、標準偏差から、ファイナル段階で最も小さくなっていた。度数分布からシャープなピークが観察されたことから、パン酵母の分散が最も均一であることが確認された。以上のように、パン酵母の3次元計測手法を開発した。

第4章では、気泡を可視化するためマイクロスライサシステムを用い、パン生地中の気泡を直接観察し、試料の断面中に点在する気泡は,切削面に対して凹面となるため,焦点深度範囲外の部分がピンぼけ像として現れる。これを応用しパン生地中の気泡を識別した。個々の気泡は液晶ペンタブレットを用い、赤色でマーキングをし、赤色のみを抽出し、二値化後、気泡は楕円とみなし、代表的なパラメータである、面積、長軸、短軸を計測した。その結果、未凍結パン生地の気泡サイズは10~15μmが最も多く、凍結パン生地は10μmが最も多いことが分かった。以上のように、MSIPSによりパン生地中の気泡計測法を開発した。

第5章では、ミキシングにより得られた生地を急速凍結し、薄片化、蛍光染色し、その画像を取得した。さらにこの画像からグルテンネットワークを定量化した。本手法は現在米国と国内において特許を取得した(特許3762308、特許3771861)。パン生地中のグルテンと澱粉粒を可視化した結果、赤い部分がグルテン、白い部分が大粒澱粉と小粒澱粉で、パン生地中のグルテンと澱粉粒の鮮明な識別が可能となった。そこで、4段階ミキシングにおけるグルテンの挙動と澱粉粒の分散を計測した結果、ピックアップ段階では、グルテンと澱粉粒がばらばらに局在化しており、ミキシングが進むにつれこのファイナル段階に示すように細かいグルテンネットワークが形成し、澱粉粒がグルテンと密接にくっついた状態で均等に分布していることが観察された。パン生地内部をここまで鮮明に、観察したのは本研究で初めてであると言える。グルテンネットワークの定量化は、元画像のグルテンを対象とし、このようにグルテンを線に変換し、さらにグレースケール画像に変換し、グルテンの計測をした。定量化のパラメータは、ここに示すように個々のグルテンを足し合わせた総距離とグルテンの分岐箇所で切断した、個々のグルテンの幅を求めた。グルテンの総距離はミキシングが進むにつれ長くなり、ファイナル段階で最も長くなり、オーバーミキシンングで短くなることが分かった。ファイナル段階は最適な生地状態であり、オーバーミキシンングになると生地構造が破壊されると言われておりましたが、本研究により、このような仮説が裏づけられた。

第6・7・8章では、香りの品質特性として、機器分析結果より、全供試サンプルから64種類の香気成分を検出・同定した。さらに、検出された全香気成分に対して主成分分析および分散分析を行った結果、第1因子は発酵時間、第2因子はミキシングエネルギーに強く影響を受けることが分かった。一方、官能評価値の主成分分析および分散分析結果から、第1因子がミキシング、第2因子は発酵時間に影響を受ける因子であった。以上の結果から、食感性モデルを用いることにより、製パン工程で経験的に言われてきたミキシング工程の重要性が香りの官能評価結果より実証された。味の品質特性では、高速液クロマトグラフィーによる分析結果から、有機酸類、糖類、アミノ酸類の全ての成分で発酵時間が有意であうことを明らかにした。官能評価結果から、第1因子はミキシング、第2因子は発酵時間に影響を受ける因子であった。また、総合評価である「見た目の美味しさ」と「美味しさ」はミキシンングエネルギーに対して優位差が認められた。以上の結果から、官能評価では食パンの呈味を支配している要因として発酵時間よりミキシングがより強い相関性を示すことが明らかとなった。また、食品テクスチャーの品質特性では、圧縮試験による25%圧縮時の荷重測定値の等高線図から、発酵時間が長くなるほど硬さの測定値が減少し、つまり食パンのクラム部分が軟らかくなる傾向であった。また、ミキシング段階に比べて、発酵時間の方が軟らかさに大きく影響していた。

以上の結果をまとめると、まず、生地中の酵母、気泡、グルテンの可視化技術とそれぞれの定量的指標を推算する方法を開発した。そして、機器分析結果から、食パンの呈味・香気・硬さはともに、ミキシングよりも発酵時間に依存した。さらに、官能評価結果では、食パンの味・香り・おいしさのスコアはミキシングエネルギーの依存性が顕著であった。最後に、食感性工学に基づき最終製品の機器分析および官能評価結果から製パン工程を最適化する手法を開発した。

以上

審査要旨 要旨を表示する

製パン工程はミキシング、発酵および焼成工程から成り立っており、この製法は古代エジプト時代から職人の技として現在まで継承されてきた。しかし、同じ製パン原材料でも職人が造ったパンのおいしさは、一般の人が造ったものとは異なる。発酵と焼成は時間と温度により制御可能であるが、いわゆる職人の技が発揮されるのはミキシングの良し悪しにある。この技をミキシング工程の最適化に反映させるためには、ミキシングにおける生地の動態を解明すると共に、最終製品の品質に関する機器分析と官能評価を行い、その関連性を定量的に明らかにし、製パン工程の最適化を行うことが重要であると考えられた。

ミキシングの主な目的は、パン酵母などの原材料の均一分布化を図るとともに、グルテンを十分に形成し、気泡核を抱き込むことにある。すなわち製パンとは、グルテンネットワークに抱き込んだ気泡核に、パン酵母から産生された炭酸ガスが集まって膨張し、これを焼成により固定化することと言える。しかし、生地中で2~8ミクロンの小さなパン酵母を正確に識別すること、薄い膜状または細い網目状に発達するグルテンネットワークを計測すること、さらに、生地中に分布している気泡核分布を計測することは極めて困難であり、生地全体の3次元構造を解明する技術は未発達の現状にある。

本研究の目的は職人の伝統的技を解明するために、ミキシングにより形成される生地構成成分の可視化技術を開発し、さらに、最終製品の機器分析と官能評価に基づき製パン工程を最適化する手法を開発することである。以下に本研究により開発したパン酵母、気泡およびグルテン、すなわち、3つの生地構成成分の可視化技術について述べる。

パン酵母の可視化技術を開発するには、酵母表面を発色させる必要があると考え、細胞表層工学の手法を導入してパン生地に適した蛍光発色酵母を創製した。すなわち、遺伝子操作により、酵母の細胞表層に変異体緑色蛍光タンパク質(EGFP)を発現させることにより、酵母の表層を強く蛍光発光させることに成功し、パン生地中でも酵母が明瞭に識別できることを確認した。さらにマイクロスライサ画像処理システム(MSIPS)を利用して、EGFP酵母のサイズ、形態および分布などを3次元的に計測し、さらにパン酵母間の最短重心間距離の平均値と標準偏差から、パン酵母の分布状態を定量的に把握する手法を開発した。

パン生地中の気泡の計測法として、MSIPSによりパン生地中の気泡計測法を開発した。その結果、パン生地内の気泡サイズ分布から大部分は10~15μmの範囲に分布していることが確認され、生地の冷凍操作に依存する気泡サイズ分布の変動状態などを計測することが可能となった。 また、パン生地中のグルテンネットワークと澱粉粒を同時に可視化するために、蛍光染色剤と蛍光顕微鏡を活用してグルテンと澱粉粒の構造・分布を鮮明に識別する計測法を開発した。また、グルテン網の総距離と幅を指標とする解析法を考案し、ミキシング段階におけるグルテンの発達状態を評価することが可能となった。

最終的には、これらの新計測・評価手法と食感性工学の方法論を導入して最終製品の機器分析と官能評価に基づく製パン条件の最適化手法を開発した。先ず、官能評価により製造条件が香り・味に及ぼす影響を検討した結果、食パンの香り・味を支配している要因はミキシングに要するエネルギーであることを明らかにし、これまで、経験的に言われてきたミキシング操作の重要性が実証された。また、生地内部の外観情報もおいしさの評価に影響を及ぼしていることが分かった。また、機器分析値と官能評価点との関連性について分析した結果、個々の機器分析値は、官能評価の味・香り・食感それぞれと相関関係があることが分かった。

おいしさに対するミキシング段階および発酵時間の影響をマルチスプライン補間による応答曲面として図示した結果、最もおいしいと評価された点はオーバーミキシング段階で発酵時間60分から120分の範囲にあり、その極大値は経験的に最適条件と言われてきたファイナル段階・発酵時間120分からオーバーミキシング側にシフトしていることが判明した。この理由の一つとしては、現在の小麦粉は従来のものと比較して品質改良が進み、ミキシング耐性が強くなっている可能性が考えられた。この結果、ミキシングエネルギーを約2倍に増大させることにより、現在使用されている小麦粉に対応したミキシング操作・発酵時間の最適化が図れることを確認した。このように食感性工学の手法を導入したことにより最適製パン製造条件を探索することが可能となった。

以上の研究成果により、審査委員一同は本論文の学術的な独創性と実用的な有用性を高く評価し、博士学位論文として価値あるものと認めた。

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