学位論文要旨



No 217207
著者(漢字) 澁谷,知美
著者(英字)
著者(カナ) シブヤ,トモミ
標題(和) 青少年男子の性的身体の管理をめぐる社会史 : 1890~1940年代の就学者層を中心に
標題(洋)
報告番号 217207
報告番号 乙17207
学位授与日 2009.09.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第17207号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 苅谷,剛彦
 東京大学 教授 垣吉,僚子
 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 教授 青木,健一
 日本大学 教授 廣田,照幸
内容要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、1890~1940年代の日本における青少年男子の性的身体の管理の内実を明らかにすることで、近代以降の男性の性的身体をどのように見るべきか、その認識枠組みを提示することである。

1980年代以降、日本では、フェミニズムの興隆によって、男性の性や身体にかかわる事象が「社会問題」化されてきた。たとえば、性暴力やセクシュアルハラスメント、買春行為やポルノグラフィの消費である。一方、アカデミズムの世界でも、男性の性や身体を対象とした研究が盛んに行われつつある。しかしながら、男性の特定の性行動を説明する原理(たとえば、「権力志向」「女性嫌悪」「ホモソーシャル」など)についての議論は蓄積を見せつつあるものの、そうした原理を習得し、実践し、再生産する物質的基盤である「男性の性的身体」そのものをどう捉えるべきか、そもそも社会においてどのような位置づけを与えられているから「男性の性的身体」はこれら行動原理を実践するのか、そうした疑問が解明されているわけではない。

そこで本研究では、近代以降の男性の性的身体をどのように見るべきか、その認識枠組みを示すことを課題とする。そのために、「近代において、男性の性的身体はいかなるものとして位置づけられたのか」という問い((1))を設定し、さらに「1890~1940年代において、男子学生の性的身体は、教育者や医者らによって、どのように管理されたのか」という問い((2))へと再定式化する。そして、「1890年代、教育者や知識人たちは、どのような言説によって男子学生に性的身体の使用を禁じたのか」(問い(2)-1)、「教育者や知識人たちが、男子学生に性的身体の使用を禁じた結果、教育の現場ではいったいどのような非言説実践が行われることになったのか」(問い(2)-2)、「1910年代、性教育を説いた医学者や教育者たちは、どのような言説によって男子学生に性的身体の使用を禁じたのか」(問い(2)-3)、「性教育学者たちが、男子学生に性的身体の使用を禁じた結果、教育の現場ではいったいどのような非言説実践が行われることになったのか」(問い(2)-4)という4つの問いへと細分化する。

これらの問いに対する解を導くために、次の作業を行う。問い(2)-1を明らかにするために、木下広次、福沢諭吉、徳富蘇峰ら、1890年前後の教育者や知識人による、男性の「立身出世」と「品行」にまつわる言説を検討する(第1章)。問い(2)-2については、同時期に社会問題化した「学生風紀問題」と、それを契機として行われるようになった教育者や警察による学生の性的行動の管理の内実を見る(第2章)。問い(2)-3については、1910年代以降興隆を見た性教育言説のうち、花柳病(性病)罹患の恐ろしさを青少年に教え込もうとする言説を取り上げる(第3章)。問い(2)-4については、同時期より学校の入学試験にて行われるようになった、被検者の男性器を直接調べることで花柳病に罹患していないかどうかを確認する検査、「M検」を分析の俎上に載せる(第4章)。

それぞれの問いにたいする答えをあらかじめ述べるならば、次のようになる。(2)-1の言説については、「立身出世」と登楼や恋愛などの「性的身体の使用」とは両立しないこと、価値があるのは前者であること、を学生たちに伝えるものが該当する。これら言説は、今「性的身体の使用」を行えば、将来の「立身出世」はおぼつかないと説くことで、学生たちに性的行動を慎ませることを眼目としている。ここに「性から遠ざからねばならない時期としての学生時代」が成立した。

(2)-2の非言説実践については、教育者や警察による校外取締りが挙げられる。1890年代末から1910年代はじめにかけて、さまざまな訓令・通牒等が文部省や警察から出され、登楼や男色など、少し前までは「学生文化」として見過ごされてきた性的行動が取締りの対象となる。また、こうした大人側の動きを受けて、学生生徒じしんが自他に自重を呼びかけるようにもなる。ここに、学生の性的行動を管理/自己管理することは、教育者、警察、学生本人たちの「当然の任務」となった。

(2)-3の言説については、結婚前にみだりに性交渉を行うことで、花柳病に罹患したり、性交渉に耽溺することになり、人生が破滅する、といった内容のものが該当する。ここでいう人生の破滅とは、志した事業の達成、妻子との幸せな生活など、「男性にとってのぞましい人生」が不可能になることである。性教育とは、「近代医学」の知によって、男子学生を「男性にとってのぞましい人生」へと誘導する言説であった。

(2)-4の非言説実践については、入学試験という「立身出世」のパスに、花柳病検査であるM検が組み込まれた事実が挙げられる。その事実は、学生に自己の身体が性的機能を備えていることを自覚させ、「性的身体の使用法を誤ると、立身出世にひびくらしい」ことを学生にメッセージする。学生は、立身出世に使える身体が立身出世を邪魔するものでもあること、立身出世をするためには、性的身体を自己管理することが必要であることを知る。立身出世をのぞむ生徒は自制をするようになる。M検とは、学生に性的身体の自己管理を促す契機であった。

以上の知見に依拠しつつ、推論も交えながら、「近代において、男性の性的身体はいかなるものとして位置づけられたのか」という問い((1))に答える。

男性身体は第一義的に「生産する身体」として、第二義的に「性的身体」として、社会において位置づけがなされたといえる。

「生産する身体」は、生産を「良きこと」として価値づけ、もっぱら生産に従事するキャリアを「良きもの」であるとする「生産称揚言説」と、男性の身体は頑強であるというイメージを形成する「男性身体=頑強言説」によって、意味付与されている。前者は、国家の利益のために粉骨最新することを至上の価値とした上で、その具体的方法を官庁や企業といった生産領域に従事することとし、そうしたルートに乗ることがそのまま個人の「立身出世」となることを説くメッセージである。男性身体にたいする生産性発揮要求ともいえる。しかし、そのような要求は時に個人の心身の限界を越えさせる無理を強いることがあり、バーンアウトする身体が出てきてしまう。要求にたいしていちいち男子が傷ついたり、命を落としたのでは、男子を生産領域に配置する近代社会システムがうまく機能しない。よって、後者の「男性身体=頑強言説」が必要とされる。男性身体は身体的/精神的圧迫にたいして頑強であるという、この言説によって、男子を幸福な「感覚鈍麻」状態に置くことができる。こうして、社会は、男性身体を「生産する身体」として動かすことができる。

「性的身体」は、男性の性欲の抑制は困難であるとする「抑制不可能言説」と、男性身体が性的目的に供されることを称揚する「再生産称揚言説」によって、意味付与されている。前者は、男性の身体は性欲で満たされているもの、男性の性欲はコントロールが効かないものといった、性教育言説に見られた前提である。後者は、よき妻、よき子どもを得られる身体を称賛し、買春などの婚外性交を奨励する言説である。よき妻子を持つことが称揚されるのは、生産領域での男性の成功を分かりやすく可視化するためであり、婚外性交が奨励されるのは、生産領域における男性の活動を活性化すると考えられているため、という事情を考慮すれば、この言説は、「生産称揚言説」の「性的身体」ヴァージョンと考えられる。

と同時に、「性的身体」には、これらの言説が浸透しない感覚=領域もある。さしあたり「脆弱な感覚=領域」と呼んでおく。具体的には、一部の学生が感じたであろうM検にたいする得もいわれぬ嫌悪感と、そうした嫌悪感を学生に覚えさせた身体領域=ペニスのことである。脆くて、弱々しく、不安定で、柔らかく、傷つきやすい感覚=領域は、「抑制不可能言説」や「再生産称揚言説」による意味づけを拒否する残余領域である。

ところで、「生産称揚言説」は「抑制不可能言説」と背反する。「男性身体=頑強言説」は「脆弱な感覚=領域」になじまない。しかし、基本的に「性的身体」は「生産する身体」に従属するものとして位置づけられているから、「性的身体」が身の外へと放逐されることはない。とはいえ、男性の身体に両義的な意味づけがなされていることは確かである。

したがって、「近代において、男性の性的身体はいかなるものとして位置づけられたのか」という問い((1))に答えるならば、「生産する身体」に従属しつつも、「生産する身体」に背き、あるいは「生産する身体」になじまないものとして位置づけられた、というものになる。

審査要旨 要旨を表示する

近代社会において、男性の身体にはどのような社会的な意味づけが与えられているのか。教育社会学を含め、社会学の分野では、女性の性的身体の社会的意味づけを探る試みは見られるものの、男性を対象にした研究はほとんど行われてこなかった。このようななかで、本論文は、ジェンダー論の視点に立ち、男性の性的身体が近代以降の日本社会においてどのように位置づけてられたかを、青少年男子、とりわけ1890年から1940年代の就学者層に焦点づけて実証的、理論的に明らかにした教育社会学的研究である。

本論文は、6つの章より構成される。序章では、問題設定と方法論の検討が行われる。近代において、男性の性的身体がどのように位置づけられたかという本研究の主題を、教育的視点及び医学的視点から、男子学生の性的身体がいかに管理されるようになったのかという問題へと展開させつつ、言説分析を用いた歴史社会学的研究としての方法論の検討が行われる。そこでの問題設定に基づき、1章では、木下広次、福沢諭吉、徳富蘇峰らの教育言説を対象に、男子学生の性的身体が、立身出世という価値観との対立関係においてとらえられていたこと、そのために性的身体の使用抑制が説かれていたことが明らかにされる。2章では、こうした言説を受け、「学生風紀問題」への取り締まりという形で、実際に校外での取り締まりが実施されたり、学生自身による自己管理活動が展開したことが、雑誌資料の分析を通じて解明される。

3章では、「花柳病(性病)」をめぐる医学言説を対象に、医学者や教育者による性教育を通じて、性的身体の使用禁止が「科学的」言説によって正当化されていたことが明らかになる。続く4章では、高等学校の入学試験に際し、性病検査として性器を対象とした身体検査(「M検」と称された)が実施されていたことの実態と、それへの学生の反応についての分析が行われる。その結果、こうした検査の実施やそれをめぐる言説の流布が、学生に自己の身体が性的機能を備えていることを自覚させると同時に、その使用法を誤ると立身出世に響くことを悟らせ、性的身体の自己管理を促したことが解明される。

これらの歴史社会学的分析の結果をもとに、終章では、近代日本社会における男性身体の意味づけについての理論的考察が行われる。そして、男子の身体が、「生産する身体」としての価値付けと、「性的身体」という二重性を帯びて意味づけられていたこと、「性的身体」は「生産する身体」に従属しつつ、それに背反する、アンビバレントな位置づけを与えられていたという結論が導かれる。

以上のように本研究は、これまで十分に研究されてこなかった近代以後の男性の身体性の問題を、性的身体という切り口から、立身出世という価値との関係において、それがいかに管理・統制の対象として位置づけられていったのか、その歴史的背景を解明し、男性の性的身体が馴致されていく過程を解明した点で高いオリジナリティをもつ。その点で、今後の教育研究に重要な貢献をなすものと考えられる。以上により、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認められる。

UTokyo Repositoryリンク