学位論文要旨



No 217156
著者(漢字) 伴野,元洋
著者(英字)
著者(カナ) バンノ,モトヒロ
標題(和) 超高速時間分解赤外分光法による溶液中の振動ダイナミクスと溶質・溶媒間相互作用の研究
標題(洋) Vibrational dynamics and solute-solvent interaction in solution studied by ultrafast time-resolved infrared spectroscopy
報告番号 217156
報告番号 乙17156
学位授与日 2009.04.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第17156号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濵口,宏夫
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 大越,慎一
 東京大学 教授 岩田,耕一
内容要旨 要旨を表示する

1.序

自然界・工業分野において,多くの化学反応は溶液中で進行する。溶液中では,溶質分子は溶媒分子と絶えず互いに作用しており,化学反応のメカニズムやダイナミクスはその溶質・溶媒間相互作用によって大きく影響される。したがって,溶質・溶媒間相互作用に関する知見を得ることは,溶液中の化学反応の議論や制御を行う際,非常に重要である。

振動励起された分子は,励起された振動モードから同分子内の他の運動自由度や周辺に存在する分子へのエネルギー移動によって基底状態に緩和する。このように進行する振動エネルギー緩和(VER)過程は,励起された振動モードと他の振動モードとの非調和カップリングや溶媒分子からの揺動による影響を大きく受けるため,励起された振動子,ひいては振動励起された分子の微視的な環境を鋭敏に反映する指標となる。本研究では,VER過程をサブピコ秒の時間分解能を持つ超高速赤外分光法を用いて観測し,観測された緩和過程をプローブとして溶液中の溶質・溶媒分子間相互作用に関する知見を得ることを目的とした。

2.実験装置

チタンサファイア再生増幅器(800 nm, ~100 fs, 1 kHz)の出力を光パラメトリック増幅器(OPA)に導入し,シグナル光・アイドラー光と呼ばれる二つの近赤外光を得た。これらの近赤外光を同軸にAgGaS2結晶に入射させ,中赤外領域(400-4000 cm-1)で波数可変な差周波を発生させた。

得られた中赤外光の出力を二つに分割し,一方をポンプ光,他方をプローブ光として時間分解赤外分光に用いた。試料の振動モードと共鳴するポンプ光を試料に照射すると,振動基底状態(v = 0)にある分子の一部は振動励起状態(v = 1)に遷移する。生じた振動状態の占位数分布の変化によって、定常赤外吸収バンド(v = 1←0の遷移に対応)の褪色と振動励起された分子による過渡吸収(v = 2←1の遷移に対応)が観測される。これらの信号の経時変化を,ポンプ光照射から時間遅延をつけて試料を透過させたプローブ光によって検出する。時間遅延に伴う褪色の回復と過渡吸収の減衰がVER過程に対応する。

3.結果と考察

【n-アルカン中のタングステンヘキサカルボニルの振動ダイナミクス】

金属カルボニル錯体のCO伸縮振動モードは,2000 cm-1付近に赤外活性の強い吸収を示す。時間分解赤外分光をn-アルカン中のタングステンカルボニル錯体に応用し,VER過程を観測した。

タングステンヘキサカルボニル(W(CO)6)の三重縮重非対称(T1u)CO伸縮モードのVER過程を,直鎖アルカン溶媒中で観測した。得られた振動エネルギー緩和時間(T1)のアルカン溶媒の鎖長への依存性を図1に示す。図1で見られるように,T1は炭素数10のデカン中で最小値124 psを示し,炭素数が10から増えた時も減った時も値が大きくなる「V字型」の鎖長依存性を示した。粘度や誘電率などのアルカン溶媒の巨視的な物性は鎖長に対して単調な依存性を示すため,このような特異な依存性を説明できない。観測されたT1のV字型依存性は,溶媒の巨視的物性で説明されない溶質・溶媒間の微視的な相互作用を反映していると考えられる。

【二成分混合溶媒中でのW(CO)6のVER過程】

V字型依存性の由来を見出すため,二成分混合溶媒中でのT1u CO伸縮モードのT1を測定した。溶媒として,三種のアルカン(CnH2n+2, n = 6, 10, 14)のうちの一種とシクロヘキサンの混合溶媒を用い,二成分の混合比を変化させつつT1の測定を行った。縦軸にT1の逆数(T1-1),横軸に混合体積比をとってプロットしたものを図2に示す。ヘキサン―シクロヘキサンおよびテトラデカン―シクロヘキサン混合溶媒では,T1-1は混合体積比に対して線形の依存性を示した一方,デカン―シクロヘキサン混合溶媒ではT1-1は線形依存性よりも小さい値を示した。この結果は,デカンのVER過程への影響が他の溶媒よりも大きいことを示している。このような大きな影響はデカンに特有であり,ヘキサンやテトラデカンには観測されなかったことから,デカンの鎖長がW(CO)6と相互作用するのに最も適していることを示していると考えられる。デカンの鎖長は,球対称なW(CO)6の半円周長とほぼ等しいことから,W(CO)6の二つのCO配位子とデカンの両端のメチル基が効率良く特異的に相互作用することができると考えられる。前節で示したT1のV字型鎖長依存性も,デカンとW(CO)6とのメチル―CO相互作用が最も強く,鎖長が変化するにしたがって徐々に弱くなっていくと考えることで説明できる。

【タングステンカルボニル錯体の配位子変換によるVER過程への影響】

VER過程における分子内振動エネルギー再分配(IVR)の寄与に関する知見を得るため,W(CO)6の配位子を交換して得た錯体W(CO)5(CH3CN)の縮重非対称(E) CO伸縮モードのVER過程を,W(CO)6の時と同様に直鎖アルカン溶媒の炭素鎖長を変えつつ観測した。縦軸にT1,横軸に溶媒の炭素鎖数をとってプロットした結果を図3に示す。W(CO)6の配位子の一つをCH3CNに交換したことによって,T1の値が120~160 psから80 psに減少した。この結果は,振動モード数の少ないCO配位子からモード数の多いCH3CN配位子に変換したことで,分子内の振動状態密度が増し,CO配位子に局在した振動エネルギーが効率良く周辺に移動できるようになったことを示唆する。また,W(CO)6で見られたT1の炭素鎖長依存性(図1)は,W(CO)5(CH3CN)では観測されなかった。この結果は、CH3CN配位子への分子内エネルギー移動が,CO伸縮モードのVER過程において支配的であることを示している。

【水溶液中の酢酸の振動ダイナミクス】

カルボニル基中の酸素原子は二つの非共有電子対を持ち,プロトン性溶媒中では溶媒分子と水素結合を形成する。水素結合のエネルギーは,一般的な分子間相互作用であるファンデルワールス力のおよそ10倍以上であるため,プロトン性溶媒中でのカルボニル化合物の環境に大きく寄与していると考えられる。本項では,カルボニル基―プロトン性溶媒間の水素結合相互作用に関する知見を得るため,重水中にて酢酸CO二重結合伸縮モードのVER過程を観測した。

観測されたVER過程は,異なる時定数で進行する複数の成分を含んでいた。この実験結果を解釈するため,以下の式(〓) (1)を用いて,グローバルフィッティング解析を行った。ここで,ΔA(ω,t)は波数ω,遅延時間tでの吸光度変化,a(ω),b(ω)はそれぞれ時定数τ1, τ2で減衰する成分のスペクトル,c(ω)は観測した時間領域で減衰しない成分を示す。その結果,時定数τ1, τ2はそれぞれ450 fs,980 fs,対応するスペクトル成分a(ω),b(ω)は図4に示したように求められた。この結果は,重水溶液中でカルボニル基周辺の環境が異なる二種の分子種が存在し,それらの間の交換がVER速度に比べて遅いことを示している。観測された二つの成分の帰属を行うため,密度汎関数法による量子化学計算(Gaussian03, B3LYP/6-311+G(d,p))を用いて,最適な酢酸・重水の溶媒和構造と基準振動数を求めた。その結果,信号が低波数側に観測された成分a(ω)をカルボニル基の酸素が二つの溶媒分子と水素結合した錯体(1:2錯体),高波数側に観測された成分b(ω)を酸素が一つの溶媒分子と水素結合した錯体(1:1錯体)と結論付けた。1:2錯体のVER過程は1:1錯体よりも速く進行するという結果が得られたが,これは、水素結合を介した数十~数百cm-1の振動数を持つ分子間振動モードによる振動状態密度の増加に起因すると考えられる。

【メタノール中の酢酸メチルの振動ダイナミクスと溶質・溶媒水素結合錯体】

酢酸メチル(MA)のCO伸縮振動は,メタノール中で図5中段のような複雑なバンド形を示す。メタノール中でのMAの溶媒和構造について知見を得るため,CO二重結合伸縮モードのVER過程を観測した。酢酸/重水系と同様にVER過程は異なる時定数で進行する二つの成分を含んでいたため,(1)式を用いたグローバルフィッティング解析を行った。その結果,時定数τ1,τ2はそれぞれ1.3,4.0 ps,対応するスペクトル成分a(ω),b(ω)は図5下段のように求められた。高波数側に観測された成分b(ω)の褪色のピークは,定常赤外吸収バンドの最も高波数側のピークと同波数に観測された。同時に,非プロトン性溶媒である四塩化炭素中のMAのスペクトル(図5上段)の吸収ピーク波数と同じであったことから,この成分を,水素結合を形成していないMA単量体に帰属した。一方,低波数側に観測された成分a(ω)の褪色のピークは,定常赤外吸収バンドの低波数側のピークと同波数に観測された。密度汎関数法による基準振動数計算を行った結果,この成分はMAとメタノールの1:1錯体に帰属できた。以上の結果より,メタノール中でMAは主にMA単量体かメタノールとの1:1錯体として存在するという知見を得た。

4.結論

本研究により,溶液中の分子のVER過程は,溶質と溶媒との相互作用や溶媒和構造を鋭敏に反映する指標として非常に有用であることが示された。今後,VER過程と分子環境との関係がさらに詳細に研究されていくと思われるが,その場面において,本研究で得られた知見が有効に活用されていくことが期待される。

図1.W(CO)6, T1u CO伸縮振動緩和時間(T1)の溶媒アルカン鎖長依存性

図2.混合溶媒中のVER速度定数(T1-1)のシクロヘキサン混合比依存性

(a) ヘキサン―シクロヘキサン,(b) デカン―シクロヘキサン,(c)テトラデカン―シクロヘキサン混合溶媒

混合比0は純アルカン,混合比1は純シクロヘキサンを表す

図3.W(CO)5(CH3CN), E CO伸縮振動緩和時間の溶媒アルカン鎖長依存性

図4.酢酸CO伸縮振動のVER過程が含む二成分のスペクトル

450 fsの成分a(ω) (点線)と980 fsの成分b(ω) (実線)

上段は定常赤外吸収スペクトル

図5.MA CO伸縮振動のVER過程が含む二成分のスペクトル

1.3 psの成分a(ω) (点線)と4.0 psの成分b(ω) (実線)

上段は四塩化炭素中、中段はメタノール中のMAの定常赤外吸収スペクトル

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,時間分解赤外分光法を用いた溶液中の分子内振動ダイナミクスの観測と,その観測結果を基にした溶質溶媒分子間相互作用の研究を主題とし,全8章にて構成されている。

第1章では,導入として溶液中の分子振動エネルギー緩和過程のメカニズムと,この過程を観測するのに有用な手法に関して,過去の研究例を交えて述べられている。

第2章では,本研究において製作・応用された時間分解赤外ポンプ・プローブ分光装置の詳細と,本手法が分子振動に応用された際に観測される信号の解釈に関して述べられている。

第3章では,タングステンヘキサカルボニルの三重縮重CO伸縮振動のエネルギー緩和時間を,溶媒アルカンの炭素数を変化させつつ観測した結果が述べられている。CO伸縮振動エネルギー緩和時間が,溶質溶媒間の微視的相互作用を反映することが新たに見出された。

第4章では,第3章で得られた結果をさらに追求する目的で,二成分混合溶媒中でのタングステンヘキサカルボニルCO伸縮振動のエネルギー緩和時間を観測した結果が述べられている。溶質と溶媒の分子サイズがほぼ等しい場合,分子間の特異的相互作用が反映されることで,エネルギー緩和時間が短くなるという機構が提案された。

第5章では,タングステンヘキサカルボニルの6つのカルボニル配位子のうち1つを他の配位子に置換した際,CO伸縮振動エネルギー緩和過程が受ける影響が議論されている。COという単純な配位子を複雑な配位子に置換することでエネルギー緩和過程が速く進行するという観測結果から,振動エネルギー緩和過程における分子内・分子間エネルギー移動過程の寄与が分離して議論された。

第6章では,重水中の酢酸,第7章では,メタノール中の酢酸メチルのカルボニル伸縮振動エネルギー緩和過程について議論されている。両者の系で,溶質分子と溶媒分子との異なる水素結合錯体が溶液中で混在していることが見出された。

第8章では,本論文の結論が述べられている。

本論文において提出者は,分子内振動のエネルギー緩和過程というダイナミクスの観測が,他の手法では得ることが困難であるような分子の微視的環境に関する情報を得るための極めて有用な手法であることを示した。また,具体的にどのようにエネルギー緩和過程が分子環境を反映するかについて解釈を行った。この研究はその発想の独創性とともに,将来さらに多くの溶液系へと応用されていく発展性を持ち合わせているという点において高く評価できる。

本論文のうち,第3章はChemical Physics Letters誌(佐藤伸,岩田耕一,渡口宏夫と共著),第4章はTheJournalofPhysicalChemistryA誌(岩田耕一,濱口宏夫と共著),第5章はThe Journal of Chemical Physics誌(岩田耕一,濱口宏夫と共著),第6章はThe Journal of Physical Chemistry A誌(太田薫,富永圭介と共著),第7章はThe Journal of Raman Spectroscopy誌(太田薫,富永圭介と共著)において公表済みである。これらの研究は論文提出者が主体となって実験,解析を行ったものであり,その寄与は十分であるため,学位論文の一部とすることに問題はないと判断される。

以上の理由から,論文提出者伴野元洋に博士(理学)の学位を授与するのが適当であると認める。

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