学位論文要旨



No 217213
著者(漢字) 高野,博通
著者(英字)
著者(カナ) タカノ,ヒロミチ
標題(和) βアミロイド(Aβ)および細胞内Ca2+濃度上昇による中枢神経細胞死のメカニズムへのc-Jun N-terminal kinase(JNK)pathwayおよびCa2+/calmodulin(CaM)の関与に関する研究
標題(洋)
報告番号 217213
報告番号 乙17213
学位授与日 2009.09.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第17213号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 准教授 武田,弘資
内容要旨 要旨を表示する

〈序論〉

数多くの中枢神経変性疾患が知られているが、これらの中でアルツハイマー病(AD)および脳梗塞の罹患率は比較的高い。AD治療薬としてアリセプトやメマンチンが市販されているが、病態の進行を遅延させるにとどまっており、原因療法はもとより病態の進行を止める薬剤は存在しない。一方、脳梗塞においては、血管が閉塞して脳虚血に陥ると中枢の神経細胞へ十分な酸素が供給されず、神経細胞死が誘導されるが、その原因は血栓による血流の低下にあることから、tissue plasminogen activator(t-PA)等の血栓溶解療法が用いられている。しかし、発症後3時間以内にt-PAを処置しなければならないため治療可能時間は非常に短く、また、重篤な副作用である脳出血を引き起こす危険性がある。日本においてはエダラボンが承認を受けているが、グローバルに認知された薬剤でない。これら両疾患の治療環境を鑑みると、現在適用されている治療薬では満たされないニーズに対し、新たな作用機作による治療薬が必要であることは明白である。両疾患は共に神経変性疾患の一つであり神経細胞死が誘導されるが、細胞死に至る機序については数多くの不明な点が残されている。従って、それぞれの疾患における神経細胞死に至るメカニズムを解明する意義は非常に大きい。本研究では、1)ADにおいて重要な役割を演じているβアミロイド(Aβ)により誘導される神経細胞死について、c-JunN-terminal kinase(JNK)を中心にそのメカニズムを明らかにすること、また、2)脳虚血時に惹起される細胞内へのCa(2+)流入を介した神経細胞死について、calmodulin(CaM)およびCaM依存性酵素を中心にそのメカニズムを明らかにすることを目的に検討した。

1.Aβ刺激誘導の神経細胞死のメカニズム

ADの病理的特徴の一つに、患者脳における老人斑が挙げられる。老人斑は凝集したAβが脳に沈着したものである。ADの発症機序はいまだ解明されていないが、Aβ仮説が最も支持されている。その根拠として、1)amyloid precursor protein(APP)やpresenilinに変異のある家族性ADではAβの生成が増加すること、2)凝集したAβは培養神経細胞に障害性を示すこと、3)大脳皮質に広範囲にAβ沈着が検出されることがADの神経病理学的な証であること、などが挙げられる。Aβ刺激誘導の神経細胞死には、酸化ストレスや細胞内Ca(2+)の恒常性の破綻、蛋白質合成依存的なメカニズムが示唆されているが、細胞死の引き金を引く直接の細胞内情報伝達系は明確にされていない。神経細胞死のメカニズムに関してはいくつかの報告があるが、JNKの関与を示唆する報告が数多い。その代表例として、1)JNKpathwayは酸化ストレスによって活性化されること、2)NGF除去によるアポトーシスがJNK-c-Junの活性を阻害することにより抑制されること、4)カイニン酸刺激誘導の神経細胞死が、JNK3ノックアウト(KO)マウスおよびc-Jun変異マウスの神経細胞において減弱すること、などが挙げられる。JNKには1~3のisoformが存在するが、JNK3は主に中枢に特異的に発現する。従って、JNKが中枢においてAβによる神経細胞死に重要であることが明らかとなれば、JNK3を特異的に阻害することによりADの神経細胞死を抑制し、病態の進行を止め得る新規AD治療薬の創製に繋がる可能性があると考えた。今回、主にげっ歯類の初代培養神経細胞を用いてJNKのAβ刺激誘導神経細胞死への関与を検討し、さらにその下流のシグナル伝達機構を解析した。その結果、1)JNKの上流の酵素およびc-Junの機能欠損型の遺伝子を細胞に導入した神経細胞、あるいは2)JNK3 KOマウスの神経細胞において、神経細胞死が減弱することを示し(Fig.1)、Aβ刺激誘導神経細胞死にJNK3 pathwayが関与することを明らかにした。

JNKが細胞死を惹起するメカニズムについても不明な点が多いが、Aβ刺激誘導のアポトーシスがJNK3-c-Junの転写活性に依存していることから、標的因子が介在している可能性がある。1)神経栄養因子を除去することにより、JNK依存的なFasLのmRNAおよび蛋白質の発現が上昇すること、2)FasLはFas受容体と結合して活性化し、caspaseカスケードを介して細胞死を誘導すること、3)FasLはJNK-c-Junの標的遺伝子であり、FasL遺伝子のプロモーター領域にc-Jun結合サイトが存在すること、などの報告があることから、Aβ刺激によりJNKが神経細胞死を惹起するメカニズムにFasL-Fas系が関与する可能性を考えた。その結果、1)Aβ刺激によりFasL mRNAおよび蛋白質の発現が誘導され、JNK3 KOマウスの神経細胞では認められないことを示した。また、Aβ刺激により誘導される神経{細胞死が、2)Fasの機能を阻害する蛋白質の前処理や、3)FasLおよびFasの機能欠損型変異マウスの神経細胞において減弱すること(Fig.2)、4)caspase-8の阻害剤を処理することにより抑制されることなどを明らかにした。これらの結果から、Aβ刺激誘導の神経細胞死において、JNK3-FasL-Fas-caspase-8の経路が関与していることを示した(Fig.3)。

2.細胞内Ca(2+)濃度上昇を介した中枢神細胞死のメカニズム

脳梗塞は、血栓による脳虚血に端を発し、脱分極を介したグルタミン酸等の神経伝達物質の過剰な遊離、細胞内Ca(2+)濃度の上昇、イオンバランスの破綻、種々のCa(2+)依存性酵素の活性化等を介して細胞死を誘導することが報告されている。このように、Ca(2+)が虚血による神経細胞死に重要な役割を演じていると考えられているが、細胞内Ca(2+)濃度の変動以降の主たる役割を担っているメカニズムについては不明な点が多い。虚血後の細胞内へのCa(2+)流入の後にCa(2+)結合蛋白質であるCaMがCa(2+)と結合して活性化されることにより、CaM kinase II(CaMKII)、nitric oxide synthase(NOS)、calcineulinやphosphodiesterase等のCaM依存性経路が活性化され細胞障害が誘導されるという報告がある。CaMは中枢神経系に多く発現するCa(2+)結合蛋白質である。CaMアンタゴニストが海馬の組織培養系において低酸素および低グルコースによる細胞障害に対して抑制作用を示すこと、Ca(2+)濃度上昇による細胞死や虚血性脳障害を抑制すること、CaM依存性酵素の阻害剤が神経保護作用を示すこと、などの報告があることから、特にCaMとその依存性酵素に注目して、虚血時の神経細胞死のメカニズムを検討することとした。今回、初代培養神経細胞を用い、脳虚血のin vitro試験系の一つと考えられているNa+チャネル活性化剤veratridine刺激誘導の神経細胞死におけるCaMおよびCaM依存性酵素の関与を検討した。本実験系では細胞外Ca(2+)が重要であることが知られている。検討の結果、venatridine刺激誘導の細胞死において、1)各種CaMアンタゴニストおよびCaMKII阻害剤が細胞死を抑制し、その効果はその阻害活性の強さと一致すること、2)veratridineによりCaMKIIのリン酸化が充進され、CaMやCaMKI1阻害剤によりリン酸化が抑制されること、3)各種NOS阻害剤、calcineulin阻害剤は細胞死に影響を与えないことを示し、veratridine刺激誘導の神経細胞死にCaMKIIが関与することを示した。さらに、脳虚血時の神経細胞内におけるイベントを模倣した実験系として、細胞内Ca(2+)濃度上昇を介した神経細胞死モデルを用い、新規CaMアンタゴニストであるDY-9760eの保護効果を検討した。本剤はこれまでにCa(2+)ionophoreによる神経芽細胞の細胞死を抑制すること、げっ歯類やネコの中大脳動脈閉塞モデルにおいて、梗塞サイズを縮小することなどが報告されている。今回DY-9760eは、虚血時の細胞内イベントを模倣した各種実験系において、1)グルタミン酸刺激およびN-methyl-D-aspartic acid(NMDA)刺激等の興奮毒性による細胞死、2)veratridineおよび高濃度KCIによる脱分極刺激誘導の細胞死、3)thapsigarginによる小胞体からのCa(2+)放出を介した細胞死に対して保護作用を示すことを明らかにした。以上の結果から、veratridine刺激による神経細胞死にCaM/CaMKIIが関与すること、また、DY-9760eが種々の細胞内Ca(2+)濃度を上昇させる刺激により誘導される神経細胞死を抑制したことから、CaMが脳虚血による神経細胞死に対する保護薬の重要な標的であることを示唆した(Fig.4)。

〈総括〉

本研究により、Aβ刺激誘導の神経細胞死にJNK3-c-Jun-FasL-Fas-caspase-8が関与することを明らかにした。また、脳虚血時の神経細胞死にCaMが重要な役割を演じ、その一部にはCaMKIIが関与していること、CaMアンタゴニストが神経細胞保護作用を示すことを示した。JNK3は中枢に特異的に作用して神経細胞死を抑制する新規AD治療薬の創製に、CaMは脳虚血時に神経細胞を保護する薬剤の創製に繋がるターゲットとして有用であると考えられる。

Fig.1 JNK3 KOマウス由来神経細胞において、Ab刺激誘導の神経細胞死が顕著に減弱された。

Fig.2 FasLおよびFasの機能変異マウス由来神経細胞において、Ab刺激誘導の神経細胞死が顕著に減弱された。

Fig.3 Ab誘導の神経細胞死のメカニズムに、JNK pathwayおよびFasL-Fas経路が関与する

Fig.4 神経細胞内へのCa(2+)流入を介した神経細胞死へのCaMの重要性

審査要旨 要旨を表示する

AD治療薬としてアリセプトやメマンチンが市販されているが、病態の進行を遅延させるにとどまっており、原因療法はもとより病態の進行を止める薬剤は存在しない。一方、脳梗塞においては、血管が閉塞して脳虚血に陥ると中枢の神経細胞へ十分な酸素が供給されず、神経細胞死が誘導されるが、その原因は血栓による血流の低下にあることから、tissue plasminogen activator(t-PA)等の血栓溶解療法が用いられている。しかし、発症後3時間以内にt-PAを処置しなければならないため治療可能時間は非常に短く、また、重篤な副作用である脳出血を引き起こす危険性がある。現在適用されているこれら両疾患の治療薬では満たされないニーズに対し、新たな作用機作による治療薬が必要であることは明白である。両疾患は共に神経変性疾患の一つであり神経細胞死が誘導されるが、細胞死に至る機序については数多くの不明な点が残されている。従って、それぞれの疾患における神経細胞死に至るメカニズムを解明する意義は非常に大きい。

本研究で高野は、1)ADにおいて重要な役割を演じているβアミロイド(Aβ)により誘導される神経細胞死についてc-Jun N-terminal kinase(JNK)を中心にそのメカニズムを明らかにすること、2)脳虚血時に惹起される細胞内へのCa(2+)流入を介した神経細胞死について、calmodulin(CaM)およびCaM依存性酵素を中心にそのメカニズムを明らかにすることを目的に研究を行い、以下の点を明らかにした。

1.Aβ刺激誘導の神経細胞死のメカニズム

ADの病理的特徴の一つに患者脳における老人斑が挙げられる。老人斑は凝集したAβが脳に沈着したものである。ADの発症機序はいまだ解明されていないがAβ仮説が最も支持されている。Aβ刺激誘導の神経細胞死には、酸化ストレスや細胞内Ca(2+)の恒常性の破綻、蛋白質合成依存的なメカニズムが示唆されているが、細胞死の引き金を引く直接の細胞内情報伝達系は明確にされていない。神経細胞死のメカニズムに関してはいくつかの報告があるが、JNKの関与を示唆する報告が数多い。JNKには1~3のisoformが存在するが、JNK3は主に中枢に特異的に発現する。そこで高野は、JNKが中枢においてAβによる神経細胞死に重要であることが明らかとなれば、JNK3を特異的に阻害することによりADの神経細胞死を抑制し、病態の進行を止め得る新規AD治療薬の創製に繋がる可能性があると考えた。そこで、主にげっ歯類の初代培養神経細胞を用いてJNKのAβ刺激誘導神経細胞死への関与を検討し、さらにその下流のシグナル伝達機構を解析した。その結果、1)JNKの上流の酵素およびc-Junの機能欠損型の遺伝子を細胞に導入した神経細胞、あるいは2)JNK3 KOマウスの神経細胞において、神経細胞死が減弱することを示し、Aβ刺激誘導神経細胞死にJNK3 pathwayが関与することを明らかにした。

JNKが細胞死を惹起するメカニズムにっいても不明な点が多いが、Aβ刺激誘導のアポトーシスがJNK3-c-Junの転写活性に依存していることから、標的因子が介在している可能性がある。そこで、Aβ刺激によりJNKが神経細胞死を惹起するメカニズムにFasL-Fas系が関与する可能性を考えた。その結果、1)Aβ刺激によりFasL mRNAおよび蛋白質の発現が誘導され、JNK3 KOマウスの神経細胞では認められないことを示した。また、Aβ刺激により誘導される神経細胞死が、2)Fasの機能を阻害する蛋白質の前処理や、3)FasLおよびFasの機能欠損型変異マウスの神経細胞において減弱すること、4)caspase-8の阻害剤を処理することにより抑制されることなどを明らかにした。これらの結果から高野は、Aβ刺激誘導の神経細胞死においてJNK3-FasL-Fas-caspase-8の経路が関与していることを示した。

2.細胞内Ca(2+)濃度上昇を介した中枢神経細胞死のメカニズム

脳梗塞は、血栓による脳虚血に端を発し、脱分極を介したグルタミン酸等の神経伝達物質の過剰な遊離、細胞内Ca(2+)濃度の上昇、イオンバランスの破綻、種々のCa(2+)依存性酵素の活性化等を介して細胞死を誘導することが報告されている。このように、Ca(2+)が虚血による神経細胞死に重要な役割を演じていると考えられているが、細胞内Ca(2+)濃度の変動以降の主たる役割を担っているメカニズムについては不明な点が多い。虚血後の細胞内へのCa(2+)流入の後にCa(2+)結合蛋白質であるCaMがCa(2+)と結合して活性化されることにより、CaM kinase II(CaMKII)、nitric oxide synthase(NOS)、calcineulinやphosphodiesterase等のCaM依存性経路が活性化され細胞障害が誘導されるという報告がある。CaMは中枢神経系に多く発現するCa(2+)結合蛋白質である。CaMアンタゴニストが海馬の組織培養系において低酸素および低グルコースによる細胞障害に対して抑制作用を示すこと、Ca(2+)濃度上昇による細胞死や虚血性脳障害を抑制すること、CaM依存性酵素の阻害剤が神経保護作用を示すこと、などの報告があることから、高野はCaMとその依存性酵素に注目して、虚血時の神経細胞死のメカニズムを検討した。初代培養神経細胞を用い、脳虚血のin vitro試験系の一つと考えられているNa+チャネル活性化剤veratridine刺激誘導の神経細胞死におけるCaMおよびCaM依存性酵素の関与を調べた。その結果、veratridine刺激誘導の細胞死において、1)各種CaMアンタゴニストおよびCaMKII阻害剤が細胞死を抑制し、その効果はその阻害活性の強さと一致すること、2)veratridineによりCaMKIIのリン酸化が亢進され、CaMやCaMKII阻害剤によりリン酸化が抑制されること、3)各種NOS阻害剤、calcineulin阻害剤は細胞死に影響を与えないことを示し、veratridine刺激誘導の神経細胞死にCaMKIIが関与することを示した。さらに、脳虚血時の神経細胞内におけるイベントを模倣した実験系として、細胞内Ca(2+)濃度上昇を介した神経細胞死モデルを用い、新規CaMアンタゴニストであるDY-9760eの保護効果を検討した。その結果、1)グルタミン酸刺激およびN-methyl-D-asparticacid(NMDA)刺激等の興奮毒性による細胞死、2)veratridineおよび高濃度KCIによる脱分極刺激誘導の細胞死、3)thapsigarginによる小胞体からのCa(2+)放出を介した細胞死に対して保護作用を示すことを明らかにした。以上の結果から、veratridine刺激による神経細胞死にCaM/CaMKIIが関与すること、また、DY-9760eが種々の細胞内Ca(2+)濃度を上昇させる刺激により誘導される神経細胞死を抑制したことから、CaMが脳虚血による神経細胞死に対する保護薬の重要な標的であることを示唆した。

本研究により高野は、Aβ刺激誘導の神経細胞死にJNK3-c-Jun-FasL-Fas-caspase-8が関与することを明らかにした。また、脳虚血時の神経細胞死にCaMが重要な役割を演じ、その一部にはCaMKIIが関与していること、CaMアンタゴニストが神経細胞保護作用を示すことを示した。JNK3は中枢に特異的に作用して神経細胞死を抑制する新規AD治療薬の創製に、CaMは脳虚血時に神経細胞を保護する薬剤の創製に繋がるターゲットとして有用である可能性が示され、博士(薬学)に充分値するものと判断した。

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