学位論文要旨



No 217208
著者(漢字) 山口,毅
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,タカシ
標題(和) 対面的相互行為における排除の社会学的研究 : E.ゴフマンのアプローチとその乗り越えを中心に
標題(洋)
報告番号 217208
報告番号 乙17208
学位授与日 2009.09.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第17208号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 苅谷,剛彦
 東京大学 教授 白石,さや
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 小玉,重夫
 日本大学 教授 廣田,照幸
内容要旨 要旨を表示する

本稿はテーマを対面的相互行為における排除の社会学的考察とし、とくに見えにくく曖昧な排除に焦点を当てて考察を行った。その際に、対面的相互行為における排除を取り扱ってきたE.ゴフマンの相互行為論を援用しつつ、それを批判的に乗り越えることを目的とした。

排除とは、社会の正当な成員として承認しない行為である。それを考察するにあたって必要なことは、相互行為と関連づけた議論である。なぜならば、具体的にどのような相互行為によって排除がもたらされ、どのような相互行為によって打開し得るかが突き止められないと、実践上の意義が希薄になるからである。そうした観点から検討が欠かせないものは、独自の領域としての相互行為秩序を探究したゴフマンの相互行為論である。

マイノリティによるアイデンティティ・ポリティクスの興隆以降、ゴフマンの議論は、被差別集団の排除を宿命的に捉える時代遅れなものだったとして批判されている。しかしながら集合行動の次元から日常的な場面に目を移し替えてみると、ゴフマンの見解は現在でも依然として説得力を有しているし、実際にそのようなものとして扱われている。この落差は、見過ごすべきではない。というのもゴフマンの説得力は、見えにくく曖昧な排除を存続させる相互行為秩序の仕組みに由来するからである。

排除に関する先行研究は、排除の正当化や見えにくさに対処し、それを批判する言語的資源を提出してきた。だがそれらは、ゴフマンが描いたような相互行為秩序の特徴を十分考慮に入れているだろうか。相互行為場面における見えにくく曖昧な排除を批判するために、適切な資源となっているだろうか。本稿はゴフマンの相互行為論を援用してその点を吟味し、先行研究が成功していないことを明らかにした。その上で本稿は、排除の決定論をもたらすゴフマンの議論を乗り越えるために、どのような作業が必要かを論じた。

本稿の構成は、以下である。

第1部「課題」(1章~3章)では、本稿の問題設定と、引き受けるべき課題を明らかにした。第2部「排除カテゴリーの曖昧さと流動性」(4章・5章)では、「排除の正当化」を批判しようとする差別論の先行研究が、相互行為場面における排除に関しては効力を失ってしまうことを明らかにした。それは、被差別集団のカテゴリーと個体の性能(人格的特性や能力など)を切り離して、後者による排除を無視する問題設定のゆえであった。そしてその限界を乗り越えるために必要なものとして、「振る舞いのサブカルチャー」のポリティクスという概念を提出した。第3部「相互行為における排除の見えにくさ」(6章・7章)では、ゴフマンの議論を手がかりに「排除の見えにくさ」をもたらす相互行為の組織化について検討し、ゴフマンを含む先行研究が、見えにくい排除を批判する際に効力を失ってしまう理由を明らかにした。そしてその限界を乗り越えるためには、正常な相互行為のあり方を複数のものとして捉え、批判の立脚点をオルタナティブな相互行為の方法に求める必要があることを論じた。以上の議論を踏まえて第4部「相互行為的シティズンシップの可能性」(8章・9章)では、オルタナティブな相互行為の方法を可能にし、「振る舞いのサブカルチャー」のポリティクスを実現する、別様の相互行為秩序の具体的なありようを探った。第5部「ゴフマンの相互行為論の乗り越えと教育社会学に対するインプリケーション」では、相互行為論は、実際の相互行為場面での行為の接続に働きかけるものであり、それを踏まえた政治的コミットメントが要請されることを述べ、ゴフマンの相互行為論の乗り越えを行った。

以下は、各章の内容である。

1章「問題設定」では、本稿の問題意識と問いを示した。

2章「ゴフマンの相互行為論と排除」では、ゴフマンの相互行為論を検討し、相互行為場面における排除の様態を把握した。そして、見えにくく曖昧な排除の存続を把握する上で、ゴフマンが重要な知見を提出していることを確認した。

3章「構築主義的アプローチの課題」では、デタッチメントに依拠して価値中立的に相互行為の記述を行うというゴフマンの主張は、方法論的に正当化され得ないことを示した。そして研究の役割は、デタッチメントにではなく、政治性へのコミットメントにあるということを主張した。

4章「排除カテゴリーの曖昧さ」では、日常的な経験において、誰が何者として排除されているか、あらかじめ知られているとは限らないという論点を取り上げた。そして、排除の正当化を批判する差別論のレトリックは、相互行為を解釈する上で適切な資源とはならないことを示し、「振る舞いのサブカルチャー」のポリティクスという観点が必要であることを述べた。それは、異なった振る舞いのエチケットを持つサブカルチャー間の葛藤として、排除を把握する戦略である。

5章「機会的なカテゴリーの流動性」では、伝統的な被差別集団のカテゴリーではなく、機会的に付与される流動的カテゴリー(その例として「いじめ」カテゴリー)を取り上げた。そして、被排除者が用いる反差別のレトリックは、カテゴリーの流動性のゆえに効力を失ってしまうことを示した。

6章「スティグマ再考―『見せかけの受容』とその回避をめぐって」では、スティグマのカヴァリングが成功したときに生じる「見せかけの受容」という状態に注目し、ゴフマンの議論に寄り添いながら、相互行為がカヴァリングによって洗練されるなかで、当事者が出口のない問題経験を抱いてしまうことを確認した。他方、同性愛者のカミングアウトを事例に、「見せかけの受容」の問題経験を参加者が回避していく手続きがあることを示し、それを検討した。

7章「『正常性の構築』としての排除」では、相互行為場面における「見えにくい排除」を可視化しようとする先行研究を検討し、それらは行為の連鎖という観点を欠いているために、排除の見えにくさに対して十分な批判を行えず、効力が失われてしまうことを論じた。他方でアフリカ系アメリカ人の相互行為を参照し、ゴフマンが描いたような「見えにくい排除」をもたらしにくい、相互行為の方法があり得ることを示した。そうしたオルタナティブな相互行為の方法は、状況定義の共有に関する強固な前提を置かず、相互行為場面での「事件」を忌避せずにその危険性を緩和する手続きによって、支えられていた。

8章「相互行為シティズンシップ―ラディカル・デモクラシーの視点から」では、「相互行為シティズンシップ」という概念を、S.ムフによるラディカル・デモクラシーと節合することで、排除のクレイムを阻む相互行為場面の仕組みに対抗する相互行為的手続きを明らかにした。それは、個人の相互行為上の能力の問題とされるものを、互いの関係性とそれに関わるカテゴリーの価値の問題に変換しなおし、いつでも相互行為場面で意見交換の題材にするという相互の期待によって、クレイムを表出可能にしていく手続きである。

9章「ラディカル・デモクラシーの相互行為シティズンシップの含意」では、そうした対抗的なシティズンシップの追求はどのように可能なのかという疑問に対してより具体的に答えつつ、それが全域化され得ないという限定を示した。

10章「教育社会学における相互行為論―排除との関係で」では、教育社会学において相互行為場面における自己を扱った構築主義的アプローチの問題点を検討した。そして、そこにはゴフマンの相互行為論と同型の落とし穴がはらまれており、未解決であることを確認した。

11章「ゴフマンの相互行為論の乗り越え」では本稿のまとめとして、相互行為論をどのように考えるべきかという点を論じ、3章で示した政治性へのコミットメントという研究の役割は、相互行為論においてどのような含意をはらむのかを明らかにした。相互行為場面の分析は、参加者による相互行為の解釈と等価であり、次の行為の指し手を準備するものとして考える必要がある。それは相互行為と解釈の日常的な循環過程に影響を与えることによって、日常的な相互行為に必然的にコミットするのである。そして、個人の参加する関係や場は、2種類の「相互行為―解釈」の循環系列で成り立っていること、ゴフマンはこのうち片方にコミットし、しかもそれを全域的なものとみなしがちであった点に問題があったことを示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、対面的相互行為場面で生起する「見えにくく曖昧な排除」の問題に注目し、その問題をいかに理論的にとらえ直すことが必要か/可能かを、突きつめて考察した研究である。

山口氏は、大きく分けて二つの作業を本論文の中で行っている。一つは、アメリカの社会学者、E・ゴフマンの議論を読みなおした視点から、近年流行しているアイデンティティ・ポリティックス論による分析がもつ限界を明らかにする、という作業である。すなわち、各種のマイノリティの解放運動に発する、被差別集団カテゴリーに依拠した議論では、カテゴリーを用いないでなされる「見えにくく曖昧な排除」を批判できない(第2部)。また、近年、社会学の分野で進められている、スティグマの介在する相互行為の分析では、表面上事件が生じない「見せかけの受容」を問題化できない(第3部)。

むしろ、アイデンティティ・ポリティックスの論者からは「時代遅れ」とみなされているE・ゴフマンの議論にこそ、説得的な分析を見出すことができると山口は考える。被差別集団カテゴリーが用いられず、表面上リベラルな受容が存在する相互行為において、にもかかわらず排除が生じてしまうメカニズムを、ゴフマンは描き出しているとみている。

しかし、ゴフマンの議論にも問題がある。その合意論的で決定論的な理論構成の結果、排除の現実を記述することが、相互作用の組み換えの実践的可能性を封じてしまうという点である。それは、構築主義的社会問題論と同型の問題である(第3章・第10章)。

そこで、山口氏は、本論文の後半で、もう一つの作業を行っている。C・ムフのラディカル・デモクラシーの視点を導入するとともに、P・コロミー&J・D・ブラウンの「相互行為シティズンシップ」の概念に着目し、「ラディカル・デモクラシーの相互行為シティズンシップ」という視点を立て、「見せかけの受容」が発生している相互行為の組み換えの可能性を提示している。ゴフマンの議論が合意論的なリベラル・デモクラシーの前提をもっているのに対して、葛藤論的な理論枠組みを提示することで、相互行為と解釈との別の循環過程の可能性を示したのである。

本論文の意義は、対面的相互行為場面における排除の問題を考える上で、ゴフマンの議論がもつ理論的重要性を明らかにしたと同時に、そのゴフマンの限界を乗り越える一つの可能性を提示した点にある。あからさまな差別ではなく見えにくい差別・排除に、固定した差別ではなく流動的で機会主義的な差別・排除に変容しつつある現代の差別「承認」問題を考える上で、重要な理論的貢献であるといえる。本論文中では、いじめ、帰国子女、学校におけるジェンダーなど、教育に関わるさまざまな主題についても論及されており、抽象度の高い議論が、教育学の研究に対しても十分な含意をもっていることが示されている。このような観点から、本論文は博士(教育学)の論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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