学位論文要旨



No 217193
著者(漢字) 森田,数実
著者(英字)
著者(カナ) モリタ,カズミ
標題(和) ホルクハイマー批判的理論の生成と展開 : 現代の理性批判と社会学
標題(洋)
報告番号 217193
報告番号 乙17193
学位授与日 2009.07.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 第17193号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 盛山,和夫
 東京大学 教授 武川,正吾
 東京大学 教授 佐藤,健二
 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 名誉教授 仁田貝,香門
内容要旨 要旨を表示する

本論文は,マックス・ホルクハイマーの思想の生成と展開を,19世紀末からワイマール期にかけてドイツ思想が直面した,理性の自律性への疑いという問題への解答の試みとして,統一的に解釈することを目的としている。30年代のホルクハイマーは,理性があらゆる目標設定の基準をなすものとしての力を失った理由とその克服を,「理性という形而上学」を破壊しようとするような精神的潮流-マルクス主義的社会理論,精神分析,ニーチェの哲学など-を認識手段として受容し,探求する。本論文は,一般にいわれるホルクハイマーによる西欧マルクス主義の視座の受容を,さらに一歩掘り下げ,彼にあってその視座を構成する要素のうち,物象化論は受容されるが疎外論は受容されないという選択的な受容がなされていることを明らかにし,そこに彼本来の人間学的関心と,それと密接に関連する社会学的研究・分析が関与していることを示し,そしてホルクハイマーが,形而上学と専門科学の形態をとる科学への同時的批判と,理性を支える市民的人間の質への批判とから,彼固有の「批判的理論」の具体化が企画されたことを解明している。それを踏まえて本論文は,40年代のホルクハイマーの転回には,自然の言語化という視点が決定的であり,この点でアドルノの認識方法とは異なるという新たな知見を提出している。

本論文は全8章からなる。序章で問題提起を行った後,第一章は,初期ホルクハイマー思想の生成を,彼が営んだひとつの精神的二重生活とその統合という観点から再構成している。彼の初期の手記・著作のなかには,市民社会の現実に対する批判と,そこに生きる人びとの苦しみへの同情という,近代性の条件のもとで生きる人間の運命に関する人間的関心が見いだされる。他方,彼のアカデミズムでの研究は,新カント派の思考圏に属する形式的な認識論的研究である。本論文は,この人間学的関心とアカデミズムでの認識論的研究とが,同時代の哲学や社会学との対話を介して統合に向かうことを跡づけている。

第二章では,30年代の一連の認識論的研究の検討を中心に,批判的理論の構成が明らかにされる。ホルクハイマーは,この自らの思想的営為の認識論的基礎づけの作業を,観念論と実証主義の同時的批判を可能にする,非完結的弁証法の視座の確立で遂行している。この視座は,一方で唯物論として,科学による幻想批判を基礎に観念論を批判すると同時に,他方で専門科学の形態をとる科学を批判する。すなわち,非完結的弁証法は,専門科学の部分的合理性を全体の非合理性に帰着させるのではなく,その諸成果に理性的な社会への関心を基礎に限定的否定を加えながら,それを全体の理論へとひとつの契機として組み入れて現実を再構成し,実践の一契機とする。本論文は,この構想が30年代の学際的唯物論,ひいては社会研究所の組織原理となって具体化することを示した。本論文はさらにこの関連で,シュネーデルバッハとブルンクホルストの研究成果を踏まえつつも,アドルノとの討論の記録の検討などを通じてホルクハイマーの関心概念に独自の考察を加え,彼固有の媒介的思考を明らかにしている。限定的否定を駆動する関心の概念は,「事実的なもの」を「規範的なもの」に変換する働きを持つ。例えば,同情という心的態度・感情は,市民社会のなかでの個々人の運命の無意味さと結びつけられることで,批判に規範的な方向を指示する内容として積極的・肯定的に捉え直される。本論文は,ホルクハイマーが,合理的,認知的に十分検討された,衝動と意志との指図としての関心の概念を,一方で限定的否定を駆動する基礎として用いると同時に,他方でその概念を戦略的かつ柔軟に用いることで,批判的理論の規範的基礎の問題へのひとつの寄与をなしていることを指摘し,この両側面からホルクハイマーの駆使する媒介的思考のあり方・特徴を明らかにした。

第三章と第四章は,30年代の一連の人間学的研究の検討を中心に,市民文化および市民的人間の質の分析を解明している。ホルクハイマーは,『社会研究誌』に拠る研究活動のなかで,彼本来の人間学的関心を社会理論へと組み入れ,再定式化することで,より一層の明確化と展開をめざす。彼のこの人間学的研究の視座を示すものとして,本論文がまず考察の対象としたのは,『権威と家族』に関する研究である。この研究では,物象化論を,市民社会のなかで生きる人間の質の分析・理解のために用いてゆくホルクハイマーの視点,すなわち権威論のねらいがはっきりと現れている。自由な交換原理に基づく市民社会は,そのイデオロギーとは裏腹に,その基礎である盲目の市場メカニズムにより,そのなかで生きる人間に社会関係への服従を強いる。ホルクハイマーはこの事態を,社会関係そのものの権威化として捉え,そしてこの物象化された権威を基礎に,一方で市民文化のなかに盲目の服従を賛美する権威主義的要素の強化をたどるとともに,他方で市民階級の権威主義的な家族のなかに,市民的権威がパーソナリティーへと定着してゆく心的媒介を探り,この視点から市民的人間の質,とりわけその心的制約を分析している。本論文はさらに,『権威と家族』に関する研究と平行して行われたホルクハイマーの二つの研究が,彼の人間学的研究の展開を示すものであることを解明している。論文「モンテーニュと懐疑の機能」は,懐疑的相対主義という思考様式に即して,市民的精神の諸特徴を明確化し,市民社会の発展とともにその思考様式が近代の初期に持っていた進歩的契機が,反動的なものへと転化することを歴史的に分析している。そして論文「エゴイズムと自由を求める運動」は,市民的・禁欲的道徳が,一方で市民社会の競争原理を制限するという社会的機能を果たすと同時に,他方で市民的大衆に対して衝動の抑圧・内面化を強制し,それは特定の歴史的・社会的条件のもとでは市民的ニヒリズム-それはその道徳の担い手としての人間の密かな自己軽蔑と,他者の幸福への憎悪へと行き着く-という否定的な人間的帰結を生むことを分析している。ナチズムを視野に入れ,ホルクハイマーの媒介的思考に導かれた市民的人間の自己認識ともいうべきこれらの研究は,相対主義やニヒリズムの問題を市民文化,とりわけ市民的道徳の社会的・人間的機能をひとつの基礎に社会的・人間的問題として捉え直し,探求するものと理解され,そして本論文は,ホルクハイマーのこれらの研究はその決定的な箇所で,ニーチェの鋭く深い心理学的洞察,さらにそれに影響を受けた社会学の支配論,エートス論の批判的受容に基づいていることを示した。

以上を踏まえて,第五章と第六章は,『啓蒙の弁証法』および40年代の諸論文と,関連するアドルノの諸論文の検討を中心に,ホルクハイマーの転回に対するひとつの新たな解釈を提出している。『啓蒙の弁証法』は,大衆社会・管理社会の到来を前に,道具的理性の自己批判と,道具的理性によって損なわれ,抑圧されたものの痕跡の同時的探求を遂行するが,この理性と自然の弁証法の視点から得られる「主体の内での自然の想起」という新たな合理性概念,ひとつの理性と自然の宥和の試みに関し,本論文は,シュミート・ネアの研究成果を踏まえつつも,ホルクハイマーとアドルノとの違いを独自に解釈している。ホルクハイマーの思考に近いスローターダイクのニーチェ研究と,アドルノの「自然史」の視座のひとつの基礎となっているベンヤミンの言語哲学をメニングハウスのベンヤミン研究で検討した後,本論文は,『道具的理性批判』やその他の40年代の論文も検討しつっ,ホルクハイマーの視座を,言語・コミュニケーション論的視点からする,身体・知覚と言語の関係,後者による前者の「翻訳」関係に基礎を置くものと分析している。すなわち,本論文は,道具的に図式化する認識と,合理的-ミメーシス的献身という態度・能力を対立させ,前者の思考と繊細な感覚的データとの交差に主体の内的な深さがあるとのホルクハイマーの見解を受け,彼の新たな合理性概念を,外的な知覚世界への優しさと豊かさ-「第一次的コミュニケーション」-の,「哲学的」概念・言語-「第二次的コミュニケーション」-への「翻訳」という「自然の言語化」の視点,「自然」の沈黙の苦しみに表現を与え,その声となるとも表現される視点に基づくものと分析し-「翻訳」が失敗すると,自然全体が囚われている病的な孤独は克服されず,自我は硬直する-,そしてこの視点に立って『啓蒙の弁証法』の「ジュリエット」の章を,サドとニーチェの思想に科学的言語・思考と「道徳的感情」との「翻訳」の困難を剔抉すると同時に,しかし両者がこの矛盾・困難を言い表わそうとするところに「宥和」の恢復の徴候が孕まれていることを示そうとする試みとして分析・考察している。終章は,本論文の全体を振り返り,その成果をまとめている。

以上,本論文は,30年代ホルクハイマーの「批判的理論」に基づく理性批判を,彼固有の媒介的思考と市民的人間の質への批判とから明らかにし,それを踏まえて40年代の転回においては,理性と自然の関係,その宥和に関し,ホルクハイマーがとった視点は「自然の言語化」と表現されるものであることを解明することで,ホルクハイマー思想のひとつの新たな解釈を提出した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、M.ホルクハイマーの思想における40年代の「転回」とアドルノとの「亀裂」の問題について、その思想の形成展開の軌跡を辿りながら統一的に解釈する試みを提示したものである。『啓蒙の弁証法』の「主体のうちでの自然の想起」という視座を通じての理性と自然との宥和の試みについては、G.シュミート・ネアによって、アドルノの「自然史の理念」に注目した批判的解読がすでに示されている。本論文はその成果を踏まえつつも、むしろホルクハイマーの執筆部分とされる「ジュリエット」の章に焦点をあて、そこには、外的な知覚世界への優しさと豊かさからなる第一次的コミュニケーションの、第二次的コミュニケーションとしての哲学的概念・言語への翻訳という「自然の言語化」の視点を通じて、科学的言語・思考と道徳的感情との矛盾と分裂の認識およびその言語化が、一つの宥和の恢復への兆候を孕むことを取り出そうとする試みが示されているという、独自の解釈を提示するものである。

本文は全8章からなる。序章で問題提起を行ったあと、第一章は、初期の手記における市民社会の現実に対する批判と、そこで生きる人々の苦しみへの同情というホルクハイマーの人間学的関心を確認する。第二章では、一連の認識論的研究を中心に批判的理論の構成を検討し、それが、専門科学の諸成果に理性的な社会への関心に基づく限定的否定を加えながらも、全体の理論へと組み入れて現実を実践的に再構成するものであることを指摘し、そこでは、たとえば同情という心的態度・感情は市民社会の中で個々人の運命の無意味さと結びつけられることで、批判に規範的方向を指示するものとして肯定的に捉え直されていることを明らかにする。第三章と第四章は,30年代の「権威と家族」に関する研究、「モンテーニュと懐疑の機能」、「エゴイズムと自由を求める運動」など、一連の人間学的研究の検討を中心に,市民文化および市民的人間の質の分析を解明している。以上を踏まえて、第五章と第六章では『啓蒙の弁証法』における「主体のうちでの自然の想起」という新たな合理性概念に関し、シュミート・ネアの論考を参照しつつも、著者独自にホルクハイマーとアドルノとの違いに着目し、スローターダイクのニーチェ研究とアドルノの思考の基礎となっているベンヤミンの言語哲学についてのメニングハウスの研究とを検討した後、ホルクハイマーの視点を身体・知覚の言語への「翻訳」関係に基礎を置くものと分析し、そこに道徳的感情の苦しみに言葉を与え表現へともたらすことにより、「啓蒙」と「自然」との和解へむけて歩みを進めようとするホルクハイマー思想の新たな展開の試みが見いだされると結論する。終章は、本論文の全体を振り返り、その成果をまとめている。

本論文は、ホルクハイマー思想の生成と展開を,丹念・周到なオリジナルテキストの徹底した読みと,重要な二次的文献の検討に支えられて独自の視点で解読したものであり,この分野の研究を大いに進展させたものとして高く評価することができる。よって本審査委員会は,本論文が博士(社会学)の学位を授与するに値するとの結論を得た。

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