学位論文要旨



No 217214
著者(漢字) 月田,尚美
著者(英字)
著者(カナ) ツキダ,ナオミ
標題(和) セデック語(台湾)の文法
標題(洋)
報告番号 217214
報告番号 乙17214
学位授与日 2009.09.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第17214号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 角田,太作
 東京大学 准教授 西村,義樹
 東京大学 元教授 土田,滋
 山口大学 教授 平野,尊識
 愛知教育大学 准教授 北野,浩章
内容要旨 要旨を表示する

本研究は,台湾で話されているセデック語(タロコ方言)の記述文法である.セデック語(タロコ方言)は,台湾花蓮県を中心に居住する太魯閣(タロコ)族の言語である.太魯閣族の人口は約2万4千人である.しかしその全員がセデック語を話せる訳ではない.系統的にはオーストロネシア語族に属する.フィリピンのタガログ語などに近い.

第1章ではセデック語の概略と文化的背景を述べた.言語のタイプ,系統について,歴史,自称,内部の方言,外部の他の言語との接触,言語の現状などについて述べた.セデック語の危機的な状況にも触れた.若い世代は家庭でセデック語を習得しなくなっている.その他,セデックの人々の伝説や言い伝え,伝統的な,及び現代の,生活と文化について述べた.この章の最後で先行研究について紹介した.

第2章では音韻を記述した。子音はp,b,t,d,k,q,',m,n,N,s,x,h,g,c,l,r,w,yの19個,母音はa,i,u,eの4個である.gは有声軟口蓋摩擦音,lは有声歯茎側面摩擦音である.また語構成において,母音の分布が特徴的である.この言語ではアクセント(高く発音される)が次末音節に現れる.a,i,uは主に語末音節と次末音節,つまりアクセント以降に現れる.eは逆に語末音節には現れず,次末音節と次々末音節,それ以前にしか現れない.この言語にはいくらかの子音連続がある.子音連続の制限をsonority(響き)による言語音の階層を考慮しながら記述した.また,2.6で,生成音韻論の枠組みを利用して形態音韻規則を記述した.

第3章ではセデック語の品詞分類を行った.セデック語の品詞として,名詞,動詞,間投詞,数詞,人称代名詞,指示詞,前置詞,副詞,接続詞,語気詞を設定した.この言語では「動詞」と「名詞」の区別をするのが,機能的な面からは難しいことを示した(3.12.1).所謂「形容詞」はこの言語では動詞に含める.このことについても述べた(3.12.2).

第4章は,セデック語の動詞の態と名詞の格の体系の概略を述べた.まず,4.1で全体の概略を述べた後,4.2で名詞の格の体系について述べた.セデック語の名詞の格には,直格,斜格,主格,属格がある.ただし代名詞以外では属格は直格と同形である.また,斜格も代名詞および有生性の高い名詞句以外では直格と同形である.代名詞には独立代名詞と接語代名詞がある.独立代名詞では直格,斜格,主格が,接語代名詞には主格と属格が区別される.夫々の格の形,機能について述べた.4.3で,セデック語の態の体系を記述した.フィリピン諸語には「焦点体系」と呼ばれる態の体系がある.焦点体系では,態を変えることで動詞の様々な意味役割を持つ項が主語になりうる.セデック語の態の体系もこれの一種と言える.セデック語にはAgent Voice,Goal Voice,Conveyance Voiceの3つの態がある.フィリピン諸語の「焦点体系」の研究は,台湾原住民諸語よりも研究が進んでいて,どの名詞句が主語か,Agent Voiceにあたる文を能動文,Goal Voiceにあたる文を受動文とすべきか,Agent Voiceにあたる文を反受動文,Goal Voiceにあたる文を普通の能動文とすべきか,という論争がある.これを紹介し,セデック語に関する筆者の意見を述べた.筆者の意見では,セデック語では主格の名詞句が主語である.また,AgentVoiceの文もGoa1Vbiceの文も同じように基本的な文である.ただし,現象としては対格的な現象が見られることが多い.またここでは,セデック語では,動詞句が体言相当語句として,また連体節として,音形を変えることなしに機能することを紹介した.これと同等な現象はフィリピン諸語にもあり,先行研究もある.そのような先行研究を紹介し,セデック語の現象について筆者の意見を述べた.筆者は,セデック語では動詞句が動詞のまま述語としても,体言相等語句としても,連体節として現れることが出来ると考える.ただしいくつか固定した表現もあり,そのような表現ではある程度名詞化していることを示した.

第5章では,セデック語の名詞(5.1),動詞(5.2),数詞(5.3)の形態について述べた.派生についても述べた(5.4).4.2で名詞の格について既に述べたので,5.1では名詞の,格以外のカテゴリーについて述べた.格以外に,所有形,複数形,過去形,未来形,呼びかけ形がある.名詞に過去形,未来形という時制による形態変化があるのは類型論的に珍しい,5.2では,動詞の活用を詳述した.セデック語の動詞は,先に述べた3つの態で,時制・相・法に関する活用をする.具体的には中立形,完了形,未来形,不定形,意志形がある.他に同時形もある.これらの形態と表す意味を詳しく述べた.5.3で数詞とそれからの派生を見た.5.4では,動詞の派生と名詞の派生を見た.動詞の派生は活発である.

第6章と第7章ではセデック語の統語を扱った.第6章で単文を扱い,第7章でより複雑な構造を扱った.まず,6.1では,複文を含めて,文の種類について述べた.6.2では名詞句の構造について,6.3では単文の構造について述べた.文の要素として,述語,主語,副詞表現,語気表現,接続表現,節頭名詞句を設定し,それぞれについて述べた.ただし,副詞表現は,6.7で扱うのでここでは触れなかった.節の外側に現れるもの(付け加えの語,独立語)もここで扱った.6.4ではセデック語の3つの態で,どの意味役割を持つ項が主語になるのか,又,なれないのか,を示した.これは動詞によって多少異なり,これによって動詞を分類できることを示した.この言語では3項動詞の項の振る舞いに関して,Dryer(1986)の言う,Primary object/secondary objectの区別に似たものがあることを示した.6.5では,主語になっていない項の現れ方(主に語順)を扱った.6.6では動詞句の拡張について述べた.いろいろな副詞や前置詞,指示詞で動詞句を拡張することができ,アスペクト,時制,などの意味やいろいろな副詞的な意味を付け加えることが出来る.6.7では副詞表現を扱った.夫々の副詞の意味,節中で現れる位置,現れる節の種類,制限等について述べた.6.8では疑問文を扱った.一般疑問文,特殊疑問文,その答え方,疑問のメンバーの疑問文以外での使い方について述べた.6.9では命令文,誘い掛け文,申し出文を扱った.述語の形,項の現れ方,語気詞の現れ方等について述べた.6.10では所在文,存在文,所有文を扱った.これらの文の項の現れ方,省略に関する制限,有生性,定性等に関する特徴について述べた.存在文・所有文では,場合によって,存在する主体と場所・所有者との間に分離不可能の関係がある.また,この言語には「被所有物降格」と呼べそうな現象があり,これに所有傾斜(Tsunoda,1995)と動作の対象が受けるaffectednessの程度が関係していそうなことを示した.6.11では程度に関する表現を扱った.セデック語では動詞から派生する「~さ,~な様子」(「長さ」,「太った様子」等)を表す表現を用いて,「AはBより~だ」,「AはBと同じくらい~だ」,「なんて~なんだろう」等の意味を表す.6.12では受益,授益に関する表現をまとめた.ha(ya)という小辞を用いた構文があることを紹介した.この構文は「(誰かのために)~する」を表す.この構文で興味深いのは主語でないものが普通は主語示す代名詞主格接語形で示される点である.'asaw「~のせい」,nawxay「~のおかげで」という前置詞を使った表現についても述べた.6.13では,使役,相互,再帰という派生的な態を扱った.夫々について,派生動詞の形態,文の統語(項の現れる形,態の制限等〉,表す意味範囲を述べた.

第7章はより複雑な構造を扱った.7.1でまず概説を述べ,72では不定詞構文を,7.3では動詞連続を,7.4では動詞句の等位接続と動詞の等位接続を扱った。不定詞構文,動詞連続,動詞句の等位接続,動詞の等位接続は,連続したものである.7.5では動詞句を扱った.動詞句は,主語を含まない.しかし,主語を含まなくても,動作者を表す項と動作の対象を表す項を含むことは,例えばConveyance Voice形では普通にありえる.そのような動詞句はまるで節のように見える.7.5.2でこのConveyance Voice未来形を含む動詞句の不定未来用法を扱った.「~するように(…する)」等を表すのにセデック語ではConveyance Voice未来形を含む動詞句を用いる.7.6では,名詞節,時間節,内的関係節という埋め込み節3種類を扱った.最後に7.7では緩く繋がった節を扱った.緩く繋がる節には'u/ga接続,de'u/dega接続,ni接続,deni接続,並列がある.'u/ga接続とde'u/dega接続はsubordination,ni接続とdeni接続はcoordinationを表すといえる.夫々の接続が場合によっていろいろな意味関係を表しうる.また,特定の接続詞や副詞と組み合わすと表す意味を限定することができる.いろいろな意味関係があることを例を挙げて示した.'u/ga接続はadjoined relative clauseとして機能することがある,その際の主語が一致しなければならないという制限についても述べた.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は台湾東部のセデック語(タロコ方言)の記述である。「第1章 セデック語の概略と文化的背景」はセデック語の系統、地理的分布、歴史、言語の名前、方言差、現状、伝統的な生活と文化、本論文で用いた資料、先行研究、等を示す。セデック語は、国語としての中国語が広まる中で、消滅の危機に瀕している。「第2章 音韻論」は分節音素、音素の最小対、音素の交替・脱落・メタセシス、語の構造、超分節音素、形態音韻論についての分析を示し、表記法を提示する。「第3章 品詞論」は以下の品詞を設定する:名詞、動詞、人称代名詞、指示詞、数詞、前置詞、副詞、接続詞、間投詞、語気詞。特に、名詞と動詞の区別は機能の点では困難であることを指摘する。「第4章 動詞の態と名詞の格の体系」は名詞句の格の体系と動詞の態の体系の概略を示す。特に、動詞の態(いわゆるフォーカス体系)は、この言語の文法を分析するのに重要な現象である。「第5章 形態論」は名詞と代名詞の格と数、名詞に現れる時制、動詞の態と時制・法・相、数詞の様々な形と用法、動詞の派生、名詞の派生を記述する。「第6章 統語論(その1):単文」は文の種類、名詞句の構造、単文の構造、動詞の態と主語項、非主語項の現れ方、動詞句の拡張、副詞表現、疑問文、命令文・誘いかけ文・申し出文、所在文・存在文・所有文、程度に関する表現、受益および授益に関する表現、派生的な態を扱う。「第7章 統語論(その2):複文など」は不定詞構文、動詞連続、動詞句・動詞の等位接続、動詞句の用法、節の埋め込み、緩く繋がった節を分析する。「第8章 まとめ」は本論文を概観し、今後の課題を示す。簡単な基礎語彙表が付いている。

本論文の大きな貢献は少なくとも三つある。(i) 本論文ほど包括的かつ詳細な記述はセデック語には無かった。台湾原住民語でも希である。世界各地の少数言語や危機言語の記述でも、数は少ない。言語の記録としての価値が高い。(ii) 台湾原住民語に限らず、世界各地の少数言語の研究では、音韻と形態の記述はあるが、統語の研究が立ち後れている。しかし、本研究は、統語現象を包括的かつ詳細に記述した。(iii) ただ事実を列挙するだけでなく、非常に高度な分析を、多数提示している。例えば、6.3と6.4での、主語を始めとする、単文の構成要素の分類である。この様な分類は台湾やフィリピン等の、いわゆるフォーカス体系を持った言語の研究では従来殆ど無かった。

本論文には、例文の英訳等、改善の余地はある。しかし、台湾原住民語の研究だけでなく、一般言語学にとっても大きな貢献である。以上の理由により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに十分値するものと判断する。

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